初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

卒園式・卒業式そして終業日

初めて初等学部で卒業生を送り出した。たった6人の卒業生であったけれど、初
等学部も卒業生6人の家族のおかげで、一つの歴史を刻むことができた。地球の誕生の黎明期は、9次元の世界があったとされている。どのような世界なのか調べようとも考えようともしないけれど、想像ができないようなものであったと言われている。ましてやたかだか初等学部の黎明期は、何があってもおかしくはない。地球の誕生との脈絡はないけれども、何かが生まれようとしているときには必ず予想もしないようなことが起こるものだ。

あおば台幼稚園では、卒園式の後に「ありがとうの会」を開いてくれた。保護者が記録として撮ってあったDVDの中や言葉の中に、「ありがとう」や「大好き」という言葉がふんだんに盛り込まれてあって、素晴らしい甘美な感激に浸ってしまった。こちらこそ「ありがとう」と言う感謝の気持ちでいっぱいである。最後のお父さんの一本締めで終了したけれども、あのお父さんは何かと先頭に立ってやってくれた人だ。最後の子どもが卒園し、自分自身での一本締めでもあったろう。淋しくなるよ。

あおば台でもそうだったように、第二でも泣かされた。私は初等学部もみているので、子ども達と本気で関わりあうときは「立派な年長」の時ぐらいしかなく、卒園式になると本当に申し訳ないという気持ちになるけれども、保護者はそんなことは気にしていない様子で、またまた申し訳なく思う。ハイレヴェルな職業にあるおやじたちの、ローレヴェルなAOB83の踊りを見せてもらったが、本当にここまでやってくれるかという、笑わせられたり泣かされたりと、感動に次ぐ感動であった。

あおば台でも第二でも多くの保護者に感謝されて卒園式を終えたけれども、実は私たち保育者こそ、素晴らしい保護者に出会えたことに感謝しなければならないだろう。あの二つの幼稚園は保護者の思い入れが強くあって、その力で運営されているようなもので、私たちが本当のサポーターであるという理想的な幼稚園である。私は初等学部の子ども達に「矜持なる心を持て」と教えているが、私の誇りとするところは、保護者と言う人間の温かみである。私は生涯これを抱いて生きていくことができる、幸せな男である。

ちなみにAOB83や、ピカチュウグループにはオファーをかけておきました。またあの人たちに会えると思うと、私ばかりではなく第二の保育者も感動である。

原発事故

原発事故が起きた時に、当初はこれほど大きな事故であることを想定できなかった。と言うのもNHKが中心となって全国に流したニュースは、毎日著名な学者を招いて安全保安院とともに大した事故でないことを装っていた。NHKの真面目なアナウンサーも、まことにこれを信じ切って学者のいいなりであった。核納容器の図面を取り出し、「メルトダウンはない」と言うことを言っていたわけだが、だが実際にはメルトダウンはあった。しかも初動作業によっては、これまでに至らなく未然に防ぐこともできた。

放射能の拡散も、外国メディアの方が日本よりも早く出す始末である。真実を隠蔽し続けた結果が、ちょっとしたほころびで重大な局面を作り上げてしまった。不安が不安を呼び風評被害が拡大して行ってしまった。茨城の西の方でも、葉ものの農家の人たちが泣いていた。トラックにホウレンソウを山ほど積んで、東京へ出てきたが、茨城の看板を見るなり客はみんなそっぽを向いた。現場で生のまま食べてみせるが全く反応がなかった。

福島県はこの風評のおかげで、農産物は出荷できないのではないかと言われている。食べ物のみならず、先日も書いたけれども人間まで拒否されてしまった。福島県民は、それでもなお我慢を強いられている。またそれに耐える忍耐強い県民だ。その忍耐に我々は甘えてはいけないのではないか。とはいえ一体私たちに何ができるのだろうか。福島の温泉につかったり、スキーに行ったり、福島特産物を買ったりと考えては見るものの、なかなか実行には移せないでいる。

幼稚園は最後の保護者会の運営委員会も終了し、いよいよ幼稚園の卒園式を迎えるばかりとなりました。あおば台は200人弱の保護者を取りまとめ、第二幼稚園は220人強の保護者をそれぞれに取りまとめて頂いて、大変ご苦労なさったこともあったことだろうと思いますが、無事に次年度へ引き継ぎをなされたことと思います。ご苦労に対して、心から感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。

東日本大震災

1年前の昨日、午後2時46分に大地震と大津波が東日本を襲った。私はたまたま、初等学部の6年生の海外語学研修の打ち合わせに、グアムを訪れていた。ホテルの部屋に帰りテレビを付けたところ、日本の大船渡だか釜石だかに、海からの海水が街を飲み込んで走っている様子が映し出されていた。まさかこれがライヴだとは信じられなかったので、だからと言って何をどんな目的でこの映像が流されているのかも、全く知る由もなかった。

そのうちグアムにも津波が来るというニュースが流れ、初めてこれが真実なんだと言うことが分かった。携帯から、いくら日本に連絡を取ろうとしても全くつながらなかった。夜になって初等学部の女教諭から第一報が入って、子どもたちはみな無事だという安心した雰囲気が伝わってきた。そのあとで女房から連絡が入り、幼稚園の子ども達は、みんなで園庭に出て肩を組んでうずくまっていたという話であった。話を聞いているだけでも、すごい地震だったというのがひしひしと伝わってきた。

それにしてもテレビに映し出されている津波の速さが、どうしても信じられなかった。何度も同じ映像を流しているので、そのままベットに腰かけたまま見ていたが、はっと我に返り明日の帰りの飛行機はどうなるのかということに気がついた。フロントデスクに電話をかけるが、ここもいっぱいでいつもお話中である。フロントまで下りて行き、確認を取ってもらったが、成田行きの全便が欠航でこれからの出発は未定とのことである。徐々にことの重大さが身に迫ってきた。

あくる朝になると、16日にジャンボを飛ばして残った客を拾い上げるということだったが、それまで待たなければならないという歯がゆさは言葉に表せない。まったく一方的にと言っても、こちらは何ともすることができない。居ても立っても居られないので飛行場まで行って、航空券を見せて何とか早くできないかを折衝した。何もできるわけではないけれども、日本がどうなっているのか心配でならなかった。そこで何とか14日の飛行機で帰れることになった。

飛行場に着くと、津波と原発の話で、テレビでも人々の会話でも持ちきりであった。グアムのホテルにいた時も日本に帰って来て家でテレビを見ていても、ただオロオロしているばかりだ。一旦家に戻ってきたにもかかわらず、会社が心配だと言って出て行ったまま帰ってこなかったと、全身力が抜けたように話している奥さんの表情がまだ自分の脳裏には残っている。役場の仕事で、他人のお世話をしながらわが子と女房を探していた夫のやり切れない表情もまだ残っている。あの人は見つかったのだろうか・・・・・。

そして昨年の一文字は「絆」であった。絆を感じると言った人が多かったからで、今はそうではないかもしれない。瓦礫の処理にしても断る自治体が多い。それは放射能汚染の問題をからんでいるからというけれど、原発から遠く離れているにも拘らず何故そんなことを言うのだろうか。きちんと測定されているのに。

山梨かどこかで、福島から来た子の保育園入園を断ったというニュースがあった。無知もはなはだしいではないか。無知と我欲が交錯していて、いつか人間は恥を忘れてしまう。「もったいない」と言うのが素晴らしい言葉として世界に広まったが、是非とも「みっともない」をまずは国内に広めようではないか。

騒ぐな!私はここにいる

何か変わったことがあると騒ぎ立てる者がいる。必ず震源地があるわけだが、震源地が当事者で、それに近いところにいるものがその仲間である。学校は何ら揺らぐことはない。いたって平穏で波一つない、カーム状態である。波を立て波を作るそばにいると、やがてその波と一緒に揺れ動くことになる。何があっても不動心であることが一番である。ここには子どもたちがいる。分別のない大人の濁った心で、その手で近寄ることを禁ず。

ここは学校だ。学校には子どもたちの心を育む神聖なものがある。それを育てていく義務が私たちや保護者にある。そのことを無視したりその邪魔をする者は、ここから出ていかなくてはならない。当たり前のことだ。どうも勉強さえできれば社会での優位性を保てるという風潮が根強くある気がする。そんな失敗は当の親たちが経験していることではないか。そうでなくとも社会を見渡してみればわかる。

人間にとって、何よりも大切なことは恥を知ることだ!。矜持の心がない者に優位性などバカな話はない。金があっても使い方が分からない者、金がなくて金持ちに媚びる者、いずれも根底にあるのは意地汚さである。何がなくても現状で満足し、周りに感謝ができる人間の心が一番澄み切っている。私たちはどのような仕事をしていても、人間が評価されるのではなく職業が評価されているので、偉くもなんともない。職業も人間性も同じように評価されればそれに越したことはない。

そういった意味では人間は平等だ。しかし福沢諭吉が言ったように、学問をいくら積んだからと言っても「心の持ち方で卑しくも貴くもなる」。私はこの学校を立てるとき、あのスペインの哲学者オルテガの言う「精神的貴族」を目指していこうと決意した。これは経済的に貧困である私にも、立派に生きられると感じたからほかにない。保護者も自らの姿勢を正すべき。子どもには勉強だけさせといて、自分は何もやってもいいということにはならない。子どもは慎重に親を見ている。そして教師も。

良くも悪くもその結果は必ず現れる。善因善果で悪因悪果である。何度でも言うけれども子どもは親を見ていて見抜いているところもある。小学校の高学年になれば、言ってもいいことや言わない方がいいことなどをきちんと分けている。子どもの顔にも、笑いの中にふと陰りがあるときもある。そんな悲しい思いをさせてはならない。

親の言い分を聞く

親の言い分を聞くと言っても、私の耳は今手術中で良く聞こえない。このまま聞こえなくても何ら問題はなさそうである。私の古い友人や先輩方は、「どうせ人の意見は聞かないのだから、今のままでもいいんじゃないの」と言っている。しかしこれは間違いだ。聞こえていても頭の中で即座に取捨選択できる技術を、自然な形で取得してしまっているのだ。だから聞いていないのではなくそれに答えないだけのことだ。

しかしそうは言っても、保護者が聞きたいという事柄については、正確に丁寧に説明する必要があるだろう。まず絶対に変えないのは、当たり前のことだが理念である。その他には絶対にと言うものはない。子どもの様子を見て、カリキュラムを変えたりもするし、急きょ時間割を変更したりもする。通学バスの路線は、4月に決定したものを1年を通して運行する。途中での変更はしない。給食については現行を維持する。幼稚園給食とあるのは、幼稚園で作っているからで量的なものは小学生に合わせている。

また幼稚園給食は、管理栄養士のもとで非常に食材に凝ったものを使用しており、幼稚園では保護者に喜ばれている。初等学部では全給制度をとっており、どうしても不満だと言う方は弁当に変えても結構ですが、途中で変更はできません。それに人事の件での批判はご法度です。また事前に人事を探ろうとすることもご法度です。もう一つ絶対的なご法度があります。それは教師と保護者との癒着です。

何人かの質問を受けております。保護者の方もわが子の将来のことですから真剣にならざるをえません。忙しいのはお互い様ですが、私は原則としてお会いしてお話をすることにしています。質問は責任者である私が受けてお返しいたします。結果として決裂してけんか別れになるか、それとも方向性を理解し共有できるか真剣にやりたいものです。話をする際にも基本的なことは子ども達の幸せへの道程です。価値観が違えばかみ合いませんので、主題からかけ離れた会話しないようにしましょう。

あおば台幼稚園では、保育について異議あるものは異議は言わなくてもよいから退園するように言い渡してあるので、問題が全く起きません。私立だから自分に合った幼稚園を探せばよいことです。これはなにも私が威張っている訳ではありません。保護者はそれぞれに意見を持っていて、しかし全員の意見を集約はできないだろうと言うことを理解しているからです。それでいておやじたちもみんな仲がいいのです。

青葉台初等学部は児童が少なくて経営が大変だなどと、まったく余計なお世話である。私を信頼して下さる保護者がいて、私を慕っている子どもたちがいる。これ以上のものはいらない。そのような人が一人でも二人でもいれば、私は命がけで信頼に応えるだけだ。経済的なものは後から必ず付いてくるものだ。そう信じているから、全く心配はしていない。

両幼稚園の年長が小学校見学に来た。最初は緊張している様子だったが打ちとけるのが早い。初等学部の児童もみんな幼稚園生とは違うんだという意識が高く、よく面倒を見てくれる。特に6年生は職場見学で幼稚園へ行っているので「○○ちゃん覚えていてくれているかな」と言って、子ども達を探している様子もあった。6年生もよく子どもたちの名前を覚えているものだと感心した。今日は寒かったので熱く蒸した肉まんがとてもおいしかった。

立派な年長違反第1号

立派な年長ではない行動をとった子が、教師に賞状預かりとなった。第一号である。毎年ある現象だから、そうなったからと言っても心配はいらない。むしろそのような子によってクラスが一丸となったり、仲間関係がより一層深まったりもする。その原因は何かと言えば、まったくどうでもいいことなのだが、この時期はそういった細かい心の動きをどうでもいいと捨てきれないところに、幼児期教育の深みがある。

まずどうなって賞状が預かりになってしまったのかを、保育者も一緒に子どもたちと話し合って共通理解をする。それでは賞状はいらないのかそれとも必要なのかを子どもたちに議論させるのだが、全員が絶対に必要だという。そのころになると一号君は声を出して泣き出してしまうが、周りの子は一号君の肩にそっと手をかけて慰めようとするが、涙は止まらない。大体まだまだ自己中心的なところが強く残っている年齢だから、何をどうしようか、どうすればよいかの結論を出すのには時間がかかる。

一日置いて園長との話し合いになった。私の前に現れたのは一号君と彼を応援した男女4名の仲間たちである。園長室で、賞状をもらうときと同じように、私の前に並んで「賞状を返してもらいにきた一号です!」という。それに続いて「応援に来た○○です!」と全員が言う。「それで賞状は返してもらえるの」と聞くと、一同がうなだれて沈黙に変わる。皆は園長先生に「一号君は立派な年長だから賞状をあげてください!」と言ったけれども、本当は違っていたのかと言うと、「仲間だから返してほしいんだ!」と言う。

じっと子ども達を見ていると、一人ずつ涙をためながら懸命に訴えている。花粉症のために近くにおいてあったティッシュボックスを差し出すと、めいめいにそれをとって涙をふき出した。一号君もこれには耐えられず声を出して泣きだした。そして私は賞状を一号君に返すのではなく、応援に来た4人の仲間に返すことにした。それで全員が納得したようだった。子どもたちの心は本当にきれいだから、濁っている大人が悪戯にもてあそぶようなことにならないように心した。

初等学部も3年を過ぎようとしている。何をするのでも3年や4年は無我夢中で気が付いたら月日が流れていたということが多い。新しいところは特に雑音が多いのも、世間の習わしだ。世間は無責任だから、言い放題で粗さがしの名人でもある。弾が飛んできたり、矢が飛んできたり、槍が飛んできたりもする。これはよけてばかりいるとやがて当ってしまうものだ。時には跳ね返したり、飛んでこないところで一休みもしなければならない。

何を言われても何をされても動じない心境が大切だ。いわゆる不動心だ。私は自分で作った初等学部には夢がある。その夢は入学説明会のときに何度も説明をしてきたし、保護者とともに共有できると確信を持っている。だからこれから先も決してぶれないし、めげないし、負けない覚悟が十分にできている。私がフラフラしていたら、子ども達に何が残せるというのだろうか。子どもを守り、健やかに幸せの方向へ向けてやるのが私の仕事であると、強く認識している。

兵隊

『内憂外患交々来る』というのがある。まさに言いえて妙である。世の中はいいことばかりではないけれど、そう解っている上にまたまた内憂外患交々来てしまう訳だ。その繰り返しが人生なのかもしれない。毎日ニコニコと笑顔で暮らすことは至上の歓びだろうが、そうはいかない方が人生の長い間には、多分多い。それでも書物などには「わが人生悔いはなし!」などと精一杯の強がりを言ってご臨終というのが多いのは何故か。精一杯の人生への皮肉なのか。

水木しげるさんは、初年兵としてラバウルへ行ったが、彼らを最後に新しい兵隊は誰もラバウルには行かなかった。だから水木さんはずっと初年兵のままでラバウルで終戦を迎えたことになる。定かではないが2年ぐらいはいたらしい。毎日ロッキードの爆撃にさらされ、うまいこと弾に当たらずにいたけれど、小隊で移動の最中に現地の組織に襲われ、仲間とは生き別れ、三日間もジャングルの中をさまよっていた。椰子をとりその中の水でのどの渇きを凌いだ。

地上戦で交戦する前は、毎日陣営作りと小銃の手入れに飯盒洗い。たまに上等兵のふんどし洗いもしたらしい。そして気に入らなければビンタが飛んでくるという毎日の生活だ。しかも自分より新しい兵隊が入ってこないのだから、やられっ放しだ。そんな毎日を暮らしていて、自分のいた小隊が全滅になって三日もジャングルをさまよい歩きやっと日本軍の兵舎にたどり着いたら、「小隊が全滅したのに何故生きて帰ってきたのか!」と怒鳴られたそうだ。人間不信になったとある。

戦争とはとんでもないことである。兵隊のそのような生活は何も日本ばかりではない。他国の兵隊もとんでもない生活を強いられたことは、外国の戦記にも色々掲載されている。ただ日本は武士道というのがあって、精神論が前面に強く出されるので困る場合もある。竹やりではどうやっても戦闘機には勝てないだろう。その精神を鍛えるのにビンタがある。これは兵隊にだけあったのではない。戦後の学校はどこもかしこもビンタばかりだった。ビンタは手っ取り早い統制である。

ビンタでもしなければ統制のとれない男どもは今でもいるが、こんなことで言うことを利かせても空しくなるだけだ。あれは統制ではなく、統率者の欲求不満のはけ口ではなかったのかと思う。水木しげるさん生きて帰ってきて本当に良かったと思う。結構要領が悪くて、誰よりも多くのビンタを頂いたらしいけれど、生きて帰ってきてくれてありがとう。これからももっともっと生きて、素晴らしい作品を残してほしい。

汐見俊幸先生とその御一行様が青葉台初等学部を見学に来た。早速できたばかりの桜の木の上のバンブーハウスにのぼり、子ども達と記念写真を撮っていた。川を作った時の土山の上に上がっては、ニコニコしながら下を向いて楽しんでいる。川を見て「夏には必ず来るぞ!」とニヤニヤ。私よりも年寄りなのに子どものような感性をお持ちでいらっしゃる。あの中央教育審議委員の先生が・・・・とても親しみやすいお人柄であった。松永先生は第二幼稚園の子どもたちの前で腹話術をして遊んでくれた。いつもいつもありがとうございます。

もう一つついでに

中等教育学校(中高一貫校)にしても、小中一貫校にしても、大体3つぐらいの形態がある。ひとつ目には同一敷地内に同一校舎の中で生徒が授業を受けるという形と、同一敷地内に小中高の生徒の校舎が併設されてあるというものと、学校が同一敷地ではない提携という形をとるものがある。だから土浦にできた真鍋小と第二中学校の関係や、つくば市の幼少一貫にしてもどのような目的と配慮があるのかをよく調べることが必要だろう。

今日は初等学部の6年生があおば台幼稚園で職場体験学習をしている。年少から年長まで各2名づつの配置で行われている。事前に各クラスの現在の子どもの様子や、各学年の狙いと活動などがプリントされている用紙を渡してある。幼稚園の保育者が、6年生のために一生懸命作成したもので要点がしっかりと書かれてある。そのプリントを今日見せてもらったが、プリントそのものを全部暗記したとしても理解するのは困難だろう。むしろ面喰ってしまっているのではないか。

まず活動の中に6年生は入れないだろう。小学生が来てもあおば台の子ども達はべたべたとまつわりつかない。自分たちでやることがあるから、6年生を気にかけていられないのだ。だからほとんど無視されているだろう。自ら入っていこうとしないとだめだと言っても、高校生でもなかなかできることではないので、6年生にしてはよく頑張っている。

そうこうしているうちに6年生が帰ってきた。開口一番「あ~あ疲れた」「幼稚園の先生は大変だ…あ~あ先生にはなれない」と溜息交じりに言っていた。「みんなのお父さんお母さんは毎日働いているよ」「仕事をするということは大変なことだ」というと無口だった。それでも中には楽しく遊ぶことができたと感じている子もいるはずだ。いずれにしても初めての体験だろうし、有意義であったことは間違いない。

小中一貫教育Ⅱ

私がやろうとした小中一貫教育をさらに高等学校も併設して、幼稚園から高等学校まで考えていることと、市町村が考えている教育課程の編成と理念についてはまったく異なっているもの
である。はっきり言えばこのたび建設されたつくば市の小中一貫教育の理念が見えてこないので何とも言えないが、保護者のみなさんは中等学校〈中高一貫教育〉と混同して理解しているのではないかと思う。小中一貫教育は人間形成の、主に内的な成長を重点的に行う学校であり、中等学校は、それに大学受験を加えたものである。

公立における中等学校は市立中学校と県立高等学校の併立で、原則中学校登校範囲によるもので、学力的な選抜試験は行わないのが通例である。また高校入試のための学力試験もなく、まさに中高一貫教育である。私は、小中一貫教育と中高一貫教育の違いを解りやすく書いたが、これは理念であって私がそう思っていることなので、それがそのように定義づけられたものではない。また公立における中等学校の入試の形態を書いたけれども、選抜制の私学では入試が必ずある。

私言いたいの、はつくば市にできた小中一貫教育に関して、周囲の保護者は色めき立っている節があるけれど、今までの小学校や中学校となんら変わるところがないと思うので、ゆっくりとその推移を見守ることの方が賢明であることを伝えたいのだ。表札が代わっても、中の住人が変わらないのだから、何も変わらないのと同じことではないか。私が小中一貫校を建てた時に「なるほど」と思われるような学校を作る。

青葉台が何故今中学校を作ることができないのか。県の総務課の役人が、私に「教育基本法の学校種に記載されていないからできない」といったことは明らかに間違っている。小中一貫校は現実にあるし、その辺のところは県も理解している。設置基準の中学校の生徒数にしても480人以上というのは、これまた現状から全く遊離した基準であるということが県が理解されていない。しかも県知事の認可であるから、頭の良い知事が現状を認知してくれれば解決することである。

