初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

原点に戻ろう!Ⅱ

それでどうするのか。認定こども園は私が県の係官と納得した話し合いとだいぶ違うようだ。それもそのはずで、県は認定こども園の認定を急ぐあまり見切り発車してしまったのだ。幼稚園型認定こども園は現在の幼稚園のやり方を踏襲するということを確認したうえで申請をしたにもかかわらず、その後に国の方で子供子育て会議ができて、そこで決められたことを後追いの形で現場が移行していくという大変まれなやり方になってしまった。何を焦ってそうなったのかを考えてみると、行政の待機児童問題のただ一点だけである。

保育行政の中で、幼児期をどうしようかなどと真剣に考えているのは文科省の幼稚園課のみで、政治家を含めてそれ以外には真剣に取り合わない。だから現在幼稚園教諭や保育士に手厚い補助が出ているようだけれども、これは一過性の問題でこの制度ができて5年もすればまた過去に戻ってしまう。そのときにあたふたとしないようにこれから準備をしなければならないだろう。

原点に戻ろうということは、わたくしたちが幼児教育に熱く燃えて寝食を忘れて語り合った時を思い出し、新鮮な気持ちで子供たちの目を見て保育をしていこうということだ。幼稚園教育要領はとても立派なものである。これを理解し現場で共有できる教師のスキルアップを願いあおば台独自の保育をやっていこうとするものだ。だから認定こども園を返上して幼稚園をやっていこうと決心した。

 

原点に戻ろう!!

幼稚園教育要領は、『健康』『環境』『人間関係』『言葉』『表現』の五つの領域に分かれ、この領域を碁盤の目のように上手に編み込んでいく。これをどのように日常の生活に浸透させたらよいのか、保育者が最も苦心する保育力の問題である。まだある。これだけではない。これらを編み込んだ先には何を保育者は狙っているのかという大命題がある。「真摯な態度で学びに向かう力が必ず身についてくるのか」ということである。それだけではない。『人間性は』それでよいのかという自問自答がある。

この幼稚園教育要領が認定こども園に無視されている。いつか私はボウルビーの三歳児神話という話をしたことがある。『幼児教育の精神衛生』という本の中に「母性的養育の喪失は例外なく身体的、知能的、社会的に遅滞し、肉体的精神的不健康の徴候を示す」というのがある。ボウルビー博士の発表後に幼児期の発達が将来に多くの影響を及ぼすという医者からのメッセージが世界中に広まった。日本の平井信義先生が書いた「精神衛生」は幼児教育専門家や発達理解を学ぶ教育者の副読本にもなった。

しかしそれは事実とは異なり「神話に過ぎない」として葬り去ろうとしたのが当時の日本の厚生省で、そこから「三歳児神話」として定着した話だ。ボウルビーという人は、第二次大戦後の荒廃とした焦土にいかにして子供たちが生活をしていくのかということを、WHOから依頼されて欧州を起点として調査した英国人だ。しかし幼児教育者はだれもがこれは事実として神話だと思っている人はいない。現場で発達理解を学んでいる教育者はなおさらのことである。

だから言いたいのであるが、生後3か月になると母親は働いて保育所に預けることができるのが今の法律である。それを盾にとって、母親を家庭から追いやって社会に出すような政策はどうしても容認できない。母体にも影響するであろうし、保育所に預ければ自治体によって異なるけれども0歳児については最低19万円の保育料を保証しなければならない。ならばその分を家庭に還付したらどうなのか。そのほうが子供も家庭も幸せである。

急に保育の現場に補助金をばらまき、いかにも幼児教育に理解を示しているようだけれども、それは事実と違う。手厚い補助だと言っているけれども、やっと普通の生活費が支給されるようになったというのが我々の本音である。今までは保育者の犠牲と保護者の理解と協力によって何とか運営してきただけの話だ。幼児教育には子どもには投票権もないしあまり政治家の票に結びつかないから、政治家の関心もいまいち鈍い。まだまだ書きたいけれど、読む人も私も疲れてきたようだ。

初等中等学部の給食

久しぶりに給食を作った。というのも賄いのおばちゃんが何かの都合で1週間北海道へ行ってしまったから、残ったおばちゃんたちと一緒に焼きそばを作ることになった。これは誰にでもできるし、初等学部には大きな鉄板があって、お好み焼きやら焼きそばなどアウトドアで作る食べ物は殆どできる。焼き物は校長が主体となってへらを使ってやってくれている。この暑いのに汗をびっしょりかいて黙々とへらを動かしているので、教師が授業の合間にかわるがわる来て手伝ってくれているが、校長は微動だにしないでいる。どうも鉄板焼きが好きらしい。

おかわり委員会と言うのがあって、みんなが好きなものを上級生が先におかわりをして食べてしまうから、みんなが平等に食べられるようにという趣旨のもとに小学3年生が主体で委員会が構成されている。しかしよく見てみると、最初の盛り付けだけはみんな平等であるけれど、次のおかわりになるとがぜん中学生男子が早く、小学生低学年はおいてけぼりである。低学年の子供たちと一緒に食べていたので、子どもたちに『おかわりできなくなっちゃうよ』というとにこにこしていてそれには答えてくれない。案の定子どもたちが一杯目が終わるころには中学生は3杯目などというのがいて、到底2杯目が食べられない。それでも子どもたちは不服を言わないで満足しているようである。

ここの子どもたちの発想は鋭角的ではない。最初のころは鋭角的に鋭くぶつかって来た子もいたけれど、見ていても見ぬ振りして子どもたちが自ら気付いてくれるまで待っていた。幼稚園の子どもたちと共に暮らしてきたせいか『待つ』と言うことが容易に出来るようになった。1カ月ぐらい過ぎるころには彼の言葉も柔らかくなって好感のもてる少年になっていった。基本的に優しい両親に育てられているから、自らの違和感を発見し自らを正す力も備わっている。いくら突っ張っても柔軟に吸い取ってあげるから、周りの子とすぐに同化できる。

たまに子どもたちと一緒に何かをするというか、この世界に入っていくことがよいと感じる。私もここで校長をしていた時があるから子どもたちとはすぐに親しみ深く話ができる。途中からこの学校に来た子どもたちが生き生きとしているのはここの学校のシステムは勿論のこと、子どもたちの寛容さがそうさせている。教師も『待てる』寛容さを持っている。若いのにすごいことだ。

昨日の幼稚園の話だけれど、政府がやっている『子ども子育て』について、あのやり方で本当に子どもたちが幸せになるのかというと疑問だらけである。昨日も書いたけれども女性の社会進出などと今から始まることではなく、女性は子育てということですでに一人の子供を育てるのに月75万円の社会貢献をしている。それを忘れていることは女性を軽んじていることではないか。なのに家庭で育児をする女性には手当は無料で、幼稚園や保育所に預ける家庭には保育料が無償になるというのは容認できない。むしろ家庭で育児をしている母親に手厚くするべきだ。子どもにとってこれほど素晴らしい保育はない。

保育者がどれほど偉そうなことを言っても『母』に勝てるわけがないのだから。子どもたちの将来を考えれば日本のためにもその方がよい。家庭の経済的事情でやむを得ず働きに出なければならないという人が多ければ、まったく豊かではない日本の証左ではないか。それを無理やり国民総生産という見かけの豊かさを追って自己満足に浸る政治家はどうかしている。家庭から乳幼児を持つ母親を追い出してそれで日本の国が豊かになることは絶対ない。乳幼児を持つ母親が幸せを感じる様でなければ真の豊かさは訪れることはないのだ。

幼稚園のことを書こう

5年ぐらい前に認定こども園というのが新設された。実際に始まったのが27年が初年度だったから3年前になる。できるころには何度も県の係官から説明を受け一応は納得したつもりであったが、できあがってから国の「子供子育て会議」に預けられ、当初説明を受けた時とは全く方向が違ってしまっている。認定こども園は「幼保型」「幼稚園型」「保育園型」「地方裁量型」の四つに分けられていた。当然これらはそれぞれに役割があって目的が明確であった。私の園(土浦)も幼稚園型の認定こども園として出発した。

そもそもこのようなことになった背景には、少子化が進みこのままでは幼稚園の存続が危ぶまれたからにほかなかった。しかしこれは地方の幼稚園の話で、都会ではまったくそのような危機はなかった。認定こども園にする前には、国はよく幼稚園のことを考えてくれているなどと喜んでいたが、徐々にその真意が明らかになってきたのでがっかりすることが多々ある。第一に幼稚園型認定こども園というのは、幼稚園主導であるから今まで通りの運営方針で幼稚園として賄っていくことができるというのが大前提であったが実際はそうではなく、保育所の管轄である市の介入がある。

私のところでは2号認定(両親が働いている)は10人しか許可をとっていないが、そのために保育所としての縛りを受けることになる。これでは本来の幼稚園としての業務が縮小されてしまう。それはなぜかというと、認定こども園の就業時間は子どもを11時間預からなければならないというのがある。これには園則を変えなければならないが私はいまだに園則を変えていない。幼児教育というが幼児を出しものにして大人社会の仕組みを円滑にしようとしているだけで、子供たちにはいい迷惑である。

その理由を書こう。第一に子供たちはだれのために何のために生きてているのか。第二に子供達には大人の介入できない子供の世界があって誰しもが冒してはならないものである。第三にこの地球上の自然や人間同士のコミュニティなどは、すべて子供たちからの借り物ではないか。第五に政府は国民総生産を上げるために女性を社会に出し所得を得るように勧めているが、これは子育てに関して言えば誤った考え方で親子引き離し政策である。政府は80パーセントの女性を仕事に就かせたいと考えているらしい。これが幸せの政策だとしたらお笑い種である。

女性の社会進出の話をよくするが、女性の家庭内での貢献度は男性が会社でもらってくる給料に換算すればはるかに高収入である。なぜなら子供一人を家庭で育てている女性の月給は75万円に相当するといわれている。それが二人の子供だったらどうなるのか。しかも女性は産みの苦しみから解放されて0歳の子供を育てているときには、2時間おきぐらいに子供に起こされて寝る時がない。子供が静かになったかと思って自分が寝ようと思った時には、今度はそばで寝ている子供に寝返りか何かで踏みつけてしまうのではないかと熟睡する時がない。

 そうした努力があって子供が少しずつ成長していく。そして母親となった女性は何の見返りも求めず子供と共にニコニコと暮らしていこうとする。そんな小さな幸せをふいにあたかも災害のように、外へ出て働けというのではいつになっても幸せになれない国ニッポンになってしまうのではないか。外へ出て働くとか働かないとかいうのはその家庭に任せて政府が介入することではないだろう。

来年10月以降に幼稚園・認定こども園・保育所の3歳から5歳までの幼児は無償化になることがほぼ決定した。それに合わせて預かり保育も無償化しようという動きがある。私は無償化には全面的に賛成するが、モラルハザードの問題も一緒に解決しなくてはならないと思う。例えば必要以上に預かりを願ったり、子供を置き去りにしてしまう危険性があるからだ。私のところの現在の体制では預かり全面的に開放するというのは困難である。徐々に子供の内面を大切にしていく幼稚園が少なくなっていきそうな気がする。

