初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

昔の人

明治維新で活躍された人は大体薩長土佐で、たまに九州の佐賀あたりの人が出てくる。殆どの人が西日本の人たちだ。それもそのはずで、関東は徳川領だし、徳川にたてつくのは外様大名でしかない。関東の大名はみんな徳川だから、維新で活躍するはずがない。維新の方の総大将は、朝廷をバックにした西郷隆盛だが、徳川方は、徳川をバックにした総大将がいない。本当のところは、京都守護職にいた会津の松平容保あたりがなるのかなと思うけれども、鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜と一緒に江戸に帰ってきてしまった。勝てるはずの戦いをやめて、江戸に帰ってきてしまったのは疑問であるので、多くの歴史学者がああだこうだと言っている。

だから関東人は保守的な人が多いのだが、明治維新に対して保守的だったのは、江藤新平が率いる熊本出身の警察である。九州男児は警察官になれば出世ができると感じたのか、就職がなくてそこへとどまったのかは定かではない。それにしても江戸城総攻撃をやめて、江戸城無血開城にした西郷と勝海舟の話とはどんなものだったのだろうか。勿論、勝は西郷が静岡あたりにきているときに使者を送っているけれども、西郷はその使者とは合わなかったらしい。だから江戸城総攻撃は、絶対にやるという強い意志があったのだろうと思う。

西郷というのは薩摩藩でも厄介ものであって、二度ほど島流しにあってその島で暮らしていたところへ、大久保とか仲間たちが迎えに来たらしい。何度も歴史の中に登場する人物だから、その辺のいきさつはよく知っている人たちが多いだろう。それよりも江戸城で勝と西郷がどんな話をして江戸城総攻撃をやめることになったのか、かなり命がけの話であることは確かだ。このような時に堂々と話しあえる学問や授業というのが必要だろう。もっともそのような胆力も必要である。時代錯誤でも何でもない。この二人は今でいう有名大学は出ていない。

素晴らしい人物はたくさんいる。そこへ向かって、何を子どもたちに伝えればよいのかを考えるのが教育者であるのだろう。あまりつまらないことを考えないで、子どもたちが真の幸せを感じるのはどんな学校なのだろうかを、口角泡を飛ばして議論してみたいものだ。勿論学校の教師たちとはやっているが、内部だけでは、これが真実だというまで深まらないだろう。永遠にこの議論をしていくのだろうな。生涯。

もうすぐ1年の締めくくり

暦では正月が1年の始まりだけど、私たちは4月1日が1年の始まりである。だから今は大みそかを迎えようとしている年の瀬である。1年の始まりがすぐだということではなく、1年1年の切り替えがあって担任になっている教師は、1年を振り返るというよりかみしめながら一日一日を送っているようだ。幼稚園では年長と年中さんの仕事の引き継ぎ式が終わり、今日は両園共に小学校の体験があって初等学部へ来ている。クラスを見て回ったり、講堂で小学生と遊んだり、一緒に昼食をとったりして、小学生とともに楽しく遊んだ。

講堂でじゃんけん列車みたいな遊びをしていて、幼稚園の子どもたちはそれぞれのトレーナーを着ているから、すぐにそれとわかるけれども、全員が私服で遊んでいたら、体の大きさで小学生の高学年はわかるけれども、あとははしゃぎ具合から見ていたら、幼稚園の子も初等学部の子も大差ない。全く屈託がなく同化し合っている。幼稚園の子どもたちの中に小学生をそのまま入れて置いたらどうなるのか、しばらく様子を見ていると、こちらで色々と話しかけるわけではないけれど、自然な形で小学生が幼稚園の子どもたちに気を使うようになる。自分たちの好きな遊びをしに消えてしまうなんて子がいないのだ。とても素晴らしい子どもの世界だ。

素晴らしい子どもの世界も、いつしか都会のあおりを受けて中学校受験などがあって、早くから受験体制を整えようとする。何をそんなに早めなければならないのかよく分からない。人間の発達真理とか発達理解から行くともっとゆったりと育てることの方がよいに決まっているのだが、良い大学へ入れるためには先手を売った方が良いらしい。脳科学者たちはどのように感じているのだろうか。脳科学者だっておそらく中学校受験に対しては賛成することはないだろう。中学校受験を考えている人たちは、小学校4年生から考えだす人もいる。鼻先にニンジンをぶら下げられて、これからずっと走り続けることになる。

誰だってどこの親だって、わが子をロボットのように学習マシンにしたいなどと思っている人はいないだろう。先手必勝は、学業の世界ではあまり通用しないのではないかと思う。先手必勝も、良い大学へ行けば何とかなるというのも、妄想か幻想である。あくせくしない方が良い。学業はびりでは困る、中よりはちょっと上にいてほしい。何よりもわが子が、自分の親は私が食わしていくという強い信念があった方が、人間として素晴らしい生き方をすることは間違いないのではないか。

学校では今ベーゴマの後はスケボーがはやっている。3年生だか4年生にせがまれてかったものだが、職員室の前をコンクリートを打ったものだからここで楽しく出来る。家でもやっている人がいると聞いたけれども、家でやっている人は道路でやっているようなので、とても危険であります。学校へ持ってきてやってもよいという許可を出したので、ご家庭のご理解を戴きたいと思います。子どもたちは覚えるのが本当に早い。

これからの幼児施設はどうなる?

幼児施設というのは、就学前に子どもを預ける場所である。代表的なのが幼稚園と保育所であろう。今その施設に異変が起きている。幼児施設で働こうという学生が激減している。茨城だけの話ではなく、日本国中で幼稚園の先生や、保育所の保母さんになろうという人がいない。それでは大学の保育科や幼児教育科などに入学して来る学生が少ないのかというと、そうではない。増えてはいなくとも減ってはいないのである。大学を卒業しても幼稚園や保育所には就職しないということだけの話だ。派遣会社の社員が大学のそばをうろうろとして、卒業する学生に派遣登録をしてもらって、小遣いを渡すということをしている。

もっとも派遣を期待して幼稚園や保育所に応募しないという人は、例え派遣ではなく最幼稚園に応募したとしても幼稚園に勤めるのは無理であろうから、幼児と共に暮らす職業にあまり魅力を感じない人が多くなってきているのが事実なのだろう。大学の就職担当の教授も、どこでもよいから就職させればよいというような態度はやめて、授業中に幼児教育の大切さや、子どもとともに生きることの素晴らしさを学生に伝えてもらいたいものだ。保育所に落ちたなどの問題よりも、働く人がいないということの方がもっと深刻であろう。

自分の幼稚園は安泰であるけれども、この仕事全体を考え、将来を見据えてみた場合には寒気がするようだ。もっとも私たちの業界では28年度に保育者不足が27000人になるという試算があったのだが、それを考えてみればまだ傷は浅いとみるべきなのだろうか。しかし間違いなく保育者は激減しているというか、幼稚園に入るべき幼児が保育所にシフトをしたものだから、保育所の設置基準に照らし、保育者数が足りなくなっているということもあるだろう。ちょっと政策における対応が後手に回っている感がある。

現実に戻って、幼稚園では年長さんを相手に『立派な年長』の賞状渡しをやっているけれども、毎年のことだけれども楽しませてもらっている。子どもは全く素晴らしい。その世界に浸ることはできるけれども、その時代に帰ることはできない。それでもいい。その子どもたちといるだけで、心が洗われて、なんだか自分もピュアな人間になっている気がする。

保育所に落ちた日本死ね

こんな投稿がなされたと言って大騒ぎしている。日本の保育事情をそのまま投影したようなものだが、自分の子どもが落ちたからと言って、日本が死んでしまったら他の人も道連れにしたいとでも思っているのだろうか。何処にお住まいの人なのだろうか分からないけれども、日本の幼児施設は全体的には許容できるだけの容積はあると思っているが、大都市周辺はまだ待機児童がいる。大都市というのはとても利便性に富んでいる。その便利さをとるか不便でも地方へ移るかという選択肢がある。大体大都市で保育所を作れと言っても、それに見合った空き地が確保できるか。そして保育者も確保できるのかが問題だろう。

基本的に子どもを産んだらそれは親の責任である。少子化だから国の政策でも子どもを産んでくれと言っているけれども、国に子育てはできない。施設を作ったところで、ただ預かってもらうだけでは親の義務は全うできないのではないか。子どもを産んだら子どもへの責任は親にあるということをもっと強く認識すべきである。この子を誰かの責任にゆだねるなどのことはできないということを親になる前に自覚すべきだ。それが親になるということではないのか。戦後と今を比べたら申し訳ないけれども、戦後食えない家庭が沢山あったが、幼稚園や保育所にみんながいけたわけではない。

小学校へ行っても給食制度がなくて、昼食の時間になると何人かの子は外に出て水道の水を腹いっぱいに飲んでからクラスに入ってくる。いわゆる団塊の世代である。それでも子どもたちは逞しく生き抜いて来た。子どもを乳児の時から預けなければならない理由がどこにあるのだろうか。子どもの発達を犠牲にしてまで、どんな生活を得ようとしているのだろうか。今児童生徒の貧困の連鎖というのが問題になっている。それは目に見えて貧困が理解できるが、その原因の多くは親の身勝手な選択によるものもあることは否定できない。保育所に入れないのを解消するには、田舎暮らしを覚悟したらどうだろうか。

子どもを大切に育てたいと心から思うのであれば、孟母三遷の諺もある通り、住む場所を変えるという思い切った考え方もある。地域の人たちとのうまいサークルでもあれば、みんなで知恵を出し合って子育てが出来ないこともないだろうが、誰が音頭を撮ってくれるかが問題になる。利便性をとってある程度窮屈な生活を覚悟しなければならないか、不便でも田舎生活をするのか、どちらもうまくいけばよいのだが、世の中自分を中心には回ってはくれない。

ファミリアの発表会

ファミリアって何をやっているのか?と不思議に思っている保護者の方もおられるのではないかと思い、ファミリアってこんなことをしているのだよ、というところを見てもらった。教師には「前のめりにならないように」「子どもたちのあるがままの姿を見てもらおう」「成功させようなどと思ってはならない」ということを何度も言ってきた。成功なのかどうなのかということは、子どもたち自身が、思いきり自分を出せたかどうかということで子どもたちの心の中にある。大人がいちいち評価してやらなくても、子どもたち自身が自己評価をしているだろうし、またそのことで子どもたち同士で話し合いがあるだろうから、そちらの方を期待したい。

私としてみれば、子どもたちの力を改めて見直した。どこかで、これはできないだろうとか、これはたぶん無理だろうなどと否定的な結果を予測していたりするけれど、これらが見事に覆されて、子どもたちは清々しくやり遂げることができた。失敗したら私の出番で、見事にフォロウアップしてやろうと待ちかねていたのだけれど、それは空振りなってしまって、子どもたちの姿に感動してジーンとしたことが何度もあった。やればできるということを形を変えても何度も経験すれば、それがそのまま自尊感情を高めることにもなるだろうし、学習意欲も高まっていくし、何よりも自信を持てる。今に子どもたちが証明してくれる。

立派な年長が始まった

第二幼稚園から立派な年長が始まった。それぞれ最初に何をいうのかを考えて来るようで、3人の応援者の中で誰が最初にいうのかというのが問題になる。というのはせっかく考えてきても先にいわれてしまうと、次の言葉が出てこなくなってしまうからだ。言葉に窮して「以上です!」なんていう子も出て来た。毎年そのようなハプニングがあるのでとても面白い。面白いなどというのは子どもたちに大変失礼である。緊張でいっぱいの顔をして懸命に仲間の良いところを考えてきているのだから、それにはきちんと応えてやらなくてはならない。ビデオにとってあるから見たい保護者には後で連絡がいくと思う。きっと涙が出てくる場面もあるだろう。

涙どころか笑い転がるようなシーンもあると思う。何故こんなに緊張するのかと思うくらい緊張してしまう子もいる。園長室というところが独特な雰囲気があるのかもしれないが、まあたまにはこんな緊張があってもいいか。見事に賞状をゲットすると園長室から出てくる子どもたちを待って、職員室にいる保育者から大げさな拍手喝さいがあるから、もらえた子は本当にうれしいだろうな。第二幼稚園は後2日ぐらいで全部終わるのではないかと思うけれども、その間に年少の保育参観があったり、劇遊びを見てやったりと続けてできないのが残念であるが、毎年このようなものだからペースを守ってやっていこう。

きょうの朝刊に大学受験のことが掲載されている。皆さんにお約束したようにどうなるのかというようなことを抜粋して書きだしてあるので、近いうちに保護者の皆さんにお配りすることができます。初等学部ではお話しいたします。だからといってそれほど神経質になることはありません。要は偏差値によってその子の一生が決まるということではなく、創造的によく作り出せることや、物事を批判的に捉えることや、今までよい子とされてきた事柄にメスが入れられる。あおば台の保育理念が、小中学校や高等学校でも通用するということが初めて明らかになった。如何にドリルを速くこなせるかなどは、全く無意味であることが実証されたのです。

休みが多い

私は仕事以外にやることがないから連休が多いとうんざりしてしまう。一日中本を読んだりすることも最近では集中力が散漫で長続きがしない。本を読みながら違うことを考えたりして、一向にページが進まない。若い人たちや保護者の年齢の人が私と同じ考えでは、日本の国は滅びてしまうだろうけれど、私には週一回の休みがちょうどよい。とにかく仕事以外のことというのは自分にとってはつまらないことになってしまった。歳のせいだろうな。しかし私の仕事というのは、金もうけの話ではないから、いくら時間をかけてもくたびれないのが何より素晴らしい。むしろ楽しいから休みなど要らないはずだ。天職ってこんなものなのだろう。

初等学部の子は純粋培養されているから、とても気分のいい子たちばかりだ。これは学校の雰囲気ばかりで醸成されるはずはないので、ご家庭での普段の家族の雰囲気がとても和やかなのだろうなと思う。幼稚園というのは家庭のそのままの雰囲気が直接的に出てくるから、家庭での会話のやり取りや躾なども、すべて子どもたちが仲間の会話や行動で教えてくれる。そんな姿を見ながらにやにやしながら子どもたちの目を覗いているのだけれども、そんなことが日常茶飯事のごとくある。それが癖になってしまって、初等学部でも子どもを見ながらある程度のご家庭での雰囲気が推測できる。純粋培養されていると、世間に出て打たれ弱いのではないかと思われるが、社会で一番強いのはまっすぐに見れる目だ。

初等学部今年になって第一日目の日に、ある男の子が真剣な表情で担任に訴えているのを、私の席から見ていたのだけれども、どうにも私は耳が悪いのではっきりと聞き取れないでいる。その子は私の方を見ようともしていないので、私には関係のない話なのかなと思って、自分の仕事に戻った。すると担任が私のほうを向いて何やら話をしたそうな雰囲気なので、担任のほうへ向きなおって『何かあったの?』と聞いたら、アトリエ(大倉庫)のところにスピーカーを付けて欲しいと訴えに来たというのだ。