一番の難題は、学校運営が初等学部だけで展開できない現状である。借入金はともかくも月々の固定費が生徒納付金で賄えるようになれば、すぐにでも県に申請を出すつもりでいる。お金がないからできないということではない。経済的に裕福になるのを待っていたら、あの世にいってしまう。生涯無理な話だ。この学校が数字の上だけでも回転してくれれば小中一貫教育はできる。私は「できる」ということしか考えていない。いつできるのかは言えないが、期待して頂いて結構である。

このように前を向いているときには闘志がわいてくる。ちょっと振り返って幼稚園に目をやれば、ある年中さんの言葉に『私はもう赤ちゃんじゃないの…子どもになったの』と言ったことを保護者から聞いた。こんな子ども達に囲まれている保育者は幸せだろうし、私も幸せだ。もっと幸せ感の充足しているのはご両親だろう。幸せになってほしいと心から願っている。

昨日初等学部の餅つきのためにかまどにくべる薪を作ってくれた。若いお父さんの振り上げた小野が、丸太を真っ二つにする『カーン』と言う気持ちの良い音が鳴り響く。さすがに若いお父さんは躍動的である。その周りに6~7人のお母さんが、それと同じようにやろうとしているのを見かけて、そのパワーは認めるけれどやめてほしいとお願いした。彼女たちは割れた薪を手際よくまとめ、その周りをすっきりとしてくれた。幼稚園も初等学部もよく動いてくれるお母さんたちだ。一緒にいる仲間たちという実感がある。心から感謝している。

小中一貫教育

小中一貫教育は学習指導要領等によらない特例制度を活用したものの取り組みとして、構造改革特別区域として全国で17件、研究開発学校制度として全国で22件ある。いずれも平成18年4月現在なので5年前の資料である。最近近隣市で小中一貫教育をうりものにして設立された学校があるが、市町村独自でそう決めたからと言って小中一貫校として国としては認めてはいない。しかも何の理念のないところで、そのような学校ができたからと言って何の意味があるだろうか。

新たな教育課程の編成や、カリキュラムのあり方が何を柱になされているのかを確認する必要がある。小学校と中学校を併設したからと言って、にわかに子ども達の質が変わる訳ではない。公立にあっては初めての取り組みだとしたら、まず教師がその理念を徹底して頭に叩き込まなければならない。一人一人が機関車のけん引のように、自ら率先してその理念を広げるくらいの情熱がなければ、絵に描いた餅になってしまう。

このようなものは、私が小学校を作るときに小中一貫校を目指していた時に学んだものである。県の担当官は、小中一貫校は作れないと何度も私に繰り返し言っていた。その理由として、教育基本法に則った学校種の中に小中一環と言う学校が記載されていないからと言う理由であったが、「それは違う!」と言い切れないものが私の中にあった。そのような議論をして、初等学部建設に支障があってはならないという懸念があったからである。

いくつもの障壁に出会って、そのたびにそれを超えるたびに何度もへりくだった姿勢でいた自分が、今思うと情けないと思う。小中学校9年間の子ども達との生活は魅力である。誰が言い出したのか2・3・4年という教育課程の編成などが一般的であるけれど、子ども達の発達理解や、発達心理から行くとこれはどうも違う気がする。私は1・2年生は全く別の世界があると思っている。4年生の発達は人としての自律のときで、混沌とした自我からはっきりと独立する時であるように思っている。

それでは3年生はどうするのかと言うと、4年生に近づいていると言うより、2年生に近い一番のヘッドであるので、1・2・3年生は一つにくくってもいい。4年生から中学1年まで、はっきりと自我が独立した4年生から思春期までを人間として修練を積む。本来は中学2年生から高校1年生までをくくりたいのだが、中学校までであると中学2年生と3年生をくくる。学問と異性について両立させなければならない大変難しい時だ。いずれにしても、選抜のある私学でないと小中一貫は難しいだろう。

現在の青葉台初等学部では、私の考えている小中一貫校の教育課程の編成のようにはいかないけれど、幼児教育から学んだ発達理解を基礎に、子どもたちの心の育ちを十分に理解して、6年生までの間の育ちをどこにも負けないという自負心を持って、共に生活していきたいと願っているしそう努力していきたい。中学校を建てるという信念はいささかも後退していない。むしろ毎日少しずつだが燃え広がっている。それまでは死なないし、心配ない。

保育参観

両園ともに年少の保育参観が終了した。一日一日成長していくわが子を見て、ご両親もさぞ目を細めて見つめているのだろうと察する。母親がわが子を見つめてほほ笑んでいる時の姿は、至福に満ち満ちている。子どもも、また母親も生きていることに満足している姿だ。子どもも多分、生まれてきてよかったと、言葉で表すことができなくても五感を通して十分に感じているはずだ。あのにこやかな柔らかい笑いは何物にも代えがたい至宝だ。

急がずに、一瞬一瞬を大切に、親子でいるときの流れを体中で感じて、共に幸せに暮らしてほしいと祈っている。いずれにしても時間が止まっている訳ではないから、この先色々な物や人に出会ったりし、仲間関係などや、他者との関係についても学んでいかなくてはならない。だからと言って先取りするようなことはやめて、今を大切にすることが将来において伸びやかなゆとりのある人間性を構築することができる。ゆったりと育てられた子は、他者に寛容になれるのだ。

自分とわが子に自信を持って生きていってほしい。自分には何が足りないとか、具体的に他人と対比してあれこれと欠点を探るような愚かなことをしてはならない。どのように努力しても完璧と言う訳にはいかない。私たちは、神や仏に優らないようにできている。だから全くの不完全だ。だからこそ、助け合い支え合わないとうまく世の中を渡れないようにできている。自分ばかりが足りないのではない。私も隣の人もみんな不完全だ。子を思う親心は、だれにも負けないではないか。それでいい。

今日は唐揚げ定食を作ると言う約束になっていて、幼稚園からトンで返して初等学部に来た。からりとキツネ色よりも濃く揚がった鶏唐は、子どもたちの大好物だ。だから誰も無口になっておいしそうに食べている。私のとっても嬉しい時間だ。こんなことができるのも今のうちだろう。何人ぐらいまでできるのか挑戦をしてみるけれど、100人を超えたらここに厨房を作って私は引退だ。早くそんな日が来てほしいものだ。

危機管理

何度か人生の中で危機に直面することがある。これは誰もが経験することであるが、その時自分はどのようにして、その危機を乗り越えてきたかということは、殆ど覚えていないのが実情であろう。人間て不思議なもので、不幸に陥った時のことはあまり具体的に覚えていない。そのせいなのか、災害を未然に防ぐ方法をテレビなどで盛んに言われているけれども、それでも防ぐことはできない。

油断と言えばそれまでだが、油断しているという自覚はないけれども、まさか自分はそのような目には合わないという根拠のない自信がある。時には根拠のない自信が必要な場合もあるが、ことが社会的現象に及ぶ場合や、広域的な災害などは、自分だけを避けて通っていくことはないだろう。これからは解決しなければならない社会問題が山積している。いつも人任せにしていると、いつしか取り残されてしまうことになるのではないかと危惧している。

日本人は従順というかお人よしなところがあって、問題が身近に起きても誰かが解決してくれるだろうと、なるべく自分の問題というようには取り合わないようにすることに慣れている。良いことなのか悪いことなのか、それが見て見ぬふりをする学習に一役買っている。余計なことを言って、火の粉がわが身に降り注いでくるのを避けようとする。孫子の兵法、「君子危うきに近寄らず」である。しかし「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という諺もある。

TPPの問題を何度か書かせて頂いたが、私が何を言ったところで反映されるものではないけれども、問題意識を持ってその推移を見つめていくことは大切なことだ。自由貿易の拡大で日本はどうなったのかを、生きた教材として子ども達に伝えていくのは、私たちの責務である。大きな社会事象のうねりが子ども達を巻き込んでいく。その時に、どの位置に立っていればよいのか、正確な示唆を与えることができることが肝要である。自分はそうありたい。

米国はオバマ政権になって、3兆ドルの赤字を作った。ポピュリズムに徹した結果である。その赤字になった分を印刷してばらまいたものだからドルは暴落した。日本も負けずに印刷して円をばらまけば多分円高は防げる。ドルを印刷して株投資に回すから株は下がらないけれど、雇用統計は改善されないし、主要産業の住宅建設についても斜陽である。今や米国国民がドルに不信感を持っていて、ニクソン以来の金本位制に戻す動きすらある。米国が咳をすれば日本は風邪をひくんだ。

栗ご飯

食べ物の話ばかりで恐縮であるが、今日はあおば台で栗ご飯を作ってきた。みそ汁の番だけしていたのだけれど、一応は私が栗ご飯を作ったということになっている。ご飯は塩加減を、みそ汁は味噌の量と味付けが私の仕事である。それでも子どもたちが来て「園長先生ありがとうございます」と言っていく。全く得な役割だ。各クラスに配膳をして食べ始まると「世界一おいしい!」という声が聞こえる。大したことがなくても、子ども達はありがたいものだ。

子ども達に派手に喜ばれると、サンマもやって見るかという気にもなってくる。保育者はやる気でいるようだ。幼稚園の先生の素晴らしいところというのは、子どもたちの喜ぶことをするのには何でもやってのけると言う、母親の根性にも似ているところだ。「面倒だ」とか「大変だ」というような、逃げる態度が皆無だ。お嫁さん候補ナンバー1であった時代があったが、頷ける話だ。ちなみに現在のナンバー1は看護婦である。まったく余計な話であるが・・・。

TPPは直接的に国民の暮らしに影響する。だから慎重にならざるを得ないが、今ごろなぜ唐突にこの問題がクローズアップされているのか。どじょうが、アメリカ大統領と約束してきたのではないかという噂もある。いつも米国の人気の落ちた大統領は、様々な手段を使って友好国に難題を押し付けてくる。矜持の心を持たない軟弱日本は、いつもカモにされている。国際貢献しろと言われて、大変な額を国際連合に拠出もしている。本来拒否権を持つ国が、その大半を担うべきではないか。

TPPの問題と言われているのが4つある。医療の問題、郵政簡保の問題、農業問題、公共事業の問題である。医療の問題としては、国民皆保険が自由診療となると崩されると言っているが、よく分からない。郵政簡保の問題は、株式を公開しろと言ってきて、多分外国人が参入してくるだろうと言うことだが、そんなもので郵政簡保が崩れるとは思えない。農業問題は深刻だ。日本の農業が壊滅状態に陥るだろうと言っている。いわゆる日本農業は米国に太刀打ちできないと言っている。

関税が撤廃されたら日本の農業は全滅という。関税のおかげで農業が成り立っているということを、堂々と言ってのける神経の麻痺状態。その分だけ国民は高いものを買わされているのではないか。彼らを助けるために、国民は余分にお金を出しているということを感じてほしい。公共事業に外国の参入を認めてほしいと言っている。この辺は良く分からない。日本の事業者が困ることはわかる。色々あるけれど、なぜそんなに性急にしなければならないのか。もう少し周知徹底した方がいいのではないか。そう思う。

レンコン

昨日話した「あしながおじさん」のところから頂いたレンコンの量が、ハンパじゃない。見た目には驚くような感じではないけれど、いざ料理に使うとなると、あるわあるわで天ぷらにすると言っても「どうする?」と顔を見合わせるほどのもの。頂いた10分の1ぐらいのものを洗って皮をむいて、厚いもので5ミリ程度のものだが、それを早速天ぷらに揚げる。カラッと揚げて早速口に頬張ると本当においしい。ついでに色々なものを天ぷらにするのだが、レンコンは全て完食で残らなかった。

あの量のレンコンを、どのようにして子ども達の腹の中に入れるかが問題である。何とか子どもたちが喜びそうなものを発案して、どうにか完食したい。私にとっては最高の嬉しい悩みだ。まったく欠食児童の時代を生きてきたものは、食い意地が張っている。戦後間もない頃、食うに食えない状況があちらこちらにあった。しかしみんな歯を食いしばって何とか頑張ってきた。私の家の両親もその部類で、新しい教科書を買うどころではない。まず食わなければならなかった。

勉強ができないのを教科書のせいにするつもりではない。生活保護世帯が、あの戦後のひどい時期よりも増えているという話を聞いたので愕然としている。生活保護世帯というのは、屈辱的なものだから、誰もがそこへ手を出さないで頑張ってきたから、戦後の復興を早めたのだともいえる。今は生活するにも格差があって、富める者と貧者との差があまりにもあり過ぎると言う。本当だろうか。かくて、生活保護を受けるのは、各部落に1世帯あるかないかであった。その世帯にはテレビも電話もないのだろうか。

あの時期よりもひどい時代になっているなどと到底思えないし、全く夢の中にいるようである。だとしたら、この現況から抜け出るには大変である。それはこれから来そうな世界大恐慌である。EUの債権の問題に端を発し、ギリシャの次はイタリヤである。イタリヤはGDP比率で120パーセントであるにもかかわらず、その震度は大きく、フランスでは赤字削減に国が動いた。日本はGDP比220パーセントである。必ずEUの債権を抱えている国には、少なからず近い将来不況の大波が来る。

子どもたちの将来を希望の持てるようなものにしてあげよう。さんざん60年以上も生きてきた者は、将来のある者のために余生を生きていこうじゃないか。もっとも先ほどの生活保護世帯が増えている話では、どこから進めてよいのやら困ったものである。私たちは将来を見据えた上で、子ども達に生きる力を授けていかなければならない。これからが大人として真価を問われる時だ。保護者も、私たちも共に腹に力を入れて頑張っていこう!。レンコンのように、先が見えないのが悔しいけれど。

美味しい昼食

今日は焼きそばだ。焼きそばの日は、幼稚園も初等学部もたくさん食べるので、あおば台にある厨房施設では、飽和状態になって作りきれなくなるので、初等学部の分は私が作ることにしている。いつもはみんな揃ってから学年の係りの子が『いただきます』をしてから一斉に食べ始まるのだが、今日はできた順から食べることにして、温かい焼きそばを食べた。皆がおかわりをするので、大人の60人分があっという間に終わってしまった。最後は1枚のキャベツや紅ショウガを争って食べている。中には『まだ僕は3杯しか食べてない』と不服申し立てをしている子もいた。

こんなに食べるなら1カ月に1回ぐらい作ってあげてもいいと思うが、どれくらいの人数までならできるのか見当もつかない。6年生が近くに寄って来て、驚いたように「わーおいしそう!」とか奇声を挙げて、挙句に「校長先生が焼きそば作りなんて、ほかの学校ではないよね」などと言っている。それが耳に優しくて気持ちがいい。腰が痛くて座りたくなったが、我慢しなくてはという気にもなってくる。早く6年生、違うところへ行ってくれないかな~と内心思っていたら、なんと椅子を差し出してくれた。

作り方のコツを覚えたから幼稚園でもできそうだ。今度手伝ってもらって焼きそば作りに挑戦してみよう。少しでもお母様の弁当作りのお役にたつのなら本望である。まあ今年中には結構行事があったりしてできないかもしれないが、必ず作る。幼稚園では私が食事作りをやることが保育になるけれども、初等学部は授業とは直結していない。食事作りが学校生活の中に位置付いていないということだ。これが青葉キャンプだったらそのまま授業になるのだけれど。

明日は天ぷら定食だ。あしながおじさんのところで採れたレンコンを学校で頂いた。レンコンと言えば正月に食べる酢の物や煮物に代表されるが、私はあの固さ加減が好きになれなかった。しかし家庭科室にあったレンコンを気軽に「天ぷらにして食べてみよう」と言ったことから、レンコンの天ぷらのうまさが病みつきになって「こんなにうまいんだー!」ということになった。その大好きになったレンコンの天ぷらを明日作る。レンコンだけという訳にはいかないので、野菜のかきあげや、ナス、ピーマン、サツマイモといったところも天ぷらにする。

そんなことを書いている私のところへ、4年生が全員で来て「3.14x☐」「この☐の中に16までの数字を言ってください」「暗算で答えられます」と言ってきた。なるほど答えを全部暗算でできるのではなく、答えを暗記してきたのだなと直感したが、一応16までの数字をいくつか言ってみると、全員で楽しそうに口をそろえて答えを言う。のぶTと話していたら、いちいち計算していたのでは試験では間に合わないと言っていた。なるほど、これが一つ上の算数かと感心した。

幼稚園児と小学生

幼稚園の中を歩いていると年長さんは『おはよう!』と元気な声で挨拶をしてくれる。年中少さんは大体まつわりついて来る。そして一方的に話しかけて来て、その話は取り留めもなく続く。主語を言わない話だから、何を言っているのか分からない。それでもしっかりと目を見て話を聞いてやらないとと思ってじっとしていると、話が終わらないうちに「バイバーイ」とか言って離れていく。一生懸命話すことを楽しんで、話し方を獲得する学習をしているのだ。聞いてやらないと話はしなくなる。

年少さんがダンボールでお部屋作りをしていて、出来上がったお部屋で楽しそうに遊んでいる。楽しそうと言っても、入口らしいところから出たり入ったりしているだけで「キャッ!キャッ!」している。そんなものだけれども、とろけるような顔をして、いかにも満足そうに笑っている。不惑の世界の天使たちだ。そんな子ども達を観ながらほほ笑んでいると、そこへ男の子が割り込んできた。思わずどうなるのかとかたずを呑んでみていると、女の子から猛烈な抗議の嵐で、それでも平気な顔をしている男の子は、女の子の実力行使にあって、足を引きずり出されてしまった。

その時に顔を少しこすってしまったらしく、痛そうにして泣きながら私の方を見ている。女の子たちは『大丈夫?』と心配そうに頭をなでてあげているが、気が入ってない。だから男の子は泣きやむ気配がない。まだ私の方を見ているが、私は何も言わずにその結果を見ようとしていたら、女の子たちは全く無視して次の部屋へ移ってしまった。まだ男の子が泣いているので、肩を抱き寄せて言ってあげた。「女の子は強いんだ、お前も強くならなくちゃ・・・なっ!」。男の子は泣きやんだ。

芦田愛菜ちゃんは何故可愛いのか。あのままじっとしていたのでは、いくら可愛い顔をしていてもやがて飽きが来る。あの顔と動きがうまくセットになっているから、可愛さが無尽に果てしなく広がっているのである。幼稚園での子どもたちの動きで、それが確かなものであることを確信した。つぶらな瞳で懸命に動き回る様子は、見ていて飽きないしうっとりするものがある。そのうちじっと見ていると、ひっくり返りたくもなる。男の子はあちこちと破壊し回っていて、うっとりと見られることはこの先もないだろう。可哀そうな一面もあるのだ。同性としては、ただひたすら励ますのみである。

そんなことがあって初等学部に来ると、野球場で子どもたちが遊んでいる。馬小屋の方から見ると、子どもたちが小さくしか見えなくて、ごちゃごちゃと交差しながら飛びまわっているのしか見えない。やがてその子どもたちが教室へ戻ってきた。やんちゃな1年生である。私がクラスに入ると、結構静かに席に着くことができる。そして一人の男の子が「野球場楽しかった人手を挙げて!」と立ちあがって言う。良くある風景である。すると男の子たちが「はーい!」と相談でもしたかのように手を挙げる。女の子はそんなことには無視。幼稚園も1年生男子もあまり変わらない。

学校説明会と入園考査

幼稚園では平成24年度入園考査が行われ、初等学部では今年度最後の入学説明会が行われた。午前中に両園を見てと思っていたけれども、右の耳が全然聞こえないので近くの耳鼻科に行ってきた。そんなことであおば台幼稚園だけを見ることができたが、第二には行けなかった。耳は小さいころ中耳炎をやったことがあるので、それが原因しているという。もう半世紀も前のことだ。どうも水が溜まっていたらしくて、それをプシュッ!と抜いたら少し聞こえるようになった。治療を続けたらもう少し聞こえるようになるらしい。なんだかとってもありがたい先生だ。

学校説明会は、もう何度かやっているので、そのたびに目先を変えたお話を心掛けてはいるものの、引き出しの中が空っぽになると恐怖を感じる。どうせ自分はこれしかないと言い聞かせても、保護者の圧力は凄いモノがある。昨日の説明会で、私の35年の幼稚園園長生活を振り返って、多くの保護者との懇談会や、話し合いから抽出してほとんどの話し合いが母親の悩みの解決であった。そこから、本来母子は向き合って、微笑み返しをしながら、幸せ感を持ったり人生の充実感を持つはずなのに、苦労や苦痛の話ではだめじゃないか。母親が幸せにならなくちゃ・・・・と思った。

幼稚園でも「子育ての基本は何ですか」と問われたときに、私は即座に「母親が幸せになること」と応えている。しかし日本の母親の多くは「私が犠牲になってもこの子だけは」と、野口英世の母親の残像に重なり合わせる。それで野口英世は幸せだったのだろうか。彼は母親の葬儀にも研究で忙しくて出席していない。彼は多分母親に感謝こそすれ、自分が幸せだったなど感じたこともないだろう。

母親の苦労や苦痛な表情を見て、どれだけ大金を積まれても幸せになれる子はいない。母親の笑顔こそ子どもの生きる希望であるし励ましなのだ。もともと日本には「犠牲になる」という概念は存在しなかった。つつましい生活態度の中から、自然に助け合う心があった。「犠牲こそ究極の愛の証である」と言ったのはフランスの詩人。いかにもキリスト教的な発想であるが、私はそうは思わない。人は助け合い、励ましあい、共鳴し、共に手を携えて同じ方向を向いて歩いて行けることこそ、究極の愛の姿だと思っている。「犠牲」はやめよう、周りを困惑させるだけだ。

今日は初等学部の子どもたちは行方郡へハンドボールの試合に行っている。彼らは非常に燃えている。この前の試合で初めて勝ったので、その勢いもある。三島由紀夫の書いた『葉隠れ』に、「死に物狂いという狂い方がある」という文節がある。この時期こそ彼らはそれに没頭できるのであろう。私は幼稚園で事務の仕事だ。これから長い道のりだから勝敗はどちらでもよいが、何か一つでも閃くことがあれば、それこそが大切だ。

TPPに一言。尊王攘夷ならぬ尊農攘夷である。かつて開国派の幕府と尊王攘夷派が戦い、結局幕府は大政奉還を強いられ、事実上攘夷派が実権を握ったが、その展開は思いもかけぬ速さで開国へと向かった。今は平成の開国騒動である。この問題の意見は、この紙面ではとても書ききれない。