子どもにとって必要な環境と教育というのが幼稚園教育要領に書かれているが、これすらも無視されて、待機児童解消のためにものすごい勢いで子供たちが流されて行ってしまう。誰かが立ち止まって流されていく子供たちを救ってやらなければならない。そのために私たちの幼稚園は懸命になって幼児教育を学んできたし、発達心理についても大学の教授のそばで学んできた。このまま流されたのでは私たちを育んでくれた多くの人たちに申し訳が立たないではないか。生きている証としての理念が大切だと私は信じている。これからが幼稚園経営の正念場になるのではないかと思っている。

書くべきことは山ほどあった

小学校1年の卒園児の集まりが両園ともにあった。いつもは5月中に行われていたけれども、今年はなぜか6月の最後の土曜日になってしまった。丸まる1か月も伸びたからその間学校にも慣れたのか学校での嫌なことはあまり聞かれなかったが、登校班で意地悪されるなどの嫌がらせが後を絶たなかった。『授業は楽しいか』との質問に『選択授業がめちゃ楽しい』と答えた子がいたので『どんな選択をしているのか』と尋ねたところ『ステンドグラス』と即座に答えていた。初等学部の子だったので担任の教師にさっそく話をしてみたところ、最初はうまくステンドグラスといえなくて『デザイン』と言っていたらしい。

同じ日の土曜日と日曜日にかけてイイアスつくばで私学フェアーが行われていた。私も1年生の集いが終了次第会場に駆け付けたが、見学者はたくさんいたけれども小学校を対象としている青葉台にはあまり観客は集まっていないようだった。ほとんどが高校受験のようであったがそれにもめげず翌日も会場へ行ってみた。するとわが校のブースには点々と訪問者が椅子に座っていて、そこには学校説明をしている教師が真剣に取り組んでいる。思わず目頭が熱くなってしまった。小さなブースの中で懸命に学校紹介をしている姿に感動した。他の裕福な学校と違いわが校は殆どが手作りのサンプルである。何とかこの子たちを幸せにしてあげたいと思わずにはいられなかった。

もう一つ感動したものがある。ワールド杯サッカーである。一次リーグを突破して決勝トーナメントに残ったが、一次リーグの最後の試合でパス回しをして勝ち残ったというのがなんとも後味の悪いことであった。私も最後は攻め抜いて決勝トーナメントに残るという結果が一番良いと思うが、逆に残れなかったらと考えると西野監督の采配がベストだったのかと思う。それにしても誰もがあっさりと負けてしまうのではないかと弱気になっていたのに、ブルーのユニホームがコートの中を縦横に踊り2-0で勝っていた時には、日本に新しい風が吹くと今度は誰しもが勝てると確信したのではないか。結果は負けたけれども感動的であった。感動をありがとう。

もう一つある。米国との貿易摩擦である。日本以外の国は米国の関税に対して報復措置鵜をとると表明しているのに日本は様子を見るといった消極姿勢である。次いで今度はイランの核問題に触れ、イランからの原油の輸入をストップしてくれとトランプに言われたが、これについても様子見である。まったく日本は米国の属国である。北朝鮮問題も何も進んではいない。結局なんでも米国頼みだから、今の政権は売国奴である。日本は独自のアイデンテティがあってしかるべきで、米国の言いなりになるのはやめてほしい。

子育ては大変?

男子の育休が叫ばれているなか、男子には果たして会社を休んで何ができるのかということが巷で議論されている。私は思うけれども、父親は母親のように子どもを育てることは出来ない。幼児の一挙手一投足に対応できるような父親はいないものだ。高名な育児評論家でも無理だと思う。これはいくらジェンダフリーを叫んだところで所詮無理な話だ。女性は妊娠して自分のお腹の中で十月十日毎日会話をして生まれてくるのを待っている。それに対して父となるべき人はその間何をしているのだろうか。子育てに対しての適正というのはこう考えてみても歴然としているではないか。

だからと言って女性に子育てのすべてに責任を持たせるのは全くの解釈の違いである。戦前には『男子厨房に入らず』とか子育ては全て母親に任せると言ったことが男子の美徳とされて来た。それは封建的な男尊女卑の社会が成熟していたためである。しかしその頃でも女性の家事については大変苦労が大きいということは認知されていた。というのはある程度の資産階級になると必ず女中さんを置いて母親の苦労を取り除いてきた。それで現代ではどうなのかというと、女中さんを置いて肉体的な疲れをいやすということではなくて、問題は別に潜んでいる気がするのだ。

現代の社会事象の中の『核家族』と言うことが大きな原因であるように思えてならない。マンションの高層に住んでいる人はあまり外に出て子どもと遊ぼうとしないことは心理学でも証明している。だから他と触れ合う機会も少なくて、家の中で子どもとじっと向き合っているとなると、多分煮詰まってしまうのではないか。これは辛い。早めに子育て仲間を作って、話し相手を作ることを勧めるが、それが苦手だという人もいる。それは子どものためにも自分のためにも良いことだから、頑張るしかない。

父親が休みになると子どもたちと遊び、母親の手伝いをしていると言う自覚のある心優しい父親。しかしある日突然母親が『疲れた』と言って泣きだしたのを見て呆然としてしまった。自分はどうすればよいのかと自問自答したが正解が見つからないでいる。一歳と二歳の二児の母親であるが、彼女は物理的な肉体の疲れの中で『疲れた』と言っているのではない。父親には考えにも及ばないところで母親はくたびれているのだ。精神力でも限界にきているのだろう。父親が当惑するのも理解できるが、母親は母親の仕事を代わってやってほしいと言っているわけではない。毎日のいたわりの言葉や感謝の言葉が必要なのではないか。心から理解してあげて『ありがとう』の言葉が必要だ。

 

 

サッカーワールドシリーズ

昨日の日本対コロンビア戦は見ごたえがあった。色々な課題があってもそれを忘れさせるような試合内容である。日本国中サッカー一色に染まった日でもある。それも試合前の予想を覆す侍ブルーの活躍がひときわ目立った戦いであったから日本中がヒートアップしているようであった。早速今日はテレビでは『最大の功労者は?』などとコメンテーターを交えて話をしているけれど、マスコミの悪い癖だ。後半の戦いぶりを観ていたら、全員が一丸となって敵陣に攻め入っているではないか。だれが一番で二番だなどという言い方はあのメンバーに対しての冒とくではないか。

とにかく沢山のもやもやがあったけれど、一気に吹き飛んだみたいだ。単純と言えば単純だが、物事は突き詰めていけば単純そのものなのだから、頭の構造も単純が一番いい。日本は後一戦勝てばもっと日本を明るくしてもらえるのではないか。女子は一足先にワールドカップ優勝を果たしているのだから、男子もぜひ優勝まではいかなくても期待だけでも持たせてほしい。

米朝会談の成果

日本にとって米朝会談の成果は北朝鮮との拉致疑惑に関する話し合いの糸口ができたというくらいだろう。米朝の会談は北朝鮮の方が有利に進めたようだ。米国にも韓国にもあまり成果は見られなかったと言っても言い過ぎではない。完全な核放棄の行程表もないし核に対する査察官派遣の話もない。大山鳴動してネズミ一匹という感じは否めない。これではこの先経済制裁などと言ってもかなりのほころびが出て、北との交渉はもっと難しくなる。

何でも米国に追随している日本だから、自国の主体がはっきりしない。ウランバートルで北との接触があってどの程度の拉致被害者を返してくれるのか、会えたことだけで前進だなんてことではすまされない。外交交渉にはしっかりとした軍隊が必要だ。戦争のための軍隊ではなくて自国の安全と安心を買うためのものだ。軍隊を持てば戦争になるなんて言っている似非文化人がいるけれど、それでは地球上毎日戦争になるではないか。

また自国の利益だけを求めるようなトランプのようでは他国から見放される。米国に強力な軍隊がなかったら、トランプはただの裸の王様だ。日本は継座がどうなるかばかりを追及しているけれど、これは本当に国民が求めているものなのだろうか。どこかで幸せのレシピを公表しないと必ず行き詰ることになりはしないだろうか。経済はこの辺まででということがないと、飽食の時代をさらに求めていたのでは途中で空中分解してしまうのではないか。

子どもたちを安全に幸せを求める育て方をしないと、経済の効果ばかりを追い求める育て方では、決して幸せにはなれないだろう。他人の幸せの援助をしてあげられるような人は必ず幸せになれる。そのようなレクチャーセンターを各学校にあればぎすぎすした世の中にはならない。そのような政策は損得に関係ないから政策として成り立たないのかもしれない。

 

いよいよ明日は米朝会談

7カ国首脳会談。いわゆる先進国サミットであるが、今日の閉会の議長声明を待たずに、トランプはシンガポールにいる。とても無礼な話だが、トランプ大統領の身勝手な貿易摩擦ガ他の首領に攻撃されて針のむしろにいるようなのだろう。もう一つの関心事の米朝会談の方に足を向けたようだ。しかし私はこの会談はうまくいかないだろうと思っている。無責任な平和的解決もうわさされるが、核を失った北朝鮮の存在意義はどんなところにあるのだろうか。

したがって拉致問題も解決しない。これは米国にとっても北朝鮮にとっても日本に対する大きな力のあるカードだから簡単に渡したりはしない。北朝鮮の人権問題に触れないで北朝鮮に平和は訪れないであろうし、そうなればなお一層拉致問題は解決しない。日本の国がもっと早くから国としての当たり前の力を持って、北朝鮮の沖合に日本の軍艦を並べることができたならばこのような拉致問題は起こらなかった。

新幹線で気違いに殺された人や、親の虐待によって殺されてしまった幼い子供も、痛ましい結果であるけれど、拉致被害者も無念であろう。拉致被害者の問題は武力でしか解決できない。人間の知恵を絞って外交で解決できるようにと言っている人は無責任だ。今回の会談は何も解決しない。世界向けのトランプ大統領のパフォーマンスに過ぎない。そのような恫喝やはったりは彼の専売特許だ。

トランプは世界のリーダーか?