私がそばにいるのに私に遠慮しているところがなんとも可愛いではないか。私がよく『こんにゃく食べ方研究会』を職員室でやっているのだけれども、それがアトリエにいると伝わらないのでスピーカーを付けて欲しいということだ。全員が来たかどうかをいつも確認しているのだけれども、3時過ぎになってしまうと各クラスで話し合いがあったりして、帰りのバスに間に合わないと言って職員室を素通りしてしまう子もいるようだ。寄宿舎の工事が3月から始まるので、その時に電気屋さんにできるかどうか聞いてみようと思う。それにしても真剣に訴えるというのが面白いではないか。教師もまたそれに乗って真剣になったりして。

2学期の記録

幼稚園は学期ごとにどんな活動をしてきたのかとか、その時の子どもたちの様子はどんなふうだったのかとかの実践記録を作成し、それをもとに学期のまとめとして総括を行っている。昨日は久しぶりに第二幼稚園の総括の議論に参加して来た。教師の人数も多いから一日では終えることができなくて、二日間にわたって総括をすることになってしまった。普段は『緑の葉っぱ』という保育者たちの劇団を作って、楽しく保育に携わっているのだが、この時はかなり鋭い質問があったりして、応える側もたじたじする場面もあった。白熱した議論の中にいて、楽しい時間を過ごさせていただいた。

久保田浩先生が幼児期の子どもたちの生活を、三層構造論にまとめた理論を基底に、1年をテーマごとに5期に分け、その中に主となる活動を入れていく。その活動についての指導計画を立て、その計画に沿って実践記録をとっていく。私も20年ぐらい前に、保育をしながら記録をとるということにチャレンジしたことがありますが、これが大変難しい。保育者はいつも子供の様子をメモできるような小さなメモ帳を携帯して、目にもとまらぬ早業でメモをとるようだ。メモに注意がいくと保育がおろそかになるし、保育中にメモなんて取れるわけがない。だから私のやり方が間違っていたということだ。

実践記録をつぶさに取れる保育者に敬意を払いつつ、実践記録の今回の内容をつまみ食いしてみると、うっとりするくらい子どもたちの心の美しさが見えてくる。例えば、運動会にやった年中の恐竜の件だけど、クラスのあちこちに恐竜の足跡を事前に保育者が作っておく。するとその足跡を見つけた子どもたちは『こんなにいっぱい足跡があるから、きっと僕たちと仲良しになりたいんだ』と言い、続けて『もうその辺にいるかもしれない』『エー!やだ怖い!』『大丈夫だよ恥ずかしくて出て来れないんだよ』『ふふふふ・・・すぐそこにいたりして』。こんな会話のやり取りがある。子どもたちの園生活を想像してみてください。

年長の記録は、仲間を思いやるとか、仲間同士の結びつきの強さなどが印象的であった。また年少の実践記録の『ごっこ遊び』のところで、どのような自然現象の中でも大胆に遊びが展開されて行くところが印象的であった。例えば雨上がりの少し引っ込んだ水たまりがお鍋に見立てられて、その中に色々な葉っぱを見つけてきて、それらをニンジンや大根やごぼうに見立て料理を作ってしまうなど、子どもたちの顔が浮かんでくるようだ。もちろん保育者の誘導がなければできないことだけれども、こんなに豊かな生活を送っているのだとニヤニヤしたくなるようだ。あおば台にいて本当に子どもたちは幸せだと思う。

またこんなこともある。3歳の子がお漏らしをしてしまって衣服を脱いで『先生これ洗って』と小さな声で言ってきた、という実践があって、その時の保育者が続いて書いてあるのが『私が早めに気付いてあげられなかった』と自分を責めているくだりがあった。保育者は常に子どものことについては低姿勢どころか自虐的は言い過ぎだが、母親のように、ときには母親以上に子どもに愛情を注いでいるものだ。小学校でも低学年を持つ教師はいつも子どもに対しては低姿勢で『私がこうしてあげればよかった』という発言が多い。小学校になると、なかなか理解してはもらえないけれども。

幼稚園はできたけど

幼稚園はできたけどその理念は何もない。園長はやとわれ園長で、その人がどうにか維持してくれていた。私は理事長職でめったなことがなければ幼稚園に顔を出すこともない。むしろ私のような者が幼稚園をやっているということに羞恥心を持っていた。だから行事があるたびに呼び出されたりするけれども、恥ずかしくてなるべく保護者と顔を合わせることがないように隠れていたものだ。素人が大切なお子様を預かるようなことはダメだと自分を許せなかったのだ。

幼稚園は年寄りの大人でしかも女性がやるものだというような先入観があった。結婚してから女房が幼児教育の本を沢山買い集めて私に読んでみたらどうだと勧めてくるようになった。園でも保育者たちが園外研修を私に勧めるようになってきたし、どうしても動かざるを得なくなってとうとう園外研修へ出てみることにした。これも全くの部外者であるけれども、他の者たちは私を部外者だと思ってはいないことが恥ずかしくて苦しかった。

回を重ねるごとに「この仕事は有意義なことで、だれかに任せればよいというような安易に考えられるようなものではない」というように考え方が変わっていった。こうなれば観念して、どうせやるなら日本一の幼稚園にしてみようというような大それた考えを持つようになって、以前お世話になったことがある筑波大学の杉原先生の部屋を訪ねたことから『幼児心理学研究会』を立ち上げていただいて猛勉強を始めた。やはり職人になるには現場が一番であるけれども、幼児教育を修めようとするには確かな原論を学ばなければならない、というのがふと感じたことであったからだ。保育現場では、久保田浩先生とその仲間たちという素晴らしい保育者を得て、私のそばには最高の師がいた。あとは私の「やる気」にかかっている。

久保田浩先生も杉原一昭先生も亡くなられてしまったけれど、大学の幼心研は26年間続けて、久保田先生が長らく所長を続けていらした『幼年教育研究会』は今も続けている。特に学生と一緒に学んだ幼心研での発達心理は、杉原先生の得意とするピアジェやエリクソン、教育学のデューイを幾度となく登場させてお話をされていて、それが小学校を始めるための文献を選ぶのに非常に役立った。しかも久保田先生の三層構造論がデューイからのものであったことが、小学校を始めてやっと気がつかせていただいた。

私が小学校を始めたのは、卒園式に子ども達が泣きわめいて『園長先生!小学校を創って下さい!』と情に訴えられたのがきっかけで、安易に『よしわかった』と応えてしまったことから始まった。子ども達に志を伝えるものとしては、だれと約束しようが、約束は必ず成就させなければならないのが使命である。しかし小中学校は約束したけれども、高校までは約束していない。校長になることも約束はしていなかったけれども、幼児教育をやってきた者として、小学校教員たちとあまりにも子どもを観る目が違うことに驚いて、自分が校長を引き受けただけのものだ。だから久保田先生の三層構造論が幼児教育にも義務教育にも当てはまるものだということも発見できた。

明日は正月だこの辺で野暮はやめよう。素晴らしい新年をお迎えください。また来年も親しくお付き合いください。この後のことは1月2日以降に書きます。1年1年を一生懸命生きていきます。

幼稚園はどのようにしてできたのか

年の瀬も迫り、また一つ年を取っていくけれど私の先輩たちは私の歳を聞いて「まだ若いな」という。私の尊敬する先輩で医者をやっている人が、75歳を機に医院の規模を小さくするといっていた。大体70を境に自分の身の振り方を考えている人が多い。だから私もそうしたい。もう40年も幼稚園をやってきたし、小学校も作ることができたし、中学校も来年度からできることになった。私の人生では『図らずもこうなった』というのが幼稚園の先生である。

20歳の時に父親を亡くし、これからどうしようというとき友人が『男なら何でもできる』と無責任にも励ましてくれた。その友人は大学生だったけれど、あまり学業には興味はなく、商売をやってみたいという。ある時『ドライバー1本で金になる』という仕事があるといって私のところへ来た。今ならそんなうまい話があるわけないだろうといえるが、何しろ世間のことはゼロに近い。彼は学生やめるから一緒にやろいうといってくれたので、私はその勢いに完全に飲まれてしまって、二つ返事で了解してしまった。それが私の一大転機になった。その仕事というのは空調や水道を扱う設備屋だ。職人ばかりの世界へ飛び込んで行って、その人種というのは短期で気が荒くて、しかし妙に人懐っこい人の良さもある。

半年ぐらい職人の手元をやったりしていたけれども、会社から設計をやって見ないかと言われてやってみることにした。初めて見るトレーシングペーパーに自分が線を引いたものが焼き付けされる。そしてそれが職人の手に渡り仕事の指針となる。なんだか夢のような出来事で、図面を書くことがとても気に入ってしまって、本物の施工図を描いてみたいという願望が強くなっていった。そんな時に同じ職人の仲間から、ある会社で現場代人になれる人を探しているということを聞き、その会社に移ってしまった。その会社の専務という人がとても優秀な人で、私に一生懸命図面のことを教えてくれた。現場代人というのは会社を代表するもので私のような駆け出しにその資格は全くなかったけれど、その専務が目をつぶって私を仕込んでくれた。

私をこの仕事に引き入れた友人は、独立して現在でも会社の社長として立派に仕事をこなしている。実は会社を二人で始めたけれども、私はいい恰好をしてしまい金銭感覚が彼とは違っていたのでうまく行かなかった。経営者はやはり彼の方が飛びぬけてよかったと思っている。私も専務に助けてもらい独立して会社を始めたが、融通手形を持たされて失敗してしまった。約束手形は必ず返してもらえるものだと保証人となる裏版をいとも簡単に押してしまったのだ。とても恥ずかしい話だ。当時の金額で数千万円に上る。手形を渡された会社へ行って何でもよいから持ってこなくてはダメだといわれても、そんなことを本気でできるものではない。それで私は会社にあった機械や材料をすべて職人に渡して、会社をたたんでしまった。

倒産させたわけではないので、私は設備図面屋一本で生計を立てることにした。A-1の施工図は8千円で、A-2は4千円であった。この方が給料取りよりよほど楽しいし、金額も良い。家から一歩も出ることなく何日も部屋の片隅で過ごしたこともある。そんな日が楽しかった。融通手形のことで私がお願いした弁護士が、私の私生活について『まだ若いのに家に閉じこもってばかりではだめだ』と言って私のこれからの仕事をいろいろと世話をしてくれた。『塾』『保育所』『幼稚園』といったものを考えてはどうかと真剣に考えてくれた。それで『幼稚園がいいな』と言ったら、弁護士と懇意にしていた建設会社の人が勝手に現在の場所を整地してしまった。

私は当時の図面描きがとても気に入っていて、お宅でも何と言われてもその方が良かった。たまたま幼稚園のある土地が私の名義になっていて、差し押さえになる可能性があるから公的な施設を作った方が良いのではないか、という誰かの入れ智慧であったのだ。私にはお金もなく、幼稚園を作るなどの大金も工面できる自信もないし、そのような知り合いも人材もない。できるわけがないではないか。99パーセント無理な話であると自分では結論を出していたけれど、まずはやってみなければわからないと思って、土浦市にある金融機関をすべて歩くことにした。

私が25歳の時で、案の定会社をやっていた時の主銀行をはじめどこへ行っても体よく断られてしまう。銀行が悪いのではなく、あの当時だったら冒険を侵さなくても銀行は十分にやっていけるのだから、私のようなどこの馬の骨だかわからないものに簡単に銀行が付き合ってはくれないだろう。裏付けになる担保も不足しているし、保証人になってくれる者もいない。どのようにひっくり返っても、無理というものだ。世の中はそんなに甘いものではないのだ。考えてみれば、もしも借りられたとしてもどのように返済できるのかを考えていなかった。

毎日のように戦術を考えて銀行で借り入れができるかどうかということが私の仕事になってしまったようだった。『絶対できる」『絶対にやる』『借りられるまでは絶対に引き下がらない』『どんな手を使ってもやり抜く』。決心が徐々にエスカレートしていって、私に寝る暇を与えなくなってしまう。ある日まだ行っていない茨城大手の銀行の入り口に立って『何を言ったらいいのか』を考えていた時、名案が浮かんだ。名案といってよいものかどうか『今まで殆どの銀行や金融機関を回りましたが、どこへ行っても貸してはもらえませんでした。そこで県に相談しましたら貴行に話をしてみたらどうですかと言われました』と。県がそのようなことを言うはずもないし、詐欺みたいなものだ。でもその銀行は快く貸してくれた。当時の借入金3600万円であった。それで幼稚園を建てることができた。

生きてきたこと

まだこれを書くのには早すぎるが、今まだ生きているのだから生きて来たことに後悔はしていない。バラ色の人生であったとは言いきれないけれど、多くの人たちに無量の迷惑を駆けてきたことは事実だろう。もし人生がやりなおせるものであるなら、そしてこの時代だけはやり直したくないというものがあるとしたらそれはいつの時代だろうか、思い起こしてみる。

12歳までの小学校時代は学校は嫌いだったけれど、仲間と遊んでいた自分はあのままで失いたくない時代である。戦後の復興期であったので、しかも私がすんでいた部落は満州からの引揚者の集合住宅であった。私の家族はその集合住宅に入らずに、かつて軍が使っていたと言われていた調理場の家を改装してそこに住んでいた。集合住宅というのは、松班とか竹班とか言われていた寮で、軍人さんが住んでいた。その寮が焼失してしまって、その後にできたのが2DKの一軒家である。勿論水道はなくみんなで利用する井戸が集落にいくつかあった。また風呂はあるけれど、新築されたときに据え付けられていたものではなく、新しく入居したものが買い足したものだ。そしてどの家でも薪を燃やして風呂を沸かす。私の家の勝手場は外にあって、流し台やバケツに入った飲み水も外にあった。

農家の集落は隣り合わせにあって、近くの畑や田んぼには豊かに実った稲や野菜を目にしたことがあった。私の家も農家であっったけれども、父がラバウルから帰還兵として戻ってきて、分けてもらった田畑では足りなかった。しかも両親ともに農業を知らなかった。できたコメは家で食べるものまで削って全部売ってしまうから、満足に食べられない日もあった。皆が貧しい生活をしていたので、今客観的に考えてみると貧乏のどん底にあったような気にもなるけれど、当時は食べられない家族はたくさんいたからそれほど気にはならなかった。

小学校時代は私の年代はベビーブームのまっただ中であったので、あちこちに子どもがうようよといた。小学校から帰ってくると、いつもみんなで集まるところがあって、そこには必ずリーダーがいる。そのリーダーになっている人がすべてであって、学校の先生の話よりもよく聞くし、いつも遊びは生活に実践的なものであって、雀を捕まえるやり方を教えてくれたり、魚釣りに連れて行ってもらったり、霞ケ浦の淡貝を取りによく行った。今文科省で「生きる力」を教育の柱にしているけれど、そのころは何を柱にしていたのかは知らないが、放課後の子どもたちの遊びの中で確かに生きる力を実践して教えていただいた。しかもそれは家族の一員として役に立ちたいという一念であったように思う。