ファミリア

ファミリアとは家族と言う意味だけれども、ファミリアで食べる5年生が作る自炊給食は実にうまい。おかわりの列が長蛇の列だ。全児童合わせてもたいした数ではないから長蛇といってもたいしたことはないけれど、1・2年生を気遣う3年生5年生の姿にうっとりする。確かに家族と言う気がする。優しさが育たなければ本物の強さは育たないから、とても良い傾向にある。

昨日1年生と2年生に泥んこパンツの購入を勧めたが、2年生の女児については家族の判断に任せますので強制はしません。大きなユンボがあるので田んぼを造ったり、泥んこプールを作ったりします。

幼少期はなぜ泥んこが好きなのかとのお尋ねがありました。
別に好き嫌いというジャンルでくくることではなく、内面にあるもやを吹き消すには泥遊びは最適です。しかも泥につかって周りを気にすることなくそれに没頭できることは、自己を開放することであります。それは夏にしかやりません。泥のぬくもりと母親のぬくもりを一緒に感じられるのでしょう。そうして気持ちを安定させていくのでしょう。もうひとつ、泥は子ども達の身近にある科学的な道具であるのです。水の加減によってどうにでも変化するとても感動的なものであります。

気持ちを安定させるだけのものなら、泥遊びに限りません。新聞破きや何でもいいから破壊的行動など、塗ったくり。全てストレス解消になるけれども、泥んこプールなどは最高にいいだろう。これは何も幼稚園の専売特許ではない。小学校低学年でも必要なことなのだ。「もう小学生なのだから服は汚さないで!!」などと無理解なことは言わないで。汚してくる服を洗える幸せをかみしめて欲しい。

内面の育ちはその年齢に応じた育ちを大切にしよう。能力はいくら磨き上げても良い。しかし年齢にあった言葉遣いが必要だし、遊びが必要だ。

初等学部のことばかり書いているようですが、幼稚園が基本ですから二つの幼稚園に行って気がついたことがあると、保育者を呼んで耳打ちをします。幼稚園も小学校も大切なことは子ども達が明るい笑顔を保っていること。気になることは一人で寂しい顔をしている子はいないかということです。今楽しいと感じていることの持続こそが幸せになる道です。私達は皆ファミリアですから。力を合わせて楽しく生きてまいりましょう。

やることがまだ残っている

脳梗塞と言う私には無縁だと思っていた病気にかかってしまった。病院に入る10日前頃からこのブログを書いていて変換すると、めちゃくちゃな文字に変換されていて、打ち方を間違えたと思い何度も打ち直しをしてみても同じ結果しか出なかった。多分パソコンが壊れたと思ってそのままにしておいた。

あくる日に続きを書こうと思って、普段どおりにキーを打ってみるとやはりうまくいかない。きっとこれは脳の仕組みが少し壊れたのかとそのろきはじめて思ったが、しばらく経つと治るのではないかと誰にもそのときのことは話さなかった。今度はパソコンの前に立つのが怖くなってブログもそのままにしておいた。

それから4~5日たって幼稚園で保育者にお茶を出されてそのお茶を飲もうとしたが湯飲みが持てずに、湯飲みを下に落としてしまい、湯飲みを割ってしまった。近くで見ていた保育者数名がすぐに車を用意して私を病院に運んでくれた。半ば強制的に有無を言わさず私を運んでくれた。私もよく素直に従ったと思っているが心から感謝している。

病院で自分の名前を書くときにうまく枡の中に入らなくて、自分自身でも「これじゃほんとに参ったな」と思った。即座に入院となったが、ベットの中で「今はまだやることが残っている。もう少し生かして欲しい」と真剣に祈った。

退院して(ほとんど無理やり)学校に来ると、ある子どもから手紙を貰った。「先生がかかった脳梗塞に良い生活」と不ぞろいの文字を並べて私にくれた。最後に「先生のかかった病名はわからなかったのですが、血管や血流に良いことを調べました」とあった。思い出して書いているだけでも熱いものがこみ上げてくる。「ありがとう」。

書きたいことがあふれている

今日の1年生は幼稚園でも通用するようなすごい動きだ。泥んこプールだと言ってわざわざ蛇口をひねって水溜りを作ってその中に飛び込む。ペットボトルに水を入れて頭からかける。泥水の中に飛び込んでいって水しぶきがあがるのがとても気分がいいようだ。まるで幼稚園の年少さんや年中さんのようだ。結構開放できたのではないかと思う。

2時間ぐらいやっていたけれど、担任も一緒になって泥の中を横断したりして、子ども達に泥水をかけられキャーキャーと言って騒いでいる。担任が一緒になってやってくれるので何も気兼ねせずに没頭して遊びに集中できる。幼稚園を経験している教師だからこそできることだ。ブランコに乗りながら「1時間目遊び」「2時間目遊び」「3時間目も遊び」「4時間目も遊び」と節を付けて歌っている。「オイオイいつ勉強するんだよ!!」と私が言うと、全員が私を無視して「5時間目も遊び」と歌いだした。担任が私の隣でげらげらと笑っている。いい風景だ。

子ども達が緊張感を持たないで堂々とそのような歌を歌っていることはとてもいいことだ。このような生活が学校の中にあるということを体感してくれただけで、これからの授業に集中して取り組むことができるだろう。遊びばかりじゃだめだけれど、教室の中にすし詰めにして机上の授業ばかりしていたのでは、こちらのほうが人間の育ちとして害が大きい。

これからこのようなことを頻繁に取り入れていくので、運動着だけでは着ているものが不足してしまいますので、1・2年生にはあおば台幼稚園で取り入れている泥んこパンツを、全員が購入していただきます。幼稚園と同じ1着1400円です。3年生でも欲しい人は連絡帳でお知らせください。泥んこをやるときにはその泥んこパンツをはいてやります。そうするときれいな制服のままで帰ることができます。

もひとつシャワー室が必要になりました。現在井戸を掘ることで業者の人と交渉中です。井戸ができたら水とお湯の出るシャワーを作ってあげたいと思います。男子の場合は外の馬小屋のところにあります。これはもともと馬のために作ったのではありません。今までそのような遊びがなかったために使われなかったのです。これからは両手両足をびゅんびゅん伸ばして生活できる学校づくりにまい進していきたい。シャワーもどんどん使って、勉強するときは一点集中型で取り組むことが必要です。

大きなユンボ(穴を掘る大型重機)を借りてきました。いよいよ池を掘る作業に入ります。池を掘って、川を作ってそこにカヤックを浮かべ、出てきた土で山を作ってそこで子ども達にマウンテンバイクを走らせる。そんなことを友達に話したら「霞ヶ浦を買っちゃえよ」だって。やるといったらやるんだ。子ども達が私のまねをするんだ。途中で決して投げ出さない。子ども達が描いたアスレチックを頓挫させてはならない。見ていてください。

まずは幼稚園Ⅲ

先日幼稚園の子ども達の黒目の美しさを名状しがたい美しさだと書いたがまったくその通りだ。ただの美しさだけではあまりにも軽軽しい。あの透き通った汚れなきむくな瞳はななにものにもかえられない。じっとみつめているとしばし時を忘れる。美しいものに多くの言葉は要らないが、是非にごらなくても良いものならば、そのままそっとしておきたい。

 

まあその話はあとにして。年少の子が最近よくないているのをみかける。その理由は何かというと、それがどうもわからない。多分集団の恐怖から来るものではないかと思っているが、これは集団に馴染めない子が暴発的にふるいたたせるエネルギーだ。だからその力は強くて十分すぎるほどの爆発力だ。これは、幼児が世に出るためのセレモニーだから余りきにしなくても良い。

初等学部のPTA総会

昨晩の雪が朝方にはうっすらと積もっていた。4月に入って今頃に降る雪など私の記憶にはない。この異常な天候。きっと今日の授業参観と総会を天地創造の神までもが一緒になって喜んでおられるのだろう。お陰で1週間前に満開になった校庭のど真ん中にあるサクラの花びらが落ちない。しっかりと額に収まっている花びらが、とてもけなげだ。そして力強い。

 

サクラの花びらを「力強い」と表現するのはおよそ私が初めてだろう。サクラはその花びらが暖かな春風に揺られて、さらさらとはらはらとゆったりと舞う姿がどうにも日本人の情緒にぴったりと合う。散り惜しむ人間の心の姿がサクラの木の下で行われる酒盛りなのであろう。サクラ散るわびしさを、酒盛りで押し隠してしまう心はとても恥ずかしがり屋だ。これが大和心のウィットだ。

 

あのサクラのこと、ずっと山桜と思っていたがどうも違う。ソメイヨシノではないことは確かなので近くにいる人に聞いてみたが、その名を知っている人はいなかった。なんとも負けず嫌いがいるもので「山桜とソメイヨシノの中間」と言う答えを出した。本居宣長は、古事記をその当時の読み方で編纂した国文学者であるが、山桜を評して「敷島の大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花かな」と詠った。語尾の「かな」が入ると字余りであるけれど、わたしはこのように暗記してしまった。知る人ぞ知るこれが土浦市の町名の由来である。

 

ずいぶん総会の話からそれてしまったが、総会が今終わって職員室の席に座ったばかりである。前段は総会までのウォーミングアップである。昨日幼稚園の父母会の会長のご挨拶についてコメントしたばかりだが、初等学部の前会長に今回の会長のお話もなかなか心がこもっていてとても優しさを感じるものであった。私は事務長から今年度初等学部の児童数と名前の入ったリストを頂いたとき、感激と感謝で思わず手を合わせてしまった。今でも仏壇のところにそのリストが置いてある。生涯忘れはしない。

 

会長のご挨拶は、まだ始まったばかりの初等学部だから、みんなで力を合わせて児童数を増やして楽しい学校生活を作っていこうと言うものだ。私の挨拶は、全クラスの子どもの様子を感じたままに保護者の皆様に伝えようと思って話し出したところ、時間超過で短縮を余儀なくされた。非常に残念である。話して聞かせたいことと、ホームページに掲載することとちょっと違う気がするけれど。子ども達のことをもっと話したかった。

まずは幼稚園Ⅱ

今日は第二幼稚園で父母の会総会があった。ーーーなぜ「まずは幼稚園」なのか。それはあまり初等学部にのっこみすぎて、幼稚園がおろそかにならないための戒めである。幼稚園も初等学部もどちらも100%の力を傾注することは当たり前のこと。是非ご心配に及びませんので安心してお預けください。幼稚園にしばらくいたから、初等学部でカルチャーショックにあっただけのこと、と言えどもそのショックはとても新鮮だ。

 

あの幼稚園での3歳児のポニャポニャプニャプニャした顔のところに、透き通った黒目の愛くるしさは、確かにこの世のものではない。神様や仏様の贈り物に違いない。大切にしないとバチが当たる。ホントのことだ。

 

242人中10人の委任状で232人の参加。この数字が驚異的だ。そこで新しい役員が決まった。前年度会長と今年度会長のご挨拶をフロアーから聞いていましたが、なるほど含蓄のある言葉が並んだ。保育者よりも保育者のようなところもあった。と言うより社会人として成熟に近いのかもしれない。私もしっかり勉強しないと追い越されてしまうと危機感みたいなものを感じたと同時に、あおば台はあのような素晴らしい保護者に支えられてここまで来たのだという、改めて保護者の力に感謝したいと心からそう思った。

 

子どもが脇にそれた行動や、家庭内暴力に陥る原因は主に保護者とりわけ母親の無関心を装う態度である。よくneglectと言う言葉を耳にするが、これがそうである。母親に子どもが言葉をかけているにも拘らず隣の奥さんと話し込んでいて子どもをおろそかにしてしまう。これもネグレクトだ。一度は子どもの話を聞いてあげればいいことだ。自分の意見を一方的に子どもに押し付けるのもネグレクトだ。あおば台ではこのネグレクトを一掃するように保護者の一人ひとりが少しばかり気に止めよう。

 

初等学部ではいよいよ3年生が書いた(設計した??)アスレチック広場の建設にかかる。期待してもらってもいいのだが、私が大将で手下なしだからなかなか進まないと思う。だが理想は遠大である。着実に少しづつ・・・。

まずは幼稚園

まずは幼稚園のことを書く。朝から雨模様で少し肌寒い。三寒四温ではなく二寒三温のようだ。そんな中でも大勢の保護者の皆さんが幼稚園に足を運んでくれて、保護者会総会が盛大に行われた。前年度役員の皆様、特に卒園児保護者の皆様も積極的に足を運んでくれたことに心から感謝したい。ついこの前卒園したばかりなのに随分前のような気がした。多分新しい子が入ってきて、園内の雰囲気が変わったせいかも知れない。

 

いくつかの委員会があって、その委員会にみんなが所属するけど出欠は自由という、まったく拘束力のない決まり??の中で、それぞれに仲良く助け合って生活できたらいいなと思っている。何といっても不特定多数の人たちが仲良くできるというのは最高の人間の知恵だから、そうして笑ってすごしていただきたい。母親の笑顔それが子どもにとって一番の幸せなのだから。

 

小雨降る寒い朝の中、足を運んでくれたことに重ねて感謝します。「ありがとうございます」青葉台の保育と子どもの発達については、これからのクラス便りや園便りでお知らせいたします。個別な事項については園長又は副園長がお話を伺います。遠慮しないで下さい。よろしくお願いいたします。

 

5年生のクラスで初めて食事をした。1・2・3年生のクラスを回っていたので5年生のクラスがまったくよその家のよう。何が違うかと言うと、端的に言って会話の迫力が違う。大人のようなと言うにはまだ遠すぎるけれど、明らかに3年生とはゼネレーションが違う。食事中の会話が私の頭のすぐ脇を飛び交っている。うるさいのではない。闊達な自己主張が部屋中に充満している。伸び伸びとこんな生活ができていいな~とそう思う。

 

そういったストレスを持たない生活の持続が大切だ。脳を活性化させるからだ。だから5年生の授業の集中力はすごい。そのような子がたまたま集まったのだといったら身も蓋もないが、教師の力もあるのだろうが、子どもの目が黒板やスライドに突き刺さっていて微動だにしない。あの子ども達の迫力がまだ私の身体を包んでいる。甘美なしびれだ。

初等学部のお昼の時間

初等学部の昼食は、担任のほかに専科の教師がクラスに入って一緒に食べる。私も万屋専科の教師だからどこかのクラスに入って食事をする。今日は1年生のクラスからのオファーである。

昨日は2年生のクラスであった。そこで私はちょっとしたジョークを言ったが、それはジョークでもなんでもないという酷評を頂いた。それが顔色一つ変えず淡々と「面白くもなんともない普通の話」だって。そんなことを言う2年生だ。少し手ごわいぞと言ったのが命中した。今度は手を変える。

 

1年生のクラスへ入ると私の食事の用意がしてあって、1年生全員が「みなと!!」「みなと!!」の大合唱。それでは少しおかしいことに気がついたのか「みなと先生!!」と呼び直す子もいる。明るくて元気のいい子ばかりだ。食べにくいものは残しているようだが、全部食べなければだめとか時間内に食べることなどの指示はまだ出してはいない。自分たちが時間内に食べようと言う気になってくれればそれに越したことはない。

 

仲間関係も平等にかかわりを持つような雰囲気が伝わってくる。この辺のことはさすが幼稚園の経験のある教師だけのことはある。目配りが行き届いている。徐々に信頼関係が深まってくると授業もやりやすくなる。1年生2年生3年生の教師は幼稚園の経験がある。だから外に出て鬼ごっこをしたりして一緒に校庭を駆け回っている。小学校の先生が最近では見られない光景だ。

 

かつて小1プロブレムといって、集中力がなくて授業にならない1年生のクラスがあった。そんなことはここでは異次元の話だ。騒ぎまわっているときも、集中して授業を受けているときも、みんなで一つになっている。そんな力を結集して、これから初等学部の生徒全員がスペインの哲学者オルテガの言う「精神的貴族」の道を歩んでいく。ご期待あれ!!。

 

そういえば昨日、冷たい雨の中を辻さんご夫婦が畳を運んでインスタントの茶室をこしらえ、早速お手前の授業をしてくれた。本当に申し訳ない。茶室が予算の関係でなかなか建てられないでいる。色々な人にお手数をかけてしまっている。恩返しは必ずしますからもう少し待っていてください。教師も児童も一堂に会して食事をするのに、とりあえず今食堂を作っている。

入園式が終わった

幼稚園の入園式が終わった。年々泣く子が少なくなっている。20年前は母親から離れられない子が普通であったが、そのような子は見られない。もっともあおば台の入園式は、隣に母親が座るようになっているので、不安がる子はいないのかもしれない。

 

親が見えない場所にあっては、不安を通り越してかなりの恐怖感を持つ。動物の中でこれほど弱弱しく生まれてくるのは人をおいて他にあるのだろうか。だからこそ、そばにいて常に安心安全の生活をして、人を信頼できる人に育って欲しい。「優しい人に育って欲しい」と願っていても安定した温もりの中でしかそのような情緒は育たない。是非心に留めて欲しい。

 

待機児童の解消と言うのがもっともらしく叫ばれているが、正しくはその対象となっているのは乳幼児である。3歳児未満の乳幼児が対象である。実態の分からないものが懸命になって保育所を沢山造れといっている。保育所は乳幼児期から入所でき、保育時間も長い。働く母親にはとても都合の良いものであるが、子ども側からみたらどうだろうか。乳児期に他人に育児を任せてしまうのは、個体発生の発達に合わない。うまくいった例を挙げて言う人もいるけれど、うまくいかないことのほうが大半を占める。

 

一方では母親が安心して子どもを産み育てることが出来る環境を作ると言いながら、保育所の増築だけでは本末転倒な話。母親の要求は経済的なことだけではないと思う。一番に必要なのは、子育てに対する社会の理解である。産まれてから1年ぐらいは、赤ちゃんの夜泣きなどで眠りにつくことができないで、悶々とした毎日を送っている母親に、優しくねぎらう社会が必要なのだ。家庭で安心して親が子どものそばにいてあげられる社会を作るのが本当の話で、保育所を沢山造って、親子を切り離すことを奨励しているような国策はまったくもって愚策である。

 

とにかく今日は、新入園児が始めて親元を離れて幼稚園に来る日である。朝一番に初等学部で子どもたちを出迎えて、そのあとは二つの幼稚園に行って、新しい子どもの様子を見るのと大きな声で挨拶をしに行った。「安心して楽しみに元気に来て下さい!」と言って歩いた。やはり泣いている子がいた。「ママー!ママー!」と保育者の背中にいても呼び続けている。「パパー!」といって泣く子は見たことがない。

 

母親がこういった状況を目の当たりにしたら、きっと子どもと一緒に泣いているのだろうなと思う。親も子もそういったことを経て成長していくのだから、思い出のアルバムの1ページにそっとしまっておけばいい。

 

偉そうなことを散々言ってきたけれど、保護者のご協力がなければ私たちは手も足も出ない。共に手を携えていくことを重ねてお願いをしたいと思う。これから、幼稚園の保育者ともどもよろしくお願いします。きっと素晴らしいお子さんになってお返しすることができます。

授業が面白い

昨日、英語の教師のゾルタンの出身地のハンガリーについて2年生の前で話した。その首都についてどのようにしてできたのかと言うことを話していたら、子どもたちは興味津々。それでは日本の首都はどこかと言う問いに全員が「東京!」と答えた。こんなことって・・・・?2年生で首都をやるの・・・・?少し驚いたが気を取り直して「東京ってなぜ名前ができたか知ってる?」と聞いたら、みんな黙って首を横に振り、困ったように私の顔を見る。その顔がうっとりするほどいい顔をしている。

 

2年生相手に勝ち誇ったようにしていたわけではないけれど、少しばかり言わせて頂くと気持ち良かった。それでしばらく2年生に会うと「先生東京の話してよ!」と言うことになった。今日はあの感激の入学式だけれども、午後の時間に2年生からオファーがあって授業をすることになった。例の「東京」の話だ。ひとしきり奈良、京都、東京の順に話を進め、そして子どもから「北京もあるよ!」の声。

 

何をやっているのか分からなくなって「今は何の時間?」と聞くと「国語の時間!」と元気に答える。今まで地理と歴史をやっていたのだが、子どもたちは良く黙って聞いてくれた。即座に国語の教科書を出してもらい、子どもたちに順番に本を読んでもらった。ここでまたひっくり返るような驚き!!。きれいな声で声優のような抑揚で見事な読み方だ。手ごわい相手だった。

 

楽しいよ!!初等学部。明日は1年生が来る。幼稚園の入園式もある。生きている実感が十分すぎるほど身体から滲み出しているようだ。

サバイバルが終わった

両園合同で行う初めてのサバイバルが、初等学部校庭で行った。少し風が吹いていて肌寒さがあったが、子供は風の子、この程度では音を上げない。校長は気温が低いのを気にして、未使用のクラスを温めて、そちらで食事をとったらどうだというようなことを言って気にかけてくれましたが、野外で薪を使ってうどんを煮ているのでそうもいかない。

 

ほぼ予定通り進行した。10時40分から50分までの間に到着し、まず校長先生にご挨拶をし、「よろしくお願いします」と元気な声で言うことができた。早速校庭に出て、桜の木の下で両園の子ども達が向かい合い顔合わせをした。そしていよいよサバイバル。

 

1周200メートルのトラックを15周した。今までは片道130メートルの所を10往復で2600メートル走ってきたが、今回は場所も変わったし、今までと同じにする場合はトラック13周となる訳だが、いかにも中途半端。そこで区切りよく15周にした。ルールは歩いてもいいが止まらないこと、おしゃべりをしながら歩かない。手をつないではいけない。それだけ伝えて、鍋がかかっているカマドのところへいって火を付けた。

 

保育者たちは昨日まで10州だと思っていたらしい。私がそう言っていたとのこと。年のせいか言ったこともよく覚えていない。しかし今までより少ない距離を走るのでは、子ども達もそれを知ったらがっかりするだろう。是非とも3キロも走ったことはあおば台始まって以来初めての快挙であると子どもたちに伝えて欲しい。

 

最初から歩く子はいないが、時間が過ぎると徐々に歩いている子が目立つようになる。それでも汗を拭きながら黙々と走り続けている子もいる。鍋の中の湯が沸騰するころには1着の子が「やった!」と私のところへ飛び込んできた。両園合わせての1着は第二幼稚園男子。2着はあおば台の男子。3・4と第二の男子。5着があおば台の女子。女子の1・2着はあおば台だった。1着になった男の子は他の仲間からも「駆け足はいつも速いんだよ」と言われていた。

 