米朝会談が6月12日に予定通り行われることになったが、難題は全て後回しで、最初に日本が指摘していたように『会談のための会談』になりそうだ。意外とトランプの方がびくついているのではないか。金委員長は若いけれども、周りには老練な側近がついていて、まるでトランプを手玉に取っているではないか。今回の会談では人権のことは一切触れないそうだ。これでは拉致問題は解決できない。米国にとっても北朝鮮にとっても拉致問題は日本に対するカードとして残しておきたいのだろう。自国の問題を外国に頼っていたのでは周りの国から笑われるだけだ。

核を放棄した暁には日本や韓国、中国がその後の経済援助をするとトランプが言ったそうだ。米国は一銭も出さない。そんなリーダーがいるか。世界をかき回しておいて後始末は他国にやらせるとは、そんなリーダーのお先棒はかつがなくてもよい。しかし国民はその後に来るであろう干渉と制裁に耐えなくてはならない。北の拉致問題は他国を侵犯し国民を誘拐した犯罪だから、何なら武力に訴えても日本は国民を守るという気概を見せなければ、いつまでたっても拉致問題は解決しない。

日米の安保協定も見直した方がよい。日本は○で米国の植民地であるかのようだ。明治に開国した当時の不平等条約をそのまま使っているようだ。米国は日本では治外封建なのだ。米国の基地に日本人が入っていけない。裁判も出来ない。現代でまだ日本だけがこのようなことを許している。何故なら憲法9条第2項があるからだ。これをなくすと言っただけで近隣国は日本を見直す。日本が憲法を見直すことになると、なぜ戦争になるのか。国内に日本を弱体化させるプロパガンダがいるからだ。

いま政治は正念場を迎えている。子どもたちが誇りを持って日本国民として生きて行くことが出来るかどうか。太った豚より痩せたソクラテスとはかつての東大総長の言った言葉であるが、うまいものをそれほど食べなくてもよいから、誇りを持ちたいと思う。子どもたちにもそのように伝えていきたいものだ。明治を作った政財界の人たちに恥じぬような人間を作っていかなくてはならない。

物理学者の言ったこと

物理学者とはホーキング博士のことだ。先日ホーキング博士は地球の寿命はあと100年と言ったということを書いたが、それは物理学的にそうなるのか、それとも恐ろしい病気が地球を襲うのか定かではないけれど、意外と内部の体制の在り方によって地球の人間社会が瓦解してしまうのではないか。残るのは全くの未開地に住む人間ではないか。彼らには欲はなく、他人を落し込むような悪さもしない。自然は生活の知恵として崇め怖れを持っている。そこには環境保全なんて言う言葉もない。自然と人間が一体化している。文明は多分必要最小限のものだろう。

ホーキング博士は、欲望の渦巻く地球が自然発火して自らが内部崩壊してついには互いが殺しあって結局滅びていくのではないか。そんなことを示唆していたのかもしれない。私は世界を恫喝して自分の思うように動かそうとしているトランプがどうしても好きになれない。それに尾っぽを振っている日本の態度にも少なからず嫌気がさしている。私は好きなことをさせて戴いて生きてきたし、若くはないからどうなってもかまわないが、私のところにいる若い教師はどうなるのか。そして子どもたちの将来は?そう考えると心配事は海の真砂のごとしだ。

財務省の国民を欺く不祥事といい、日大の大人たちの言い草といい、末期的症状ではないか。多少の救いは加害者となった日大の学生の態度である。正義を伝えるのに怖れない態度は見上げたものである。日本ではまだアベノミクスがどうだのと、経済効果に拠り所を求める政策やら言動が幅を利かせているが、本当のところそんなちっぽけな話どころではないだろう。永久に日本国民が生き延びるにはどうしたらよいだろうかの議論が必要だ。現在の幼児教育の対処療法や、高等学校無償化の問題、消費税の問題、これらはすぐに行き詰る問題だ。いつまでたっても国民は幸せになれない。

大人の生き方が投影される

今の日本の政治の在り方は幼児教育から義務教育高校教育まで全てが対処療法であって、今決めたことが10年後や20年後にそのまま残るのかというと、そんなことはあるまいと思う。考え方によってはその都度社会の価値観が変化して行くたびに変えていけばよいということで対処療法は一つの方法で仕方のなおことだと考えられなくもない。しかしそれは為政者のすることでも賢人の考えることではない。

今世界の大きな流れは米国の強い保護主義が恫喝とともに小国は混乱されようとしている。理念のない日本もそれに脅かされている。国際的な取り決めも横暴な米国によって無視されていく。なんといっても経済も軍事も世界のナンバー1であるから、これにたてつくことは一国の命運にかかわってくるから、正義を盾に議論しても相手が乗ってこなければどうにもならない。本来このようなことは許されてはならないことは当然である。

もしも日本の国の政治も皆さんの家庭もこれから先経済一辺倒の考え方で生きていくとしたら、永遠に心の安らぎを覚えることはないだろう。何故ならよほどの賢者でもない限りは己の欲望を抑制することができないだろうから、井戸や池の水は枯渇することはあっても人の欲望は枯渇することがないから、大海よりも深いのが人間の欲望なのだ。この欲望から早めに離脱する知恵を持った者が勇者であろうし賢者である。

経済への貪欲さを植え付けられた子供は不幸せである。死ぬまで安らかな人生を得ることはできないだろう。本当の人格者は自分の生活のためにとか、自分のために金儲けをするという人はほぼいない。衣食足りて礼節を知るという諺があるけれど、有り余るものを私たちは持っているが、それに気づこうとはしないで、もっともっとと言って自分を苦しめているのだ。この辺でパラダイムシフトと言ってもいい意識の変革が必要だ。子どもたちの将来のために。

子どもたちが私たち大人を観ている。幸せになるためには色々な道がることを今まで生きてきた大人たちの知恵で方向を上手に伝えられれば良い。私の学校はそのようなことを発信していかなければならないのではないか。何故勉強をするのかという問いに皆さんはどのように応えるのであろうか。学校は詰められるだけの知識を詰めて、それが人生のスキルとなるというのでは無責任ではないか。その知識を人類のために使うことを教えてあげられないと学校の役割にはならないのではないか。

幼稚園は子供の楽園

両園ともに世界に恐らく一つであろうリヤカーの免許証が一人一人に手渡された。ただでもらえるわけではない。リヤカー運転試験があって、園庭いっぱいに白線で道路を描き、自動車教習所と同じように、S形もクランクもあり、最後にはバックで車庫入れもある。白線を踏まないように教えてもらった通りに懸命になって運転をする。子どもにとっては自分が立っている位置とリヤカーの内輪差などがあってその感覚が結構難しい。前に二人、後ろに助手のような役割の子が二人、乗客が二人の6人構成で出発する。そういえば二日前に幼稚園に巣を作った燕が5羽巣立っていった。

2台のリヤカーを動かし交互に試験を受けることになるが、途中でつっかえてもだれも文句を言ったりはしない。うまくいかないで戸惑っている前のリヤカーの子がうまくいくまでじっと待っている。忍耐がいるとかではなくて、子供の世界では当たり前のことなのであろう。悠久のあるいは無量の時間が子供達には与えられている。無事に車庫入れが終わって試験官である私の前に来ると、大きな声で名前を呼び『ゴーカーク!』と私が叫ぶ。同時に子どもたちはにんまりとする。

免許証をもらえた子どもたちは得意そうに早速帽子に付け、写真の貼ってある側を意識してすれ違う人に見せつけるように得意がっている。それはそうだ。なんといったって免許証は年長さんのステイタスなのだから。とはいえ生まれて初めての試験というものにぶつかって、なかには憂鬱になった子もいるのではないかと思うけれども、何でもやってみなければわからない。ちなみに両園ともに欠席者なしである。

日大のアメフット部は学生日本一になったけれど、中身は全くお粗末である。今回の危険行為についてコーチや監督は学生一人に責任転嫁して挙句の果てに雲隠れだ。教育機関に身を置くものとして恥を知るべきである。学生の方が全く潔くて好感が持てる。人生は長いのだから、堂々と胸を張って生きていってほしい。日大の記者会見でもかつて共同通信の記者をしていたという者が司会をし、傲慢不遜な態度である。もうこれでは学生が可哀そうである。情けない日本の隅にある一コマではあるけれども、日本人として恥ずかしい。

米朝首脳会談は結局流れてしまった。うまく言って困るのは中国だし、だから中国は何のコメントもしない。思う通りである。会談をしても中国の後ろ盾を確信した北朝鮮に、トランプはそれをよしとはしないシグナルだろうし、北朝鮮にもう一度考えるチャンスを与えた。今一度日本海に第7艦隊を出動させれば北は米国の本気度が分かるだろう。そうなると拉致問題も解決するだろうが、それこそ戦争へ突入する危険も高まる。日本は対岸の火事というわけにはいかない。拉致問題を解決するには強大な軍事力しかない。日本人の殆どの人がそう感じているけれど、平和裏に解決なんてありっこない。

 

日本周囲で起こること

全くの予想に過ぎないが、北朝鮮の居直りのような強気に出ている背景には、中国との何らかの確約があってのことだ。あくまでも現体制を保障するとトランプは言っているけれども、通常兵器しか持たなくなった北朝鮮は国内向けに説得力を欠く。南北の軍事境界線はどうなるのか。核なき戦争を始めるかもしれないが、そんな時日本はどうするのか。多分ギリギリのところで米国が北朝鮮に攻め入った時、その時は中国が北朝鮮に派兵して米国を食い止めるみたいなことも話し合っているはずだ。そうでなければ一度震えあがった北朝鮮が米国の虎の足を何度も踏みつけられるはずはない。

南北戦争が起こったら韓国の難民は済州島までにして、日本の国内に入れないようにできないだろうか。あの国とは絶交したほうがよい。当然スワップだの漁業協定などはもってのほかで、そのくせ日本の魚は買わないとまだ言っている。友達だって約束を破ったら、その次からはあえなくなるではないか。

それよりも最悪のシナリオが、米国と中国が地上戦でも始めたら日本の国は最前線となる。そうならないようにどちらにも最高の結果をもたらす会談にしてもらいたい。戦争回避には最大限の努力をしてもらいたいし、併せて拉致被害者家族にも最高の喜びを伝えてあげたら最高である。そんな会談を世界が望んでいる。

怪しくなってきた米朝会談

拉致問題などは日本の問題だから日本が率先して行うべきだが、相手がそれには応じようとしない。中国は軍備を増強して米国にならって覇権を唱えようとしている。北朝鮮は中国へ行って、核の全廃は中国自身の米国に対するカードを失うことになることを言葉巧みに伝え、核を撤廃するような素振りを見せつけるだけで、経済制裁から逃れようとしている。中国と北朝鮮は必ず密約があるだろう。北朝鮮は中国にすり寄って米国の脅しを正面から受けて、自分の強さをアピールしているがこの後が大変だ。

米国の外交は恫喝外交で軍艦外交だ。人を説得させるのには愛情と恫喝の二通りしかない。米国のトランプ大統領は主に恫喝を使って相手を説得させるというより屈服させている。力によって相手をねじ伏せているのだが、こんなことは長い歴史を見ればそんなに長くは持たない。どこかにひずみができて誰もが米国の言うことは聞かなくなる。エルサレム問題も無用の危機を生んでいるが、アラブ世界を敵に回すことになるだろう。日本は自分の意志を持たない世界の笑いものになるだろう。このまま米国に従属するのか。

それでは日本はこれからどのように生きていけばよいのか。極端かもしれないが憲法を変えて軍隊を持ち、自分の国は自分で守ることを宣言し、外国軍隊を日本国内から出ていってもらう。これにはどこの国も反対はしないだろう。その上であらゆる国と不戦条約を交わす。不戦条約をするなら軍隊はいらないだろうと思われるが、そうではない。軍隊を持っているから条約が締結できるのだ。今の日本は独立国家ではない。米国という大虎の威を借る狐である。これでは誇り高い子どもが育たない。基本がだめだからすべてが駄目である。空しい限りだ。

米朝会談が空振りに終わったら、その後の日本はどうなるのか。また米国大統領に泣きすがることしかできないではないか。自民党や今の国会議員の責任ばかりではない。日本国民に対しての一番の加害者でもあり被害者は日本国民である。