子ども達の団結力も強く、隣村の子ども達の集団に仲間がいじめられたりしたら、リーダーが仲間を招集してかたき討ちに行ったりもした。その仲間に入らないと次の遊びに入れてもらえないので、ちいさい体の自分としては相手が恐ろしいほど大きく見えて怖かった。体中の勇気を振り絞って参加するけれども、やられてしまって体中傷だらけになって家に帰ってきたものだった。近所の大人たちも子ども達の喧嘩だとよく知っていて、だれがどのようになったのかなどは、口出しも知ろうともしないので子どもの集団はそれだけで独立していた。喧嘩は泣いたらおしまいだ、だから泣くまいと歯を食いしばって頑張った。それは仲間のために、そして自分のためにだ。

私たちの集落は引揚者だけの部落なので、旧村の子どもの人数と比べると極端に少ないけれども、親も子ども達も団結力が強く一つにまとまっていた。私の父親が旧村の出身者だったので、私の存在は異端児であって旧村の子ども達からも、引揚者部落の子ども達からも距離を置かれていたようだった。しかし私としては中途半端ではなく引揚者部落の仲間としてふるまっていた。何故かというと旧村の大人たちは、引揚者たちを貧乏人呼ばわりしていて鼻持ちならなかったからだ。貧乏人であったけれど子どもたちの心は豊かであったように思う。とても楽しかった時代は小学校5年生ぐらいまでのことだ。だからといって、そのあとはそれほど面白くなかったということでもない。

結婚式

幼稚園の教師も初等学部の教師も女性は未婚の人が多いので、結婚式に出ると言うのはさほど珍しいことではない。最近の式は教会で行うのが多く、おごそかな雰囲気で牧師が何やら英語なまりの日本語で始まる。耳が聞こえないうえに歯の抜けたような日本語を聞いているので、式の間は自然に寡黙になる。そして讃美歌を強制的に歌わせられることになるのだが、これが何度聞いても覚えられない。しかし同席している同僚たちは元気に堂々と、口を大きく開けて歌っている。後から聞いてみると『何度も歌っているから』と言っていた。

一応私が主賓として招かれているので新婦側での御挨拶と言うことになる。好きなように話して良いからなどと心にもないことを言って、私の緊張を取り除いてくれようとしているのはよくわかるが、その心に緊張が増す。いつも女房に式場に行く間にレッスンを受けて参加するのだが、ある程度紙に書いて置くのだが、いざマイクの前に立つと、一通りの礼儀のような挨拶が終わると、次の言葉に窮する。そして結局は紙に書いたものを思い出してそれをつなぎ合わせる。あまりにも時間が短すぎると、あとはアドリブだ。失礼がないように神経をいっぱい使う。とにかく疲れるのだ。

余興に入ると私の勝手な解釈だが、幼稚園の先生方の出し物は芸能人ばりで、一味も二味も違う。とにかく圧巻なのだ。隣に座っている女房が言っていた『舞台慣れしているね』と。素晴らしいエンターテナーなのだ。新婦に送る素晴らしい披露宴であったろう。きっと会場におられた方々も最高に喜んで頂いたはずだと思う。あのような保育者のいる幼稚園なのだから、子ども達も楽しいはずだ。来年度は40周年だから何か考えたほうがいいのかな。とにかく重ねてご結婚おめでとうございます。

余計なことかもしれないが、最近のと言ってもこの30年ぐらいの結婚式は、最初はおごそかな気分で会場を水を打ったようにシーンとさせて、披露宴に入ると賑やかにがやがやと楽しくなって、最後の締めは新婦が『お母さん・お父さんありがとう』と言って会場を涙で包んでしまう。悲喜こもごもだ。そして帰りは『よかったね』とか言って散りじりに別れる。

リーダーシップ

自己主張を押し通すことは良い時もあれば悪い時もある。それが個性だと言われればそうなのかもしれないが、個性とは自己主張の内容であって、押し通すのは我であると思っている。我を通すと言うことは一概に悪いことばかりではない。ただこの言葉と一緒に付きまとうのが、『わがまま』とか『和を乱すトラブルメーカー』『他の意見を聞かない』など、あまりよい評価を得られない。しかしそれで善処できた場合には良い評価が爆発する。民主主義が定着する前には、世を治めた人たちは、すべてが自己主張が強くわがままな人ばかりだ。

企業の創業者も似たところがある。何かを始めるというときに、最初の発想は一人の人から始まるのだろう。『船頭多くして船山を登る』の例えがあっても、船頭を多くしたからといっても船は山を登らない。何でも最初は一人が決めて、協力者が知恵を出すという方式が良い。最初に決めたことがよくなければ協力者は現れないだろうから、決定する者にはそれなりの覚悟が必要だ。誰もついてこなかったら孤立無援となり消えてしまう。このような現象は、集団生活の中では経験知としても必要であると思う。リーダーシップをとるということは、大きな声を張り上げても腕力を振っても、うまくいくことはないということを体感してほしいものだ。

初等学部の餅つき

山奥の過疎地の『やまびこ小学校』みたいなところでないと餅つきなどの行事は行わないだろう。ここは過疎地ではないけれど、過疎地にできたような学校だからとても家族的で、校長が全員の名前と顔が一致するなんて言う小学校は都会ではないであろう。職員室は校長のクラスで、クラス分けなどない出入り自由なクラスだ。そこでストーブを囲んでお話をするという、とても牧歌的雰囲気のあるクラスだ。子どもの中に同化できるのは、私の唯一の特技だ。

幼稚園の餅つきと違って、つき手も愛の手も子どもたちがやっている臼のグループがある。6年生がやるとそれなりに杵の音がよく出ていたりするけれども、定額ん年がやると、杵に振り回されたりしていて楽しい。大体やりたがるのは男児であるが、杵に足をとられても、さすがに弱音を吐かない。周りで見ている子どもたちが心配そうにしていて、杵を振り上げる度に『危ない!』という気勢を上げる。それがとてもタイミングがよい。

吹きあがったもち米を臼の中に入れて、それから杵で練り上げて多少餅になってきたところでつくのだけれども、練り上げるところが力の入れどころで、うまく腰を使わなければならないが、それを子どもたちが大人のまねをしてやる格好が面白い。何でもはじめてのことはやりたがる。やりたがりが何度も失敗して見事な技術者になるのだろうな。だから学習の初発は興味や関心からだというデユーイの言うとおりだ。教科書を出して、教科書を暗記させることなんて面白くもないし、それが楽しいなんて言う子がいるのだろうか。

面白いことあり

6年生の修学旅行の報告会があった。こちらで報告して下さいと頼んだわけではないけれど、自発的に全学年を集めて始まった。もっとも自分たちで決めた旅行だから、最後まで起承転結を行わなければならないと感じたのだろうか。順にしたがって報告をしていたが、全体的な報告のプログラムも整理されていて見事だった。いつも感心させられるのが、パッと出てきても怖気づくことなく堂々と話ができるということだ。私自身をだぶらせてみても、多分心臓の音が隣の人に聞こえてしまうのではないかと思うくらいのものだ。

最後の流れのところで気になったところがあったので、6年生全員を職員室に呼んで話をした。勿論ほめることが最初だ。じっくりと私の話を聞いていたが、私がいつも食べているこんにゃくがストーブにかけてあったのでそれが気になったようだ。これは全員に配った後の残りであったけれども、特別に6年生へのご褒美としてあげると言ったら、順序良くきれいに食べてしまった。おつゆだけ残っていたので『これどうするの?』との質問があり、『このおつゆでおそばをゆでて食べるのだが皆も食べるか?』と言ったら『食べたーい!』という返事だったので『そんなに簡単に食べることはできない』ともったいぶって言った。

するとみんなが次の私の言葉を待つようにじっと私を見つめている。『うんそうだな、運動場10周かな』と言ったら、すぐさまみんなで顔を見合せ『よし!行こう!』と言って、靴をはき替えに靴箱の前まで突進していった。随分と気の合うものだ。そばを食べると言ったって、それほどあるものではないし、お椀に少しづつぐらいなものなのに、みんなで一緒に気を合わせるというのはこんなに楽しいものなのだ。10周と言えば2kmだ。みんな気を抜かずに走っている。はーはーと息を切らしながら、そばを食べるために。

やがて一人二人と10周を終えてゴールしてきたが、体がとても熱そうである。フーフーと言いながらおなかを抱えていて、おなかが痛いというものもあらわれたり、『あっそうだ僕はそばアレルギーだった』というのもいる。それでも笑っていたのは私と担任だけで、あとの子たちは疲れて笑えなかったようだ。全員が私の机の後ろにある長テーブルに座り一緒にそばをすすった。6年生といえどもこのような純真さだ。この学校の良さが分かるだろう。

美しいもの

一番最初に『きれいだな』と感じたものは小学生の低学年の頃で、やんちゃな仲間と一緒に山歩きをしていて、山歩きと言っても雑木林であるが、そこで見た鉄砲ユリだろうとかすかな記憶がある。その雑木林もどこだったかをはっきり覚えているし、友達の顔も覚えている。花粉がつくと洗濯してもなかなか落ちなくて、母ちゃんに叱られるから、触らないで匂いだけかいたほうがよいということまでガキ大将に教えて戴いた。野に自然に咲いている花なので、どうしても根っこからとってきて家の庭に植えておきたかった。

家からスコップをもってきて根っこのところまで掘り下げて球根まで取り出したけれど、家まで持ってくる間に、茎が折れてしまって、家に着いた時には無残な形になってしまっていた。三つぐらいに分かれてしまっていたので、球根のある部分は庭に植えて、茎だけの部分は捨てて、花のある部分は母親が畑から帰ってきて、すぐにコップに水を入れて飾ってくれた。家の中に花があることがとても誇らしいし、嬉しかった。自分が家族のためになったという気持ちを持てたのは多分この日が初めてだったような気がする。

10数年ぐらい前にj純白の西洋ユリ(カサブランカ)を紹介されたときには、その美しさに固唾を呑んで一瞬声が出なかった。それから家にはカサブランカを何本か植えたけれど、最初だけ純白であったけれど、あとはピンクになったり赤いゴマが入ったりして自分のイメージとは少し離れてしまって興味が薄れてしまった。花弁が大きくて、とても立派で気品があって貴婦人のようなんだけれど残念である。女性の美しさは『瞳』であろうと思う。『目は口ほどにものを言う』とあるようにそれがすべてである。あくまでも個人的主観であるけれど。

心打たれる純粋さの美しさは少女の頬を伝わる涙(tears)であろう。悲しみの涙でも、うれし涙でもどちらでもよい。瞼の内側にたまった涙(しずく)がそっと頬を伝わるとき、まるで真珠の輝きではないか。、それはピュアを越してイノセントだ。女房曰く『単細胞にして最も騙されやすいタイプ』だと。何と言われようが半世紀もそう思い続けてきたのだ。現実に戻ったところで何も面白き事はない。かつて高杉晋作は、そうであっても面白く生きようと言っていたが、それほどの人物にはなれそうにない。

しばらく見なかった風景

家の庭にあるもみじがいつの間にか散ってしまっている。何日か前は真っ赤に燃えるような色をつけていたのに、もっとゆっくり見ておくべきだった。家の裏にある大きな土山に、山の下につながれているヤギがその山の中腹まで登って行って草を食べている。ヤギは何を考えているのか、いつも食べることだけしか考えていないのか、土山を登るときは、こちら側がよいとかこちらは危険だとかの考えはないのだろうか。それでも幸せなのだろうか。いやそのような意識は持てないのだろう。そのような意識が持てないほうが幸せなのか、それとも意識をはっきりと持てる人間のほうか幸せなのか。

あおば台幼稚園の周りの風景も少しずつ変わっていっている。南の道を挟んだ近くには住宅が建っているし、今日はその一角で住宅展示会か見学会をやっている。東側正面玄関の前は、少し前まで田んぼであったけれど、そこを埋め立てて空手道場が建った。これからは、道場に通う彼らが、幼稚園の警備を担当してくれるだろう。工事に来ている職人さんが自分たちが施工した側溝のところに座って、みんなでタバコをふかしている。ずいぶんとうまそうに煙を吸い込んでは吐き出している。物を作り上げるという自負心が、年老いた親父たちの顔ににじみ出ていて、力強い頼もしさを感じる。

私ももっともっと若かった時に同じような土方仕事をしていた経験がある。一日の日当が1600円だった。腕の良い職人さんは3000円。親方格になると3500円だった。日当が少なくても、それがどのような意味かをよく理解していたから不満など全くなかった。給料をもらって、ガソリン代を払うとあまり手もとに残らない。それでも意気揚々としていて、朝方まで飲み歩き、あくる日はしゃきっとして仕事へ出て行ったものだった。今のように土曜日曜が休みだなどと言われると、食えなくなってしまって日干しになってしまう。それでもなんだか、毎日が幸せだったような気がする。

あの時のことを思うと、今のほうが経済的には楽にはなった。いや、私の資産の話をすると結婚前より全く乏しくなって、話せるようなものではないが、生活そのものは文明とともに楽になっている。仕事にも恵まれ、子どもとともにいられる仕事は最高に素晴らしい仕事である。しかも運もよく小学校まで作らせて頂いた。何も不満はない、何か不満でもあるのかと自分自身を問い詰めてみると、都合のよいことを言ってのらりくらりと逃げてしまう。子どもと一緒にいられることは何事にも代えがたいことだが、それ以外はだれかにやってもらってもいいなんて、情けなくも逃げ出そうとする自分がいる。

今日は仲間の認定子ども園の認可になった建物の竣工式で、招待されて挨拶をしてきた。早稲田の応援団にいた凄い先輩だけど、彼も大変な時があったのだと思うと少し重荷が取れたような気にもなった。私も人生つきまくっているようだけれども、彼もつきまくっている。本人がそう言っていたから間違いないだろう。

講演会

堀真一郎先生をお呼びして保護者会主催の講演会があった。堀先生は、イギリスの教育学者ニイルの著書5巻を翻訳した教育者として日本では有名な方である。大学の先生をしていて、それを投げうって自ら『きのくに子どもの村学園』という学校を中心に何校かを経営しているので、彼の学問は机上の学説ではない重みのあるものであって、著書でもいつの間にか引き込まれてしまう魅力がある。信じて来たものを具現化して、これが真に子どもたちを幸せに導くものだという信念がある。私は彼の著書の一つである『きのくに子どもの村の設計』を、身震いしながら読んだ記憶がある。大学教授の退職金では学校経営は困難だろうから、それなりのご苦労はなさっているはずなのに、それはおくびにも出さない。