続々と走り終わった子が集合してくると、「馬を見に行こう」とか「触ってきてもいい」などと言ってくる子がいて、次々に遊びを見つけている。しかし誰からともなく「まだ駆けている子がいるから応援に行こう!」という子がいて馬小屋からトラックへ小走りで移動が始まる。誰一人落伍者が出なかった。全員が走り終えた。よくやるよ子ども達。

 

次は「立派な年長」の導入があって、その次に生活発表会の劇遊びが始まる。子ども達のグループ名も劇の役柄になっていた。「泥棒グループさん」「警察グループさん」「忍者グループさん」とか保育者が呼んでいると、違和感もなくごく自然に集まってくる。楽しいな子どもの世界。

 

みんなよくやった。初めての経験の割には臆することもなく、堂々と最後までやり終えた。これからもそのような体験をたくさんしていこう。お家の方もたくさん褒めてやってください。あなたたちのお子さんはしっかりと最後までやり遂げることができる。何度でも頭をなでてやってほしい。

サバイバルの準備はOK

いよいよ3学期最初の年長のハードルが始まります。それは10数年前に始まった年長だけのサバイバル。最初の頃は、我が家の隣にあった背の高い雑草の生い茂る空き地で始まった。自分の身長よりも高い雑草の間を縫ってどこまでもまっすぐ歩くというものだった。仲間がいないと意外と心細いものだ。心細いものだから仲間の手をぎゅっと握って、互いに互いを頼る。ヒヤッとするその空間で、何かを発見してくるというものだが、そんな余裕はなかったかもしれない。大体20分ぐらいの時間だが、子ども達にとってはかなり長い時間に感じたかもしれない。

 

本来飽食時代に育った子達が、ちょっと厳しい、辛そうな活動をしたあと粗食に耐えるというものだったが、しばらくやってみたら、粗食が珍しく「こんなうまいものはない」ということになってしまった。いつの間にかサバイバルの後の食事が、とても楽しみになってしまっている。そうなると食事を用意する側もその気になって、少しばかりのバリエーションを加えるなどのことも無意識のうちにやってしまうものだ。

 

今年は青葉台初等学部で行う。初等学部の校長以下全員が快く迎えてくれる。あおば台幼稚園で保育者をしていた貴大先生が仲間に入ってくれる。どのようなことをするのかは私の頭の中だけにあります。ご期待を頂きたい。

 

昨日、私の友人が勤める大学で、保育者になろうとしている学生に話しをしてきた。講義と言って何かの教科を教えるというのは一切やめることにした。あの学生達が私から何を学び取りたいのかというと、レアな保育現場の出来事。質問の中に、仕事を速く覚えるのに何か秘策みたいなものはあるのかというのがあった。男子学生の質問であったが、真摯な態度でとても気持ちのよいものであった。

 

男女共にみんな優しい眼をしている。もっともっと伝えてやりたかったこともある。彼らが何も心配することなく保育者になって、いつも明るく子ども達と向かい合って毎日を過ごして欲しい。保育者になることに大きな夢を持ち、豊かな希望が持てただろうか。私にできることがもっとあったのではないかと省みる。私を呼んでくれた先生に感謝しながら、又一つ学ぶことができたことに「ありがとう」。

年長の役割

両園共に子ども達の弾んだ声が園舎一杯にこだましている。やはり幼稚園はこれでなくてはならない。子ども達のいない幼稚園はどでかい不気味な倉庫でしかない。いいな・・・子ども達の屈託のない笑顔。今の大人たちもそんな時代があったのに、どこかに置き忘れてしまった。いつの頃、どこに置き忘れてしまったのか。久遠返してみれば、どこかにぶち当たるはず。戻りたいとは思わないが、子ども達を前にすると自分が恥ずかしい。

 

年長はこの3学期で卒園してしまう。第2幼稚園で年長の合同集会があるというので、そこで「立派な年長」の話をさせていただいた。年長の保育者と前もって約束したわけではないが、タイミングがよかった。

 

3学期は特に年長さんに力を出してもらわなくてはならない。これからすぐに「サバイバル」がある。今年はあおば台と合同で初等学部でやる。自分の力をよく知って、まだやれると思ったら、力を出し切るのだ。そしてお友達を応援できる優しい心を持つ。

 

「生活発表会」がある。これはみんなが力を合わせないとできない。仲間のすごいところをみよう。そして一人でも多くの仲間の応援をしよう。仲間もきっと自分のことを精いっぱい応援してくれる。

年長さんのやることを、年中や年少さんが見ている。カッコの悪いことをしないようにして欲しい。幼稚園は年長さんという皆がいないとやっていけないのだ。皆の素晴らしい心がこの幼稚園を作っている。よろしく頼むよ。・・・・・このような話をした。皆の目は一直線にわたしのほうを見ている。目に力があって真剣そのものだ。

 

他人の口に戸を立てられない。ごちゃごちゃと外野が騒がしいようだ。理事の皆さんからも「おい、随分頑張っているな!」と連絡をいただく。私に何度も言わせないでほしい。私は子どもたちの幸せを見守るために初等学部を始めたのだ。思い違いをしている親の強引な欲求を満たすために始めたのではない。この先どのようなことがあっても不動不惑である。「子どもたちと共に生きる」。

 

建設委員長の高橋さん。かつて不動産鑑定士の国家試験を全国最年少で合格した秀才だ。つい最近まで破られなかったが、2~3年前に灘高の高校生に破られたということを聞いた。この人は法文を熟読しているから、文章に無駄がなくけれんみがない。人当たりも良く豪快で彼のファンも多い。私と苦難をともにした人だ。彼の意見を120%支持する。

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。今年も「ちょっと言わせて」をよろしくお願いいたします。

 

幼稚園は1月5日から2学期の総括の検討会が始まった。これは2学期に行った保育の反省をかねるものである。子ども達の普段の遊びの中の実践記録や中心となる活動の実践記録です。この中でも、第二幼稚園の中心となる活動の年長の実践記録は、運動会と遊園地ごっこ。あおば台も運動会と人形劇。年中や年少の話を書いていたら大変な量になるので、今回は年長に少しだけ焦点を当てて書いてみる。


あおば台の人形劇は、お話作りから始まって登場する動物や人物を作り、それに針金をつけて言葉に合わせて動かすというものだ。まず唐突にこれをやろうというような手法をとらないから、「人形劇をしたい」というようなグループの雰囲気にするまでの導入が大変。お話作りの途中で、うまく起承転結ができなくて「もう良い・・・」という子も出てくる。一瞬仲間の顔を見合わせ時間が止まってしまったり、先に進まなくなってしまう。・・・そんな気持ち分かるでしょ。

 

そんな時保育者の助言が入る。「どうすればお話がつながるの・・もう一度考えてみたら」気持ちを取り直して、話の続きをうまくつなげる。うまくつながった時は歓喜そのもの。次は人形を持って話をするが、人形を動かすことに気を取られて話がうまく流れない。又どうすれば良いのか・・・悩む。グループの一人が「録音したら!」と何かをひらめいたように生き生きとした弾んだ声で言う。グループの仲間もパーッと明るくなってニコニコしながら「せんせー録音するー!」と得意になって保育者に伝える。

 

第二幼稚園の実践記録は、運動会のタイヤ取りの模様を少しばかり紹介しましょう。第二の運動会は、インフルエンザの猛威をもろに受けて、年長のあるクラスは10人もの休みが出た。これは運動会当日の記録ではないが、どうしてもタイヤ取りの勝てないクラスで勝つのにはどうしたらよいのか子ども達が話している様子。「力を合わせて練習するしかないよ」「オーエス!オーエス!」声を合わせて頑張るぞ!。

 

私が年長の担任に聞いてみた。「オーエス!オーエス!」というのは一体何?。どうもこれは去年の年長から言っているようで意味は分からないという。私の隣に坐っている保育者がそっと辞書を見せてくれた。何とフランス語でロープを巻き上げる時の掛け声と記されていた。多分フランス語で綱引きなどに使う掛け声だろう。・・・一同ポカ~ン。まあ帰国子女も多いことだから、こういったことが結構ある。意味も分からないで掛け声を合わせているというのが面白い。想像してみて下さい。

 

子ども達はこんなに頑張っているのに、運動会当日負けっぱなしはかわいそうだ。しかし他の力は借りない、自分たちの力でやらなければ潔しとしない心がとても嬉しい。

 

誰がどのように言ったとか、子ども達の名前が出ている記録だから、保護者の皆さんも手にとって読んでみたいだろうなと思う。事細かに保育者の意図と考察も入っていて、その場面が手に取るようわかる。あおば台の子は完璧とは言わないが、きめ細かくよく見てもらっている。実践記録を読むと再認識する。

 

1月6日読売。こんな記事を目にした。「生きる力」とは、基礎学力だけでなく思考力、意欲、コミュニケーション能力などを総合した力である。今企業は、まさにそうした力の低下に直面している。人事担当者573人に実施した複数回答の調査では、若手社員の問題点として53%が「読み書きや考える力など基本能力の低下」を挙げ「主体性不足」51%「コミュニケーション能力不足」46%と続いた。

 

「企業は学生の基礎学力や生きる力に不信感を抱いており、チェックも厳しい」一流大卒、成績良好でも風当たりは強い。早稲田政経学部4年のA君は約25社に落ちて就職浪人を決めた一人だ。面接で「自分の言葉で話して」と言われ窮した。就活マニュアル通りの答えが目に付いたという。自分の言葉で語れるようになってやり直すつもりだ。・・・健闘を祈る。

 

明日はいよいよ3学期始業日。早く子ども達に会いたい。休みの子がいなく全員が元気に来て欲しい。

今年ももう終わりだ

過ぎてみると、1年は随分と早く過ぎていってしまうものだ。先日「杉の子会」に出席して、杉原先生の亡くなられた日を確認したら、昨年6月だと言っていたので驚いた。実はずっと今年だと思っていた。そう思うと、先生は私のことが心配で、亡くなってからもずっと私のそばにいてくれたんだと、改めて申し訳なく思う。

 

よくよく考えてみると、5年前に初等学部建設を志し、今年の4月に開校することができた。その間初めの一歩から、土地探しや建設費用の工面、先生をどのように集めるかや、設計は誰に、どのようなルートで建築はどこで、外溝はどのようにするのかなど、又役所に提出する山のような書類などについて、多くの人にお世話になった。特にハードな面は、銀行の全面的な後ろ盾を得、土地所有者からは非常に好意的なご支援を頂いた。


ソフトな面では、友人の精神的なバックアップが大きく支えになった。こう考えていくと私の入る隙間がないほど多くの人の支えを頂いている。新しくできた小学校だから、設備もなかなかそろわないし、不自由を覚悟で一生懸命頑張っている教師や、事務長など全く頭が下がる思いだ。誰が何を経営するのでも最初の一歩は大変である。ナショナル電気だって、三つ又の電気ソケットを単品で売りさばくことから始まったのだ。

 

多分風呂敷包みの中にソケットを入れて売りさばくのには大変な苦労があったに違いない。今のナショナルグループを想像していただろうか。そこまでは考えていなかったろうと思う。1日一日を、時には歯ぎしりを噛み、時には小さな喜びを分かち合い、夢と希望を持って生きていたに違いない。自分の暮らしを今以上にするなど、そのような志ではない。起業家にそのような人はいない。理想に向かっての忍耐と努力である。これがなければ何を始めても自己到達はない。

 

そう考えると私は全くのゼロからの出発ではない。今まで保護者や、幼稚園の教師達が作り上げた幼稚園という土台がある。まだまだ私はいい位置にいる。私を今まで支援してくれた保護者の皆さんや、先輩や仲間に今の仕事をさせていただいている。手を合わせ感謝をしながら1人一人ひとりの顔を思い出し、、来年度の覚悟を新たにしたい。どうぞこれからも私についてきて欲しい。必ず素晴らしい人生を約束しよう。

 

今年1年係りのあった人に感謝し、又素晴らしい新年をお迎えにならんことお祈りいたしまして、今年の「ちょっと言わせて」を終了いたします。ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

夢と希望

およそ教育の中で「子ども達に何を与えるのか」と問われれば、夢と希望だろう。しかも現実化する、それに近づいているという自覚を持たせるということだろう。多くの知識を得ることもそこへ向かっているというようなことを意識させる、一つの手段だ。その道程を視覚化できるような教育が大切だ。

 

又そのようなことを認知できるような脳の組織を作っていかなければならない。その仕組みを作っていくのが簡単な言葉で言えば「冒険」である。冒険の先にあるのは、まだ見たことのない世界であったり、そこから生み出される想像の世界は、夢を醸造する。だから幼児期や、少年期は重要な成長期なのだ。

 

ただ知識を詰め込むだけではダメだ。その知識をやがて何に使うのかという意識付けと、それに伴う、今、教育心理の中で最もはやっている内発的動機付けや外発的動機付けをサポートする。この考え方を徹底させるつもりでいる。教師も共にターザンにならなければならない。忘れていた愉快な少年の日々を思い出していただこう。

 

1ヶ月前になるだろうか、筑波大教授の櫻井茂男氏から先生の著書「自ら学ぶ意欲の心理学」の本が贈られてきた。タイムリーにもその本の副題が「主体的な学びとは」である。櫻井先生は有能感や動機付けに関する研究では日本では第一人者である。このような先生のそばにいられたことに感謝である。そのような櫻井先生の全面的な支援を得ているにもかかわらず、イマイチぱっとしない私の感性。

 

私を特訓してくれた久保田浩先生(白梅大学名誉教授)は、戦後教科書に墨塗りを経験した、今では数少ない小学校の教師である。「勉強どころじゃないんだよ・・。飯が食えねーから学校の空き地に畑をこしらえて、野菜のできるのを楽しみにしているんだよ」「しばらく学校へ来ないので、どうしたのかと見に行ったら、よその家の子どもの守をしている」「しかしみんないい目をしていたなー」「キラキラとこう輝いていて・・・」そう言って、目を輝かせていたのは、久保田先生その人でした。

 

先生は決していい暮らしをしているわけではない。着ている物は失礼ながらいつでもよれよれで粗末なもの。しかし子どもの話しをしだすと、生き生きとして年齢を感じさせない。そういえば久保田先生に私の幼稚園の講演をお願いした時、昨年亡くなった杉原先生も来て下さって、熱心にメモを取っていたことを思い出します。素晴らしい人間は、初対面であっても互いに認め合っているものなんだと感じた。久保田先生も既に92を過ぎた。

 

 久保田先生は、私の中では宮沢賢治や倉橋惣三がダブって見える。すごい先生だ。居ながらにして子ども達に夢と希望を与えてしまう。そう思うと、教師なるものは技術のみではない。決してない。そんな教師になってみたいものだ。倉橋惣三の「生活を生活から生活へ」の中にあるのではないかと密かに思っている。関係各位と共にこれを実現していきましょう。

忘年会

毎年行われる忘年会。両園のおやじくらぶの忘年会も終わった。粋のいい鍋奉行の手ばさき

も堪能した。先に始まったのがあおば台で、第2幼稚園は次の日だった。机の上に並ぶ鍋は最初は鍋の種類もはっきりしているが、しばらくたつと何を食べているのか分からなくなる。もう少し経つと何を話しているのか分からなくなる。録音されたらこまるのが沢山出てくる。

 

何ていったってこのような人生が面白いのだ。私も公人だからそんなことを言うのはやめなさいと、女房や友人によく言われる。私がどんな立場だろうと、私という人間が変る訳ではない。そのようなことを友人も話す。私の友人はひどい。飲みながら酒の害を話し、私に説教をする。まあ説教される私に非があるのだから仕方がないにしても、説教はしらふの時が良い。

 

飲み屋で客の姿は様々。入ってきた時から静かに飲んでいて、何処に坐って何を話しているのかも聞こえず、いつの間にかいなくなったというのもいる。騒ぎ立て、主のような気持ちになっているのもいる。気のせいか、帰る後ろ姿が妙に寂しそうなのもいる。人知れない明日に責任を持たない学生だけが意気が良い。昨今の巷の様子。

 

今日の朝に書いた虐待の話。目に見えるような虐待ではなく、例えば現行の保育所のように生後間もなく母親から離してしまうというのは虐待ではないのか。ものを言えない乳幼児には社会は冷たい。生後2歳ぐらいまでは絶対に母親と一緒にいたほうが良い。保育所に預けるのではなく、どちらかの親が子どもと一緒にいてやることが望ましい。そのような社会的整備が必要である。

 

皆さんは待機児童という言葉を何度も耳にしたと思いますが、発達用語を使うなら、待機乳幼児といったほうが正しい。これではいかにも虐待というイメージを持つではないか。それでは困るので、乳幼児ではなく、児童にした。待機児童は、不幸せになる寸前に幸せを手に入れた。保育所を多く建てるのではなく、家庭にあって養育できるように整備することが大切であります。

 

女性は子育てだけに生きているのではないといっているウィメンに反論します。子育てだけに生きているわけではないけれど、子どもを産める特権は女性にだけ与えられているものだ。そしてそのように体の機能もできている。子育ては責任を持ってやって欲しい。

 

夫はそれに対し最大の敬意を払い、最大の援助を惜しみなく払う。これが人間がホモサピエンスとして誕生した系統発生の慣わしなのだ。このシステムが変ってきていることが、世の中の乱れになっていることに気付いて欲しい。

 

明日は横浜で、筑波大の杉原教授にお世話になった子どもたちが集まる「杉の子会」の忘年会。筑波大と横浜国大と東京成徳の院生と、大塚にある筑波大の社会人院生ととても幅が広い。全て杉原先生が関わってきた大学の教え子です。先生の話をしたら、長いと絶対いわれるのでやめる。

虐待の判断と見分け方

これは何日か前に研修に行ったときのノートで、終業日前に保護者の皆さんにお渡ししたかったものです。時間がなくて書けなかったことをお詫びしながら書くことにする。

 

虐待の判断と見分け方。

①泣いていても放っておく ②食事を与えない ③ける ④大声で叱る ⑤お尻を叩く

⑥手を叩く ⑦頭を叩く ⑧顔を叩く ⑨つねる ⑩物で叩く ⑪物を投げつける

⑫傷つくことを繰り返し言う ⑬浴室などに閉じ込める ⑭家の外に出すことがある

⑮子どもを家に置いたままでかける ⑯裸のままにしておく ⑰子どもの体に噛み付く、など

 

以上17項目

上記の項目に しばしば(3点) ~全くない(0点)で合計10点~11点(虐待傾向)

         12点以上虐待と判断される。

 

この資料は筑波大の庄司先生からの資料。この見分け方だとほとんどの保護者が虐待傾向に陥るだろうと思いますが、いかがですか。4項目で虐待だから、平常な保護者は全く少ないでしょう。「小言を言う」というのは入っていないようですが、これは⑫に該当します。

 

①、②、④、⑤、⑮などはよくある傾向で、それぞれの家庭で、躾に関する不文律な決まりがあるとすれば、上記の記述は参考にするという程度で良いのではないでしょうか。

 

虐待傾向は、保護者が子どもに日常的に叱り付ける行為ですから、1週間も2週間も間が開いていれば虐待にはならないだろうと思います。反面この項目の4種以上でなくとも、毎日小言を言われる子どもにとっては虐待であります。こんな辛いことはない。親が子どもに向かって傷つくようなことは絶対言ってはなりません。むしろ私だったら黙って一発殴られるほうがよい。

 

しかし虐待する側の親を一方的に攻め立てるわけには参りません。それにはそれだけの環境があるのです。例えば親は育てられたように育てるといわれます。虐待された経験のある親は虐待してしまう傾向にあります。それが子どもを育てる方法だということをDNAの中に組み込まれてしまうのでしょう。そのほかに育児不安が強いとか、夫の育児無理解。未婚の女性、精神疾患などが挙げられます。

 

男親の虐待は、ほとんどが経験から来る虐待と社会的孤独(不安)であると言われている。虐待という言葉の強さからすると、かつては、拷問に近いものだという印象があって、とても恐ろしいことなんだと言う怖れを持っていた。しかし今では頻繁に使われるようになった。一日も早くこの言葉が死語になることを願っている。

保育と教育どう違う?