泥んこ祭り

初等中等学部では田植え前の田んぼに入って泥んこの中で運動会だ。全く楽しいだろうな。もっとも私たちの時代には、別に『泥んこ祭り』とか銘打ってやることはない。毎日がそんなものだから真っ黒になってそれに没頭することが大切で、汚れることに気遣っていたら楽しくない。なかには必ず悪乗りする輩がいて、その場を壊してしまうのが成り行きだが、それも全体的に見れば余興のうちだ。こんなことを高学年になってもやらせてもらえるのはとてもよい。女性は気後れする子が多いけれども、内心頭の中では自分の存在を目で追っている。

土曜日曜日は幼稚園のプレイデイがあって初等中等学部のグランドを貸してもらった。どちらの幼稚園も半日で終わったがとても快適であった。その後は私の講話があって、何を話したのかと言うとこの後小学生になったら幼稚園と違って周りの子供たちの成績やわが子の成績が気になって仕方がなくなる。しかし勉強ができるとかよく学習しているという子は遺伝によることが50%だ。中学3年生の成績は35%が遺伝によるものである。『何故この子は勉強しないの!』などと言って子どもを叱るのは藪蛇だということ。そんな話をした。それに学校の教科の成績のような認知能力よりも、世の中で必要な能力は非認知能力だろうが。ということ。

国会は『モリ・カケ』ばかりで蕎麦屋の宣伝ばかりだ。はっきりとさせない総理に一番責任があるだろうけれど、それしか言えない野党の視野の狭さが気にかかる。北朝鮮が中国へ行って何を話してきたのか、それは核の全面放棄だけは何とか食い止めてくれということだろう。核を失ったら北朝鮮の人民をつなぎとめておく大義がなくなるし体制が持たない。何度も騙されてきたのだから、今度だけはそのようなことがないようにして欲しいものだ。

侍がいない?

侍などというと時代錯誤だなんてお叱りを受けるかもしれないが、国会も官僚もみんな正義や真実とは程遠いところにいる。誠実には野党も与党も生きられないようだ。つまり損得でしか生きる隙間を見いだせないでいる。正邪を説いてみてもナンセンスである。彼らの頭は腐りかけの卵のようで、隣によると腐った卵のにおいがしそうだ。近くでは世界的に注目を浴びている米朝の初めての対話があって、これがこの地域の平和と安定をもたらすかも知れないというのに、国会ではそんな話は全然出て来ない。

それで何かあったら政府与党の責任であると言えばその通りだが、体たらくな野党だから国民も誰も期待はしていないが、国会は1年以上も『盛りかけ』ばかりの話で、この解決こそが国民の幸せにつながるとでも思っているのだろうか。またこの疑惑はすべて総理個人の問題であってこのことによって国会を空転させたりすれば、自民党の責任にしないで総理個人が潔く腹を切らなければならないだろう。

昔の政治家には本当に潔く腹を切ったものがいた。中野正剛と言って『日は東方より出る』とかいって、少しかっこよすぎるけれども、個人が自尊心の塊みたいで、そう言う政治家の集まりだった。現在みたいに隠し通せるものなら隠してしまおうという卑怯な政治家は仲間からも糾弾された。そんな日本ならば『日本に住みたい』と思う国民が増えるだろうけれど、今のままだと国民は政治にそっぽを向いてしまうだろう。尊敬できる侍がいないのだ。

戦争にでもなったら真っ先に逃げ出しそうな政治家ばかりではないか。米国の恫喝外交に何も苦情やいさめるようなことはしない、これでトランプとはうまくいっているようなことを平気で言っていたのではだめだ。日本の国は経済優先ではなくて心のありようを大切にする国家にしなくてはだめだと思う。だから判断の基準が損得になってしまうのだ。何とも嘆かわしいではないか。米朝会談がうまくいかなかったときにはどうするのか。拉致問題はどうなるのか。国会で議論しなければならないことはたくさんある。子どもたちに明るい将来の展望を持たせてあげてほしい。今のままではみんな嘘になる。

徒然草

『徒然草』を書いたのは吉田兼好だったか忘れてしまったけれど、日本のジャーナリストのはしりだと評した評論家もいた。徒然なるがままに世の中を風刺して書きつづったもので、現代文に訳されたものしか読んだことはないけれど、文節がしっかりしていてとても読みやすく、その頃の庶民の生活がよく分かる。肩に力が入っていない。このような人をコラムに参加させたら一気に新聞や週刊誌は売れ行きが良くなるだろう。

あっさりと人の心をつかむような世の中の出来事を書けるなんて天才だろう。だから現代まで息付いているのだろうけれども。そういえば日本の訳者というのはすごい。外国文学を生き返らせたのは日本の訳者だ。ヘッセの詩集『孤独者の音楽』やアンドレジードの『狭き門』数え上げたらきりがないけれど、特に詩集の感性の鋭さにはため息の出るほどの見事さである。日本人の感性に優る民族などいるのだろうか。日本語が素晴らしいのであろう。

久しぶりに土浦青年会議所の青年と一緒に故寛仁親王殿下の宮邸に行ってきた。御所に入ってすぐ右側が秋篠宮邸でそこに眞子様がいらっしゃる。30年も前になるけれど土浦青年会議所が寛仁親王殿下に大変お世話になったころからのお付き合いで、それからづっと続いている。青年会議所は単年度切り替えだけれども、そんな付き合い方をしていたのでは友達をなくす。

帰って来たら初等中等学部の草取りを幼稚園の先生方がやっている。今度の土曜日曜日にプレイデイがあるのでそのための用意であるが、校庭が広いから先生たちも大変だ。本当によくやるよ。

明るいのか暗いのか

子どもを育てていくときに、これからの世の中はどうなっていくのだろうかということをある程度勉強しなければならない。流れに任せるという生き方もあるだろうが、今までのように米ソの冷戦があって、なんとなく自由主義陣営が勝利をおさめ、経済戦争でも自由主義国家が勝利した。その中で、主体を持たず、ただ米国に従っていた日本は、いずれ中国が台頭してきたときには厳しい選択を強いられるだろう。

亡くなられた宇宙物理学者のホーキング博士は『地球の残存期間はこのままでは後100年』と言っているが、その根拠となるのは一体どのようなものであるのか。その肝心なところが書いてなかったのか見過ごしてしまったのか定かではないけれども、無性に知りたいところだが、どこでその記事を読んだのかも忘れてしまった。本当に100年しか持たないとしたらどんなことが考えられるのだろうか。考える余力のない頭をひねってみると、まず地球そのものが巨大な隕石にぶつかって大破してしまってなくなってしまうのか。

宇宙そのものの変化ではなく、地球上で起こる様々な事象によって地球そのものが自らを維持できなくなってしまうのか。例えば第3次世界戦争によって核を持っている国の掟破りによる世界核戦争になって人類が生きられなくなってしまう地球になるのか、その場合には人類は滅亡しても地球は残る。

人類が生きている間は地球太古の昔に帰ることはないだろうが、生きている人が大変だ。この先明るい方向に話をする人が少ないので、自然と暗くなる情報ばかりだ。子どもたちにどのような夢を持ってもらいたいのか。現実と夢をどのようにつなげていけばよいのか。希望をどのように育んでいけばよいのか。

 

すっきりしない

幼稚園も初等中等学部も子どもたちの歓声で華やいでいる。世の中のゴシップばかりの報道には嫌気がさすけれど、子どもたちの世界は別の社会だ。ごく一部ではあると思うけれども、官僚としての公僕であることをわきまえずに、保身と権力へのおもねる姿勢には吐き気がする。政権も自民党でなければならないと思っているけれども、どのような言葉で説得できるのだろうか。多くの人は現政権に嫌気がさしている。そんなことは十分に理解していると思うけれども、代われる存在がいないわけでもないだろうが、潔くない。これで安倍政権が仮に3選を果たすようなことがあるならば、国民を本当に愚弄している証となってしまう。

最高学府を出てきた官僚にしても、国民の公僕であることを今一度国民の前に出て誓約し、個人や権力者におもねることはしないことを誓ってほしいものだ。誰もが聖人君子ではないけれど、ときには聖人君子にならなければならない場合もある。特に子どもたちの前では正義と真実を貫いて欲しい。子どもたちは常に純粋な目で直視しているから、今の大人たちの社会を一部始終白日のもとに晒したならば、子どもたちには夢も希望もなくなる。

そんな官僚の作る待機児童をなくす政策など後手後手に回って、対処療法でしかない。真摯に現場の声を拾おうとしないからだ。

新学期始まる

卒園式を書いたすぐ後に新学期始まるを書くのに少し申し訳ないような気がするけれど、何も書かなかったわけではない。何回かブログの更新を行おうと試みたけれども、以前のものと違うところがあって、長い文章を書いて一時保存すると、時間切れか何かになってしまって、もう一度書きなおさなければならない。何とかそれを直してもらうようにお願いしていたけれども、直ってない。それならそれで時間切れになる予告を出してくれるとよいのだが、それも併せてできていない。便利になると聞いてホームページをいじったのだが、私にとっては何が便利になったのかが分からない。それで結局今まで空欄になってしまったのだ。

幼稚園では両園ともに入園式が終了し、新しい園児たちが幼稚園に来ることになった。年少さんの担任になった保育者に一日の感想を述べてもらうと『何がなんだか分からないうちに一日が過ぎてしまった』ということを異口同音に言っていた。中には『何が起こっているのか整理する間もなくお帰りになってしまった』というのもある。私も両園を見てきたが、可愛いだけではなく、保育者に抱かれて『ママーママーこっちへ来てー!』と泣き叫んでいる子がいる。これは大体男の子に多い。そんなところをビデオに撮っておいて大きくなって親には向かうようになったら見せてあげればいい。そう思っている。幼稚園に慣れるまでは、最近の子はそれほど長くはかからない。

小学校には7人の子が入学したが、これがまた可愛いな。幼稚園の子とは違い、小学校へきたんだと言うステイタスのようなものを感じるし、前にのめり込みそうな力を感じる。それでもみんなで列をなしてクラスからクラスへ行くときや、お帰りのときに担任の教師に連れられてくる様は、まるでオヤガモとコガモのようであって何とも微笑ましい。この子たちが幸せな学校生活と幸せな成長を保障してあげたい。もっともこれは親の協力があってなせることだが共に手を携えてやっていきたいものだ。

 

 

卒園式

あのような心を揺さぶる卒園式を、二日も続けてやると心身ともにくたくたになる。静かに心までも突き刺すような純真な目で私の言葉を聞いている。素晴らしい子どもたちに出会えたことに感謝しなければならないだろう。保護者主催の『ありがとうの会』では保護者のパフォーマンスにぐったりするほどの感動を戴いた。さすがに能ある鷹である。最後に子どもたちが両脇に並んだところの真ん中を歩いて、子どもたちに最後の言葉をかける。いつもの泣かされるシーンだ。両脇の子供に一人づつ握手をしながら『元気でな』『また遊びに来いよ』『5月か6月にはまた会えるからな』とか思いだす言葉を並べてさよならを言う。