もっとも現在が順調ならそんなことは懐かしい昔のことであって、ことさら大変だったことなど思い出さないものでもある。私もいつかお呼びして、ご講演を戴きたいと思っていたけれど、保護社会の会長からいとも簡単に『堀先生を読んで講演会をやろう』と平然と言うものだから、駄目もとでもよいから思い切ってお願いをしたところ思いかけなく快諾を戴いたのでありがたかった。ちょっと失礼かなと思いながらもやってみるものだ。新たに強烈な図々しさが体中にみなぎったような気がした。

このところ男子生徒の高学年が野球らしきものをやっている。いわゆる三角ベースという奴だが、学年だけでは人数が足りないので、色々な学年が入り混じってやっている。男子だけではなく必要とあらば女子まで一緒になってやっているのを見た。今日などは女子だけが外に出てバットを振り回している。なかなかバットにボールが当たってくれない。見ている方がイライラしてくるが、当の本人たちは一生懸命なのだろうなと思う。校庭や中庭などを見ても、よく子どもたちは走り回っている。なんだか分からないけれど楽しいのだろうな。

3歳児の保育参観が第二幼稚園であった。保育参観のあとは私がお話をすることになっているけれども、実際3歳児について話などない。無邪気で可愛らしくて、あの子たちを見ていて母親に何を示唆するようなことがあるだろうか。今はこのままでよい。あるがままの姿を抱きしめてあげる。これ以上何もないではないか。『お幸せに』と手を合わせたい。

楽しい話2話

第1話  何時そうなったのか自分でも分からないけれども、鼻の頭のところに吹き出物のようなおできのような物がぽつりとできていて、そこのところが赤くなっていてまるでピエロのようであった。それを目ざとく見つけた年少さんが『先生!鼻のそこんとこ赤くなっているよ!どうしたの?』と思い切り上を向いて私に言う。『うんこれはね、もう少しでクリスマスが来るだろ、だからトナカイさんの練習してるんだ』と言うと、けげんそうな顔をして『じゃあ先生って変身できるんだ、へええっ!』と言って『変身!変身!』と叫びながら散っていってしまった。それを見ていた年長さんは『先生!そこはいたくないの?』と心配してくれる。

第2話  それは栗ご飯を食べる日であった。私の役割は毎年そうなのだが味噌汁当番で、その具材は決まって豆腐とワカメである。200人もの味噌汁を作るのであるから、味加減を整えるのに私が選ばれているわけだ。私の舌が肥えているからではなく、あんなに大きい鍋で作る味加減は度胸がないとできないだろう。まあどうでもいいやと言う、半ばどうにでもなれというような気構えがないと対処できない。それで私が責任をとってやるわけだが、今までに失敗したことはない。庭で火を燃やして、そこに鍋をかけて火の当番をしていると、かわるがわる各クラスごとに『先生ありがとうございます』を言いに来る。

やはりまた年少さんだが、ピョコンピョコンとお辞儀をしながら『ありがとうございます』を言ってくる。そんな子どもたちに『先生の作る味噌汁はおいしすぎてほっぺが落ちちゃうよ』と行ったらきょとんとしている。すかさず一緒にいる保育者がそれを優しく話をしてあげると、真剣な顔をしてほとんどの子が頬を両手で押さえていた。保育室へ入ると、『ほっぺたが落ちたらどうする?』と真顔で話している。『大丈夫だよあとでさ、ガムテープでくっつければ』と言うものもいるけれども、いざ食事になったら頬を抑えながら食べる子も何人かいた。

中学校ができる!

2005年に卒園した子どもたちとの約束がいよいよ果たすことができる。卒園式の時に『小学校を作って!』と哀願する子どもたちにほだされて、約束したのが『小学校も中学校も作る』と勢いあまって言ってしまった約束であるけれども、その当時の子どもたちはとっくの昔に忘れてしまっているだろう。相手が子どもだからといっても、約束は約束で守るためにあるものだ。思いは思い続けることで実現できるという見本みたいなものだ。やろうとしていることへの絶対的な価値観を持ち続ければ、おのずと他に対しても説得力が生まれるだろうし、共感も得られる。

しかし最初の想いは一人だが、想いを同じにする何人かの仲間がいないと出来ない。実現までには多くの人の力や知恵が必要になってくる。そうなって来ると同時に良質な仲間が必要になって来る。仲間は切磋琢磨出来る仲間がいい。その仲間を追いつけ追い越せして、自分を磨いていき仲間の幸せを考えてあげられるようになったら、最高の人間になるだろう。わが子にはどんな仲間がいるのだろうか。

文科省が平成28年度4月から新たに教育基本法第1条の『学校とは』というところの学校種に『小中学校』という小学校と、中学校を合体させた一貫教育学校が新設される。この学校種に移行する教育機関は新たなカリキュラムに取り組まなければならない。今までの6・3制を自由に解体することが出来る。何もしないで移行するのでは意味がないから、そのような学校は移行はしない。わが校のカリキュラムは当然見直しをすることになるので、教職員にはこれからの奮闘をお願いしたい。発達に見合った制度にするので、新教育ではなく『真教育』にするつもりだ。

最近土曜日に休む子が多い。病気というのであれば仕方のないことであるが、そうでない場合があるらしい。公立は土曜日が休みだが、わが校はきちんとした教育を行う時数に数えられている。しかも土曜日は子どもの内面を自分たちで創作する集会がある。これは学校の目玉としてとても大切にしているもので、あまりそのことに重きを置かない行為というのは看過することはできない。学校は授業料さえ納めれば何をやってもよいような安っぽいものではないし、商業的感覚でいる教職員は誰一人としていない。義務教育期間は学年を問わず、何処の学校へ移ろうと、要請があればあるがままの内申書をお送りしなければならないので、学校行事を軽んじているようでは論外である。

今日お父様たちが来て戴いて登り棒の修理をして戴いた。青竹が目に飛び込んでくる。ずいぶん頑丈に作られたと思う。もっとも自分たちの子が、この棒を渡ったりするのだと思うと、作りながら点検しているのだろうから、登って安全安心だ。子どもたちのために、ありがとうございます。

学業の進度

初等学部の子たちは、自ら進んで学習する内発的な土壌を持っている。また自らやろうとしなければ、どれだけ素晴らしい教師をつけても成績は上がらないだろう。私が校長になってから学習方法のスタンスは変わってはいない。理詰めで、ドリル漬けの学習方法は一度もとったことはないし、強力なやらせの方法もとったことはない。だからどのような子にも無理はないので、子どもたちは伸び伸びとしている。しかし進度を気にする保護者もおられることは存じ上げている。でもよく考えてみてください。そんな子が並木や茗渓や江戸川に合格するのでしょうか。ねじり鉢巻きをさせてむきになってやらせたことなど一度もないのだ。

勿論文科省から戴く教科書の他の教材も使っているけれども、わが校は最初に入学して来る時にお話したように、2年生までは宿題も出さないし、幼稚園の年長さんの延長のように考えていて、まずは仲間と関わり方を学ぶことが重要であると考えている。だから他の学校と比べて見るとかなり遅いのではないかと思われる保護者もいるかもしれませんが、ゆっくりと内在されたものが噴き出してくるのは時間の問題で、5年生の2学期ごろになると公立の学校よりかなり先に行ってしまう。これがよいなどとは思っていませんが、普通にやっていても年間時数が多いので与えられた教科書は終わってしまうのが実情です。

私は幼児教育と同じように、学校教育もプロにならなければならないと決心して、多くの教育書を読み、教育の理念や、偉人伝なども読み漁り、どのような教育の方法がベストに近いのかを常に考えてきました。基本は幼児教育と同じように『子供を幸せにするために教育がある』という考え方に変わりはありません。子どもを中心に置く学校生活を目指しております。だから私は、この学校へ来ると進学指導について『何処へ行けます』などと詐欺のようなことは言った覚えはありません。そもそも勉強して難関中学校へ進めたのは、本人の努力のせいで、学校の指導力のおかげではありません。

本人の努力に惜しみない拍手を送り、より良い人生の在り方についてのアドバイスは勿論いたします。目的もなくただお金持ちになるために医者になりたいとか、弁護士になりたいなどは無意味な話で、そのために勉強するのではなく、まず言いたいのは、内発的動機が必要であり、目標を持つことが大切であると言うことです。お金はいくら自分の蔵にため込んでも、生活に必要以外のお金は外にまいてこそ役に立つというものだ。ためるより何に使うかを考えられるようになった方が、将来性はあると確信している。お金があったら何に使うか、こんな話し合いも面白いのではないか。

学校というところ

小学校も高学年になってくると、『何故勉強をしなければならないの』という素朴な疑問を抱くようになる。何のために学校があるのという疑問に大人が答えるのと同じだと思う。何故山に登るのかとの答えのようでは納得させることは難しい。明治維新後しかも1872年という維新後間もなく学制が公布されて、なぜ至急に学校を作る必要があったのか。それは維新政府が欧州使節団(岩倉使節団)を出して、先進国を視察して外国列強国の産業や軍隊を見て回って、驚愕の体で帰ってきたことに由来している。

まず産業復興ということよりも、強い軍隊を作らねばならないということが頭にあったようだ。それは奴隷や植民地を見て回ったことで、やがて日本もこうなるのではないかという恐れから、近代兵器を整えその仕様書を同じように理解して使えるようにするために、その伝達方法として教育があったのだ。だから個人の興味を満足させるために教育があったのではなく、教育はすべて国家に帰属するものであった。その当時国外留学をした多くの学士は、国家の威信をかけて勉学に励んだ。だから慣れない生活にも侍魂を発揮して歯を食いしばって頑張ったらしい。

富国強兵政策とは当時の国家には必要であったのだ。その教育理念が現在でも生きていることが、少しずつだが改められようとしている。1900年に4年生の尋常小学校が施行されてから1世紀を過ぎたにもかかわらず、いまだに受験感覚が、富国強兵時代と同じかあるいはそれ以上に熱くなっているような、学校のまたは社会の体制がこれも欧米並みに、自由な学びを奨励できるようにとされている。2020年から現在の受験体制をガラッと変えるようだ。東大の総長と前文部科学大臣が言うのだから間違いがないだろう。人間を苦しめる様な受験ではなく、希望に満ちた大学制度にしなければならないだろう。

日々の学習が、自分自身を磨いていくのだということに気がつくような、学校の在り方が子どもたちを救っていくことになるだろう。もっと言うならば、学習によって自分に磨きがかかったというような、検証可能なことが学校生活の中にあるということが必要だろう。学習することは大切なことだ。しかし学校で起こるペーパー試験で常に満点をとったと仮定しても、それだけではその人の全人格的なものに磨きがかかったとはいえないだろう。薄っぺらな学校の教科書を丸暗記したところで、それがその子の幸せへの最短距離であるとは到底思えない。そのようなことを、ぜひとも共通の理解として保護者と共有したいというのが、私の切なる願いであります。

また学校や幼稚園というところは、不特定多数のご家庭のお子様が来られるところで、家庭での子育て観も子ども観も違うでしょうし、なかなか一つにまとまってというのは難しいものです。何か子ども同士でいざこざがあったり小競り合いがあったりしますと、『うちの子は悪くない』と保護者は主張したくなります。それは間違っておりません。悪くはありません。しかし同時に相手の子も悪い子ではありません。子どもたちの間で起きたことについては、大人たちがもっと寛容に長い目で見ていただけますと、子どもの世界はもっと広がるのではないかと思います。

修学旅行 京都

かつては年に一回は京都へ行ったことがある。青年会議所現役のころだ。30年前にもなる。その間幼稚園の集まりで行ったことがあるくらいだ。グアム旅行のときだって一泊して帰ってきたのに国内旅行で行けないことはない。
      
銀閣というところへ泊ったが、修学旅行用の宿であった。上は夜の食事である。
      
食事前と食事中である。牛肉と海老フライを交換して食べていた人もいた。
      
なぜか食が進まないのでどうしたのかと聞いてみたら、途中で何かうまいものを食べてきたらしい。それでも夕食はお腹が張るほど食べたようだ。
      
京都は『ニシンそば』を食べないと、ということで京都駅の中に入りそばを食べるが、お腹がきついということで4人で一つを食べたグループと一人一つを食べたグループに分かれた。駅の階段のイルミネーションがきれいだった。
      
京都駅前で夜の散策である。引率の教師も子どもたちに同化しているようだった。
      
あくる日の朝食、私を待って制服に着替え正座していた。可愛いものだ。
      
第2日目の始まりの朝。旅館『銀閣』を後にして次の目的地へ行くために勢ぞろいをした。子どもたちは全く疲れを知らない。
      
京都駅について、それぞれに切符を渡している引率者。残念ながら私はここで子どもたちと別れて、楽しい思い出をと願いながら後ろ髪をひかれながら一路学校へ向かった。何とも忙しい日であった。

大切にしなければならないもの

ペスタロッチに感化されたフレーベルは世界で初めて幼稚園を作った。その名は『キンダ‐ガーデン』である。子どもたちの庭とも、花園とも訳されている。その前にも幼児施設というのはあったらしいけれども、フレーベルの功績が大きく、幼稚園はその時に名付けられたままの『キンダーガーデン』と言っている。『花園』といった昔の人に心から敬意を表したい。幼稚園が肥沃な土壌でなければならないことを示唆しているのではないか。幼稚園もそうであるけれども、子ども自体が肥沃な土壌である。何をそこに植えようとしているのか、それは大人の責任である。

それは幼児期だけではない。児童期の前期、8歳9歳といったころまでそれは大切なことではないかと私は確信している。その発達は他者批判や他者評価が芽生えてきて、自己評価もできるという発達が確立されるころまで、その土壌は特に大切にされなければならないと思う。そのように育てられた子は、自尊心も高く、物事に前向きであって主体がしっかりと息づいている。小学校3年生か4年生だ。この頃の学習の成績にはあまり神経質になる必要はない。どのような人との関わりをしているのかということを見るようにして、いつも仲間のことの話をし笑い顔が出ていれば心配はない。あとは内燃機関が働いて自走するようになる。

早期知的教育の話が出ていて、議論をしていると賛成派は『できないよりできた方がいいでしょ』ということになる。そして極めつけは大脳生理学を持ってきて、脳の働きが一番盛んなのはこの時期であるというようなことを言う。このような根拠があるということを言われると、大体の人は反論できなくなってしまう。ニューロンとかシナプスの話をされても奥様達には理解できる人はそれほど多くはないだろうから、これに参ってしまう。

確かに脳の働きの曲線を見てみると2歳からグーンと上がってきて7歳から8歳までがピ-クになっているけれども、そのまま何年も続くけれども人によっては下降曲線になる人もいるし、上昇曲線にもなる。能の使い方には使えば使うほどよくなるという説もある。しかも2歳からの上昇曲線は、私が思うのにはドリルをやらせたり学校のまねごとをさせるために上昇するのではなく、これから生きていくためのスキルを学んでいくといったものであるのではないかと思っている。何よりも人間としての感性を磨かなくてはならないだろう。『感じる力』を素晴らしい土壌に植え付けることが何よりも大切だ。小学校低学年も同じことだ。これから京都へ行ってくる。