保育するは幼児期で、教育するはそれ以後の話。文科省が区切っているのは就学前を幼児期、それ以前を乳児期といい、小学生は児童、中学生と高校生は生徒となる。大学にいって初めて学生となる。出世魚のような呼称だが、明治以来この呼び名である。

 

保育は子ども達をいたわることが前提となる。教育だって子ども達をいたわることが前提とならなければならない。子ども達を怒鳴り、机の前に坐って、ある教科書を丸暗記してpaper testで100点取ったからといってそれが何になる。教室で教師の人としての温もりを知り、絆みたいなものを紡いでいく作業こそが人間教育だと思う。

 

教育は「生きる力」を育むというのが文科省。私はもっと能動的でないといけないと思っている。生きる力は、内臓がしっかりとしていれば生きていることはできる。人間として生きるには、「生きていく力」でないとならない。

 

生きていく力は、困難に出会ったときに発揮できる力を言うのだ。保護者が恐いといって、冒険ができなくて、何の教育だと首を傾げたくなる。「はっ!」とするような冒険。例えばターザンのようにロープを握り、木から木に乗り移ったり、そのまま水の中にドボーンと入ってみたりする。あのロープを放すタイミングをはかり、離す時の決断はなんともいえない自己充実感があるものだ。そのような体験が経験となり、ものを判断したり決断したりする要因となることは容易に理解できることだ。

 

幼稚園では年長だけの活動にサバイバルというのがあって、130メートルの直線を往復10回やる。歩いても駆け足でも良いが休んではならない。2.6キロをずっと掛けているのもいる。子ども達が活動に入っている間、私が熱いうどんをつくったり、ご飯を炊いたりしてみんなを待っている。息を切らして一番で入ってくる子もいれば、ゆっくりと歩いている子もいる。しかしだれもおしゃべりなどしていない。自分のペースで自分のようにやっている。しばらくしていると、終わった子の集団が、遅い子のところへいって「がんばれ!頑張れ!」と応援に行く。最後には、私が言わせるのではなく、「みんなができてよかったね」と子ども達が言う。子ども達のやさしさに時々泣かされる。

 

口先だけで「個性を大切に」「皆それぞれに違う」といっても、その実、公立では金太郎飴の如くどこから切っても同じ顔の子ばかり作ろうとしているのが現実だろう。保護者も個性だどうのといっても、周りの子と自分の子を見比べている。自分の子の持っている素晴らしいものを見ようともせず、他の子の素晴らしさと天秤に掛け、足らないことばかりを子どもに押し付ける。これでは子どもの居場所がない。閉じこもってみたり、反社会的になったりもしてみる。それしか道がないじゃないか。

 

サバイバルに戻ろう。かつては私の家の隣ががさやぶであって、そのがさ藪を通り抜けると広い道に出るという場所で行っていた。自分の背丈以上の枯れ草が繁っているところへ、グループごとに手をつなぎ、どこまでもまっすぐ歩き、何かを発見してくるということをしていた。どんな発見をしてくるのか楽しみに待っている。「草が多くて歩きにくかった」「違った草を見つけた」「たまごがあった」などと、光もささないひんやりとしたがさ藪の中で、様々な驚きや発見をしてきた。

 

このように幼稚園では子ども達と共に身近にある冒険をしてきた。今度は初等学部の番だ。しかし先ほど書いたターザンの真似事は、多くの保護者から賛同を得られまいと思う。私の幼稚園の保護者からは、苦々しく思っても私に直接不満を言ってくることはないだろう。来年度の初等学部は、保護者はどう思うか分からないが、冒険大好き初等学部にする。どうぞご理解を賜りたい。

物言えば唇寒し・・・

もう冬で日増しに寒くなる季節。表題は秋の季語がついているので現状に似つかわしくないが、社会のあり様をちょっとひねってみただけのこととご理解願いたい。この表題で以前にも書いたような気がする。が、ボキャが少なくて気にしないで書くことにする。


4年生の保護者と、1年生の保護者と相次いで話し合いをした時、特に4年生の保護者は中学校ができるのかどうかということが中心的な話であったように記憶している。目先すぐの話だから無理もありません。

 

あおば台所属学園は伝統のある大きな学園ではなく、小さな個人商店みたいなものだから、何をやるのでもまず私が最初に旗を振り、膨大な文書を用意し、役所との交渉に入らなければならない。合議制などというものはない。私が判断し、私が決断する。そして私が責任を取るというのがあおば台である。

 

既に私は、中学校建設に前向きどころか決断している。絶対にやるという決断です。小学校は気合と共に何とかやらせていただいたが、大きな壁が立ちはだかっていることは事実。それはどのようなことかというと、設置基準に合致しているかどうかということで、尚具体的なことを言えば、それだけの資産があるかどうかということである。それだけを追求されれば、ない。今までは、それがどうしたという気持ちでやってきたが、通る場合と通らない場合とがある。

 

児童数が少ないのが建設に大きな影響を及ぼすのは確かなこと。何とか少しでも建設に足がかりを付けたいと、あおば台と第二幼稚園保護者に「入学のお願い」を書いたことが、園長は「ぶれた」と取られた保護者もいるという。悲しいかな私は他人の目を気にして生きてはいない。何を今更この歳で「ぶれる」必要があるのか。初等学部児童1人になっても、その子のために命がけでやるというのが私の信条だ。そうでなければ初等学部を創った意味も、私が生きながらえている意味もない。

 

私が神様に願っていることは、中学校ができるまで、高校ができるまで生かせて欲しいということ。寄宿舎を建て、子ども達を家族から離しそこから通わせる。親の愛情は離れてみて、親の偉大さは、死別でしか理解不能であるというのが私の考え方。祖父母に畏敬の念を、両親に感謝。どちらも無言のうちに伝える方法である。

 

 幼稚園は今個人面談花盛り。色々と保育者から情報を頂きますが、保護者の方の子どもに対する愛情の深さにありがたさを感じます。子どもが常に「愛されている」という気持ちを持ち続けることは、やがて子ども自身が判断したり決断したりしなくてはならない時に、必ず背中を押してくれる。勇気を与え、強い支えになることは間違いのないこと。

 

ここで間違ってはならないことがあります。「愛している」というメッセージは常に出しておく必要がありますが、押し売りはいけません。押し売りは見返りを求めるものだから、すぐに見破られてしまいます。「私はあなたをこんなに愛しているから、だからお願いこうして欲しい」では、子どもはやがて口を閉ざしてしまいます。

 

「今ある子どもの心に沿うこと」は保育者の必須条件ですが、一番身近にいる保護者の皆さんこそ、この極意が身についたら鬼に金棒です。一緒に努力していきましょう。

お久しぶりです。

 昨日は有事法制が衆議院を通過した。たぶん間違いなく参議院でも可決されるだろうから戦後の歴史的な重大な出来事となることは間違いない。折りしも5月15日というところに歴史的ないたずらが隠されているように思える。
1932年、およそ70年前になる話であるが、海軍将校と陸軍士官候補生が決起し犬養首相を殺害した5・15事件である。その後、軍靴の響きとともに大正デモクラシーの余韻も覚めやらずに一気に軍国主義に突き進んで行ったと言われている。
 首謀者たちは、不公平な軍縮に同意してしまった政府のふがいない姿勢を糾弾したものであったらしい。しかしながら当時のマスコミは彼らに同情的で、「政党財閥、特権階級は出処進退ことごとく私利私欲である」「天に代わって誅伐するにどこが悪い(天誅)」と、現在ではおよそ信じられないような激しく勇ましい報道であった。それはまさしく世論の代弁でもあったろうと思うが、現代の新聞には「彼らのテロを容認してしまった」と悔恨の意味を含んで反省文として掲載されているものもある。しかし彼らは無差別殺戮はしなかった。
 しかし反論を恐れずに言わせていただくなら、彼らには少なくとも私利私欲のない純粋な愛国心の基で決断したことであろうし、結果として軍国主義を加速させてしまったことは歴史が証明していることではあるけれども、それが第二次世界大戦を引き起こしたことではない。不公平な軍縮会議で、日本は欧米列強の属国になってしまうことを恐れた結果の行動であったのだ。国民はそのような心意気を感じ取っていたからこそ、当事者たちを擁護したのだと思う。
現在の道路交通法では、戦車は一般道路を走れないので走れるようにしたり、ミサイルを一発貰ってからしか軍事力の出動できない法を、未然に防ぐことができる法に返るのが今回の有事立法の制定である。有事の際に、個人の権利を最大限尊重するなどの付帯事項があるようですが、空から爆弾が落ちてきているときに個人の利益も何もあったものではないと私は思う。国民が一致団結しなければならないときに、どこまで個人の利益を守れるかは今後議論の的になるでしょう。敗戦国戦後日本のまとまらない国家を作る進駐軍の意図したとおりである。

 暴飲暴食の上に、ストレスがたまると誰でもかかるという成人病に、例に漏れず一般的人間の仲間入りをし、一ヶ月ばかり入院を余儀なくされた。今は仮に退院している状況であるけれども、また何回か検査をして7月には大腸にあるポリープを切除する手術をするらしい。良性だというので心配するようなものではない。
 糖尿病、肥満、高血圧、高脂血症は「死の四重奏」などと言われているそうだ。自覚症状がないものだから、ある日突然倒れて体の一部が機能停止したり、目が見えなくなったりする。「あなたはそうならないと自分の健康に感謝できないのでしょう」と優しい言葉で戦慄に落とし込まれてしまった。疲れやすかったり、集中力散漫だったり、フラフラしたり、少し歩いたぐらいで動悸が激しかったりと、いや今思えば自覚症状はあった。皆さんも知らずして自分の体が何者かによって蝕まれているかも知れない。精密検査をして十二分に医者の言う事をよく聞いて健康維持に努めましょう。

 麻生太郎自民党政調会長の講演を聞いた。経済問題、教育問題、防衛問題と多岐にわたって分かりやすく解説してくれた。テレビに出てくる変な学者よりよほど国民向けでよかった。さすが政治家だと思った。生まれながらの素質に加え、九州の麻生財閥の長男であり吉田茂の孫に当たる人でもある。日本青年会議所の会頭を、地方の理事長もせずに旧来の話し合いから選挙に出て見事当選した。当時は話題の人でもあった。総裁選挙で手を上げたのはこのときの「手を上げなければ何も起こらない」ということをすでに学習していたのである。
 血統書付きの政界のプリンスであることは間違いない。しばしば下半身の話題を持ち出すので云々。とある週刊誌に書かれていたが、生まれのよさの照れ隠しであり、そこに生まれてみないと分からない育ちの良さのジョ-クである。
 その本人のすごさは誰も認めざる得ないが、その周りを取り囲んでいる青年会議所に意義がある。日本青年会議所で何らかの役職を欲しがる会員は麻生事務所詣でをしなければならない。麻生さんがいくら万年青年といえども(確かにそう見える)60を超えた先輩にお伺いを立てなければ人事が動かない現実に、なんら不思議も悔しさも感じない軟弱な青年にこれからの日本を託すわけには行かないだろう。周りにいてその権益に預かっている人たちも、麻生さんはこれから日本の総理大臣になる人なのだから、若い青年の心情をもてあそび、意地汚く姑息なことで足を引っ張ってはならない。それこそ私利私欲ではなく麻生さんの立場も考え日本を考えていただきたい。
 そうこうして一日遅れの新聞に目をやると、「予定利率下げ」「生保経営責任を明記」契約者に負担を迫るだけに責任の明確化が必要と判断した――云々。あのメガバンクは何兆円もの公的資金の投入という国民の負担を強いているのに誰も責任を取ろうとしない。公的資金が投入されれば国民的感情としても経営責任を免れられないと感じるのが正常な考え方である。挙句に竹中金融担当大臣を失政と批判する始末である。あの頭取たちが、まだ自分たちが必要とされていると錯覚しているところに日本国民の悲劇がある。あの人たちが辞表を提出するだけで、期待感にあふれ株は上がる。銀行株が上がれば市場の牽引にはなる。

 拉致問題が沸騰しているさなか、外務省の外郭団体が北朝鮮に人道的な問題として米を送ったという話を聞いた。自民党の大物政治家もそこに含まれているらしい。貧しい人たちに必ず手渡しされているという保証も当然確信もない。たぶん軍隊に優先的に配られるか少数の高官に届けられるのだろう。何か弱みでも握られているのだろうか、かんぐられても仕方がない。不思議な出来事だ。--きっと悪代官がいるのだ。
 時代が違うからあまり過激なことは言えないけれど、古い書物の紐を解いてみると昔は「義人」と言われる人がたくさんいて、正義を盾に世直しをしたというのがある。殆ど私利私欲に凝り固まったやつを成敗してくれて痛快そのものである。
 純粋な愛国者は一人一殺をもって国を変えようとした。右翼という定義は別として、たとえば彼らを右翼と呼ぶとすれば、現在では本物の右翼は出てこれない。チンピラや暴力団が何の思想もなしに右翼の名をほしいままにしているから、崇高な信念を持った愛国者が隅のほうへ追いやられてしまっているのだ。しかしこれだけ安定した社会だから義人も活躍の場所がない。政府要人を一人や二人拉致したところで何も変わらないだろう。国会開会中に戦車で議事堂を攻撃するか霞ヶ関もろともふっ飛ばさないと日本は変わらない。作家三島由紀夫のように東部方面隊に行ってお願いしてこなくてはならないだろう――。やはり少し過激かな。でもこのくらいは書かないと病気は治らない。

 しばらく幼稚園を離れていると子どもたちが無性に恋しくなる。卒園した年長はどんな気持ちで小学校に通っているのだろうか。いじめにあったら「おまえは強いんだからぐっと腹に力を入れて笑ってみな」「何があっても大丈夫だよ。俺がついてるよ」と励ましてあげたい。
ちょっと用事があって病院から外泊許可をいただいて幼稚園に行ったら、デレスケチョンボ(造語-聞き分けがなく失敗ばかりして、しかもニヤニヤしているさま)をしていた年中さんが年長の当番バッジを胸にえらそうにしている。少しほっとした。めちゃくちゃな年少さんだった年中さんも立派にしっかりとした日本語をしゃべっていてほほ笑ましい。保育者は何年もの経験があっても、毎年違う子どもたちと出会うわけだからいつも初心に返り、自らの足らざるを知り、子どもたちに寄り添い、先輩の話しをよく聴いて、明るく元気に仲良くしっかりとあおば台の保育をして欲しいと願っています。平成15年5月16日

もう!疲れる!

 北朝鮮の拉致問題で、横田めぐみさんの15歳になる娘さんがインタビューに答えていた。一見して利発そうな純朴無垢な少女である。インタビュアーの質問の意図がよくわからないので、堪え難くなってあちこちとチャンネルを回していたら、平沢拉致問題議員連盟事務局長に「平沢さんのやっていることは間違っているよ」と言っているのを耳にして、そこでチャンネルを止めた。テリー伊藤と言う色眼鏡をかけたいつも変な帽子をかぶって登場するタレントである。
 「5人の被害者を北朝鮮に返すべきだよ。残された子ども達はどうするの」とテリー。平沢さんは「拉致した加害者に渡すわけには行かない。現状を回復させることが第一である」「その上で子ども達を日本に呼ぶ」。「北朝鮮を怖がりすぎだよ。とりあえず北朝鮮へ返して子ども達に合わせて日本に一緒に帰ってくるのが望ましい」とまたもテリー。この発言は、あたかもテリーは子ども側に立って子ども側の味方のように受け取られる危険性があるが,売名的で木を見て森を見ていない。24年間も娘や息子の安否を気遣い,生きていることだけを信じて暮らしてきた家族の前で発言できるような事ではない。一緒に討論に参加していた司会者も、高速道路公団問題で忙しい猪瀬さんも、やんわりと焦点を外していたけれど、あのような社会的無知な発言は、多少なりとも顔が売れてきたタレントは厳に慎むべきであると私は思う。石原都知事と親しそうに話をしている番組を見たことがあるけれど,石原慎太郎の薫陶は受けていないようだ。

 チェチェン武装組織がモスクワの劇場を乗っ取って、ロシアにロシア軍をチェチェンから引き上げるように要求したが聞き入れられず,今日未明ロシア軍特殊部隊が突入し首謀者を殺害700名の人質を解放した。こんな芸当は日本にはできないだろうな。誰か死んだらどうする,人名は地球より重いとか言って犯行組織に言いなりになって,おまけに大金をくれてやる。海外へ行っても日本人がよく狙われるのもうなづける話だ。今問題になっている‘よど号事件‘もそうだった。人命に関わることでは常に及び腰で、その後になって事態をもっと深刻にしてしまう。何が正義なのか毅然とした決断が求められる顕著な例であろう。
 今回の拉致問題でも、政府がもっと大きな声でアナウンスしていたら、これほどまでの問題にならなかったろう。戦争になることが怖い、テポドンが怖いと言う卑屈な為政者による不作為が生んだものである。日本国民を守れない政府など無用であるとしみじみ思う。他国の国民を拉致することは犯罪行為はおろか戦争行為である。もっと以前に判っていたはずなのに返す返す残念でしかたがない。
 多分日朝正常化交渉の中で,拉致問題と核開発の断念がすぐ前にあるハードルであり,その後に相互に請求権の破棄を確認し経済協力問題に入っていくのだろうが,拉致された家族の賠償請求権は留保すべきだ。
しかし不思議なことがある。日本では不景気で職に困り,各家庭では切り詰めた生活をしているにもかかわらず、他国に何兆円と言う援助ができるのだ。国も地方も税収不足といいながら何故そんなお金があるのだろうか。そのマジックを教えていただきたい。何故介護保険料が値上げされ,雇用保険や社会保険が値上げされ固定資産税が下がらないのか。何故日本に敵対しているところに日本国民の税金が投入されるのか。日本国民をないがしろにして外国へ良い顔をしているのではないか。政府の説明が必要だ。

不満は言っても言っても切りがない。私の周りを見渡すと,勝者はいつも慈悲深く謙虚にして寛容である。その反対の敗者に最も近い位置にある者は,いつも悪言多く他を許さず卑屈である。不満ばかりを連ねると本当に口が曲がってしまいそうだ。しかしもう少し許してもらおう。
保育所がぐっと幼稚園よりになりそうな気配がする。これは保育内容ではない。保育内容と言うか運営内容はぐっと幼稚園が保育所に近づいてきている。それは保育内容は時間延長とかを保育所に近づけ補助金は幼稚園に近づけるものである。幼保一元化は台所事情から加速されそうだ。
この調子でいくと、楽をして子育てをしようとしている親と対立していたのでは、そう遠くない将来において、我が幼稚園の経営が成り立たなくなるだろう。園バスは家の前まで、預かり保育は親の望む時間まで,小学校の先取り教育,あれやこれやの早期知的教育,子どもへ絶えず監視の目と,指示語と怒声,しっかりして、親の手を煩わせない子どもを望む。オーヤダヤダ!子どもはみんな窒息死してしまうぞ。
やはり小学校をやらなければならないだろうな。そう言えば私の友人が、具体的に小学校を立ち上げる設置認可を県に提出した。後で提出書類を見せてもらおう。ガンバレ大久保博之!私にもやらせてくれっ!

頑張り切れなかった小泉さん

 日朝トップ会談が戦後初めて開かれた。専用機から降りてすぐに会談場所へと向かい、そこでは金正日が待機しているかと思いきや,わが国の首相が数分待たされたらしい。本来招待する側は、玄関先で待つというのが儀礼であろう。しかしわが国の首相は毅然とした姿勢で、ニヤニヤせず距離をおいてしっかりと握手を交わした。忍耐と寛容と度量の試される瞬間でもあった。成果はともかくこの姿勢は大変良かった。
拉致問題はすでに死亡している人が8人もいたという衝撃的なことから始まったが,日本国中誰もが信じていない。金正日は「私の知らないところで行われていた」と拉致問題と不審船について謝罪したと報道されている。絶対的専制国家の北朝鮮において、金正日が知らないところであのような事件が起こるはずがない。もし言っている事が事実なら、金正日の絶対的権力に陰りが見えてきたと言うことになる。となると権力抗争によって内戦勃発か、韓国へ侵攻するといった軍事行動が考えられる。
 外務省を?伏魔殿?とはつくずくうまいことを言ったなと感心している。日本外務省は日本国内にある小さな国で,日本国から外務を下請けしている独立国家なのだ。日本の将来や国民の利益などは余り考えないで,みんなで手をつないで外務省を向いているのだ。聞くところによると、拉致された家族が、我が子の生存を北朝鮮に照会してくれと頼んだら「身に危険が及ぶから余り騒がないほうがいい」と云ったという。旅券(パスポート)の最後に外務大臣が旅先で支障がないように、安全に旅行できるように各国駐在官に要請している文面があるけれど,あれは一体何なのだ。外務省に国家を代表する資格はない。
これから政治経済の中で、益々国境がなくなっていく社会になりつつあるから、体外的な役割は今にもまして重要になってくることは明らかである。口惜しいことだが、まずやらなければならないのは、国民の国民による国民のための外務省を新たに作ることではないだろうか。と思うと、あの田中真紀子と言う人物は、じゃじゃ馬だが並みの男では近付けない度胸を持っている。色々な経験をしただろうから、捲土重来を期して国民の前に出てくることを素直に願っている。
 よく分からないのは、日朝国交正常化交渉を急ぐ理由である。世界平和は誰もが願っていることであるけれども,北朝鮮がミサイルを開発したり、核爆弾を持とうとしたりするのは日本には脅威であるけれども何も日本の責任ではない。もともとスターリンの傀儡政権である金日成が、朝鮮半島を共産国にするために仕掛けた朝鮮動乱(戦争)の産物である。日本がかつて植民地支配していたからではなく、資本主義(米国)と社会主義(ソ連)との代表選手の喧嘩に巻き込まれただけのことである。中国とロシアの手に負えなくなってきたから,日本に押し付けてきているだけで,日本はかつて対峙していた中国・ロシアの手にまんまと乗せられてしまっているのだ。その証拠にアメリカの反応を見ればよく分かる。
正常化交渉を急ぐ理由が,北からの侵攻に怯えているとしたら、またそのときに起こるであろう難民に対処しなければならない政策は理由にならない。日本の国民を拉致し,覚せい剤やヘロインを闇市場で処理している犯罪国家であることを忘れてはならない。日本の政治家はよく平和を口にするけれども、実効性のある平和主義は、それなりの報復する手段を留保できる寛容な政治力である。それ以外は全てまがい物であるか,威を借る狐のレトリックに過ぎない。
百歩譲っても,拉致された日本人は海外で20人,国内で40人,今回のを合わせると約70人ぐらいいると聞いているが,その人たちの現状復帰と国際社会への謝罪を求めなければならない。北朝鮮を孤立させないなどと総理もあっちこっちで言っているが,孤立したから自ら打開しようと動いたのだということを忘れている。人道上食糧支援を行う用意があるなどといっているが,拉致と言う人道上の問題をないがしろにして良いものか。日本からの食糧支援は赤十字を通しても間違いなく軍隊に送られる。なぜなら権力者は軍の掌握は必須の条件だからである。国民が何人死んでも,軍隊の暴動は押さえなければならないのだ。そうなると北朝鮮の状況はかなり逼迫している事が解る。
 金正日は韓国との約束をずっと破ってきたので、恥ずかしくて金大中には今更助けてくれとは頼めない。だから何度もロシアに工場見学だといって食糧援助を求め,中国の江沢民にも懇願した。しかし、プーチンには日本に対し拉致問題を潔く謝罪することを進められ,江沢民には亡命者を何とかせんかいと言われ、金正日の茶色い眼鏡から汗がたらたらと流れた結果が今回の日朝会談である。しかもアメリカの?悪の枢軸?発言が強力な後押しとなっている。小泉総理はコペンハーゲンで行われているアジア欧州会議で、金大中大統領と会い?太陽政策?を支持すると改めて伝えたそうだが,本気でそう思っているとしたら大きな錯誤である。
 いっぱい書くことがあって、何から手をつけていいのやら戸惑ってしまう。ただの幼稚園の園長が何を言っても始まることではないが,幼稚園の園長ではなかったら,それこそただの路傍のおっちゃんである。にわか評論家というのではなく、一国民としての意見である。日本人としての積極的な意見であると理解していただきたい。
 国交30周年とやらで政治家も経済人も大挙して中国へ渡った。何と祝宴では6000人が参加し、記念植樹では12000人が参加したそうだ。特に政治家では橋本派が多くそのパイプの太さを誇示したと読売に書いてあった。政治家は100人ぐらいと書いてあったから、そのうちの60人ぐらい行ったのかなと思う。
式典の規模の大きさに圧倒されるが,正直言ってここまでやるかなと思う。北朝鮮の問題も江沢民に頼まれ,日本の政治家が功を競い、江沢民の茶坊主にならなければいいなと密かに心配している。猫も杓子も中国・中国。少しばかり恥を知れ!と言いたい。これから外交委員会で誰がどのような発言をするのかよく見ていかなければならない。声の大きいのと理攻めで言ってくる政治家に注意をしよう。
 中国は日本国総理が靖国神社を参拝する時に「やめなさい!」とはっきり言いましたと言った外務大臣がいて,日本から大分抗議された。いつでも中国は戦後処理のカードと靖国参拝のカードを握って日本と交渉してくる。そして声を荒げてまくし立て、実に騒々しくて決して頭を下げない。日本の政治家の中国ロビーストは中国における膨大な利権を求めるのではなく、また相手を過度に賛美するのではなく、日本国民のために折衝すべきである。それは物の豊かさではなく、卑屈な妥協は決してしないと言う誇りである。これがなければ、どんな立場にある人でも軽蔑の対象になる。
 
 (ここから少しトーンを変えて)
私は何度か保育所のことを書いているけれど,運営や経営の実態はまったくわかりません。国の所轄が違い,保育所に注ぎ込まれる補助金の額が、幼稚園に注がれる額とはけた違いであることはよく認識しています。例えば,預かり保育に関する補助金は文部科学省では16億円の予算で厚生労働省では270億円というように桁外れです。同じ年代の子どもを預かっているにもかかわらず,このように差があるのはひとえに政治力の差であるなどと、まことしやかに言っている人がいます。実は私もそう思っています。公平な徴税と国民への公平な分配より,政治家の力による分配なのだなどと今更のように言うのも白々しいけれど・・・。保育所をやったらどうですかと,そのノウハウを伝授してくれる優しい仲間もいますが、真面目に聞く気になれない。
 保育所ができたのは、昭和22年戦後の混乱期に、親のいない子や両親が共に働いていて、居場所を無くした幼児を児童福祉法によって、保育を必要とする子を措置すると言うことになったわけです。今はその趣旨とは若干異なるけれども、まだそのような状況にあるとは、政治家の不作為であると思います。
 本来保育所の必要性がまったくなくなるというのが、経済大国であり福祉大国であろうと前から思っています。生まれた時から保育所という施設で国が預かってくれ,幼児を早めに母親から引き離すことが福祉であると間違っている向きがあります。それは本末転倒な話で,本当は生まれた子を母親の下で安心して育てられる国家の体制こそが福祉なのだと思います。待機児童ゼロなどのくだりは,福祉のまやかし,教育の荒廃に国が手を貸しているようなものであると真に思います。
 とはいえ、「幼稚園に来れる子は幸せだ」などの声も聞かれるので,保育所を必要としている方も随分多いんだなとも思います。なるべく1・2歳児は母親の元で育てたほうがいいから,多少無理がきくならそうしてやって欲しいです。後で問題が生じることになったら,1年や2年で解決できなくなる怖れがあります。
幼児期で一番大切なことは安定した温もりと人間として生まれてきて、大人や仲間を信頼できるということを体感することです。0歳から施設に預けることは、この信頼を母親から最初に裏切られると言うことです。どんな言い訳をしてもこの事実は変わりません。少し厳しいようですが、子どもを救うためには多少の辛口は必要だと私は思っています。・・・子ども達が大人を信じられる社会になれますように・・・。

小泉さん頑張って!