私はもう少しで70になる。いったん幼稚園から離れようかなと少しばかり考えていたのだが『小学校行っても頑張れよ』の言葉に『先生も幼稚園頑張ってね』と返された。死ぬまで張り付いていなければならないのかなと考えてしまった。本当に優しい子どもたちばかりで、『あおば台に来てくれてありがとう』というと『幼稚園作ってくれてありがとう』と返してくれる。全てが終わって園庭に出てくると、あるお父さんが『幼稚園の卒園式なのに子どもたちがあんなに泣くなんて』ともらい泣きしていた。

子どもたちと保育者が一体となって生活してきた青葉台の保育も卒園式を持って一応の区切りとなるけれども、最後の最後に行った『立派な年長』の儀式は、生涯にわたって自己肯定感を持つことに役立つことだろう。みんなが自分のよさを認めてくれたんだ。何かあるときには必ずこれを思い出してくれるようにお願いしたい。

もう卒園だ

卒園式のリハをしてきた。子どもたちの張りのある歌声を聴いていると、すぐそこにお別れの卒園式があるなんてことは考えられない。いつになく整然としていて、子どもたちの一生懸命さがひしひしと伝わってくる。少しだけサポートしてあげると、あとはすべて自立してやることができる。いつからこんなに立派になったんだと聞きたくなるくらいだ。このように誰にでも自立して、自分がやるという気概を持っている。そこに親が入ると途端に、できなくなってしまうのは不思議だ。一人ひとりよく育ってくれたと思う。大きな拍手を送りたい。

公文書の書き換えは、総理が昨年の2月17日の国会で『私や妻が何らかの関わりがあったら総理を辞めるし国会議員も辞める』と言った後で、総理の気持ちを忖度して文書の改ざんが始まったと野党は追及している。それではこの1年間の国会は何だったのか。麻生さんも辞める時期を失うと、世間から袋たたきにあって憲政史上に汚点を残すことになるだろう。それでなくとも、今回の財務省の件では評判が良くないのだから。政治家の言っていることが我々の感覚とはあまりにも遊離していて、国民との距離が離れてしまっている。政治家の誰もが責任を取らないで、前理財局長だけにすべての責任をなすりつけるようなことになれば、自民党は大敗するだろう。

お粗末な政府

森友の土地に係る関係文書が書き換えられているという。このようなことが財務省理財局であった。ことの発端は首相夫人の昭恵さんだ。『悪のたくらみ』という題の付いた写真に、総理と加計学園の理事長、それに2人ぐらいの人がおさまっている。その前の写真には森友学園の理事長夫妻と総理夫人がにこやかに掲載されている。これで何もなかったなど、普通の人なら普通に考えて何かある。

『改ざん』されたものを『訂正』だと言いくるめたり、省の部局だけに責任を押し付けたり、全て白日のもとにさらけ出して、政府は一旦出直して欲しい。政府は第一に国民のことを考えなければならない立場にあるのに、国民に嘘をついたりしては最悪ではないか。保身はやめて正しいやり方をしてほしいものだ。国民に背を向けてみんなでかばい合っているような素振りは、政治を腐らせてしまう。腹をくくった侍はいないのか。

自民党の中には離党したくなるような人も沢山いるだろうが、そんなことは民進党を見ればわかるように、かつては自民党にいた人が多く含まれている惨めな党になり下がるだけだからやめた方がよい。形振り構わず総辞職して国民に謝罪すべきだ。何があっても私はこの国を任せられるのは自民党以外にはないと思っているから、私は自民党を裏切らないけれども、自民党が一般党員や隠れ党員を裏切っているのではないか。かつて野に下った時のように思いあがりがあるのではないか。為政者は謙虚でなければならないだろうが。

これから日本の国を背負っていく子どもたちの顔をまともに見られるのだろうか。子どもたちの顔を真正面から見られるような政治をしてほしい。

米朝対話実現するか?

ピョンチャン冬季オリンピックに北朝鮮が参加して、にわかに融和ムードが加速していったが、何度も北朝鮮に煮え湯を飲まされてきた経緯があるので簡単に信用するわけにはいかない。米国のトランプ大統領も、核廃棄の道筋を確かめ、廃棄が終了するまで今まで通り圧力をかけていくと明言している。日本は核廃棄だけではなく、拉致問題の解決もあるから簡単には手を緩めるわけにはいかない。しかし人道上の支援と政治的な駆け引きを一緒にしてはだめだなどの世論があると、人道支援に踏み込むこともあるから注意が必要だ。北朝鮮が核廃棄に真剣に取り組むとはとても思えない。何故なら先軍主義が彼らの国是だからである。

しかし米国のトランプさんは、勝手なことをいって世界を震撼させている。あまりあのような人について生きたくはないけれど、自分の好き嫌いで国を左右させてはならないから、政治家は大変な仕事である。あのような傍若無人な人が世界のリーダーとなってしまうと、政治経済を読みとる評論家たちは読みとれないことが多く、セオリーが壊滅状態になってしまった。日本の国もまだ米国の統治下にあるのではないかと思わずにいられない。例えば沖縄における、あるいは駐留米国軍との地位協定やら、米国から購入する兵器などについては米国のいいなりであって、買い物はすべて前金である。お金を支払ってもまだ品物が来ないとか、米国の軍事機密なるものは兵器を購入してもその先は教えてもらえない。日本は自分の力で国を守るという気概を持たなくては、これから先も米国の属国になってしまう。それでも良いとだれかが決めたのか?。

幼児教育現場の混乱

地方自治体が保育者確保のために右往左往している。ことの発端は東京都の知事の発言にある。それまで国は保育者の処遇改善をして保育に従事していただけるように、保育料のほかに保育者の処遇改善費と言うのを新規に設け保育者の確保に万全を期すべく努力をしている。その上に都が独自に2万円を上乗せするというものだ。都に隣接する自治体はそれを聞いて浮足立ってしまい、我先にと保育者への給料のかさ上げをすることになったらしい。茨城県ではつくば市が最初であるが、保育者の通帳に直接振り込むという。金額は1月一律3万円である。

私としてみれば実に好ましい現象である。今までの保育者の給料は、仕事の割にしては薄給であって、何度も補助金の増額を県に頼んだ経験を持っている。その甲斐があって、茨城県は補助金の額が国内では5位以内にランクされたこともあるけれども、全体的に保育者の給与は安かった。特に幼稚園と言うところは、良家の子女が行儀見習いに幼稚園で働いたということもあって、あまり金銭のことを声高に言うと恥ずかしいことのようであった。しかし世の中の潮流がそれを許さなくなった。それはそれでとてもよいことである。

しかし問題もある。モラルハザードの問題である。保育者になると夢を描いてきた学生はそれなりに崇高な使命を抱いて、保育者になろうとしているが、今回の金銭問題で崇高なステージから引き落とされるような危惧がどうしてもぬぐい去ることができないでいる。私の思いすごしか、それとも思い上がりならそれでいいけれど。とにかく保育者を大切にしていこう。

新入園児1日入園とファミリア発表会

土曜日に両園の一日入園と小中学校のファミリア発表会が行われた。同日にこんな大きなイベントを重ねてしまったのは不徳の致すところだ。この時期は一度決めてしまったものは簡単に時期をずらすことができない。それでなくとも普段の平日であってもやることが詰まっていて、どこかに支障が出ることは目に見えている。しかしそれぞれに独立している幼稚園や学校であるので、実際に余裕がないのは私だけのことかもしれない。

幼稚園には可愛い生まれてから3年目の子たちが入って来る。今から30年前までは3歳児保育は幼稚園ではできなくて、みんな家庭で育てるか、保育所に行って4歳になるのを待って幼稚園に来たものだ。学校教育法に照らしてそれが幼稚園指導要領にうたわれていたものだ。今では子供の呼び方も1号2号3号という風に、親の働き方あるいは専業主婦とに分かれて、子どもの預け方が選択できる。選択と言ったが家庭によっては選択の余地がないかもしれない。政府あるいは官僚の政策は政策ではなくて対処療法で、都会ではいまだに待機児童の問題が解決できないでいる。この先何年もかかるであろう。国家が本気になっていない証拠だ。都会に集中して人が住むからこのようなことになるので、一極集中をやめることは強制的な力が必要だ。何かが狂いだしていることに以前から気がついていたはずだ。

小中学校のファミリア発表会はすごい!。子どもたちだけでこんなことができるのだろうか。何よりもみんなの目がきらきらしていて躍動的な子どもたちの力を感じる。このように生きているという証が必要ではないか。初等学部は中等部に入っても1年生はファミリアに入らなければならない。ファミリアは6年生までの専売特許ではない。初等中等とわけているのではなく、発達段階を理解して3年4年2年と言うように子どもたちの生活が充実するように構成されている。具体的な発達段階については学校のパンフに掲載されているので是非ご高覧戴きたいと思います。

そして先日ファミリアの現状について教員から報告を受けたが、中一になったファミリア最年長の子供たちの日ごろの生活ぶりを聞いた。ファミリアに於ける探究心もさることながら、普段の基礎授業についても知ろうとする意識が高く、教師に答えを求めるのではなく、自分たち仲間同士で確認し合いながらの学び合いがよく見られるようになったということである。やらされるのではなく、自発的に内燃機関が作動し自走できるようになる。これこそが私たちが求めているものではないか。内発的動機付けとなったものは何か。それはファミリア活動であったり、選択授業の充実ではないかと思っている。

生活発表会が終わった

先週の土曜、日曜で両園の発表会が終わった。インフルエンザが日本中に蔓延しているので、どうなることやら少々の不安があった。その不安が的中したクラスもあれば、まったく心配にならなかったクラスもある。特に第二幼稚園では全園年中と年長のみであるけれど、二人だけの休みであったのには驚きだった。子どもの自然治癒力だけでは病気を防ぐことは難しいので、どうしてもご両親の気遣いが必要になってくる。そう考えると自然に拍手したくなってくる。

あおば台幼稚園の年長のクラスは凄まじかった。7人も欠席者がいたのだから劇がどうなってしまうのか、後は子どもに任せるしかない。幼稚園まできて脇の下に体温計を挟んで涙ぐんでいる子もいた。私が子どもたちの前に出てみんなの顔を見渡すと、みんな無口でじっと私の顔を見ている。彼らは私が何と言うのか言葉を待っているようだったが、私は何とも言いようがないので『みんなで考えて』とだけ言って開幕の用意をしにステージに戻っていったが、そのあとの子供たちの葛藤がすごかった。

7人も休みがいれば7つの役に穴があいてしまうわけだから、それをどうにかして埋めなければならない。一人で何役もやらなければならないが、同じ劇ではそうは行かない。劇の中の女の子の役を男の子がやることになったが、女の子に言葉の指導をされて、男の子は『僕は男だから女の子の言葉は絶対嫌だ』と言って譲らない。女の子は『劇なんだからいいじゃない!』と言って譲らない。とうとう時間切れになって、劇が始まることになった。するとステージに上がってからも劇の中で言い合っている姿があった。何と楽しいではないか。子どもたちのやり取りをここまでじっと見守ってくれる幼稚園は数少ないであろう。