脱穀

今日は第二幼稚園で3歳児に運動会があった。私はいつものように、ごく普通の顔をしていても保護者の前に出るときには『もっとにこやかに』とか言われる。これは女房だけに言われるなら無視もできるが、最近では私の顔に慣れてきたのか、保育者までもが『もっと笑って』とかいうようになった。しかし今日は朝からそんなことを言う保育者はだれもいなかったし、女房も終始ニコニコ顔でああった。それはそうだろう。あの子たちの笑顔を見て『ブスッ!』としている大人はそうはいない。子どもの顔もそうだけれども、ご両親の顔も素晴らしかった。

みんなの顔がこぼれそうな笑顔で、至福を感じるひと時であった。それはそれでよかったけれども、昨日の初等学部の脱穀で、ずっと立ちつくしてやっていたもので、腰や足の筋肉が硬直してしまったのか痛くて仕方がなかった。やっているときには無理してやっているなどの意識は全くなくて、ちょっと疲れてきたら教師に代わるというようにしていたけれども、朝起きるときには這う様にして起きた。年寄りの痛みは、すぐにやってこないから用心しないと大変なことになる。それにしても初等学部の教諭たちと投光器を点けながらの脱穀だったけれども、よくやるなと思う。経験があるのは私と事務長だけなのに頑張った一日だった。


今の子どもたちは毎日白いご飯を食べているけれども、田植えをして稲穂が実ったあとのことは殆ど知らないと思う。籾摺りや玄米を白米にする精米などのことは知らない子の方が多いだろう。知らなくても現在の大学受験にはあまり関係がないかもしれないが、実はこれからの受験はそうはいかなくなるのではないかと思う。田植えから白米になるまでの過程を知っているということではなくて、その過程で起こる自分の心の動きが様々な科学の芽を育てることになるのだ。受験のためのドリルをいくら消化したところで、総合的な体験的学習には遠く及ばない。

愛おしきもの

第二幼稚園の1週間遅れの運動会があった。昨日の夜からと今日の朝方は18日にやった方が確実性が高いということで、日曜日にやろうとほぼ決めていたけれど、雨雲の予想通過を見てみると、かろうじてつくばの上は通らないだろうということでゴーサインを出した。1週間遅れだけでもがっかりしている子どもたちだし、お手伝いの6年生にしてもそれぞれに予定を組んでいるかもわからないし、お仕事をなさっているご両親にしても予定がくるってしまうことは極力避けたいという気持ちもあった。

子ども達にとっては雨だろうがなんだろうがやりたいときにはやりたいものだ。大人が駄目というから渋々承諾しなければならないだけの話である。子どもが生まれてから這い這いをし、立ったり座ったりするようになると、いよいよ歩き出す。「立てば歩めよの親ごころ」である。歩き出すと視野が広がり、手に触ったものについては口に持って行って確かめようとする。知識を得たいという原型の本能である探究心が働き出す。腕や足がプクプくしていて、まだ協応性がないから、動作がどうもおぼつかない。しかしどうにもたまんなく可愛い。これ以外に表現の仕方が分からない。

この頃の子は、ベビーシェマと言って顔のパーツがほぼ中央によっていて、黙っていても可愛い顔をしている。それが動き出すようになるから、ご両親や祖父母にとってはぬいぐるみでは表現できない可愛さをすべて持ち合わせているので、どうにもならないくらい可愛い。この時期ならわが子がどうしようが何をしようが、ありのままの姿をすべて抱擁し、寛容に育児ができることでしょう。この気持ちを忘れずにいてほしいものだ。愛おしいもの、それは子どもたちの笑顔だろう。

子どもは育てたようにしか育たないと思うほうが正しいと思う。奇跡は起こらないとみるべきだろう。これからも保護者の皆様とスクラムを組んで子育てに邁進してまいりましょう。今日は子どもの顔と、大人の顔の両方にとても癒された一日でした。お父様方も、朝から駐車場の整理をありがとうございました。とても助かりました。

なんでも計画的に

計画というのは見通しを持つということだから、こうなるはずだという予測を持って出発するのが普通で、どうなるか分からないのは、多分計画とは言わないのだろう。思いつきで動くというのがあるけれど、この『思いつき』というのはうまくいかない場合は周りからヒンシュクを買うけれど、これが当たった時には創造力の豊かな人であるという、おほめの言葉を戴くことになる。幼稚園の行事や運動会の種目、あるいは劇遊びのシチュエイションなどは特にこの突発的な創造力がものをいうときがままある。ねらいは子ども達がどのように食いついてくるかであるけれども、こんなことを考えていると時間を忘れる。

だから『発見』や『発明』には計画性はない。きっかけは思いつきだから、『思いつき』や『ひらめき』をもっと大切にしてやりたい。田んぼを借りたのは思いつきではなく、こうするのだ、ああしたいのだというものはあったけれども、600坪というのが大きすぎた。最初から分かっていた大きさだけれども全部を使うことではなくその中の半分ぐらいと考えていたけれど、水を引くのにそうはいかないということで、借りた分だけ田植えをすることにした。当然あれだけの大きさは私たちの手に負えないので、事務長のお父様に機械を入れてもらって、田植えまで手伝って戴いた。

稲刈りが終わってオダカケをしてある分の稲はこれから脱穀をしなければならないが、あれやこれやと行事や活動が入っていてどうも脱穀まで手が回らないようだ。脱穀用の竹細工はいくつか出来たようだが、自費で脱穀機を買ってしまった。これさえあれば私と事務長とでできる。その間に見物に来た子どもたちにやらせればよいと思っている。やりたがればの話だけれども。これも不確実性の無計画の中の計画である。

初等学部では初めてファミリア活動を観てもらおうと参観日を設けた。最初のころは教師も子どもたちも戸惑うところが見えたけれども、今では高学年と低学年のペアがうまく行っていて、それらが低学年の学習になっているし、高学年はファミリアの活動そのものに理解を深めたいという意欲が出て来たので、これが学習意欲につながっていくことを強く願っている。学習のためにファミリアがあるのではなく、学習そのものが生きるためのスキルであることに気づいてくれれば、もっと面白くなる

幼稚園は遠足の日

幼稚園は大洗水族館へ遠足の予定であったけれども、延期の決定をした。この雨だとバスの乗り降りでバスまで歩く親子では大変だ。雨で視界が悪いし、事故でもあったら大変なことになる。大体事故というのは油断してなることもあるけれども、細心の注意をしていても起きるときには起きてしまう。不運としか言いようがない時もある。それが自分のところで起きてしまっては泣くにも泣けない。『君子危うきに近寄らず』がよいけれど、『虎穴に入らずんば虎児を得ず』という諺もあるから、判断する場合の深い思慮が大切だ。たかだか遠足のことでと思うことなかれ、総合的に判断すれば今日は延期にしたことはベストである。

親子で食べる昼食についても、1000人近い人たちが一堂に食べられる屋根のあるところはなく、いつも外のデッキのところで食べるので、雨が降っていたのではその場所は使えない。一番肝心な子どもたちのことだけれども、残念がっている様子もなく、私が行ったときにはこちらから言い出さないと遠足の話は出て来なかった。子どもたちの柔軟な対応によって、次の新しい楽しいものを探し出す力に改めて感心する。残念なのは残念だと思う。お母さんと一緒に出かけられるなんて、本当に楽しみにしていたものだ。この次にいっぱい楽しんできてほしい。

初等学部では、5・6年生を中心にして集会委員会でアンケート調査から議題にして欲しい物を選んで、全校集会で決定することを楽しんでいる。『楽しんでいる』という言い方ではよくないけれど、そんな気がする。今回はスキーに行くか行かないかということが議題になったが、これは例年3年生から上の子たちの話だから、1・2年生には直接関係ないが、その話の行く末をじっと聞いている。彼らが決定したことは最大限尊重はするが、お金のかかることを経済力のない彼らが勝手にきめてしまってもよいものなのか。今度はそのことを議論していただきたいものだ。

歴史認識の歪曲だって?

よく韓国や中国共産党が好んで日本向けに発する政治的用語だ。中国共産党とは何度もここで書いているけれど、日本陸軍とは戦っていない。日本陸軍と正面切って戦ったのは蒋介石率いる国民党である。韓国は一緒に連合国側と戦ったのに、対日戦争というのは当てはまらないから、日本からの独立であろう。ロシアなどはまだひどい。日本の広島に原爆が投下されたのち、長崎に原爆が投下された8月9日に、日ソ不可侵条約を一方的に破って満州に攻め入ってきたのだ。そのあとは満州に残された日本兵はシベリアに抑留されてひどい目にあった。兵隊だけではない、民間人まで蹂躙されたのだ。

そして日本が降伏してから、戦わずして北方四島に入ってきて武装解除してしまったのだ。だから日本人は、中国にもソ連とも戦った気がしないのに負けてしまったのだ。ソ連は酷寒のシベリアに日本兵を連れて行って、鉄道建設や住宅建設に従事させたが、日本兵が作った住宅などは丈夫で今も残っているらしい。敗戦国の日本だから、今さら何を言っても原状復帰は難しいだろうけれど、北方四島などは泥棒に持っていかれたようなものだから悔しい。中国も韓国も歴史を歪曲しているのは、あなたたちではないのか。公文書図書館や、かつて日本と戦った国民党が台湾にいるからよく話を聞いてみるとよい。もっとも彼らは、内政がうまくいかないと、国民の注意を日本に向けさせるという手段を使っているだけだけれど。

中国は天津の爆発について、今も毒ガスを作っていたとは言っていないけれども、あそこから出てくる化学物質を集めてみると、さまざまな毒ガスができるらしい。世界で禁じられている化学兵器までできる。国連の調査団を入れたらすぐにわかるものを、中国はそれを拒んでいる。中国も韓国も内政がしっかりしていれば、反日にはなるまいものを。その話はこれくらいにして、何とも憂鬱な今日の雨だ。

晴れやかな日

朝のうちは少し雨上がりのようなどんよりとした雲があったけれども、午後からは2週間ぶりぐらいだろうか、晴れやかな日差しが戻ってきた。日差しには焼けつきそうな強さがあるけれど、曇りよりはすっきりする。田んぼの稲穂もこの日差しを待ちわびていたのだろう、黄金色に光って何か誇らしげに風に揺れている。昨日あたりから、あちこちでコンバインによる稲刈りが始まったようだ。学校の周りや、幼稚園の周りでも稲刈りが始まっている。初等学部の田んぼは、普段の人たちよりも1カ月も遅く田植えをしたから、ゆっくりでいい。子どもたちとゆっくり話し合いながらやろうと思っている。

旭山動物園の園長をしていた小菅正夫さんて言う人の名を覚えていらっしゃる方も大勢いると思いますが、この人が園長になった翌年には旭山動物園創立以来の最低入場者数を記録したそうだ。この人が園長になったからという理由ではなくて、動物園そのものが斜陽であった時の話で、しかも旭川と言えば日本ではマイナス40度以下を記録した酷寒の地である。そこで10年後には、入場者数300万人を超える上野動物園と肩を並べる動物園に仕上げてしまった。これは何もマネジメントを考えて、寝る時間を割いて、懸命に経営に乗り出したなどという出世物語ではないのが、この人の偉大さだと思う。

それはどうしたかと言うと、動物たちの生態をそのまま見せるというもので、夜行性のある動物は夜にみせる。その生態に合わせることによって、動物を虐待から守り自然との調和を図ると言ったことを動物園から発信したことがすごいことなのだ。札幌に生まれた小菅さんは、春はサンショウオ、夏はセミ、秋はバッタを求めて過ごし、捕まえた生き物を一生懸命育てる様な子ども時代を過ごしたらしい。北海道大学の獣医学部を出たのは子ども時代の延長のようなもので、また救えなかった小動物に対して、もっと生きてほしかったという思いがあって獣医学部を選んだとも言っている。幼少期の延長というのは、確かにインパクトがある。

初等学部でもフロー教育を進めるためにファミリア活動を取り入れているけれども、夢中になったものから不思議を発見し、それを追求できるような集中力を蓄えてほしいと願っている。小さい時から道具等を使っているのだから、道具の便利さを体験でき、そのメカニックについて不思議を感じたり、てこの応用や、上下運動が何故回転運動に変わって行くのか、その部品や道具を発見した人に敬意を払うとか、よい方向へ連鎖してほしいものだ。幼稚園では特に『感じる』ことをたくさん日常の生活にちりばめることを話し合っている。これからも保育力を高めてほしい。

オアシスは満タン

初等学部のオアシスへ幼稚園の子どもたちが来た。実は昨日は第二幼稚園が来る日であったけれどもあいにくの天候で中止になってしまった。今日はあおば台の年中と年長の子どもたちが、両手足を伸ばしてキャッキャッキャッと楽しんでいる。楽しいという日が毎日のようにあればいいな。
         
小さなプールだけども、初等学部の最初の子どもたちがオアシスと名付けた。ここにはキャンプ場があるけれどもその場所の名前は軽井沢だ。左上の写真はゆっくりと階段を下りてオアシスに入っていくようす。
           
オアシスの上からちょうど滑り台のようにして遊べるのが楽しい。右上はロープを伝ってオアシスから出るところ。小さな子どもたちでは、オアシスの上まで登るのには滑ってなかなか難しい。
         
オアシスの隣にある全長202Mのクジラ川でカヤックに乗って楽しんでいる年長の子どもたち。深いと危ないので、昨日のうちに初等学部の教員たちが川の水を抜いてくれた。年長と年中の子どもたちを一緒に遊ばせておくと、年中の子が年長に引っ張られるようにして、より活動的になる。楽しい光景である。子どもたちが帰る頃になって、雨がぱらつきだした。

進路指導

私の友人の兄に京都大学病院の院長をしていた人がいる。勿論その姉も弟も優秀である。私の友人の方はいたって楽しい人で、幼稚園の保育者をしている。研修会などで、日本でも著名な講師を呼んだりするのは、実は大学病院の院長の差し金であったことがつい最近分かった。そんなことを自慢したりしないから、幼年教育研究所の所長の久保田浩先生がお呼びしていたものとずっと思っていた。大学病院の院長というのは、大学に残って病院を運営して一人院長になるわけだからすごいと思う。しかも京都は研究所としては東大よりも世界では有名だ。

初等学部にもすでに医学部志望の児童がいて一生懸命勉強している。医者の子の多くは医者になろうとしているのがいる。自分の親が医者だとそうしたいと思うのだろうか。開業医の場合には、医療器具の支払いに追われて一代では返済できないと言われていて、何とかわが子にあとを継いで戴きたいと思うのは自然な思いである。他人が入って来るよりそのほうが良いということだろう。だがこれは弁護士も公認会計士でも世襲制でないから、大変なことだ。もっとも大変だと思うのは凡人の悲鳴にすぎないが、医者は自分の通ってきた道だから、きっとわが子にもできるはずだなどと思いがちなのだろう。医者になるという目的を持っているのは数人にすぎないが、健気に勉強に取り組んでいる姿がいじらしい。