 いよいよ明日は小泉首相が北朝鮮へ行って、金正日総書記とさしで話をする。食料も経済状況も極端に疲弊し、挙句の果てにブッシュ大統領から‘悪の枢軸,呼ばわりされて世界的に四面楚歌状態である。今までのことは何とか水に流して、日本の協力を得て国を建て直そうとしているのだろう。今まで同様、都合のいい話である。
 拉致問題を行方不明者などと置き換える手法は決してとるべきではないし、朝銀問題に国民の税金を注入してはならない。テポドンだかノドンだかの中距離弾道弾の、日本上空あるいは日本に向けての発射実験については速やかな謝罪を求めること。連合国と共に戦った日朝間に戦後処理は存在しないこと。あるとすれば敗戦処理における36年間にわたる植民地支配の終結による決算。日本が朝鮮から搾取した資産や日本が朝鮮半島に投資した資産など、互いの財産の収支は日本が残してきた資産のほうがはるかに大きいので、強者に支配された国民の精神的な屈辱を和らげ、謝罪の意味を含めて日韓間で経済協力という形で解決済みである。ちなみに大英帝国をはじめ、植民地が独立を果たす時、謝罪するとか、協力するなど聞いた事がない。アメリカ独立をはじめ盟主国と戦って独立を果たしている。
 いずれにしても今回の会談は、触手を伸ばしてきたのは北朝鮮である。イラクの次に狙われたのではたまったものではない。当分の間日本を盾にして置きたいという思惑もありそうだ。コメ問題と同じように食い逃げされないように細心の注意を払い、大胆に言い分を通していただきたい。交渉決裂でも堂々と胸を張って帰って来ていただきたい。
 
明治11年にフランス人宣教師が母国への報告書に,日本人を指して「辛抱強く,勇気があり,慎み深く,丁寧親切,名誉を重んじ,礼儀正しい」と評したそうだ。だから日露戦争が始まったときに、日本がきっと勝つだろうと予言した欧州諸国が多かった。400年も前にきたフランシスコ・ザビエルは日本国民を「これまで発見した国民の中で最良な国民であり,異教徒の中でこれほど優れた国民を見ることはできない」と言ったという。織田信長のあの下克上の時代にである。インドネシア外交官アリフィンベイは「戦時中の日本人はもっと温かい人間で,軍隊が統制していた時でも国民は道徳的だった。戦時下であっても思いやりのある人間を育てることができた。それが戦争に負けたからといって,その精神的美徳を根こそぎ捨ててよいものだろうか」と?魂を失った日本人?のなかで憂いている。たしかに哲学者オルテガの言う?精神的貴族?は日本には少なくなっている。これは、例えば男らしさとか女らしさ,父親らしさ母親らしさ,役人らしさ,企業人らしさ,社長らしさといった?らしさ?に回帰する所在があいまいであることが障害になっているからであろう。
 前回中国に対するODAの事を書いていたら、ニュースですでにご存知でしょうが,インドネシアへのODAについて地域の住民から日本が訴えられているという、世にも不思議なことが起こった。ほとんどの国の地域住民に感謝されているのがODAと思って間違いはないけれども,たまにこんな事もあり得る。その地域の住民の意思とは別に、業者や政治家や有力者のためにやるからだ。政府開発援助というのは後進国地域にしかないのだから、先進国の第一線で活躍できない外務省関係者は、腕の見せ所で,うまみのあるのがODAなのだ。だから国民が増税で下唇を噛んでいるときにでも、平気でODAの増額を予算化しようとしている。まったくどこの国の役人なのだ。
どこの国の役人の発言だかよく分からないのに,先の拉致問題がある。阿南元アジア局長は「拉致で騒ぐのは国益にならない」と言い、槇田邦彦元アジア局長も「たかが11人のことで日朝関係が悪化していいのか」と言ったらしい。拉致された家族の前で土下座しても余りあるのではないか。このような国際正義もなく温もりのない人間が政府高官なのだから、日本はなめられてもある面では納得がいく。
田中前外務大臣は外務省を伏魔殿と言った。伏魔殿とは化け物屋敷,または悪人どもが集まって悪だくみをする所である。何と言われようが彼らはへこたれない。日本の最高峰のエリートという自意識を持っているし、だから誰も手を出せないと思っている。革命でも起こらない限り安全だと思っている。革命が起きたって、自分が国民のためになってなかった自覚のあるやつは外国に亡命するから、口惜しいけれどいつまでたっても安全だ。しかしこうゆう人は国民の力で何とかしなければならないでしょう。

そろそろ茨城の土浦では新入園児の募集が始まります。初めてお子様を幼稚園に入れるご両親は,子どもよりもむしろ自分達のほうがドキドキしているのではないでしょうか。オムツがまだ取れないとか,トイレットトレーニングがうまくいかなかったとか,離れた後の子どもの様子を想像したりしながら、不安な自分にその後ろからまた不安が追いかけてきているような、半ば恐怖に近くなる時もあります。そんな時「私は今親をやっているんだ!」とこぶしを握り締め気合を入れなおしてください。立派な親です。何も心配もなく、早く手元からはなすことに喜びを感じているようでは,何のために生まれてきたのか子どもが余りにもかわいそうでしょう。無意識の虐待の始まりです。
最近虐待どころか、子を殺してしまう痛ましい事件が頻発しています。幼児期に両親に十分に愛情をかけられなかった未成熟な大人の犯行です。幼児期に育てられたことを記憶に子どもを育てると言われますが,その証明です。
今国を挙げて待機児童ゼロとか、働きながら安心して子育てができる保育所の体制など声高らかに叫ばれていますが、果たしてこれは真実でしょうか。真に子どもの大切なものを守ろうとしているわけではありません。為政者の小手先のパフォーマンスに過ぎません。なぜなら、青少年の犯罪やいじめの根底にあるものは、温もりの欲求から来るものだからです。0歳児から保育所に入れ、親の温もりと他人の温もりの違いが分からなくなってしまうような育て方をしては決してならないのです。該当者や保育所に気付かってだれも真実を言いません。それは現にそのシステムを必要としている人がいるからです。でも真実は母親が1年以上抱いて育てることが最善です。必ず反論がありますが,何と言われようと、生まれたばかりから他人に預けるようなことは避けてください。決してうまく育ちません。
母親自身の利便性のために、ある託児所へ入れ虐待を受け、子どもを殺してしまった事件がありました。生きていて幸せになるか不幸になるか定かではありませんが,幼児期に長時間母親とはなれた暮らしを強制されるのは、それ自体が不幸であります。親の言い分が解らないわけではありませんが,幼稚園の園長として親の言い分に沿うか,子ども側に重心を移すかと言えば、当然言を待ちません。子どもを守る側に立ちます。
長時間子どもを預かれば補助金がいくら出るだのの話はもううんざりだ。一方では親子を引き離す役割を担っているのだから整合性がない。たまに預かりがあるけれども、子どもは最初のうちは「きょうはあずかりー!」とか言って喜んでいる姿もあるけれども,時間がたつにつれて徐々に元気がなくなっていき,母親が迎えに来ると飛んでいって叩いたりけったりして手に負えない行動に出るのです。このような行動に出ることを?聞き分けがない?と言って大人は片付けてしまいますが,このような行動の出る子は正常で恵まれているといって良いでしょう。よく考えてみてください。このような母親のいない状況に慣れてしまって,何にも感じない子では可哀想ではありませんか。
幼児期はしっかりさせるために訓練をしてはなりませんし,また物を豊富に与えたり、ビデオなどによって子育てを任せてしまってもなりません。子どもの心に沿い、何を教え何を感じさせるかを明確にしなければなりません。こんなことを書いていると難しく考えてしまう人もいるかと思いますが,何も難しいことはありません。母親の感じる力を信じて,この子が今何を感じているのかを探ることです。子どもの心に沿うことは,子ども側に立って、今の子どもの心のありようを理解しようと努力することです。疑問をもち共に学んでいきましょう。

腹に据えかねて

 国家の基本となるのは、第一に教育であります。第二に教育であります。そして第三に教育であります。こんなことは「米百表」の話を聞かなくても国民の多くが承知している。ゆとり教育といって学校5日制にし、教科書の内容も難しいところは省いたようだ。円周率も3.14から3になり、日本の近代文学の礎となった森鴎外も夏目漱石も教科書から消えた。それでなくとも学力の低下を懸念されていたものだから国中の学者や保護者から批判を浴びると、子供だましのように少しばかり教科書をいじったようだ。教育日数が減りそのフォロウはどうするのかというような率直な疑問に、塾にも頑張ってもらうというようなことを言っていた文部科学省の役人もいた。当時文部省自らの教育の放棄だと騒然となったが、すぐに言を撤回したので事なきを得たが、日本の教育行政の骨のなさには開いた口がふさがらない。もっとも学校5日制は日本の教育形態を日本独自に研究して、そのほうが子ども達のためにベストなのだという結果ではなく、働く側(教師)の労働時間の問題から出てきたものだから、後になって教育的考察を入れたってすぐに見破られてしまう。他の公務員と同じにするなら何故特別職なのか、かすかな疑問を感じる。
 宮沢賢治が花巻の片田舎の学校で初めて教壇に立ったとき、彼は子ども達に三つの約束をした。一つ目は「私は一生懸命教えますから,皆さんも一生懸命やってください」。二つ目は「教科書は開けないで下さい。それから私のしゃべる言葉はノートにとらないで下さい。なぜならばしゃべっている言葉は消えてしまいます。あなたがノートにとっている次の言葉を、どうやってあなたの体の中に入れるのですか。だからノートはとらないで下さい。必要ならばあとで私が書きます。だから全身全霊で私の授業を聞いてください。それと同時に私も皆さんの発言を全身で聞きます」。三つ目は「あなた方が分かるまで私は教えます。だからわからなかったらわかるまで質問してください。わかるまで努力してください。皆さん方がわからなければ、前に進みません。皆さんがわかってから進みます。これが私からあなた方へ対する三つ目の約束です」といって授業を始められたそうだ(教育評論家 阿部進)。何ともウットリする話ではないか。
 「今日は何ページから始めます」とか「よく聞いてよくメモしてください」というのとは違う。何よりもこの時代は「三歩下がって師の影を踏まず」と言ってたくらい教師の社会的地位は高かったし、親も子どもも教えていただくというありがたさを教師に対して持っていた。そんな時代であったにもかかわらず、教える側も教えられる側も平等で,人間と人間との胸を突き合わせる真剣勝負であることと、宮沢賢治の博愛的な温かい人間性を強くを感じる。
 私は何度か教師批判をしているが、何も公立の小中学校の教師全員を批判しているわけではない。宮沢賢治のように子ども達に忠実で、一生懸命教えている教師の存在も承知している。そういう教師を目立たせない学校の体質に問題があることを指摘したいのである。円満退職したいという小心者の校長は、問題を起こさない保身の術に長け、子ども達の発達の犠牲の上に成り立っていることに気付かない。そのような校長を教頭が後押しし教務主任が支える。そのような学校に通う子ども達は悲惨で虚しい。
 最近の犯罪白書では青少年の犯罪が目立ちその年齢も低年齢化している。社会にも家庭にも地域にも、子ども達を健全に育成する力がないのならば、学校がやらなければならないのは当たり前のことである。家庭の教育力とは主に躾や道徳に関すること。最終的には我が子の責任は親が負うことだが、親が高学歴とは無縁でその力は非常に乏しいことは私も少なからず理解している。だからといって大声でそう叫んでも余り意味はない。今は心有る教師が団結して行動するしか子どもを救う道はないのだ。
 保護者は何でもかんでも教師に責任をなすりつけてはならない。勿論教師側に責任の多くがあるかもしれないが,家庭における教育の非力さは否定しようがない。何でも自分の責任を回避して、他人の責任にして自分を納得させるような低次元な生き方はやめよう。子どもの内面的な発達にマイナスである。
 明治の初期に遠い未来を見つめ、世界に先駆けて公立の学校制をひいた先駆者達は、今日の現実を見て何を思うだろうか。今こそ大胆な改革が必要なのだ。文部科学省にその力がないのなら、あらゆる規制を撤廃し小学校を私学に創りやすいように便宜を図り、熱心な義務教育を実現させることに力を貸してほしいと切に願っている。
 もうひとつ言わなければならないことがある。教科書問題は自国の問題である。中国や韓国が盛んに干渉してくるけれど、他国から執拗に自国の教科書について干渉され、優柔不断な態度でいる国があるだろうか。きっぱりとした態度が必要なのではないだろうか。
 日本の第二次世界大戦についての記述や、韓国併合の記述についてが問題になっている。新羅が百済を滅ぼした時はどうなのか。ジンギスハーンの手先となって漢民族がが博多を攻め入った元寇はどうなのか。村人が一人残らず皆殺しになった島もあった。それはまぎれもなく日本人が殺されたのである。その後秀吉の朝鮮出兵など不幸な関係もあった。韓国人は誇り高い民族であるから、日本に併合されたことがどうしても許せないのだろう。しかし地球上の列強は次々と植民地を拡大し、弱い国は植民地化されたり属国となったのだ。それは世界史にあるようにまぎれもない事実である。戦後処理については、国際法上まったく問題がないのに、何故日本だけが、戦後57年も経て言われ続けなければならないのか。日本の戦後の目覚しい急速な復興に多少の嫉妬があるのかもしれない。
 韓国や中国の社会科の教科書はまだ見たことがないが、見てみたいとも思わないけれども、日本人を鬼畜生のように記述してあると友人から聞いたことがある。私は戦後生まれであるが、戦後57年も経って根深い恨みもいい加減にして欲しいものだ。そうでなければ本当の友人になれないではないか。
 中国の外務大臣をやっている銭キシンとかゆう横柄なおっさんに問うてみたい。アヘン戦争と日中戦争のどこが違うというのだ。あの当時は圧政清朝時代だから英国が中国人民を開放してくれた正しい戦とでも言うのだろうか。戦争という狂気の時代を平和な現在の倫理に照らすと,何もかもが犯罪である。戦争は勝者も敗者もなく、愛するものを失いただ悲しいだけだ。少し暗い本だが、五木寛之の「運命の足音」を読んでほしい。
 中国は謝罪とか戦後補償とか言っているけれども,6兆円を超える補償を引き出し、その上たくみに多額のODAを引き出している。日本からのODAの25パーセントあたる金額を中国は他国に援助している。軍事費はうなぎ昇りである。後進大国中国は巨大な市場を持っているだけで、国際社会では頂き放しで大したことはしていない。精一杯大国風に背伸びしているだけだ。中国の外交は相も変わらず、背広の下に鎧をまとっている恫喝外交で品性に欠ける。中国に国民の税金であるODAは必要ない。馬鹿にされすぎである。日本政府もいいかげんに土下座外交は止めて、勇気をもって真実と正義を貫いてほしいものだ。後ろには国民がついているではないか。
 北朝鮮の日本人拉致問題は犯罪なのだから,これにリンクされる政治的交渉はないことを毅然とすべきである。戦後補償が優先されるべきだなどといっているようだが、犯罪国家が戦後補償だのはチャンチャラおかしい。戦後補償は韓国の間で解決済みである。政府もマスコミも何故そのような解説をしないのか不思議だ。なんでもかんでも穏便に相手の顔色ばかりうかがっていると,日本国民は自虐的になり正義も誇りも失っていく。
 地位も名誉も何もいらない、命がけで国民を守ろうとする政治家や官僚がもう少しいたら、この不景気だって何とかなるはずだ。それよりも何よりも日本人としての誇りを持っていたいのだ。多少食えなくなったって、勇気と誇りだけは失いたくはないと願っているのが日本国民の本心である。
 中国の瀋陽で起きた北朝鮮亡命者の日本領事館突入事件は、生涯忘れることのできない事件である。あの事件も日本人の誇りを粉砕するのに余りある。命がけで亡命を果たそうとしている親子。門の敷戸に手をかけて絶対にこの手を放すものかと歯を食いしばり、中国警察の力任せの暴挙に、結局は力尽き連行されてしまうのだが、その一部始終を見ていた4歳の女の子は、泣きじゃくりながら何を思ったただろうか。人間の尊厳をかけた攻防がそこにあったのに、領事館勤務の日本人は、なすすべもなく中国警察の帽子を拾い上げ、帽子のごみを落としていた。まずは幼児の安全を確保するなどの措置をどうしてとらなかったのだろうか。テレビのある国にはあの映像はすべて流れたそうだ。命がけで人を守ろうとする勇気のない冷たい日本人として流れたのだ。屈辱的な出来事である。

 少し本業に戻った話をしてみたい。青少年の犯罪が増えているということを書いたけれども、幼児期に何らかの虐待を受けていた経験のあるものの犯罪が90パーセントを越していることが明らかになっている。
 虐待というと暴力というようにすぐに結び付けてしまうけれども、実はそんな単純なものではないのです。暴力のようにはっきりと外傷に表れるものと、内面に残る傷のように見えにくいものがあります。暴力による虐待はついには子供を死亡させてしまうこともしばしばで、悲しいことによくニュースで流れてきます。内面への虐待は、子供を非社会的な人間として増長させてしまい、寡黙で陰湿になります。これが非常に見えにくい。たとえば、母親が自分のことばかりに一生懸命で、あまり子供に関心を示さないいわゆるネグレクトも立派な虐待であり、それが子供を虚しくさせていく。幼児期の寂しさは単なる甘えによる寂しさではなく、大きな不安なのであるからそれに対応できなければ、子供の心の深層に入り込みそれがトラウマとなって大人を信頼しなくなり、優しい仲間を求め非行に走る。親子の中では、時にはぶん殴って子どもを諭すこともあるかもしれないが、親の都合でしかったり,ストレス解消のために叱ったりすると、すぐに子どもに見破られてしまい、それが子どもの内面に鬱積する。鬱積したものは必ず暴発する。しかし真に子どもの将来を思い鞭を振るうならば,かえって子どもの内面に善の力として内在するだろう。いずれにしても親がわが子が犯罪を犯すようになったら、末代の恥ぐらいの認識がなければならないのは言うまでもない。
 長時間子供を預かる(預かり保育)と補助金が出るだの、子育て支援といって働いている母親が、安心して仕事ができるような事業を展開すると補助金が出るというような施策を国がやっている。母親が安心して子育てを他人に任せられるというくだりがなんともやるせない。本末転倒な話である。子供にとっては母親の代役などどんな美名のもとにも不要である。0歳から保育所に預けられ、毎日毎時間違う温もりの人に抱かれ、どの温もりが母親だったのか、ついには分からなくなってしまうのだ。これを虐待と言わずに何と言えばよいのだろうか。
 行政は常に子供側から施策を講じたことはないのだから、国の施策が子供にとってベストであるということはない。待機児童ゼロ政策がよい例で、そこに入れずにはみだした子供は幸せである。
 かつてテレビで専業主婦と仕事を持っている母親とのデイペードがあってしばらく見ていたけれどバカバカしくなってチャンネルを変えた。子供にとっては、母親が家にいることが最高の幸福であることは動かしがたい事実であることは疑いがない。にも拘らず自分を肯定するために強弁を弄して、否定されたくない一心の業の深さを感じて、吐き気がしてきたのだ。仕舞いには、その母親の子供にインタビューがあってこういうのだ「私を育てるためにお母さんは働いてくれたのです。とても感謝しています」母親はウルルとなって目にハンカチを当てている光景が映し出されている。安物の茶番である。大好きな母親で私を育ててくれた人にどうして反旗を翻すことができようか。願わくば、もう少しでもいいから私を見ていて欲しかったというのが健全な親子関係である。そして母親は「ごめんね」と子どもに謝ることが大切だ。
 現実にこの社会で保育所を必要としている人がいる限り、保育所は福祉事業として国の責任において継続されるべきものである。しかしなるべくならせめて生後1年ぐらいは自分の手元で育てないと母親にはなれないでしょう。
 最近では政府も公益法人も、その辺にたくさんある団体が男女共同参画社会という言葉を使い出した。もとよりこの繁栄は男女の協力関係にあることを認識しているし賛成である。子育ても女性だけの仕事ではなく、男性ももっと協力すべきである。これにも賛成である。しかしながら私は男女の性差による仕事の分担が公平であり平等であると信じている。父親が懸命になって赤子におっぱいを飲ませようとしたって無理だし、所詮母親の温もりには父親は太刀打ちできない。母親というのは自分の体から子供が生まれてくるので、ごく普通であればその絆は計り知れないようだ。子育てには心配も多いだろうけれども、世界中にあなたしかいない母親を、十分に楽しみながら子育ての素晴らしさに是非気付いて欲しいと思います。子供はやっただけのことは必ず返してくれますからやりがいがあります。我が子の素晴らしさをたくさん発見してください。