どちらの幼稚園も年中さんは年中さんらしく、年長さんは年長さんらしく、元気によく出来たと思う。ステージに上がって緊張感で泣き出した子も、背中を見せたまま前を向かなかった子も、いつかそのようなことが楽しい思い出となるだろう。そんな子の現象を観るのではなく、内面の心を観てあげようとすれば、ずいぶんよく頑張っているではないか。今度はきっとかっこよい姿を見せてくれるだろう。何も心配はない。最後に遅くまで頑張ってくれた保育者に感謝したい。良くやってくれた、ありがとう。

 

 

ちょっと違うかも

世の中の一般常識みたいなものと、現実は違うと言うようなことがある。まず民主主義と言うものは最高の決議機関だと言う。過半数が全てを制する訳だが、これが最高によい結果をもたらすものだろうか。実はそうではなくて法治国家は裁判官によって下される裁定を採用している訳だが、一応法律を学んだものに採決を委ねている。どちらか白黒つけるときにいちいち国民投票をするわけにはいかないし、そんなことをしていたらその費用だけで国家予算がなくなってしまう。その裁判官を任命するのも国民に委ねられているわけだが、勉強不足でその仕組みがよく解らない。これこそ非民主的であって、法曹界のものでしか理解できないのではないか。

社会の体制を維持していくのには、独裁か全体主義か民主主義の三つしか今のところはない。北朝鮮は独裁国家であるが、そんな国は沢山ある。アラブの産油国は殆どそうだし、ロシアも独裁だろう。かつて全体主義と言われていた社会主義国家も実のところ共産党一党独裁である。今の中国共産党もそうだ。そういう国家には自由がない。そしてわが国は自由と民主主義を標榜している民主主義国家である。どんな国家体制を選んだとしても平等というのはあり得ない。平等というのは、自由と同じで他から与えられるものではなく、自ら他と平等になるために勝ちとるものである。あまり努力もしないでもなれるものと努力してもなれないものとがいるが、だからこの世は不平等なのだ。

マルクスの言った労働者革命(階級闘争)は、まさに人類の平等をうたったものだが、人間が個として独立している以上、それがいくつかの思想の分類に分かれても、決して平等は生まれない。それは人間の個としての尊厳を認めるからであろう。そして人間に欲望と向上意欲がなくならない限り平等などの言葉は生まれない。だから平等は有名無実である。この偽りの言葉で、どれだけ多くの有能で勇気ある革命戦士が命を落としたことか。自由を求める人に平等は死語だし、民主主義を求める人に自由はない。そのようなことを覚悟して生きていかなければならない。

賑やかな子どもたち

いつものように、保育所の1歳児2歳児の保育室へ行くのには年中さんの部屋を通っていく。年中さんの部屋を覗いて、大きな声でややおどけた声で『お・はよー!』とアクセントを加えて挨拶をする。すると、一人の子が『あっ!園長先生だ!』と声を上げると7~8人の子が一斉にわーっと私の体にまとわりつく。その中の一人が私のお腹をさすって、『まん丸で大きい!』と嬉しそうにしている。

私は昨年の10月25日から炭水化物ダイエットというのをやっていて、これまでに5kgほど体重を減らした。その間海外にも二度ほど行ったが、焼きたてのおいしそうなパンにも出会ったが歯を食いしばって食べるのを拒んだ。肉や野菜ばかり食べていても、どうしてもご飯が食べたくなるものだ。私にとっては涙ぐましい努力であるが、子どもはいたって正直なもので、ときにはその結果が悲しくもなる。

私はすかさず『そんなことはないだろホラよく見て』と言ったら『少しへっ込んでいるようにも見える』と返してくれたが、私が言わせているみたいで後味が悪い。こんな小さな子にも『忖度する』気持ちがあるのだ。

劇遊びが盛ん

幼稚園では劇遊びが盛んに行われている。幼稚園での劇は、子どもたちに無理のない楽しさが前面に出るように注意をしながら指導している。今日は第二幼稚園の年長さん劇を観てきたが、一緒に観ている年中や年少の子が目をまん丸にして興味津々の様子。この子たちと、少し話をさせてもらった。支離滅裂で、何を言っているのかよく聞いていないと理解できないこともあるが、総じて言えることは『かわいい』である。そばにいてくれるだけで生命力を分けていただけるような気がする。お子さんのいる家庭は、良いことばかりではあるまいけれど素晴らしい天使と同居しているのだから、元気を出して頑張ってほしい。

勿論初等中等部に来ても同じことが言えるが、このところ初等中等部へは子どもたちがいる間に来れるときがなく寂しい。幼稚園では子どもの顔と名前が一致しないことというより、顔しか覚えていない。初等中等部では顔と名前が見事に一致する。

最近よく思うことだが、人間にとって何の興味もなく、欲望もなく、希望もなく、切磋するものもない状況のときに、一体何が面白くて生きているのだろうと。人生の勝利者とは、よく長生きした人だと聞く。本当にそうだろうか。つい100年前まで人生50年と言われていた。今から考えると短命であるけれども、それは疫病ではなく戦争があったからだろうと思うけれども、そう思うと現代人はすべて人生の勝利者である。いくら長生きしても、考える力もなく、希望もなく、欲望もなければ生きていても息を吸っているだけではないか。私はそんなのは嫌だ。

6年生の進路

6年生を終了すると当然のことながら中学生に進級する。義務教育や小中一貫校ならそのまま中学生に進級できるわけだが、このところ中等教育という中高一貫教育をする学校に人気がある。この辺では名渓中高が最初だと思うが、出来たときには昔の東京教育大学のOBが集まって設立したとあってすごい人気があった。私の先輩のご子息やご令嬢がこぞって試験を受けてそこへ入学したので、いいところの子どもたちが行くところかと思っていたら、しばらくして筑波大学入学者が上位を占めていると聞いて思わず『すごいな!』と思った。しかも医学部も結構いたと聞いて二度びっくりだった。

最近では江戸川取手が小中学校に進出してきて人気があるが、何といっても一番人気があるのは並木中等教育学校だ。東大進学率が高いと言うことであるが、東大進学率の高いのは県内では土浦一高である。次に水戸一高で、今のところ次は江戸川取手だ。いずれ並木中等教育学校が頭角を現してくるだろうが、県内不動の一番は土浦一高だ。何故土浦一校がこれほどまでにレベルが上がったのかと言うと、研究学園に住む科学者集団の子供たちが土浦一高を目指したからにすぎない。おかげで地元の子たちが一高を断念し、二番手の学校を選ぶようになってしまった。

保護者はなんだかんだ言ってもやはり学力重視なのだろうなと改めて思う。青葉台の理念は学力向上は勿論のこと、幸せになる人柄の向上が一番である。高い学力を持ち人柄もよいという人は数多くいるだろうが、『幸せになれる人柄』に絞りたいものだ。自立し自分の人生を自分の頭で考え『幸せへの道』を選択のできる人。なぜならこの世に生を受けた究極の目的は、人がそれぞれに幸せにになるためで、学問もそのためにある。一生懸命勉強しても幸せになれなかったら、何かが間違っている。

 

サバイバル

年初にホームページのレベルアップをするということで工事中になってしまって、年頭のご挨拶ができなかったことをお詫びいたします。私はこのページをアップすることしか出来ないので、何がどのように便利になったのかはよく分からない。何人かの職員がこのために時間をとって研修に行ったのだから、きっとものすごく便利になっているのだろうと思っている。ところがちょっと勝手が違う。昨日サバイバルのことを時間をかけて書いたのに、一時保存にしたら消えてしまって、また書きなおしてもう一度保存にしたらまた消えてしまった。悔しくてしばらくそのままにして、気を取り直して今書き始めたところだ。

サバイバルはそもそも幼稚園の子供たちと、私の自宅に隣接している背の高い草藪のところで度胸試しみたいにして始めたのがきっかけだ。自分の背丈よりも大きな草藪というのは少し不気味だ。仲間と一緒になって手を握り締めながら草藪から出られるところまで歩くというのは、結構度胸のいるものだ。なにしろ一寸先が闇なのだから、みんなで声をひそめながら歩く。仲間の手を握っているけれど、握った手に汗が垂れる。

 それが小学校ができてからは、学校の周りを回る耐久レースのようなものに様変わりしてしまったけれど、幼稚園の子も小学生と一緒にかけるので気合が入る。『はぁはぁ』と息を切らしながらも、目的地を目指して頑張っている。小学生も幼稚園の子たちが頑張っているのに気を抜くことは出来ない。そう言った相乗効果があって楽しく出来た。駆け足から帰ってくると温かいうどんが待っている。小学生の素晴らしいところは終始幼稚園児に気を使って、うどんを食べるときにも、先に譲ってあげるとか、食べ終わるまでじっと見ていてあげるとか大変な気配りである。もともと青葉台の小学生は、生まれがよいのか育ちがよいのか優しい子ばかりだ。

早く食べ終わった順から広い校庭に出て小学生と一緒に遊ぶ。小学生もよく付き合ってくれる。狭い幼稚園の庭ではなくて、馬を買うほど広い小学校敷地だから、十分に遊びも堪能できただろう。丁寧に企画をしてくれた小学校教諭と幼稚園教諭に感謝である。それに小学校の子供たちにも感謝したい。ありがとう。

excitingfestivalつづき

落語があった。2年生の女児と5年生の男児である。どちらも10分ぐらいの話であったが、詰まることもなく台詞を間違えることや忘れるということもなく、最 後まで堂々とやり終えた。何という才能だろうか!。観衆を目の前にしても上がることもなく緊張しているようにも見えない。演じ切った後の顔を見てみると、 場馴れしているわけでもないのに、清々しく涼しい顔をしている。何とも頼もしい子よ。プライマリーの子たちの劇は、基本の筋道の上に何とすべてアドリブ だったという。

小学校に新しく入学してきたときには『可愛い可愛い』で過ごして、何年かすると『うちの子いったいどうなってしまうのだろ うか』と心配になってくる。それはなぜなのだろうか。よその子と比べて何かが劣っていると思うようになってきて、それは何かといつも考えて子供も親も苦し くなってくる。そんなことは分かっている。学業の成績のことなんだろう。学業というのは実に範囲が広いもので、主に教科書の中身をどれだけ理解しているか ということのみに執着している。人間力なんていうものはそれだけではあるまい。

社会人としてのスキルを磨くことが学校教育であって、社会 に通用しない人を何人も卒業させてもほぼ意味はない。スキルというのは、年齢とともにスキルが新しいスキルを生み磨きをかけていく。幼少期は特に感じる力 を育てることに尽きるのではないか。学習の内容でも、ただ暗記をして詰め込んでもあまり意味はないだろう。算数でも補助線をどこに引けばよいのかとか、国 語の文章についても何を感じたのか、歴史を学ぶのでも年号と出来事だけでは歴史を学んだとはいえない。

感じる力、そのような学習が一番だ と思っている。それに賛同して頂けたら、青葉台の教育は素晴らしいではないか。土曜日のフェスティバルをご覧になられた方は、『うちの子には何が足りない のだろうか』などと馬鹿なことは考えないだろう。だれよりも『うちの子は輝いている』と感じたはずだ。落語をやった男子に『落語家に弟子入りしたらどう だ』と言ったら『ぜひお願いします』と言われた。さてどうする?。度胸も頭もよし、私はなれると思う。