高校を選ぶならそのような雰囲気のある学校が絶対よい。同じ目的を持っている仲間が近くにいるということは励みになるから、勉学にも相乗効果があって目的意識も強固になって目的を突破できるだろう。何も将来の目標は医者だけでないから、世の中に役立つような人になりたいという希望に沿ったことを推奨して、学習に励むという内発的な動機を培養してあげることが大切だ。私個人としては、手っ取り早く社会に貢献できるのは医者がよいという気持ちはある。白衣を着て聴診器をぶら下げて、意味もなくふらふらと歩いていたって様になるではないか。しかも世界の人類に役立てる。

出来ることなら子どもたち全員に『医者になれ!』と号令かけてみたいが、それだけの器が私にないからあまり無責任なこともできない。私の尊敬する先輩に医者がいるけれど、その先輩は土浦一高で数学はトップだったらしい。周りの人に聞いてみるとそれほど勉強ばかりしていたとは思えないと言っている。養老猛さんも東大医学部へ進んだけれど、少年時代は虫捕りばかりやっていて、その標本作りに毎日を使いきっていたというし、同じように身近にいる優秀な人はよく遊んだ話ばかりしかない。没頭して遊ぶということが大切なのだ。中国の諺に『小医は病を治し、中医は人を治し、大医は国を治す』というのがある。世を正すことも医者の役目だったことがあるのだ。チェ・ゲバラも医者で、革命がはやっていたころには医者が登場する。

正義とは何だ

正義=善ではなかろう。正しいことが正義だという論拠はない。公平なものが善であるとは言い切れない。人それぞれに自己主張の根拠を持っているからだ。子どもが生を受けて、幼稚園に通っているときは間違いなく性善説であるが、徐々に大人に近付いてくると性悪説に近付いて、性悪説を認めざるを得なく。人間の本性である欲望が自分自身を取り囲んだ時に、善悪の意識を超越してしまうのだ。社会に警察や軍隊があるのは性悪説に基づいている。大人になると善悪で物事を判断することが難しくなって、利害得失に決断を迫ることになるのは、これもまた人間の持つ本性なのか。正義を振りかざして生きようとすると、『世間(流れに)に掉(さお)させば流される』ことになる。『とかく世間は住みにくい』ものなのだ。

私の幼児教育から小学校での子育て論は正論である。正論であるという根拠は、発達理解と実践記録によるものだ。だからと言って、これがすべての人たちに押し付けられるものではないことは十分承知している。正論といえども、だれにでも当てはまるものではなく一般論に過ぎないものだからだ。正論がいつでも正しい善であるとは限らないということになるけれど、しかし、だれかが正論を声高らかに言い続けていなければ、必ず世の中のうねりは楽な方の道を探し出すだろうし、それが常態化されると真実に変わってしまう。真実はあくまでも正論の中にあるというのが私の持論だ。

子どもたちの発達は肉体的な発達と心の発達があるけれども、肉体的な発達は現象的に顕著に表れるからとても見えやすいけれども、心の発達は幼児期から9歳までは良く見えるが、10歳ごろになると見えにくくなる。それは何度か言っているけれども、他者評価ができるようになってくると同時に、その評価を自分の中に閉じ込めて自分個人の秘密にしておくという、親からの独立宣言みたいな発達があるからである。女児の場合は男児よりも発達が早いので、よくよく観察していないと子どもに出し抜かれてしまう。子どもたちの独立宣言は、児童期にある。正しく対応できるように心がけていよう。

私はある市の『子ども子育て会議』に出ている。子どもを産んで子どもを預けられるようになるのは産休が明ける3ヶ月後からである。まだ赤ちゃんは目が見えない時期だ。子どもも母親も可哀そうで不幸な境遇である。これが経済大国を誇った日本の子育てに関する国家の政策である。本来母親が安心して家庭で子育てが出来るというのが国家の政策でなければならない。子どもを産んで間もなく仕事に就かなければならない人は、保育所へ。そうではなく家庭で子育てができる人は家庭で。そして3歳になったら幼稚園へ行けばよいというのが現在の方向だ。否、家庭にいる母親を無理やり仕事場に引き出している。これは正義でも善でもない。建前と本音というご都合主義である。豊かな国家では決してない。子どもにとっては母親に育てられるというのが至福である。

初等学部で昼食の時間が終わると、6年生が一目散でオアシスの方向へ走っていく。何をするのだろうかと思っていたら、たまたま担任が通りかかったので『6年生どうしたの?』と聞いたら、『鬼ごっこです』とこともなげに答える。こんなことが好きなんだ。確かに子どもというのは、陸上競技でもないのに、むきになって走りだしたりする。私らの年になるとこの行動が意味不明で、ただ疲れるだけという受け取り方しかできない。6年生が鬼ごっこをしていると、何とも迫力がある。

教育の基本は幼児教育

教育そのものを人格の育成と知識の培養とするならば、その基本的なことは幼児教育にあるのだろう。人間の生活様式は小学生でも幼稚園の園児でも全く変わらない。生活の中に小学校では文字を使った『教科書』が配布され、年間時数が文科省によって決められているが、人間の営みは変わるものはない。幼稚園の中にもちょっと発達の早い子による『いじめ』に似たようなことが起こることがある。しかしそれらは幼稚園の中で解決できるようにしている。そんなものに特効薬はないけれど、ひたすら注意深く『見守る』ということで、子どもたちは自然にそのような事象でも乗り越えていく。そのような復元力みたいなものを持っているものだ。

何日か前のあおば台幼稚園の保護者からのお話がブログに載っていた。幼稚園から帰ったわが子の顔が少し腫れているので『どうしたの?』と聞いたところ、友達のA君が何かを振り回していて、それが顔にあたったらしい。それでもわが子は『でも先生に言わないで、A君叱られると可哀そうだから』と言ったので、思わず母親の方が涙でむせいでしまったという。人を思いやる心が芽生えてきているわが子に感動したり、つたない言葉で自分の気持ちをはっきりと伝えることができたという成長に思わず涙ぐんでしまったのだろう。

子ども同士の出来事は、子どもの中でしか本当の解決は出来ない。保護者がこのようなことを聞きつけて先に幼稚園に解決を迫ったら、親もまたこのようなわが子の成長に気づくこともなかったろうと思う。子どもの心の成長の殆どは、親の知らないところで育つものだ。子どもを信頼して見守ることが出来ると、子どもの発達がよく見えると何度か書いたことがあるけれど、今回の幼稚園での保護者のブログもそれを証明している。子どもを愛するが故に、子どもの気持ちまで感情移入してしまうと、当然子どもは見えなくなってしまう。子どもを思う親心は仕方のないところもあるけれど、そのようなことも差し引かなければならない。

小学生の心の発達についても、幼児の発達を観るスタンスと全く同じである。子どもを見、寄り添う基本は幼児教育にあるのだ。子ども同士で何かぶつかり合いがあると、ある程度の心の葛藤の先が読めるので両方の子どもの様子を『見守る』様にしているが、保護者の方が敏感に反応して来ることもあるので、子どもの心の葛藤を観察するゆとりがない。何が起きても学校でそれを把握していれば問題は起きないものだが、当事者である子どもの保護者であれば、そんな悠長なことは言ってられないのだろう。それもまた親の愛の表現だ。だから一般的に言われるネグレクト(無関心)などは、この学校では無関係である。しかしもっと大きくなって、思春期を迎えるころまで親が入り込むような状態だと、それが子どもにとってはネグレクト(分かってくれない)となる。

教育の神髄って何だ?

学校教育を受ける者、そして教育を授ける者とに分かれるが、実はこの両者は分かれてあってはならないもので一体でなければならない。一体であるということは同じ方向を向いているということで、同じ思惑の中にいる。ここでの『真髄』は『真理』と置き換えてもよい。平たく言ってしまえば何のために勉強するのかという疑問に、噛み砕いて説明できるかということだ。子どもたちの永遠の、大人たちへの質問でもある。大人たちは即座に『自分のためだ』と答えるのが一般的らしいけれども、これを子どもたちが自分の中に取り込んで反芻して理解するのには難解である。大人は経験知の中で話をするが、子どもには宇宙の大きさを測るようなもので理解できない。

何故幼稚園に通ったり、小学校とか中学校へ行かせなければならないのか。保護者は周りの人たちがいくから、わが子も後れを取ってはならないなどと、臨戦態勢に入っている様な言葉では応えないだろう。わがこのためにの一念であることには間違いがないけれども、押しつけているわけでもない。それが社会通念となって誰もがそのような行動をとるようになっているからだ。しかし日本ではそうであるけれども、幼稚園などには世界の同年齢で幼児教育を受けられるのは10%に満たないのだ。小学校へ通える子も半分に満たない。幼稚園や小学校へ通えるというのは地球上でも選ばれた民なのだ。

まあそのようなことを頭に入れといて、何故幼稚園に通うのか。全日本私立幼稚園協会では、幼稚園を『子供が初めて通う学校』というような位置づけでいる。学校というより『子供たちのたまり場』の方がしっくりといく。多くの不特定多数の子たちと混ざり合って、人と関わり合う術を体得してほしいと願い、人生における基本的なスキルを磨いてほしいと願っている。そして、友達ができてその子の名前が出てくると親も歓喜する。全く親子ともに正常な心の発達である。この状況を『はぐくむ』というのだろう。そんな状況だから、親子ともに多くの事柄に対して寛容である。子どもたちからその時に寛容さを学ぶ。

そうはいっても小学校へ入ると、『教科を学ぶ』という新たな取り組みがあって、それについて保護者は他を意識するようになる。子どもたちは、できるとかできないとかいうことには無頓着で、全くマイペースで大らかである。何故学ばなくてはならないのかという疑問は、小学生の低学年では起きてこない。自己評価も他者評価も何となくできるようになる9歳から10歳のころだろう。そんなことは全く考えずに飄々と学問に打ち込んでいる子もいることは確かだ。そんなことを意識させずにひたすら学習できるという態度は驚嘆に値するだろう。そのような子を含めて、子どもたちが幸せになってくれるように願いながら学校や幼稚園がある。

人間として生を受けて一番その子らしく生きられるということは、自分の人生を自分で選択でき、周りの支配を拒絶できる知識と自信を得ることだ。親からも誰からも支配されるということを敢然として拒否することだ。自分の生きざまを自分の力でコントロールできるということは素晴らしいことだ。支配されるということは、奴隷になるということだから、拒絶して自分を一生懸命生きなければならない。そんな自由を得られた子は幸せである。米国で南北戦争が終結したとき、奴隷であった黒人が『次に生れてくるときに奴隷であるならば私は躊躇なく死を選ぶ』と言ったという。

講演会決まる

保護者会役員から要望のあった堀真一郎先生をお招きしての後援会がほぼ確定した。当初は10月下旬の土曜日ということを指定されていましたが、堀先生のスケジュールが一杯で、11月7日ということになりました。また当日は和歌山から出て来るというので、午後からの講演となります。午後1時から3時までということで、幼稚園の保護者も動員いたします。幼稚園の子どもたちは小学生とかかわって遊んでもらうようにします。勿論所々に幼稚園の保育者を配置いたします。初等学部の教師は全員が聴講いたします。講演後には質問をお受けいたしますので、できれば堀先生の書いた本を読んでおいたほうがよろしいかと思います。

堀先生は卒論で『デユーイ』をやると決心していたけれども、ニイルのサマーヒルスクールを知ってニイルに傾倒していったと言っています。教育学を学んだ学生の卒論の定番が『デユーイ』であったり『ピアジェ』であるので、ニイルに対してよほどのインパクトがあったのだろうと思う。堀先生は、霜田静志先生の『ニイルの思想と教育』を読んでビックリ仰天したと『ニイル選集5』のあとがきに書いている。何をびっくりしたのかというと、①授業に出る出ないは子どもたちの自由 ②全校集会で5歳の子も校長も同じ1票 ③校長が、盗癖のある子を連れて真夜中にニワトリ泥棒に入るなどである。『ええっまさか!』という驚きや疑問がやがて『なるほど』に変わったと述懐している。

徐々に自分も学校を作りたいという気持ちが高まっていって、現在の『きのくに子どもの村学園』ができた。日本という土壌では、自由はあこがれのことばであるけれども、『自由』という発想や思想はなかなか受け入れにくいところがあるので、学校を作ってみたけれど理想と現実のはざまで想像以上の問題が山積したのではないかと推察している。何かをやりとおすのには、自分のゆるぎない信念が何よりも大切なものなので、どんな暴風雨に出会ってもしっかりと舵を握って、意見を聞いても流されてはならない。へりくだったり妥協したりせずにぶれてはならないものだ。おもねることも絶対にない。この孤独さを乗り越えられなければ何も残らないのだ。

私が学校を作ると約束したのは,今から11年前の卒園児たちとのことだった。卒園してそれぞれに幼稚園を離れてしまう泣きじゃくっている子どもたちに、非常に感傷的な動機にすぎないけれど『先生も小学校作るから』と言ったことから始まってしまったのだ。発心正しからざれば万業空しというけれど、子どもたちとかかわり合う職業にある者が、自然体で発した言葉なので、発心は全く正しいと思っている。そしていつか『約束は守るためにある』と子どもたちに言う。

幼稚園の先生

昨日は14時から幼稚園の夏の研修の報告会と、それに伴う研修を行った。1年生の保育者からも活発な意見や感想が聞かれたので、よく育っているなという感じがした。幼稚園の保育者と保護者の距離は子どもを通して非常に近いところにあるから、互いに理解しやすいし、信頼を醸成していくことが案外容易にできる気がする。また幼児教育に関して理解しようとする保護者が多いということも幼稚園運営に関して容易にならしめている。親父クラブの活動にしても、かゆい所に手が届くような気の利いたものである。保護者と幼稚園が一体となって同じ方向を見ているようだ。

何年か前だか忘れてしまったけれど、はじめて保育者になってあおば台に務めた女性が年少の受け持ちになって、慣れないこともあってしょっちゅうへまをしていた。保護者からも聞えよがしに私のところへ苦情が入ってくる。勿論担任の保育者に直接小言を言わないで、主任に苦情が寄せられていた。主任から私のところへ保護者の苦情が伝わってくるのだが、そのようなことは私は殆ど無視していた。そんなときにある保護者から保育者にダイレクトに手紙が届いた。内容は『私もお母さん1年生です。先生よろしくお願いいたします』というものでとても短い文章だった。彼女はその手紙を何度も何度も読み返し、握りしめたまま保育室をしばらく出て来なかったが、目を真っ赤にはらしながら職員室にやってきた。そしてその手紙を私に渡すと『わーっ!』と泣き崩れてしまった。思いつめていたものを一気に吐き出したようだった。