何となくブルー

 小泉総理が田中外相を更迭したことによって、その支持率は下り坂を何の抵抗もなく転げ落ちるボールの如し。2月20日のNGOに関する参考人質疑では、田中前外相は外務省改革が思うように進まないのは、前に出ようとしてもスカートのすそを踏まれていて前に出られない、踏んでいるのは官邸にいるといい、自分を更迭したのは首相の間違いであると言い切った。全面的に現内閣に反旗を翻したわけだ。そしてマスコミも手のひらを返したように一斉に抵抗勢力に転換した。

民間のニュースキャスターやマスコミ一般の身軽さにはまったくもってハエみたいなもの。小泉首相が誕生した時には、90%近い支持率に寄り添って暗に抵抗勢力といわれている政治家を批判し、大衆に媚を売ってきた。世論の支持率の低い内閣は必ず長持ちしないという今までの経過を踏まえて、一斉に小泉批判に急傾斜した模様だ。バラエティ番組でも、朝昼晩とひっきりなしに小泉首相の批判が目に余る。政治評論家でもない、ちょっとテレビで顔が売れているぐらいのおばさんまでも言っている始末だ。諸葛孔明も断腸の思いで泣いて馬蜀(蜀は当て字)を断ったではないか。

よくよく分析してみると、田中前外相の言っていることは政治家としての、あるいは日本国の外相としての理念に基付いた発言ではなく、私事の怨念を吐き出したということで個人的鬱憤をメディアをつかって日本国中にばら撒いただけの話である。小泉首相にしたって誕生してまだ10ヶ月ではないか。誰が首相になれば、この国の現状を大きく希望のある国へと誘導できるというのだ。見守るという度量の大きさが求められているときなのだ。誰かが「世論に浮かれていると本当に衆愚国家になってしまうぞ!」と警鐘を鳴らさなければならないのだ。

郵政三事業の民営化、道路公団の民営化、効率の悪い特殊、特別法人は全て民営化し、税金を払ってもらうというわけだ。このようなことを大胆に実施することによって、官僚の天下りによる納税者の不公平感を無くし、政治家にあっては族議員の排除というねらいがある。このような大それたことを誰にできるというのだろうか。またペイオフの実施は、今まで銀行法により銀行はつぶれないという神話によって、天下り官僚が銀行の頭取におさまり経営責任を問われることもなく大盤振る舞いをして、今日の不況を招いてきたことを諌めるものである。銀行も左団扇で仕事ができなくなるということである。このような構造的な改革をしようといっているのだ。それにしても、日本の金融機関と旧大蔵省と日本銀行の責任者たちが予測を誤り現在の不況を招いたはずなのに、その原因の調査や誰が携わっていたのかなど一切不問というのはおかしい。

 福田官房長官と田中前外相のいざこざは、角福戦争を二世代にわたってやっているようで見ている方でも何だか怨念がましくてあまり気持ちのいいものではない。ご両人もその辺のところは意識しているようで、なるべくそのような雰囲気に持っていかないように努力しているようだが、当時を知っているものには下手に勘ぐられる。鈴木宗男議員のことは、中川一郎先生の秘書官時代から知っている。秘書官時代から現在まで“秘書の鏡”と云われている。中川一郎率いる青嵐会の金庫番であり、秘書でありながらその権勢は衆議院議員の当選1回や2回の議員では太刀打ちできなかった。私のように距離のあるものに対しては、面倒見がよく、早口でにこやかに“何をしてもらいたいのか”要求するぐらいの人だった。しかし当時鈴木宗男秘書官にお会いするのに、直接お会いできる人はそうは多くはなかった。必ずその下の秘書官がいたものである。その行動についてミニ角栄と言われているが、どちらかと言うと雰囲気は浜幸さんに似ている。
 その後中川一郎先生が自殺し、中川先生のご子息中川昭一さんと共に北海道5区から出馬し、見事お二人とも当選した。今回のODA疑惑で自民党内から離党勧告が出されそうであるが、口火を切ったとされる議員が、かつて中川一郎先生と政治信条を一つにした青嵐会のメンバーであることが因果を思わせる。

 さて構造改革であるが、医療改革は医者の収入を減らし、サラリーマン30%負担が明記され15年度から開始と聞いた。15年度といったら来年である。急いでどこが悪いのか今年中に治しておこうなどと思っても、こればかりは都合がつかない。診療報酬をカットされる医者もそれなりの社会的な地位があるのだから、それなりの経済的待遇を受けてもいいはずである。しかし一家に3台のベンツは要るまいと云われているようだ。豊かな生活はこっそりやればいいのにと思う。
今度削られるのは、間違いなく福祉関係であろう。特に措置費でまかなっている保育所の形態が変わろうとしている。すべて“受益者負担”ということになる。保育所を経営しているものにとっては大変な打撃である。当然入所者にとっても大変な負担になることは間違いない。幼稚園との違いは保育時間の差と所管が違うだけになるだろう。保育園や保育所のことはあまりよく知らないが、入所者が経営側と直接契約などとなったらかなり混乱するだろうなと思うし、0~2歳児などは到底措置されないと預かれないことになる。

 自分のことは自己責任においてまかないなさいと言うことだから、幼稚園側も対岸の火事としてみているわけには行かない。現在補助金の交付を止められたら、全国で1割の幼稚園しか残ることができないだろう。全額カットされることはないにしても、かなりの減額になる時代がそう遠くない時期にきっと来ることは間違いない。そのような状況が予想される中、保育所や幼稚園の公設民営化が進んでいる。地方の自治体で幼稚園を経営すると、私立の幼稚園と比べると3倍も費用がかかるというのも珍しくないからだ。だから自治体で私立に補助金を出して経営してもらったほうが安上がりなのだ。その上私立の場合は競争があるから、何とか良い保育をしてわが園に子供たちを呼ぼうとするので、質の低下ということもなくむしろ前向きで活気がある。

 何事にも大変な時代がやってきたようだ。幼稚園が保護者に試験される時代はもう始まっている。しっかりと信念を持たないと社会的なリストラにあってしまうのだ。心して前進しよう。

ユダヤ人青年のこと

 9月11日のニューヨーク貿易センタービルへの無差別同時テロという、その規模から言って前代未聞のショッキングな出来事があって、それ以前に起こった様々な出来事の影が薄くなってしまった。
 前代未聞の高支持率を引っさげて誕生した小泉内閣は、国内におけるNO1のニュースに違いなかろうが、それすらも吹き飛ばされてしまった感がする。前代未聞といえば、戦後のこの不景気も仲間にはいれる。何と言っても1929年の世界恐慌と同じような不景気だといっている人がいるくらいだから大変な不況のようだ。とはいえ、そのときの状況を現実の話として語れる人がいないのが信憑性に欠ける。
 テロ以後に皇太子ご夫妻に内親王殿下がご誕生なされたことは、唯一といっても差し支えないくらいのハッピーな出来事ではないだろうか。きっと来年はそのハッピーを引きずって行って良い年になるだろう。そのように考えよう。

 あおば台には実践保育については幼年教育研究所所長の久保田浩先生、理論武装の後ろ盾になっていただいている先生には、現在は東京成徳大学教授の杉原一昭先生がいる。その杉原先生が今年の3月に筑波大学を退官なさって、退官記念?と言っていいのか定かではないけれど2月13日に最終講義があった。私も妻とともに聴講のお許しを得て講堂に参座させていただいた。講堂は超満員で少し遅れてしまった私と妻はどうして良いものかと、しばらくは人と人との隙間から教授の顔を覗いていた。たしかに覗き見をしているような感じだった。前の人が少し動くたびに上下左右に私も体を動かさなければならなかった。こんな思いをするならもっと早く来ていれば良かったと悔やんでいたところに、杉原先生が主管されている幼児心理学研究会の研究生が、目ざとく発見してくれて、隅のほうの席に誘導してくれた。大助かりであった。
 杉原先生との出会い云々は紙面が足りないので後に譲るとして、私は先生の授業が受けたくてニセ学をさせてもらった経験がある。授業が受けたいと思ったのは生涯この一回だけである。しかしこの途方もない図々しさよりも、さすがに私の羞恥心が勝り一日と持たず退散してしまった。やはり大学は合格して行きたいものだ。
 その先生の最終講義のテーマは「生きることと死ぬこと」だった。ある老教授の生き方が題材として取り上げられそれが講義の柱であった。「得ることよりも与えることに人生の価値があるのだ」「老化することを素直に受け入れる。老化は単なる衰弱ではない、一つの成長であると楽しんでいる」何とも含蓄のある言葉である。
 あるユダヤの青年がナチスの憲兵に捕まり、明日にもアウシュビッツに送られガス室に放り込まれてしまうのではないかというその晩に、青年は収容されている場所をこっそりと抜け出し、町の図書館に盗みに入った。そして自分が一番読みたい本を選んで持って帰った。
「生きることと死ぬこと」・・・・しばし唸ってしまった。「あ~あ 何ということだ!」とも叫んでいた。年の瀬になって年初めの頃の話で恐縮していますが、今年一番の、否過去に覚えがないほどの魂を揺さぶられた出来事であった。自分の心臓を握り締め、悔しがっているのか、無性に涙が止まらなかった。人はそれぞれに考え方も感じ方も違うが、私の半生においてこれほど強烈なことはなかった。
 私はただただこのユダヤの青年のことと、杉原教授に感謝がしたくて駄文を労してしまった。何か大きなものを失っていたことに気付いて、大きなものを与えられた気がしてならない。この歳になって・・・・ありがたいことだ。
毎年12月23日には先生の教え子達が集まる「杉の子会」がある。今年はもうすぐである。先生に会えること、皆に会えることをとても楽しみにしている。

もっと言わせて

ニュ-ヨ-クの世界貿易センタ-ビルへ、旅客機をハイジャックしたテロリストが突っ込んだ。現実は小説よりも奇なりと言う諺があるが、映画のシ-ンでも見られないような光景であった。事件のあった当日何も知らなかった私は、翌朝のテレビのニュ-スを見て気づいたのたが、最初はまだ自分が寝ぼけているのではないかと何度も我が目と我が耳を疑った。他のチャンネルを回してもどこでも同じニュ-スを流していることに、ようやく事の重大さに気づいたという、何とも情けない次第であった。
 ちょうど朝の仕事始めか出勤時間に重なって、その被害は計り知れない。いち早くブッシュ大統領は「アメリカへの戦争行為である」「われわれはテロ組織の殲滅を確実に行う」ことを全世界にアナウンスした。日本の野党議員の中には「ざまあみろ!と思っている人もいる」と自分のホ-ムペ-ジに書いた若い女性議員もいた。大衆の批判によって慌てて謝罪したらしいが、そういった価値観しか持ち得ない人物が国会議員にいるというだけで、日本の、日本人の社会性とモラルが疑われる。
 このような重大な事件が起こると、その人の価値観や人生観がはっきりと表れてくる。日本でも今回は湾岸戦争のときよりも意識が高く87%の国民が後方支援に賛成している(読売)。日本人を含め世界80ヶ国の人々が犠牲になったのだからその怒りは当然のことである。無差別大量破壊と大量殺人に世界が愕然としているにもかかわらず、まだ「アメリカの問題」「武力反対」だの「罪のないアフガンの市民はどうなるのか」などと倒錯した論理をかざしている日本人もいる。
 わたしは思う。国の始まりが一つの家庭だとするならば家庭の主人に問うてみればよい。あなたの妻子が何らかの人的な事故に巻き込まれた時、暴漢に襲われて命の危険にさらされた時や、そして命を奪われた時、あなたはどのような行動をとるのか。普通の人間なら、そして家庭に愛情が深ければ深いほど、悲しみも深く憎しみも深くなるはずである。フェミニスト然として遠くのほうで「武力行使反対」を唱えてもいいが、毅然と論拠を示し命がけで主張すべきである。忘れてならないのは犠牲になった家庭の人々の前でもしっかりと主張しなければならない。

 さてこのところ当然といえば当然のことだが、アメリカのアフガン進攻がいつになるのかということが大体のニュ-スの行き着く場所になってしまっているが、問題があるのはアフガンばかりではない。
尖閣列島に中国の調査船が入って地質調査の名目で掘削作業までしていたという報道があった。国際法上他国の領土での掘削活動はしてはならないということになっているらしいが、外務省は「やめてください」と先方に伝えただけで「そんなことをするなら出て行ってくれ」とは言わなかった。中国は覇権を唱えないと対外的に紳士の風情を見せながら、フィリピンとベトナムが領土を主張している南沙諸島の問題では、話し合いよりもまず軍隊を出して既成事実を作ってしまった。それほど遠くない将来、いずれ尖閣列島も武力をちらつけながら領有権を主張してくるだろう。そのとき日本はどうするのか―――。戦うくらいなら領土を放棄してしまえという類も出てくるかもしれない。靖国問題でも教科書問題でも国内の問題にもかかわらず韓国や中国に干渉されている。どこの国にこのようなことを許している国民がいるのか。
 わたしは戦後生まれだから、戦争によって日本軍がどれほど悪いことをしたのか分からない。父は軍人だった。多分両親から聞いてはいないが、身内の中で何人かは軍人で人殺しをしただろう。わたしはそれを恥じだとは決して思ってはいない。世界史を紐解いても、中性のヨ-ロッパは植民地政策一色で隣国同士で覇権を唱えて争ってばかりいた。日本といえば1853年にペリ-が黒船を連れて浦賀にやってきた時初めて安眠から目がさめた程度で世界で何が起こっているやら知る由もなかった。アフリカを欧州列強が植民地化しほぼ制定した頃、今度はその矛先はアジアに向けられた。アメリカは1776年に独立したので植民地政策を採るのがかなり遅れて、殆どが欧州に取られた後であった。浦賀に来たアメリカ人は、日本人のちょんまげを見て「皆頭にピストルを乗せている」といって恐れをなしたというエピソ-ドが残っている。アメリカのあとにはフランス、イギリスなどが続々と日本に開国を迫り虎視眈々と日本を餌食にすることを狙っていた。そして明治維新を迎えた。
西郷隆盛は大政奉還後職を失った浪人対策に征韓論を唱え、日本もまた欧州列強の餌食にならないように、植民地政策をとることになる。1894年日清戦争、1904年日露戦争、1914年第1次世界大戦と10年おきに戦争をしている。この戦争の全てに勝利したが1941年に真珠湾攻撃やシンガポ-ル上陸作戦に始まった第2次世界大戦で1945年遂に日本は敗戦国となった。無条件降伏だから何とも言いようがないが、あの東京裁判は戦勝国が敗戦国を裁いた裁判で、同じ敗戦国であるドイツはニュ-ルンベルグ裁判でナチスが裁かれている。
戦勝国が敗戦国を裁くこと自体すでに平等性を失っている。また戦争という狂気に満ちた状況を平時の法に照らすこと自体ばかげていると言い放った日本側弁護人のアメリカ人がいた。そして彼はなおも続けて「もしどんな手段でも戦争において人が人を殺したことを罰するなら、わたしは一瞬にして何十万もの非戦闘員を殺した爆弾を投下することを命令した人の名を知っている」と言った。A級戦犯などとは戦勝国の終戦処理に使った言葉で日本人が使う言葉ではない。
歴史教科書はどこの国でもわが国からでしか見ない。朝鮮半島がヂンギスハ-ンに攻め滅ぼされその配下になったときでも戦争に負けたとは書かない。事実を知らないから何とも言えないが、戦争を好まないわが国民は仕方なく云々―――と書く。アヘン戦争もイギリスの世界史とは大分違う書き方をするのであろうし、同じ中国でも台湾との歴史観は天と地ほどの差があるだろう。
国と国との駆け引きには何とかカ-ドというカ-ドをちらつけながら折衝をする時がままある。靖国や教科書問題を他国の駆け引きの道具(カ-ド)にされないように、内政干渉させないという独立国家として背筋の通った外交を願いたいものである。また国内がトップの為政者に不利な世論が横行している時、国民の目を国外に転化させるのは途上国の為政者の常套手段である事もつけ加えておきたい。

わたしの友人から、東京都知事のように乳幼児期から早めに親から手を離す政策が善政とみなされることに少なからぬ危惧を抱いているというメッセ-ジが届いた。わたしも同感である。親の利便性の追求が痛ましい事故につながっていることはすでに承知であるが、この種の事故が絶えることがない。
テロへの報復で自衛隊派遣もいいが、子どもたちの賑やかな声が街角に響かなくなった国は衰退するのみ。子どもたちのゆとりある生活を求めて、来年度から学校5日制になるが、誰がゆとりある生活なのか。労働者である教師の生活のゆとりである。教師も労働者であるといって授業放棄してストに参加した教師もいた。その名残がまだ脈々として存在している。教師は特別だから公務員特別法によって一般公務員とは違う給与体系になっている。教師は特別だからという意味は聖職だからなのに、何を持って特別法が必要なのか疑問である。自分達の要求ばかりして子どものことなど何一つ考えない労働者もいる。この労働者とは労働者階級のことを言うのであって、わたし達は別名彼らを労働貴族と呼び、一般労働者から搾取している詭弁論者を指すことが多い。マルクス、レ-ニン主義の労働者革命から由来しているが、旧ソ連にしても中国共産党にしても、医者と教師は労働者という階級から外してあった。
藪から棒だが緊急提言したい。公立の教師採用にあたっては1年以上の民間会社での採用を条件として、その職務成績によって採否を決定する。なぜなら教師は知識の切り売りだけではなく全人格的な要素が子どもに影響するからである。ドイツではすでに行われている。2番目に乳児0歳から1歳までは各自家庭において親が養育する。それに関わる費用は国や地方自治体が負担する。でき得るその根拠として0歳から1歳までの乳児を預かる保育所などの経費から算出すれば容易にできる。また夫婦に不安を生じさせないよう子育て相談員は地域の幼稚園や保育所が行う。
「米百表」の話もすらっと出てくるほど教育に造詣の深い小泉総理のことであるから「国づくり百年の計」は「平成の教育改革」からを是非とも機会あるごとに提言していきたい。

どうしたらいいのかなぁ?

夏の穂高の研修で、最近子どもたちの遊びの中で“おかあさんごっこ”が以前よりもかなり見られなくなったという報告があった。代わって犬や猫といったペットになる遊びが増えていると言う。前者は、お母さんは忙しすぎるからと言い、後者はかわいがってもらえるからと言う。情けないことに人間に生まれてくることより、犬とか猫といったペットに生まれてくることを望んでいるようではないか。―――おとうさん役はあってもおとうさんごっこは言うに及ばず今でも聞いたことがない。おとうさん役を買って出てやる子はまれである。「いってまいりまーす」「ただいまー」「おやすみなさーい」というようにセリフがいたって単調で力の出しようがないので面白くない。
わが園ではそんなことはないであろうと、高をくくって2学期の子どもの遊びを注意してみていると―――あった。ままごと遊びはあるが、お母さんごっこは見られない。ままごとでもバブちゃん(あかちゃん)になる子は少なく、兄とか姉になって命令調で得意になって指図する側にいることを好んでいるようだ。そうかと思うと、犬や猫になって紐を手に巻きつかせていたり、自ら首に紐を巻きつけて、従順にご主人様のうしろについていくといったことを真顔で楽しんでいる。
私たちの育った年代の母親が、犬や猫になって楽しんでいるこのような光景を目にしたら何と言うであろうか。セピア色した話で申し訳ないが、たぶん半狂乱になって私たちを叱り付けたに違いない。見方、考え方の違いだと言えばそれまでの話だが、人間であることを楽しむ遊びのほうが人間として自然である。断っておくが、これは表現遊びや擬態表現を楽しんでいると言ったものではない。子どもの自然な心の発露だからこそ問題視しなければならないのである。
 昼食のお弁当にしても、子ども達は自らの空腹を癒すために食するのではなく、おかあさんに悪いからと言う。母親もまた「食べてくれない」「食べてくれた」“くれた”“くれない”という表現を使う。病人でもあるまいに、飽食の時代だからとはいえ、何か歯車が狂いだしているように思えてならない。
幼児教育を預かっている私にも何らかの責任がある。どうしたら子どもたちが安定した生活の中で、生き生きと希望をもった毎日を送れるようになるのだろうか。―――子どもが生き生きと生活するには、愛されなくてはならない人に愛されているという実感と、いたずらや冒険をする権利を保障されることが大切なことだ。たくさんのおもちゃを与え、嫌がるほど満腹にさせることではない。―――幼稚園の受容の中でたくさんの冒険をさせてほしいものだ。
子どもから見て親や大人はどうしたらいいかということは、あまり口にしないほうがいいらしい。出来もしないことを理想だけ追いかけていると周りにいる人たちがくたびれるそうだ。子どもたちにとっては大人が自分達に責任を取ってくれない受難の時代だ。―――できるか出来ないかは、親や大人に覚悟があるかないかの話なのだから。
少子化問題を解消するために、子育てが大変だから生んでくれさえすれば後は国が面倒を見ましょうといった政策がとられるようになった。社会を構築する最小単位の親子の情愛を無視した政策である。これで世の中うまくいくはずがない。ルーマニアのチャウセスクがとった政策でもある。もっとも中身は大分違うが、親ではなくて国が子どもを育てると言う発想は東ヨーロッパの独裁国家にあった。彼らはそうしてロボットを作ることを考えた。
人間の子は皆未熟児で生まれてくる。生まれてから親に抱きかかえられ知恵を授けてもらうためだ。ジャングルの中で生活している動物達は、生まれてまもなく立ち上がるものもいる。しかし母親は危険な場所を知らせることと狩りが一人前にできるまでは決して子どもを手放したりしない。こう考えてくると、子どもたちが犬や猫になって好んで遊んでいる現象も分かるような気がする。地球の自然を守ると同時に、人間の営みも自然に回帰せよと言う信号ではないか。―――子どもたちが変わったのではない、大人たちが変わったのだとゆうことを再認識しようではないか。

"3歳児神話"って何?