AOBADAIexciting festival

青葉台ミュージックフェスティバルが今年から改名して、「AOBADAI-excitingfestival」となった。ミュージックがエキサイトに変わっ ただけのことだが、よく見てみると、出し物の幅が広くなってまさにfestivalというような感じがする。一人残さず子どもたちの笑顔がよい。一人一人 の心が躍動している。生き生きとしていて、自分は生きているというようなことを強く自己主張している。それも一人として残さずだ。学校、子ども、保護者が 一体となっている。感動して何度も目頭が熱くなった。

何度でも子どもたちに拍手を送りたい。基本的に伸び伸びと、堂々と生活を送れないと だめなのではないか。その上で学習もしっかりとやるということならば、その子は素晴らしい人生を送ることができるだろう。学習すると言っても、学習の種類 はたくさんあって、文科が配っている教科書の中身だけではあるまいと思う。要は、何でもいいから自分が興味を持ったことに、飽くなきチャレンジをするとい うことができれば立派な人間になれる。必ずしも学校での成績とは一致しないのではないか。

世の中に出て幸せになれると言うのもまた学校の成績はあまり関係はない。どこの有名大学を出ようが、幸せそうではない人を何人も見ている。多分多くの人がそう見ていることは確かだ。なのにそういった幻 想が根強く残っているのは、子どものせいではなく世の中を形成している大人たちのせいであろう。そのようなことが学校の教師を縛り、子どもたちを縛ってし まう。もっともっと楽しい学校生活を送れるはずなのに、もっと子供たちを自由にしてやりたいと心からそう思う。

勉強しろというけれど

偏差値29から東大合格した杉山奈津子ママが子育てをしていく上で、これだけは絶対に言わないと決めている言葉があります。それは『勉強しなさい』『宿題をしなさい』『予習をしなさい』という勉強関連の言葉で、『宿題は終わったの』という確認の言葉も同様であると言っています。

『心理的リアクタンス』が働いて、『今やろうと思ったのに』と言ってそれに抵抗を示すことになります。人は自分の好きな時に好きなことをしたいと言う考えを持ってい て、何か人から行動を強制されると、自由を脅かされた気がして、圧力に反発しようとする感情が起こります。この自由を奪われることへの反発を『リアクタン ス』と呼びます。電子回路の物理的用語では「抵抗」を言います。心理的リアクタンスは正常に育っている人には当然備わっているものですから、それが反抗的だと見られるのは残念なことです。

またデューク大学のハリスクーパー氏は宿題についての研究者の第一人者でありますが、小学生に宿題を課 すことは成績上何の影響も与えてはいないという衝撃的な研究結果を公表しました。その時間に『よい睡眠』『家族との時間』『遊ぶ時間』もまた子どもにとっ ては重要な要素であり、宿題でこれらの時間を削ってもよい影響は得られないとしています。多数の研究結果を総合的に解析した結果、小学生レベルの子供が行 う宿題に学術的な利益は発見されず、そればかりか子どもに悪い影響をもたらしていることまで判明しています。

幼稚園から小学校への入学は 子どもにとって向学心を深める機会となりますが、宿題をさせることは学習に対する興味を失わせる影響があるとクーパー氏は説明しています。先ほど書いた 『リアクタンス』の増大は子どもたちにやる気をなくさせてしまいます。勉強はやらせるのではなく、自ら取り組むというモチベーションが大切ですが、それに は親に信頼され肯定的な人間に育てることがまず重要なことでしょう。親はことあるごとに褒めることを習慣づけるように心がけることも肝心でしょう。

高いお金を払って塾へ通わせても、親子で批判し合ったりしていたのでは、基本的に子どもは前に向かう動機付けは失せてしまいます。お金の無駄遣いです。楽しい家庭を築いてください。

幼稚園の餅つき大会

二日前に第二幼稚園の餅つき大会が終了し、今日はあおば台幼稚園の餅つき大会だ。

 

お父さんたちが沢山来てくれて、順調に進行していった。普段の筋肉を使わないので会社でのお仕事大丈夫だろうか。

 

行儀よく座っているけれども、幼稚園では整列やキチンとということは教えていない。お父さんたちも一緒につきたてのお餅を頬張る。何とおいしいことか!。

 

お替わりの列。けんちんがおいしかった。とても上品な味だった。

園長研修会

毎年この時期に設置者園長研修会がある。場所は水戸で行われるのが普通だが、今回はつくば市の東雲で行われた。午前と午後に分かれて午前の部が『教育の経済 学・教育における科学的根拠は』という耳慣れないものであったが、講師の中室牧子慶応大学教授の話を聞いているうちに、なるほど経済学的に分析するとこうなるのかということがよく解ったが、学力を生み重ねていくことに常に費用対効果を意識して話をしている。教育の経済学では非認知能力というものをどのように扱っているのだろうか。

そこのところが明快ではなかった。学力テストなどの認知能力に対して、非認知能力の重要さは、社会生活における 最重要課題ではないのか。人の幸せを求める力に関しても、認知能力より非認知能力の方がむしろ重要である。バランス良くと言うけれど、非認知能力の方が重 くなる方が、人生にはバランスがよい。また経済学だから仕方がないが、何でも数値化して視覚化できなければ説得力はないと思いがちだが、何でも数値化できるものではないだろう。費用対効果の文言が気に入らない。

午後からは幼稚園教育要領の解説を文科省の役人が来て解説する。今年の3月に決 定したもので、その資料についてすでに東京で説明を受けていたので、その資料をもとにすでに解説書を自分で作成し、自園の保育者や義務教育に関連してあるものについては小中学校の教師にも渡し、ともに研修を行っているので、午後からの研修と懇親会は割愛させていただいた。

和太鼓

 

保護者の計らいで、和太鼓の演奏者を学校に呼んでいただき、見事なバチさばきを披露して戴いた。演奏中の写真は1枚もなく、演奏に見とれてシャッターを切る余裕がなかった。

 

子どもたちと一緒に教師も壇上に上がり、演奏者『彩』のメンバーと一緒に和太鼓のレッスン。なかなか覚えるのが早い!。

 

子どもたちも食い入るように舞台を見ている。さすがにプロだけあって観衆を引き付ける。子どもたちの何人かは自分もあのようになりたいと思ったであろう。

マリーナベイサンズ

 三つの高層ホテルの天辺に船の形をしたプールが載っている場所へ行ってきた。そのホテルの中へ行ってきたわけではないけれど、私の 泊まっているホテルから歩いて10分ぐらいの距離にあるので、散歩がてらに行ってきた。少し異様な気がしたけれど、このホテルの建設を請け負った韓国の会社は、建設終了後引き渡しが終わるとすぐに倒産してしまったらしい。日本の建設会社はこの工事に疑義があって、入札に応募しなかったらしい。そんなことも あって、日本の中では「このホテル大丈夫?」と言う風に一部では囁かれている。

昨日は日曜日ということもあって、この地域は夜でも人が賑わいで行き交っている。すぐ間近にシンガポールの港があって、静かな海辺を高速道路が走っている。そんな情景もいいけれども、さすがにアジアの金融都市というだけあって活気がある。そしていろいろな人種のるつぼでもある。肌の色も違えば、宗教も違うし、日々の生活習慣も違う。そんな人たちがうまく調和しひしめき合っている。この国を思えば、人間は肌の色や宗教が違っても争いを起こさずに平和に暮らす事ができるのだ。

シンガポール

シンガポールにきている。ANAに久しぶりに乗ったけれども、沖縄を越えるところからずいぶんっと揺れていたのに、客室乗務員は何事もないようなそぶりで客 に相対していた。日本は地震が多いから案外気にならないのかもしれない。外国の航空会社では、すぐにアナウンスが入って乗務員も同じく座席に腰掛けて揺れ が収まるのを待つといった状況だ。偉いなと感心すると同時に大変な仕事だと思う。

かつて初等学部で英語を教えていた先生に会 いにきた。実はその先生の息子はあおば台幼稚園の卒園児だ。もう21歳になると言うのでどのような青年になっているのか、非常に楽しみであった。現在は徴兵に出ているけれども、なんとプロのサッカーチームに所属していると言う。驚いたけれども、驚いたのはそれだけではない。サッカーはいつまでもできないから、しっかりと国立の大学へ行って仕事に付かなければならないと思っていると言う。しっかりとした考え方を持っているしそれを実行している。

21歳にしては日本の青年と比べたらしっかりしている。日本の青年が大人になりきれない雰囲気を漂わせているのは、多分親の介入ではないかと思っている。子離れできない親が軟弱な青年にしてしまうのではないか。そればかりとは言えないが、大きな違いは徴兵制がある事だろう。 若い時から命をかけると言う経験をしたものはそれなりに心の基本的なものに筋金が入るものだ。

年少さんの保育参観

両園ともに年少さんの保育参観が終わった。初めて幼稚園に来て、友達という仲間ができてどんな子どもの世界を演出しているのだろうか、興味津々と言ったところであろう。仲間がいると言っても、意思の疎通はなく場の共有はあっても同じ意識は持てないから、同じ遊びの中でもすぐに衝突が起こる。3歳児の心の発達の出発点みたいなものだから、かえって動作や仕草や言葉のやり取りなどに興味がある。混沌とした心の葛藤があって、人として成長していくのだろうなと思う。

幼稚園に来るまでの子どもたちの育ちをすぐそばで見守っていたお母様はよく頑張って来たなと思う。部屋の中で子どもと二人きりで、子どもはまだ言葉を理解しない状態である時など、煮詰まってしまってときには発狂したくなる時もあったろうと思う。それは重々理解できるが、だからこそ子どもの成長を楽しみに待てるのではないかと思う。楽しく前を向いて子育てしてくれるようにお長いしたい。必ず子どもは親の期待に沿って行ってくれると信じてほしい。そして何よりもお母さんが幸せになること。

チバニアン

77万年から12万5千年前の地層が見つかった。国際学会での名称が『チバニアン』と命名された。ただチバニアンという名前を聞いても、千葉にもインディアン 部落があったのかぐらいで聞き流してしまう。ましてやその筋の研究者しか知らない用語で解説されても分からない。地軸が反転したなどと聞いても、地球が180度回転したのかとか、その時の地上にある物はどんな現象を起こすのだろうかと考えると、地球が180度回転するのには少し無理があるから、S極とN極が瞬間移動したのだろうなと思うが、それは何故?。

そもそも極が反転したなどどうして分かったのだろうか。いやいや説明はいい、聞いても理解できないから。多分大型恐竜が地球上を闊歩していた時代でもあるだろう。まだまだ人間は登場してこない。ちょっと待って、大型恐竜の時代は6500 万年前に終わっているのだから、その後の地層だ。小型の哺乳類などが生まれてきたころではないか。こんな研究をしている人はロマンがあって生きがいがあるだろうな。学習の初発はやはり興味や関心からだ。そして探究心を深める。

小学生の少年に戻って、今ぐらいの知識を持っていたら地球物理学者になりたかったな。地球の果ては大きな滝があって、そこへ行くともう戻って来られないなどと真剣に考えていて、地球というところはとても恐ろしいところだと思っていたので、コペルニクスや、ガリレオガリレオよりも前の古い知識しか持っていなかった私には地球物理学は無理だ。誰が私にそんなことを教えたのだろうか。

それでオルタナティブは?