大卒でも社会人1年生なんていうものは、人生見習いの初歩の初歩である。社会人を何年も経験した者が高い目線で見ていたら、初歩の一歩が踏み出せないだろう。1年生に寛容なのは当たり前のことで、近くにいる大人が当然とらなければならない態度である。社会人1年生というのは感性も豊かで敏感でもある。だから自分がどのように見られているのかを、すでに見抜いている。大人が子ども時代があったということを忘れてしまっているように、また初めて世の中に出て不安でいっぱいだった自分を忘れてしまっていることがままある。わが子には寛容で優しいけれど、他人には厳しく寛容にはなれないということだろうか。それでは人は育たないのではないでしょうか。

それでその保育者はどうなったのかというと、保護者にも子どもにも好かれる素晴らしく明るい立派な保育者になった。それはそれとして、学校に来る時には多くの田んぼを通って来る。どの田んぼの稲穂も重く頭を垂れているけれど、学校の近くへ来て我が校の田んぼを見ると、まだ稲穂がはっきりと見えない。茎が丈夫そうにまっすぐに伸びている。茎が黄色く変色している田んぼもあるのに、1カ月も遅く田植えをしたのだからと言い聞かせても、やはり気になる我が家の田んぼだ。雨が降ると田んぼの水を気にしなくてもよいので、雨はありがたい。

1年生と6年生の作文を読ませていただいた。ともに二人ずつで、女性の作文だ。鋭い感性と、文の構成力に優れている。文節もすっきりしていて、読むのにつっかえたりしない。素晴らしい能力だ。大切に育んでいってほしいものだ。大人になったらどんな文章を書くのだろうか、今からが楽しみである。

もう一度昔のこと

昔の海軍の寮は松班と竹班に分かれていて、その間の端に独立した多分賄いの部屋だと思うが、その家が改造されて私の家になっていた。竹班も松班も木造の二階建てで、真ん中にだだ広い廊下があってその廊下を挟んで個室がある。その個室が引揚者にあてがわれていたのだ。何人もの家族ではひと間しかないものだから息苦しくなる。それでも住む家がなかったから雨風さえしのげれば文句は言えないという状況であった。その大きな木造の寮だったところは相次いで火災で焼失したが、焼失した後はみんなどこへ行って暮らしていたのか知らない。その火災で何人かが焼け死んだ。

私が小学校低学年の頃に、寮の焼け跡に新しい住宅が立った。すると何処からともなく、かつて寮に住んでいた人たちが戻ってきて、新しい家に住みついた。私の家はあいも変わらず夜でも月がよく見える快適な家であった。台風が来ると大きな重たそうな石を父親が前に抱えてお勝手の下屋の中央に置いて、屋根の樽木の間に幾重にも縄を巻いて大きな石にくくりつけて風で飛ばされるのを防いでいた。台風が来る旅に私は、父親のサバイバルな力強い姿を見ることができて、そのたびに誇らしかった。『武士は食わねど高楊枝』は仕方なく言わざるを得なくても、私は父親を尊敬していた。

5時から土浦幼稚園協会の会議があるので、今から出掛けなくてはならない。

わらのお家

わらのお家を作りたい。そしてそれは『婦ー!と吹けば飛んじゃうようなおうち』。どうやったら作れるのだろうか。とりあえず骨組みを作らないと形にならないので、いくつかの提案をした。分かったような顔をしていたけれど、空間座標の中の話は理解できるはずはない。そして『作って見れば分かるよ』と行ったら1年生から5年生までの子どもたちが首を縦に振ったので、やってみようということになった。昨日は竹取りに行って、今日は骨組みを作るのに、取ってきた竹を縦に8分の1ぐらいに割った。その時の子どもたちの真剣な顔・顔・顔。

人間が初めて道具を手にした瞬間である。子どもたちは道具を使いこなすと言うことが大好きで、そのためにはいくら時間を使っても構わない。何時までも何時までもやっているだろう。そしてまた道具が変わると、我先にとその道具によってたかって近づいてくる。文明はこうした人間の好奇心の蓄積によって開かれてきたのだと、人間誕生の数万年前の類人猿の時代に思いをはせることができる。このような状況の子どもたちなのだから、あまり先を急ぐことはあるまいと、つくづくそう思う。人間形成はゆっくりと醸成していくものである。わらのお家はしばらく時間がかかるだろうけれど、だれもが納得できるものにしていきたい。

昔のこと

私は戦後生まれだから戦争を知らないけれど、敗戦後の荒廃した節度のない社会を体験している。節度のないのは大人も子供みんながそうだった。私の生まれたところは昔からの農家の部落である。しかしそこの村の生れであった父親は、決してその部落になじもうとせず、むしろその人たちに染まることを拒否していたのではないかと思う。かたくなで閉鎖的な社会が嫌だったのかもしれない。だから満州からの引揚者が新しく住んだ海軍の宿舎を改造してそこに住んだ。私の家だけは寮とか宿舎とか言われる建物とは別棟の建物を改造して住んでいた。村の実力者が世話をしてくれたのだろう。別に独立してあるというだけで、まったく粗末なもので、夜になるとあちらこちらから月の光が洩れて家の中に差し込んでくる。

私の部落は満州からの引揚者の部落で、旧村の人たちから貧乏部落とか言われていた。私は子ども心にもその意味がどんなものであったのかをはっきり分かっていたけれど、別に卑屈になることもなかった。誰もが同じような生活をしていたからだ。ある時私の部落の人たちが集団で農作物を荒らしまわってしまって、それが多くの人たちの知るところとなり、駐在所のお巡りさんが部落の何人かを駐在所に呼んで注意をしたそうだ。それ以来わが部落の名称は『泥棒部落』に変更された。

その名称に激怒した父親は、毎晩素振りを欠かさず行っていた日本刀をもちだして、泥棒部落と名前をつけた農家の家に行って『貴公出て来い!』とやった。狭い農村のことだからみんなが出てきて、父親を遠巻きにして一生懸命なだめようとしていた。当然のことながら村の駐在も出てきて、父親の持っていた日本刀を取り上げてしまった。由緒ある名刀であったので、駐在に懇願して返還してくれるように頼んだが、それはかなわなかった。のちに父親は『まったくバカなことをしてしまった』と悔恨していた。父親は旧村の庄屋の出だったから、どうにも我慢がならなかったのだろう。

私は貧乏に慣れていた。学校へ行っても給食ではなく毎日弁当持ちである。弁当の中身は麦飯弁当でご飯が真っ白ではない。そこに海苔を二段に入れて醤油をかけてふたを閉めて、それで立派な弁当である。他人の弁当をうらやましがる暇はない。昼ごはんになったら一目散にご飯をおなかに詰めて、足らないときには水道の水を飲む。それでも生き生きとはつらつとして生きている。父親は二言目には言っていた。『武士は食わねど高楊枝』。本当はうまいものを腹いっぱい食べさせたかったのだろうけれども、そういって教育しなければならないわけがあった。男として自分の不甲斐なさに何度も涙したことだろうと思う。

指導者の責任

ギリシャの新しい指導者に選ばれたちプラス氏は、緊縮財政を嫌いEU諸国の提示した政策に反対してギリシャ国民から支持を得て当選したものだが、だれもが緊縮策などには反対であろう。しかしそうは簡単にことがおさまることはなく、チプロス氏は自分で責任をとることはせずに、EUが提示した政策を国民投票という形で責任を国民に投げてしまった。ほかに打つ手がなかったろうけれども、当初から緊縮財政反対の立場で当選してきたのだから、国民投票などはパフォーマンスにしか映らない。その分財政出動があるだろうに。

ひどい言葉がある。民主主義を生んだギリシャがまた再び民主主義を取り戻したなどとチプラス氏はのたうちまわっている。粉飾決算を繰り返し、EUを騙し通して来たギリシャが今度は借金を踏み倒そうとしている。デフォルトに陥れば自然に踏み倒すことを宣言するようなものだ。それが民主主義とでもいうのだろうか。若者の半分は無職で国民の25%は公務員だなんて、そんな国だから人は働かないし、歴史という過去の遺産で観光地として成り立っている国だ。いずれにしてもEUからの追加支援がなければ、国家は破綻する。そうなると国民は現在よりももっと苦しい状況に追い込まれてしまうだろう。

日本に目をやれば、憲法論議で与野党ともに議論伯仲している。国家の責任は国民の暮らしと財産を守り、そして他国の侵攻を決して許さないことと、領土を守るというのが当たり前の話である。なのにすぐにでも戦争が始まるようなアジ演説が横行している。私は60年安保の時に、亡くなった東大の学生だった樺美智子さんのことを思い出す。あの時も当時の社会党をはじめとする野党や文化人が『戦争反対!』を叫んで、まじめな純粋な青年が『戦争反対!』のことばにおどらされた。そして反帝学評や、全学連が国会を取り囲んだ。みんな一生懸命に真剣に生きていた。

当時の野党の先見性が間違っていて、機動隊も多くの学生が傷ついてしまった。沖縄の問題でも、あの戦争で多くの市民が犠牲になったのは沖縄ではなく、広島である。戦争に行ったすべての人たちが日本の礎になったのだ。犠牲になったといえば私の父親もそうであるし、身内の人たちが戦争で亡くなっていった。『戦争反対!』はだれでもそうであるし、とても耳触りがよい。そんなことで日本の国は国際的にどうなってしまうのか、『trustme』と言って国を危険に陥れた者がいたではないか。同じ轍を踏んではならない。

育ちは様々

学校で子どもたちに同じように接していても、まったく感じ方の違いで内面の育ちは違う。現象的な育ちというのは、形で表れるものだから、だれか一人が右と言えばそれに追随するというのがあるから、一概にだれがどうだとは量りにくい。今日は面白いことがあった。ファミリアの時間に吹けば飛ぶような小屋を作りたいので作り方を教えて下さいと言う。吹けば飛ぶような小屋だから、丈夫に作れないし、骨がしっかりしていないのは組み立てが出来ない。オオカミが来て吹き飛ばす場面だから、頑丈な奴ではだめだという。いろんな話をしていて、屋根を二段階にして一番上のを飛ばせるようにしたらいいという結論である。

小屋の骨組みは竹がいいということになって、具体的な話に進んでいった。1年生の二人も話が分かっているのかどうかわからないが、ノートに小屋の形を書いている。年上の人たちの話は聞いていてもわからないことが多いと思うので、『どう?』と水を向けたら、『やってみればわかるかもしれないからやってみる』というしっかりした答えが返ってきた。非常に能動的な姿が嬉しいではないか。そこでそれでは竹を取りに行こうではないかという話になって、竹取物語だからだれがかぐや姫になるのと言ったら、女の子4人でじゃんけんを始めてしまって、少し楽しい脱線になった。

入れ替わりに、食のファミリアが来て18日の日に行商に出かけたいので周りの道を調べに行きたい、ということで私に許可をもらいに来た。外は雨なのでどうしますか、と言ったら『今行かないと時間がない』と言うことらしく、どうしても行くと言うので車に気をつけてと言うことにして、許可を出した。そこで竹取りに戻るけれども、竹取りのメンバーには『今なら一緒に竹取りに行けるよ』と言ったのに、『今は雨が降っているからこの次にしよう』とのことだった。計画には入っていなかったようで、自分たちの計画が壊されてしまうのが嫌だったようだ。

住のファミリアが来て道具を買いに行きたいので許可を下さいと言ってきた。カナヅチと釘とのこぎりだけでは、出来るものが決まってしまう。ノコギリにも釘にもインパクトドライバーを使うにしても、色々な形の違ったものや、用途の違うものがあるからしっかりと見てきた方がよいだろう。もっとダイナミックなものを作りたくなったかなと思う。子どもたちは創作的なモノづくりが大好きで、やりたい物の中に必ずある。

お泊り会

両園ともにお泊まり会があった。以前は日にちをずらしてやっていたけれども、初等学部を作ってからは同時にやることにした。同じ日にやっても第二幼稚園では外で花火をすることが出来たが、あおば台幼稚園では花火は出来なかった。両園共に外でのキャンプファイヤーは中止となって、キャンドルファイヤーになったけれども、私たちにとってはちょっぴり残念という他の年と比較があるけれど、子どもたちには比較対象がないから、キャンドルでも結構楽しめたのではないか。それに保育者の趣向を凝らした出し物があって、十分すぎるほど楽しんだのではないか。

このところ『度胸だめし』と言う出し物はなくなった。保育者が面白がって?真剣になって、子どもたちが泣き出すまでやってしまった年があって、そのあとで就寝などと言っても寝付かれずに思い出して寝床で泣き出すようなこともあって、『度胸ためし』はやめることにして『夜の探検』などと言ってちょっと気取った出し物にした。何をしても仲間と一緒にいると言うだけで楽しいのだから、満面楽しさであふれている。そして知らずうちに内的な力が備わってくる。『ひとりで泊まれた』ということは、子どもたちには大きな自信になるものだ。

小学校でも同じことが言えるだろう。親から離れるということだけで、否が応でも子どもの自立を助長させるものだ。もっとも兄弟の多い家庭では、万遍なく全員に気配り目配りができるわけではないから、自分自身で何とかしなくてはならないと気付いた子は自立が早い。だが実は気配り目配りが足らないということではなくて、親がじっと見守っているということもある。何度も書いたことがあるけれど、自立する力が自尊感情を高める。自尊感情が高まると、自己選択と自己決定を容易にさせてくれる。間違った道を選ぶことはなく、その抑止力になるものだ。

今日はPTAの役員会がある。毎月1回は行うようにして学校と役員との意思の疎通を図ろうというものだ。お泊まり会の後なので少し眠いけれど、あと少し頑張ろう。

研修詰め

昨日から水戸で泊まりがけの研修である。先月の29日には東京市ヶ谷のホテルで研修があった。幼稚園関係は、このところ制度の変更があって研修が多い。今まで手慣れた県の職員が事務手続きをしていたので、それほど繁雑には感じなかったが、認定子ども園や施設型給付と言うのが新たに加えられたため、事務手続きが各市町村に下ろされた。各市町村の職員も初めてのことだから、見当がつかないのか右往左往していて保育料の振り込み手続きが遅れている。このような法律ができたのだから、そのための研修会を開いて市町村の職員も危機管理に備えるべきであったろうに。何もこれは茨城の話ということではなく、全国の市町村に波及している現象だ。

認定子ども園に関する勉強会に勢いを感じるが、このまま幼稚園側が手を打たないで放置していくようなことがあると、幼稚園が無くなってしまうのではないかという危惧がある。そんなことを29日の全日の集まりで全日の会長に話をしたところ、『いやそれは絶対にない。今幼児教育振興法を提出して、幼児教育を確立していく』という返答であった。幼児教育というのは、幼稚園・保育書・認定子ども園・家庭教育に関するもの、地域社会に関するものとすべての幼児に関するものである。これは官僚の作文であって、全日のスタッフの発案ではないから、どうなるものだかわからない。幼児教育振興法が真に幼稚園のためのものであるように祈りたい。