突如としてこんな見出しの記事を目にした。「お母さん働いても大丈夫」「幼児の成長と無関係?3歳児神話?を覆す」。その内容は、子どもが3歳になるまでに母親が家の外へ働きに出ても、子の発達に悪い影響を与えないことを、国立精神・神経センター精神保健研究所(千葉県市川市)の菅原ますみ室長らが16年の追跡調査で確かめたというものだ。
 さらに「母親が幼児期に働いたから、子どもに非行など問題行動が表れる」とする説を否定したデーターだ。「3歳までは母の責任で子育てすべきだ」とする3歳児神話をあらためて覆したとある。
 私は、幼稚園の父母たちに「3歳児神話」なる言葉の意味とその由来について訊ねてみたが、勉強不足なのか私を含め知るものは殆どいなかった。それほど世間に知れ渡っている言葉ではなさそうである。しかしこのような記事を見たのでは、一保育者として黙って見過ごすわけには行かないだろう。
この記事を読んだのは平成13年4月29日である。今日までこの記事に関して反論や意見などは目にしていないが、もしも何らかの形で出ていたとしたらお知らせいただきたいが、私は私の範疇で疑義をはさみたいと思う。
そもそも「3歳児神話」とは何者であろうか。昔から「三つ子の魂百まで」とか「7歳までは神の子」といった子育てに関する諺があるが、そのくらい幼児期の発達は重要であるということには同意を得ることはできるであろう。「だからなるべくならば母親がついていてあげたほうがいい」という議論に「いやそのようなことは神話に過ぎない」と言ったのが「3歳児神話」の始まりだと聞いた。
さらに記事の内容を続けよう。・・・子どもが胎児から14歳に成長するまで問題行動などを郵送や面接で調べた。・・・子どもの問題行動は「騒がしい」「ののしり」「かんしゃく」など21項目を母親に聞いて判定した。と読んだところで、母親からの聞き取り調査であったことに気がついた。子供を追跡調査したものではなく子どもを産んだ母親を追跡調査したものである。その中で子どもが3歳未満で働きに出た母親の子どもと、専業主婦であった母親の子どもとを比較したものであり、しかも実の母親から聞き取るのである。「お宅の息子さんの家庭での態度や友達づきあいなどについてお話ください」と。まず経験から言って、実の母親から我が子を否定した言葉はまず聞かれまい。そして何よりも判定する側が何をねらっているのかによって、集計の考察が左右されるのである。しかも社会に影響を及ぼすこのような調査は、自分の目で確かめなければならないのが鉄則であるにもかかわらず、調査対象となる子ども達には面接していないのである。16年間も追跡調査をした割には子ども達の実像と違った結果が出てくることが大いに予想される。
時も時、政府は少子化問題と女性の社会進出による「安心して育児ができる」政策に躍起になっているところである。安心して子どもを産めない理由に、育児に対する不安があるのではないかと考えそれを解消するのに「待機児童0」という保育所の機能を強化することにした。子育て支援策に手をこまねいている行政側にとっては、この記事がまたとない追い風であることは確かなことである。
何の事はない、これは子どもを産んでも後は保育所で面倒を見るから安心してくださいというメッセージなのである。自分で子育てをしなくても保育所に預けておけば子育ては出来ますよと言っているのに等しい。これは子育て放棄、産みっぱなしを奨励しているようなものだ。国に不文律な教育観がないことを露呈したようなものである。その証拠に駅前保育や託児所などに規制緩和をし、園庭がなくても許可を与えることになってしまった。「子どもは環境で育つ」というのが幼稚園指導要領である。子どもは遊ぶことに主たる主体を持っているのに、外で遊べないで何時間も母親を待たなければならないことが子どもに良い影響を与えるはずがない。
もう何年も少子化対策といっては、働く母親や働く女性のための対策を打ち出してはきたが、一向に子どもの数は増えてはこない。むしろ減少の一途をたどっているのが現実である。小手先の物理的なことだけでは、女性が子どもを産み育てる動機にはならないことがはっきりしているのだ。
女性に、子どもを産み育てることの誇りと尊さを教える者はいない。女性が女性としての存在は子どもを産めることである。何も男性に混じって、同じ仕事をこなし体力も男性に近づけることが男女共同参画社会ではあるまい。男女ともに生まれながらの特性を兼ね備えている。その特性を尊重しあうことが、同じ人間として生きてきたことを喜び合えるのではないか。女性を侮辱するのは本意ではないが、男性の必要以上の譲歩は、かえって女性を侮辱していることになりはしまいか。男性を片端から口撃し悦に入っている大学の女性教授もいるが、幼児期にはお姫様ごっこやお母さんごっこをしていたに違いない。今のように戦いごっこに興味を持っていたとはとても信じ難い。女性が子どもを産まなくなったのには、もっと根の深いところにその理由があるように思えてならないのだ。

私には長年幼児教育に携わってきたものとして、またその道を絶えず学んできたものとして、どうしても批判を恐れずに言っておかなくてはならないことがある。
保育所と幼稚園の関係である。保育所は厚生労働省、幼稚園は文部科学省というように国の管轄も違うが保育所に関わる行政側の視点は常に母親に向けられたものであり、幼稚園は子ども側に向けられたものである。以前の保育所は保育を要する子ども達を収容し、国庫によって措置されたものであった。保育を要するとは、乳幼児期に親が見ることが出来ない子ども達のことで、戦後まもなく保育所が出来たのも頷ける。
保育所は児童福祉法で、幼稚園は学校教育法によってそれぞれ守られている。経済大国世界第2位の日本のこの時代にまだ保育所があるとか、同一国家の中で同じ幼児期を育てているのに、それぞれに異なった育て方がある事や、国の補助金のかけ方が不平等などの不思議や、幼保一元化できない主たる要因は、官僚の縄張り意識の産物であると言うのをどこかで聞いたことがある。
前述した駅前保育や、園庭のない保育所は子どもに良い影響は与えない。子どもを犠牲にして親の利便性を得るかとの二者択一であるが、私は子ども側にいる以上「何故そんなところへ押し込んでしまうのだ!」と言いたい。痛ましい事件がおきている幼児施設を今一度洗いなおさなければなるまい。
乳幼児期には、なるべく家にいて子どものそばにいてやりたいと願っている母親が大半である。誰もがそう願っていると言っても過言ではあるまい。何らかの理由でそうできずに子どもは生まれてからまもなく保育所という他人に預けられることもある。
幼稚園は3歳からであるが、3歳児でさえ親から離れるのには手足をばたつかせ、抱きかかえる教師を引っかいたりたたいたりしながら親から離れまいと精一杯抗い絶叫する。生後6ヶ月や1・2歳児などはどのように抵抗するのだろうか・・・。
生まれてから半年もしくは1・2年で保育所に預けられる。多分火のついたように泣きじゃくっているだろう。保育者があやし、上の子が泣きじゃくっている子を見て頭をなぜにやってくるが、母親がいなくなったショックはそう簡単には収まるはずがない。そのうち親がいなくなることをあきらめなくてはならなくなる。最初に教えなければならないことは、次に母親が迎えに来るまで待たなければならないことである。子どもにとってはあきらめることである。保育者は「お母さんすぐ来るからね」と子どもに何度も何度も伝えるが空しい。そのような悲しい積み重ねが徐々にその子の内面にインプットされていくのだ。それがストレスになるか、または脳のニューロンに組み込まれるかは定かではないが、子どもにとって良い体験ではないことは確かである。

幼児期に母親が家にいないことが幼児の成長とは無関係とはまったくの的外れである。発達心理学を学んだものや、脳の仕組みや大脳生理学を学んだもの、あるいは京都大学で霊長類を研究なさっている学者の著書などを拝読すると、幼児期の心の支えの重要な部分は殆ど母親の会話とぬくもりである事は自明の理である。またそれが将来に大きな影響を及ぼすのである。脳の発達も、幼児期の経験を土台にして人間としての性格や学力なども8歳までに出来上がってしまうと言われている。
では何らかの理由があって、保育所に預けることは子どもにとって悪いことなのかと問われればノーである。子どもと向き合って入れば心配はない。この場合の向き合うとは、母親のいない寂しさを母親がフォローしなければならないことだ。また他人に任せるのはいけないことだ。
幼稚園でも保育所でもどちらに通うのでもあまりこれと言った大差はないが、乳児期に子どもを放さなければならない母親は、その子に注がなければならない愛情を必ずどこかで取り戻さなければならない。

養育や保育の原点は、生まれてから間もない子ども達に、何も辛い思いをさせたり悲しい思いをさせる必要があるまいと言うことである。生まれてきてよかったと、言葉にうまく表せなくとも身体いっぱいに表現したりできる子どもが全てに勝るのだ。

子どもが自ら成長していく力に、どれだけ大人が上手にサポートしていけるのか、自分自身の評価も交えながら子ども達を見守っていこう。
もうひとつ言っておかなければならないことがある。世の中を騒がせている非行少年、非行少女、あるいは凶悪な犯罪を起こす者の幼児期の生活はどうだったのか、全てに共通しているものは親の無関心である。幼児期の寂しさである。我が子の顔を両手にはさんで今一度まじまじと眺めてほしい。そして「今幸せか…」と聞いてほしい。

たかが弁当されど弁当

 わが園は創立以来(昭和52年)ずっと弁当持ちで、給食にするなど考えたこともなかった。創立当時はまだ、幼稚園はお弁当持ちみたいな暗黙の了解のようなところがあって、弁当がいいか給食がいいかなど問題視されていなかった。3歳児入園にしても2年保育が主流で非常に珍しかった。
 九州のある地方の話である。夫婦と1.3.5年生になる男の子ばっかりの兄弟との5人家族の一家が、マイホームを建てごく普通の幸せな生活をしていたが、ある日一家の柱でもある父親が交通事故を起こし、しばらくの間意識不明のまま入院していたが、とうとう亡くなられてしまった。
 事故の後始末に対人補償などの思いもかけなかった借金が出来てしまった。住宅ローンと重ねると大変な負担である。それでも3人の小学生の子を持つ母親は、夫の形見でもある家を絶対に離すまいと決心し仕事に就くことになった。
 昼間は保険の外交をし、昼休みにはレストランの皿洗いに、夜はビル掃除にと。しかし女の細腕では世間の風は冷たく、借金の元金はおろか利息さえも遅れ気味となってしまった。情け容赦ない社会のシステムに心身ともに疲れ果て、いつの頃か家を手放そうと決心する。昔主人がお世話になっていた大きな家の主に「軒先でも倉庫でも結構ですから」とこれから住む家を何とか確保できたが、家を売ったからといって借金が消えたわけではなく、暮らしが少しでも楽になるということではなかった。気丈な母親であったが、家を手放した頃から生きる力が徐々に失せていった。そして長男の首に手を回そうと妄念がちらつくようになった。
 小学校の運動会。昼休みに少々照れくさいけれど家族で食事をするのが、至福の喜びである。誰もが幸せを感じるときだ。5年生担任の女の先生が、余計なことかもしれないが多分お母さんは忙しくてこれないだろうと思い、3人の男の子の分までお弁当を作ってきてくれた。それはそれは立派なお弁当で、重箱いっぱいに花を敷き詰めたような、見るからにおいしそうなお弁当である。心を込めて時間をかけて一生懸命つくったに違いない。
 食事の時間がきた。先生が3人の男の子を呼び寄せる。「さあ召し上がれ」と、半ば歓喜で迎えてくれることをひそかに期待しながら。しかし彼らはせっかく時間をかけ工夫しながら作ってくれた先生の弁当には目もくれなかった。彼らが寡黙に食べていたのは、母親が作ってくれた白いご飯の上に紅生姜で?ガンバッテ?とただ書いてある弁当だった。彼らはそれを崩さないように大事そうに食べている。教師は初めて教師である限界を感じたと後に述懐している。
 そんなことがあったことを知ってか知らずか、とうとう母親は今晩長男の首に手を回すことを決心する。最後の夜になるという日に母親は初めてお酒に酔った。子どもたちが寝付く頃を見計らい重い足を家路に向ける。
 裸電球のスイッチをひねり、3人の子どもの寝顔にひるむまいと覚悟を決めて長男の首に手を回すと、枕もとに?おかあさんへ?という手紙があった。その手紙に手をやってあけてみると、

  おかあさんへ
  毎日ぼくたちのためにお仕事ありがとうございます。
  今日学校から帰ってからお母さんに教えてもらったお り豆をにました。弟たちは「こんなまずいものは食えねえや」と言って先にねてしまいました。今度はきっと上手ににるからもう一度教えてください。なべの中に豆があります一粒でもいいから食べてください。お願いします。

と書いてあった。そして母親は言うに及ばず、もう一度生きていく決心をしたのだ。

私が弁当に拘るのには、私の経験からくるものだがこのような実話があることも大きな要因になっている。現実主義者や理屈っぽい人から、「だからなんだ」と言われればみもふたもない。
懐古趣味みたいに、セピア色になったものを後生大事にしていると、もっと大切なものに目が行かなくなるぞとも言われる。
 生まれたときから、電化製品で氾濫している時代に育ったお母さんたちに、たらいと洗濯板を渡したって無意味なことだとも言う。反面弁当持ちで3年間過ごしてきた母親のすべてが、この時代だからこそ子育てに自信がついたと異口同音に話している。しかしそれは入園してからの話で、ほとんどは入園前に弁当を作ることに抵抗を感じていることは事実だ。
 絶対に弁当持ちがいいことは自明であるが、作ることが面倒なのだろうし、なるべくいやなことはしないでうまく育ってくれたらいいと思っているのが本音だろう。弁当がもたらす教育的意義は、親子の絆を深めることばかりではない。名状しがたい無量の価値がある。弁当が全てだとは言わないが、弁当の大切さを改めて認識して欲しいものである。

思うがままに

ホームページの威力とその危険性について、少しずつわかってきたような気がする。便利なものが発明されると、それをうまく利用してビジネスに直接転化して一躍脚光を浴びる人。またはそれを悪用して御用になる人。ホームページそのものには何の罪はないけれども、使う人によっては天使にも悪魔にもなりうる。願わくば善良な市民の楽しみの道具であり、企業の会社紹介ぐらいにとどめておきたいものだと思っている。自分の意志を自由自在にパソコンを駆使できる人には物足りなくなるだろうが、是非とも責任ある行動を取ってもらいたいと思う。
 ある友人から「あまり政治的には首を突っ込まないほうがいい」とご忠告を戴いた。かつては民青がどうだったのと学生運動に埋没していた彼であったが時代の変遷を痛感する。 
 樺美智子さん(この字でよかったかな)は60年安保の時に国会突入を謀り、機動隊ともみあって尊い命を奪われた当時東大の女性闘士であった。その手記の中で、会議中に後退的な発言をする仲間に何度も「日和るなっ」と檄を飛ばす場面が見られるけれども、歯切れが良くてうっとりする。勿論私はまだ小学生の頃の話だから、あとになって読んで「女性ってすごいんだー」と妙に感動した自分を思い出す。
 そのときの感動がまだどこかに残っていて、「日和る」ことは命をかけてもしてはいけないものなのかと、痛烈に心の中に刻み込まれている。しかしそれは青年の美学なのかもしれないとも最近では思うようになってきている。それにしても「戦争につながる日米安保絶対反対」は過去40年を振り返れば間違った判断であることが実証されているけれども、「安保反対」を唱えて純真な学生をかりだし、政治的な洗脳をしてその命を奪い、人生を狂わせた先導者は、一体誰でどのような責任を取ったのだろうか。樺美智子さんの人生はなんだったのかと無念さが残る。
 こんなことを書いていると、「幼稚園の園長なんだからそれに付随した物を書いたらどうだ」とお叱りを戴くことになるかもしれない。しかし思うに、保護者の皆さんは保育が、子育てが分からないから幼稚園に通わせているのではないでしょうし、要は私の言葉から安心というお墨付きをどこかで戴きたいと願っているのではないかと思っています。心配することはありません。保護者に勝る保育者など私は見たことも聞いたこともありません。
ご自分で感じたとおりに育てることが一番間違いのない育て方なのに、ある本にはこう書いてあったからと言って、その本のとおりに行ってうまくいかないと悩むなどというのが良く聞く話である。親子の感じあう感性を優先させることが親子の絆を深めることになる。いつでもどんなときでもとは言えないが、年中ぐらいまでは本を頼らないで、自分の感じたものに自信を持ってお子さんを抱きしめてやっていただきたい。
 その幼稚園をみるのには、トップが何を考えているかをみればその幼稚園のすべてが分かる。会社にあっては社長の人物像。家庭にあっては父母の考え方によって家庭の中が見える。最近では、父母というよりは思い切って言えば母親の考え方がとっても大事。
 だから私は、そういったことを踏まえながらも中傷を恐れずに、反論やご意見には謙虚に耳を傾け、自分自身の今頭の中にあることを書いていきたいと思っている。

言ってもいいのかな?

 「ちょっと言わせて」はなかなかの意味あるタイトルで、使う側にとっては非常に都合のいい言葉だ。だからといって無責任に勝って気ままに書けるというのではなく、どんな事象にも「ちょっと言わせて」と入っていけそうな気がする。
 それでは、すったもんだの政局について「ちょっと言わせて」。
 加藤、山崎両反主流派の党内ちょっとした革命も、本会議欠席、不信任案否決というあっけない幕切れとなって一応の決着を見た。森首相の政策行政に何か失政があったのだろうか。あろうはずがない、スローガンばかりでまだ何も目に見える形での効果がないからだ。そんなヤキモキしている国民の声が加藤さんのHPに飛び込んできたのかもしれない。残念ながら国民は森おろしにそれほど真剣ではなく、実はマスコミの森おろしに実直な小市民の一部が翻弄されていたに過ぎない。何しろマスコミは、売れる記事を作り出すのに時には売国奴のごとく振舞っても何ら羞恥心を持たないことがある。そのような扇動的役割を担っているのがマスコミであるといっても過言ではない。勿論すべてのマスコミがとはいえないが、今やペンは正義ではなく、無法な暴力である。かつて日本を紹介した本「菊と刀」には、日本とアメリカの文化の違いを「恥の文化」と「契約の文化」と置き換えた人がいたが、少年の頃に知ったことでとても新鮮で妙に納得して、侍魂を誇りにさえ思っていたが「恥も外聞もない」と言った日本語の方が、今ではぴったりとくる。 あの本もいくつかの訂正を強いられそうである。
 それにしても加藤さんの幕引きはいただけない。自分についてくる仲間のことを思っての決断であることは解る。しかし、その選択に異議を唱えるのは、私ばかりではあるまい。城盗りの武将としては自ら勢いをつける度量にかけるのではないか。いずれにしても、加藤さんの首は飛んでしまったのだから、速やかに強靭な後継者を指名し潔くすることが肝心だろう。
 情けないことは、同じ派閥の中にこうもりみたいな奴がいて、あっちこっちと情勢を判断し、勝組に狙いを定めたら、あたかも一番槍を仕掛けたのごとくに振舞うやからのいることである。
 主流派も不信任案を否決したら「それが即信任であることだと思わない」と野中さんの言葉。森さんは「激励だと受け止めている」と言う。このやり取りを国民の誰もが立派な国語だとは思っていない。このように分かりにくい曖昧模糊とした言葉を言い放って、なんとも感じない永田町の神経に国民は苛立っているんだということにそろそろ気付いたらよさそうなものだ。
 現在の自民党は公明党抜きでは何も決定できない。政権与党であるけれども、政策を遂行するための与党ではなく、政権を持続するだけの政党に成り下がってしまった。この前の衆議院の選挙でも、惨敗しているにもかかわらず「良く健闘した」とは党幹部のコメントである。他党に必要以上に譲歩するのは、すでに自民党の崩壊を示すものである。案外野党の言っている「自民党の末期的現象」は当っているかも知れない。これから後自民党をだめにした幹部たちを、それこそ歴史が彼らをいたぶることになるであろう。
 不信任案否決後の国会中継を聞いていたら、野党の質問はほとんど政府の追及や個人への攻撃に終始し、国民の代表として互いに手を携えて協力し合ってこの国を何とかしてゆこうという姿勢は微塵も見られなかった。政党政治の中で、党利党略を第1儀に考えない党など存在しないことが良くわかった。
多数議決の議会制民主主義は解るけど、よほどの哲人が現れない限りこの国はだめになってしまうのではないか。多少強引でも衆愚に寄らない政治が出来る人、民衆のために命をかけることをいとわない人。得よりも徳を重んじる人。
首相公選制はどうだろうか。かつて自民党の中曽根さんが提唱していたと思っていたら、自分が首相になってしまったらかどうかは分からないけれど、いつのまにか立ち消えとなってしまったようだ。国会法か何かはわからないが、国民の声が高まれば首相公選制の可能性は大いにあると思う。混迷を極めているときこそがチャンスであるように思う。
政治に興味を持ち意見を持つことがこの国を良くする最大の近道である。私はずっとそう思ってきた。例えば自分の暮らしを今よりももっと良くするには、政治家がどのように動けばいいのか、それは果たして可能なことなのか。友達が困っているときに行政は何が出来るのか。政治を考えるのに、身近に山積している課題は浜の真砂の如く尽きることはない。

そろそろ皆さんに尋ねよう。政府が少子化対策で打ち出した「預かり保育」は、夫婦が子どもを安心して産み育てようとする動機になりうるだろうか。働く母親にとっては便利であることは承知しているが、うまいところだけを取って立派な子どもに育てて欲しいなどという願望は持たないほうがいい。子どもは親がしてくれたことに対して忠実に返してくれる。それは満ち足りても足らずしても、手をかけても手を抜いてもそれなりに返ってくる。世の中や他人の責任にしてはならない。
 あなたの子どもが、社会に出て多くの人から信頼され素晴らしい家庭を築いていくのには、当然のことながら子育ては他人任せであってはならないし、手を抜いてはならない。やっただけは子どもがきっと返してくれる、期待を持って楽しい子育てをしたいものだ。そのための私は、見事なサポーターになれるよう努力することに何物もいとわない。