自由な学校としてのオルタナティブスクールには大賛成だが、それで教育者としての責任は果たせるのだろうか?という疑問が残る。多様な価値観があるので個人の教育的価値観を押し付けるわけにはいかないけれど、義務教育というのは文科省の教育的価値観を押し付けているといっても、全く的外れな意見だとは思わない。そこで教育というのは国家に帰属するものなのかそれとも個人に帰属するものなのかという議論が沸き起こってきてもよさそうだと思うけれども、国家に財 政的な援助をお願いしている立場上、国家に帰属するのではないと強くは言いにくい。

それは私が勝手にそう思っているだけのもので、国家が国家に帰属するものだということは教育基本法にも書いていない。けれども学校法人を取得するのには、国家が介入してくる。だれにでもできないようにしてあってそのハードルは高い。そのことは『私たちの言うことを聞かないと学校は作らせませんよ』と言っているようなものだ。だから日本国中に散らばっているオルタナティブの考え方では法人は作れない。彼らが法人にしたいとは言ってないが、それで運営するのはどうやって?感心する。

も う一つの疑問!。教育者としてある程度の知識を子どもたちに与えなければならないと私は思っているけれども、そのへんのところはどうだろう。青葉台では発達に応じて縦割りの学級を作っていてそこで基礎学習を学ぶ。その他には選択授業として、子どもたちが興味を示す学習に取り組むようになっている。それは堀先生のところで取り入れたものが多いけれど。子どもの学習への発露を重視している。だから全くやる気になるまで待つといっても待つばかりではない。静かに背中を押しているのだ。

焼き芋パーティ

プライマリークラス主催の焼き芋パーティである。ミドルやハイクラスの先輩を招いての楽しいパーティの始まりです。今日はあおば台でも焼き芋パーティだ。

 

先輩から教えて戴いたセレモニーはしっかりと。

 

一番年齢の低い子がリーダーシップをとっていても、茶化す者もなく先輩たちは神妙にして聞いている。
この学校のいいところだ。

 

1.2年生号令のもと、みんなで『いただきまーす』。とてもおいしかった。

 

1年生からの招待状

『やきいも大かい』『11がつ9にち(もく)』『じかん 3じかんめのこうはんごろ』『大そうこのまえ』と外国人が日本語を初めて習ったようなたどたどしい平仮名で書いてある。『りじちょうせんせいへ やきいも大かいをたのしみにしていてください プライマリーより』と添え書きもしっかりとある。何かあるたび にこのような招待状をもらう。たどたどしくも一生懸命書いている姿が浮かんできて、ありがたく頂いている。彼らにとって何かの思い出になればいいなと。

こ の10年間で不登校や何らかの理由で学校へ行かない子どもの数が増えているという。そのせいかオルタナティブスクールという学校に人気が集まっているとい う。オルタナティブというのはもう一方のとかもう一つのという意味の学校である。文科省の義務教育では満足できないというか、うまくなじめない人たちが自分の居場所を探してたどりつく学校である。サドベリーバレーの教育もこの種に入るが、日本の社会構造にうまく溶け込めるのだろうか。しかし私はこの教育的考え方には賛成だ。

なぜなら画一的な義務教育に、私の生き方はぴったりとくるなんて人はほんの一握りに過ぎない。そこにじっとしていなけ ればならないほうが拷問のようではないか。そこに反発できる子どもの方がむしろ自分を生きる要素を色濃く持っているのではないか。とはいえ日本は学歴社会 で、幸せイコール高学歴ではないということを理解していながら、あとは親の体裁で何とか人前に出ても恥ずかしくない学歴をと思っている。このような凝り固 まった感覚が幅を利かせている間は、オルタナティブは試練を強いられる。

またオルタナティブでは運営資金に事欠く。きのくにこどものむら学園の堀真一郎先生も、それが大きな問題であった。どのような形にしても教育をするのには資金が必要だからである。その結果学校法人の資格を取った。私は最初から法人格を持っていたから、法人以外の学校を作ろうとは思わなかったが、結構強い縛りがあって、自分の思うようになんてことはできない。勿論オルタナティブのようなことは絶対にできない。でも堀先生はうまいことやっている。

秋深まる

寒い日ではなく、冷たい風が吹き低い気温になると秋は一瞬に深まる。太陽の傾く西の方から木々の葉も色づいてくる。そんな想いを持って空を見上げてみると、 鰯雲だか飛行機雲だかが東から西の方に流れている。一抹の冷たい風がヒューッと頬をなでていくと、秋は短い、もう冬がそこまで来ていると感じる。しばらくすると、年の瀬となりそこでまた感慨深くなるだろう。そしてその次には、年齢の重みに深いため息をすることになる。年をとることに抵抗はないが、加齢による何とかという言葉が大嫌いだ。

いつだったか保育園保育士と幼稚園教諭の仕事の違いを書くと言っていたのでこの紙面を借りて少し書いてみ ようと思う。まず誰もが知っている様に保育士は厚生労働省の行政担当であって、幼稚園教諭は文科省の管轄である。幼稚園は教育法によってその地位が確保されている。保育所は社会福祉法によるものだ。幼稚園にはクラスの担任がいるけれど、保育所にはクラスがあっても担任とは言わない。担当である。

幼稚園の教育時間は4時間であって、保育所は8時間以上が義務づけられている。保育所の場合親が8時間勤務だからなのだろうか、それは定かではない。そんなわけで幼稚園は担任はできるが保育所は担当制で交替でそのクラスをみる。だからと言って幼稚園が楽な訳ではない。幼稚園は指導要録があって、卒園したらそ の指導要録を進学する小学校へ提出しなければならないが、保育所にはそれがない。

私は企業内保育所という無認可の保育所を内閣府の補助金で設立した。面倒な書類が必要ないので簡単に出来るのでやってはみたけれど、そこで驚いたのが、保育所というのは子どもが中心ではなく、働く親のためにあると言うことが堂々と書かれていることである。建物が出来るころに一夜漬けで勉強したものだから、全ては後の祭りである。今まで子ども中心の勉強をしてきたものだから、唖然としてしまった。もっともこの施設は、あおば台の幼稚園あるいは小中学校の教員のお子さんを預かるのが主たる目的だから、今までの発達理解や教育理念に沿ってやっていけばよいことだが。

トランプ大統領来日

他のことを書くつもりでも、日本にとってはトランプ大統領の来日がトップニュースにならなければならないだろうと思って、表題はそれにした。北朝鮮問題を早く解決して、拉致被害者を一刻も早く救済して戴きたいものだ。中にはトランプ大統領来日反対なんて叫んでいる者もいるようだけれども、その理由を言って欲しい。誰が日本の周辺について安全を保障できるのか。日本独自で自国を守るというのはできればそうしたいけれども、今の状況では集団安保にすがるしかない だろう。

9人も殺した殺人鬼のその後の自供で、9人の中で誰も自殺願望者はいなかったと言っている。この殺人鬼は自分で働きもせず、お腹がすけば知り合いのところへたかりに行くような生活をしていたようだ。社会に対して無気力で、仲間関係もうまく構築できないようだ。普通に育った人間なら このような人と関わり合いたくないだろうし、このような人間の生い立ちについて、追跡調査をしなくても何となくその背景が分かりそうな気がする。全容解明 までまだ時間がかかりそうだが、この件に関してはもう何も知らなくてもよい。

金土と慶事が2件あった。一つは仕事場の結婚式で、素晴らし いお嬢さんを戴いた。私の職場は女性が多いので出しっぱなしで少々不満であったけれども、今回は何んとなく余裕を持って式を迎えることができた。あの讃美歌も少しずつ覚えてきたようだし、温かい披露宴であった。みんなにこにこして帰った。もう一つは地元で100周年を迎える歯医者さんの記念式典に出席し た。『100年てすごいな!』と言ったら私の隣に座っている柴沼醤油は400年だって。

とんでもない者

オーム真理教もとんでもない者だったけれども、9人も人を殺した殺人気がまだこの世の中にいた。想像を超える神経の持ち主なのは確かだが、どのように育ってきたのか榊原セイトと同じく心理学者にとっては興味のあるところだろう。何故そうも簡単に人を殺 せるのだろうかという、人と狂気の分岐点は何なのかということが知りたいのだ。幼児期の発達心理から犯罪心理学まで幅広い分野で犯罪者の生い立ちを追っていくだろう。人を殺すという決断はどのようにして芽生えるのか、知りたくもある。

人を殺すという行為にいたるまでの心理も大切だが、死にたくなるという自殺願望の心理にも困ったものだ。せっかく生まれてきて、親に育てられて、簡単に死なれたら親としてはやるせないどころか、気が狂ってしまうような苦しみを味わうことになる。犯罪心理はさておいて、この世の中を希望を持って楽しく生きられるようにしなくてはなるまい。手放しでもしっかりと育つ子はいる。そういった子に限って明るく楽しい生活を送っている。そのキーとなることは『認められている』ということに尽きるだろう。

それは親が思っているだけではだめで、口に出して子どもがそれを理解している状況を作らなければいくら認めていると言っても、子どもには通じない。認めていないことと同じだ。まず子どもが自分を大切に思われていると感じること。いつも自分が必要であると思われていることを感じていること。良く感謝されたりしていることが大切だろうと思う。大切なお子さんだから、大切なように育てなければならない。

幼児教育のこと

幼児教育、とりわけ幼稚園教育については、理念や実践において日本の幼児教育は世界に向けて冠たるものだと思っている。幼児教育はフレーベルから始まっているから、そのものまねのような幼稚園があったというのは事実であるけれども、最近の幼児教育は日本の文化に根差した日本独自の幼児教育だと自負している。 もっとも保育形態だけを論じてみると、自由保育や設定保育、一斉保育、選択保育などがあげられるが、これらの原点は何かというと横文字の海外の学者が提案したものが少なくない。

しかしそこから日本人特有のアレンジメントによって、発達心理や発達理解に則した保育形態を創造してきた。中には シュタイナーシューレーによる保育形態もあるし、青空保育と言った家なき保育などもある。これらはメジャーではないが依然としてこれらに固執した保育も息づいている。もともとと言えばルソーの『エミール』か発した子育て論が現代の教育学の原点になっているように私は思っている。社会思想家でもあるルソー は、『子は神の手から出た時は善であり、人間の手に委ねられると悪になる』などの言葉を残してる。

そしてまたルソーは『成長の論理に則して手助けをすることが教育である』と意味深な発言もしている。例えば発達にそぐわない行為は教育ではなく、むしろ子どもたちを壊していってしまうのだということ。このような理論は全日の幼稚園連合会でも十分に理解をし、研究機構から常に発信していることである。しかし依然として小学校の下請けみたいなことをしている幼稚園がある。これはそれを疑いもなく、早めにやることは良いことだと思いたがっている保護者が多いことに由来する。

しかしそう言ったことが、子どもたちの精神をむしばみ、欲求不満をあおり、内向的になるか、運動暴発のように反社会的な行為に及ぶこともある。発達に即しない行為は抑圧と同じであると私は定義している。また、抑圧された人生に良い結果は生まれないと信じている。幼稚園の素晴らしいところと、保育所との違いをこの次に書こう。