新しい教員を連れて、知事との懇談会に出席してきた。知事と同席して忌憚のない打ち解けて話し合いが出来たものと思う。知事の仕事はストレスの多い仕事だと思うけれども、さすがにそのような素振りは全く見せない。知事がたまたま幼児教育に造詣が深いものだから、茨城の幼児教育界は有形無形にその恩恵にあずかっている。助成金や補助金を戴いても当たり前のように思っている輩がいることには、少しばかり腹の立つこともあるが、私が腹を立ててもしょうがない。しかし困った時には声を大きく張り上げるのも彼らだ。そのような人は何処の社会にもいるものだ。

今日はあいにくの雨模様だけれども、幼稚園のお泊まり会である。雨だろうが何だろうがそのような集まりがあると言うだけで子どもたちは喜んでいる。雨なら雨のように楽しくやればよい。キャンプファイヤーができないけれども、どこか時間を作ってやってあげたらいい。楽しみが増えるということだ。

オリンピック後

ファミリアオリンピックは強行して行われたのではなく、天候は朝の模様以上には崩れないという予測の上で始まったものだ。結果的には最後までやれてよかった。ただファミリア独自の種目が、結構良いことをやっていたにもかかわらず、本校関係者にしかお見せすることができなかったのが残念である。とはいってもメインステージ以外の方にも見てもらうとなるとどうすればよいのかという宿題が残る。終わったばかりだから、次回のための話し合いの時間はいくらでもあるので、よくよく考えてより良いものを作っていきたい。

幼稚園の子どもたちの行儀の良さを多くの保護者からおほめの言葉をいただいた。幼稚園の保護者からも、初等学部からの保護者からも。とても嬉しいけれど、保育の実態が分からない人には唸るほど素晴らしいと言うように映るかもしれないが、それにはそうなる指導が行きとどいている。保育者の指導のお陰だと行ってしまえばそれっまでだが、まず初等学部に来るまでの何日かで、興味を惹きそうな話をして導入の部分を丹念にやる。年長だけの人数をひとどころにまとめて、15人前後の教師がひっきりなしに声かけをしているのだ。自分の両親よりも興味を惹くではないか。何処へ行っても、どのような場所でも『寄り添う』ということが定着している。

オリンピックが終わってからが忙しかった。あくる日の日曜日には翌日の午前3時までかかってあおば台・第二幼稚園・初等学部の三か所の予算書を作り上げた。今回は幼稚園の法の制度が変わって支出の法は分かるけれども、収入の方がさっぱり分からない。市役所自信がてんてこ舞いで、しっかりと理解している人がいない。そんな中で私たちに正確さを求めるのは酷ではないか、などとぶつぶつ言いながらだから時間がかかる。そしてその日の午前中(月曜日)には、グランドヒル市ヶ谷で全日の研修だ。この研修は自分で求めていったものだから全然眠くはなかった。

昨日は初等学部へ視察に、県の総務課から二人の係官が来て学校を見ていった。その中の一人は、幼稚園行政のベテランの方でよく知っている方だったので気軽に学校のすべてを見てもらった。総務課へは色々な情報が行っていて、私とお話をするときにも時折笑みを浮かべながら大変気を使ってくださっていた。そして『人数は大丈夫ですか?』即座に『気にしていません』と言ったら笑っておられました。小中学校の一貫教育が国会を通りました。これは初等学部を作る時からの私の要望でしたので、あとは県がどのような判断をするかであります。だがまだ書類は提出していませんが。これから水戸で知事との懇談会がありますので水戸へ向かいます。

ファミリアオリンピック

朝3時半に目が覚めて外に出てみたら霧雨模様であった。ヤフーの天気予報が信じられなくなった。それからと言うものは寝付かれずにうとうととしていたら5時過ぎにTTから電話があり『どうしますか?』ということだった。テレビでの天気予報では、霧雨のような雨模様も9時には上がり、あとはくもり空が続くと言うことであった。雨が上がるということだから、決行しようということで決断した。しかしスタートしてからも霧雨は続き、幼稚園の子どもたちももうすぐ集まるのに、困った空模様である。良かったことは熱い日でなかったので、子どもたちの体調の心配はいらなかった。

朝から駐車場係をしていただいたお父様方に感謝いたします。それも用意周到に運動会だというのに合羽持参である。学校行事なるものは、誰かしらが手助けをしてくれないとうまく行かない。初等学部は、子どもの人数は少ないけれども、やることは他の小学校と同じように時間をかけているので、このような日には塚原学園全体で後押しをして盛りたててくれている。幼稚園の先生方や保護者の方にも感謝したい。競技には親子とも出っぱなしという感があって、全く疲れるファミリアオリンピックである。

子どもたちは手抜きをせずに最後までやり抜くと言う姿勢がとても好感が持てる。というよりそんな子供たちが大好きだ。良く見てみると保護者の競技などでも、大人であっても手を抜くようなことはしない。そのような真摯な態度が子どもたちの一生懸命さを育てているのだなと、一大発見したような気持ちだ。子どもたちも、教師も保護者も一つになってファミリアを盛りたててくれた。久しぶりに充足感を感じる。心から感謝をしたいと思います。『ありがとうございました。そしてお疲れさまでした』。

明日晴れるかな?

明日はファミリアオリンピックの予定日であるけれど、明日は何処の天気予報を見ても晴れるような気配はない。朝から天気予報とにらめっこであるけれど、にらめっこをしても予報が劇的に変わることはなくても、何とか変化をして欲しいと願っているのだ。お昼ごろには出来ないだろうと言う結論を出して、幼稚園には日曜日に延期すると伝えてしまった。ところが午後3時半ごろにヤフーの天気予報では明日は曇りだと言うことを幼稚園から行ってきた。慌ててヤフーを開いてみると確かに雨マークが消えている。3日前から天気予報を気をつけて見ていたけれど、どうにも土曜日は助かりようがなかった。これもツキなんだろうか。

普通ならば学校行事は家庭行事よりも楽しみにするというのがこの時期の子どもたちの普段の心理状況である。仲間関係が優先するということもあるけれど、みんなの前で両親や家族の方に自分の晴れ姿というか、自分がしっかりと仲間の中(社会の中)でも堂々といると言うことを認めてもらいたいのだ。それは成長を確認して褒めて欲しいという願いでもあるのだから、どんな失敗をしようが、良いところをしっかりと見て褒めてやってほしいものである。それが大きくジャンプするきっかけにもなることは確かであるのだから。学習態度にもよい影響を与えることになる。

6年生が校内で行う宿泊学習について2月に延期するということを言ってきた。みんなで話し合ったらその時期が一番よいということになったらしい。なるほど素晴らしい民主主義である。強い者の意見がまかり通るなどはない、大人よりも内面が育っているではないか。人数が少ないから、周りがよく見渡せるのか、細かいところまで報告をしに来た。これで修学旅行一本に絞れるなどと言っているらしいが、行き先のブリーフィングを忘れないようにと釘を刺しておいた。釘を刺したつもりだったが、彼らはすでにその準備に取り掛かっているようである。

昔『今を生きる』という映画があった。主人公の教師はユダヤであったのでナチスドイツから迫害を受けながら、子どもたちに自分の心のままを一生懸命行きなさいと言い伝えている。しかし何度も親の中傷で、生きざまを変えなければならないことがあった。最後には自分を生きることの素晴らしさを体得し、ナチスに連れて行かれる教師の後姿を子どもたちが見送るといった映画であった。多分保護者の皆さんが少年少女の頃の映画であって、中には見たという方もおられるだろう。だれかに生かされているのではない、自分自身が生きているのだということを強く主張できる子どもであってほしいものである。

GW 何をしていましたか?

私には長い休みは、退屈の何物でもありません。日曜日からの始まりだったけれども、最初の日曜日は幼稚園で事務的な仕事をしていた。静かだから仕事がはかどると言う考え方もあるでしょうが、幼稚園で事務的な仕事をするときには子どもたちがいる日が多く、園長室でしている。その時には子どもたちがいるので、子どもたちの声をBGMにしているので、子どもたちのいないあまりにも静かすぎると、どこか落ち着かない。自分で決めたやるべき範囲の仕事を終わらせると、その次にやることがないので読書にふける。これといった趣味がないので大困りだ。

次の日には『風に立つライオン』という映画を観に行った。とても良い映画だった。これは実話に基づいて、さだまさしが書いて歌を創ったものだということを聞かされた。素晴らしい日本人がいて、自分の器の小ささに瞬間落胆するけれど、間髪を入れずに勇気を戴けるというものである。そして次の日にはかつてから気になっていた柚子の木の消毒である。昨年は1枚残らず葉っぱを小さな黒い虫に食べられてしまって、一つもならなかった。これで大丈夫なんだろうなと、半ば信じられずに消毒をした。

その次は庭の草取りである。実は草取りは女房が3日もかけてやっていた。申し訳なかったが、私はかがむと腰が痛いのと、痛くて長続きしないので、代わりに夕食の支度をしたり風呂の用意をしたりしていた。私は料理をしたりするのが好きだから、何ら問題はないし、風呂の用意なんて言ってもボタンを押すだけでいいのだから、草取りから考えれば何とも代わりになるようなものではない。それと草刈りの燃料も買いに行ってきた。うちの場合には家事に拘ることは婦唱夫随である。

今日は30年ぶりにスクールバスの運転をした。初等学部では初めてのことだ。子どもたちの待っているバス停に近づくと、ドキドキするような新鮮な感じであった。この子たちを大切に育ててやりたいと思う。幼稚園のバスを運転していた時には、みんな話をせずに前の握り棒をしっかりと握っていたが、初等学部の子は私が運転していようといまいとお構いなしで、子どもの世界の世間話をしている。とても微笑ましく、そういったことが社会人になるためのスキルを磨いているのだなと感じ入った。帰りのバスも頑張っていくぞ!。

私用で立川へ行って来た。常磐線が東京駅までノンストップで行けるようになった。全ての電車ではなく、通勤時間帯は品川まで行くらしい。とても驚いて、夜でも新橋あたりから常磐線に乗れるのかと思いきや、それはないらしい。夜でも乗れなければ生真面目な通勤時間帯だけでは、私には恩恵がない。それに久しぶりだから、昼食を思い切って特盛りのラーメンを注文したら、特盛りの姿には納得したけれども、レピーターにはなりたくないような味で、自分には合わなかった。ラーメンにも、自分に合わない味があるということを初めて知った。

台湾灯篭流し

台湾で初めての灯篭流しが行われた。私も両親が終戦後に住みたいと言っていた場所なので、灯篭に両親の戒名を書いて、台北の隣の市の川まで団体のバスに50分ほど揺られて参加してきた。広い河原があって、そこで地元の人たちが1万5千人、日本から約1千人強の人がその河原を埋め尽くした。灯篭は合計1万基が流されたと言っていました。
      
この日はあいにくの大雨で、ちょっとした間に雨がやんで、地元の大学生のサークルが演奏してくれた。大雨の影響でせっかく作った灯篭が雨に濡れてふにゃとなってしまっている様子。この人たちに傘を借り、椅子を借り、合羽を借りて無事に灯篭流しに参加できた。周りは立錐の余地がないほどであるが、せっかく親切にしてくれた親子に申し訳ないので写真を撮って後で礼状を書くつもりでいる。大雨が降りしきる中で、じっと待っていたわけだが、その途中で『みんながんばれ!』と応援してくれているのか、雁の群れが、大空を、私たちの頭上を飛び越えていった。すごい大きな鳥に見えた。
      
上の写真は灯篭流しが終わった後の様子で、奥の両脇に赤く輝いているのが灯篭で、さすがに一人一人の先祖の明りだけあって、喜んで輝いている様であった。前後してしまいますが、私の灯篭は雨に濡れて散々だと思っていましたが、中には身を挺して灯篭を守ったという方もおられた。そのくらいの気持ちで先祖に対しての感謝を表さないといけないのだろう。思い出したので合掌して先祖に謝る。右側にあるステージで法要が行われた。
      
これはオプショナルツアーで焼き物の街へ行ったときに、偶然小中学校の前を通った時にきれいなモザイクがあったので写真に収めた。子どもたちが作ったような、大人が作ったようなどちらともとれるようなものであるが、あおば台でも子どもたちと一緒に作ってみたい。
      
この上の写真が校門であって出入りは自由ではない。曲者は絶対に入れないという。この門の右側が中学校で、左側が小学校であった。中学校の塀の壁はなかなか難しいモザイクでできている。絶対に作ってみたい。楽しいだろうな。

集会に参加した

掃除の時間が短いのではないかと言うことが下級生から提案された。上級生からは、『ちゃんと集中してやらないからだ』という意見があって、結局現状のままに落ち着いたけれども、私としても現状では少し短いかなと思っている。この学校はクラスが離れていたり、特別教室が離れているので、移動の時間だけでも下級生にして見れば時間が過ぎて言ってしまう。私が裁定を下すわけではないので、子どもたちが決定したことを尊重しながらも、下級生を思いやる考え方を示唆してあげる必要があるのではないかと思う。子どもたちの思考は柔軟だから、すぐに吸収してくれる。

6年生に『素晴らしい6年生へ』という私からのメッセージを渡して私が読み上げたことがある。そこで、好きなだけ勉強して好きなだけ遊ぶには時間が足りないと言うことも話をした。6年生にとっては同感であったのか、今度学校に泊まりたいと言って来た。すかさず1日ぐらいではただの遊びになってしまうから、最低1週間泊まれるようなら許可しようと言っておいた。まずお母さんの許可を取らないと、という話をしたら『めんどくせーな』ということを言っていた子もいる。子どもたちが自分で決断して、自分たちで1週間の計画を練るのはすごいことだ。

どのような計画が出て来るのか今から楽しみにしているが、昨日の話では7月にやることにしたと言うことを聞いた。それはなぜかと言うと、5月は連休が会ってみんなで話し合う時が少ないそうで、6月はファミリアオリンピックがあるのでそれに集中したいらしい。そこで比較的暇になるのは7月だと言うことだ。『何が比較的暇なのだ』と子どもたちの思考回路を覗いてみたくなった。結構語彙も増えてきたので、会話が面白くなってきた。さてそのようにやると決まったら、教職員のローテをどのようにするか頭が痛い。楽しみにしていることだから何とかしたい。

私が政治的なことを書くのは、この国の中にいて教育に携わっているからで、思想的には右でも左でもない。ただ自虐的な日本人には決してなってはならないと子どもたちに伝えて行く。若いころ、とはいっても21か2ぐらいまではマルクスの『労働価値論』などを読み気取っていた。その方がカッコ良かったからで、馬鹿馬鹿しい本だと気付いたのにはそうは時間がかからなかった。私は社会に出るのが早かったから、そんな悠長なことは言ってはいられなかった。そのあとはジョン・スチュアート・ミルの『自由論』に感服した。今は雑多な本を読んでいる。