初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

近代史のゴミ

かつて日露戦争の結末で、ロシアが満州に拠点を持っていた遼東半島を日本が占領し(第一次大戦の時のドイツの領土だったかどちらか忘れた)、そのまま日本の領土としたのか無断借用したのかよく知らないけれど、その時三国干渉と言うのがあって日本はそこを即時手放した経緯がある。中国は清と言う国であったが、清国からは何の干渉がなかったのはそこは清国ではなかったことは確かだ。その地はロシアが管理していたり日本が管理していたりで混沌としていてどこの国のものかもはっきりしていなかった。そこを支配していたのは張作霖と言う馬賊と言われているがしっかりとした統治はしていない。張作霖を追い出し、そこに満州国を作ってしまったのは日本の軍部である。

日本はロシアにかったけれども、国は疲弊していて国民も疲れ切っていた。日清日ロと立て続けに戦争をしたものだから、国も兵隊も疲れ切っていた。日ロに勝ったとは言えどもこれ以上戦争を続けられないと言うところまで追い詰められていて、和平交渉を何とかアメリカにお願いした。日露戦争のときに英国に義理があって第一次世界大戦に参加してしまった。その戦利品である格納庫が右籾の補給所にある。ヨーロッパから戦争は始まっているけれど、そのヨーロッパやアメリカが一番恐れていたのが、その当時世界一の陸軍力と恐れられていたロシアであった。

そのロシアに勝ってしまった日本を欧州の列強国やフィリピンに手を出したアメリカなどが日本を放っておくはずがなく、何とか日本の軍事力を縮小させ弱体化させるということを秘密のうちに暗黙の了解事項となってしまった。露骨に手を出してきたのは軍事力の削減である。しかしこれに日本は従ったのである。日本は世界の策略にまんまと引っ掛かって戦争への道を選んでしまった。日本には世界戦略もなければ、情報の蓄積もないから負けるべくして負けてしまった。今は戦争もなければ平和な国になった。

しかし今こそ情報戦には予算をふんだんに使い、二度と戦争はしないという覚悟を新たにするべきだ。国連のどこかの部署から日本のテロ防止法についていちゃもんが入って、政府がそれに反論を加えているらしい。これは中国や韓国のロビーが動いていると見るべきだろう。これも露骨な内政干渉だろうが、思わぬ味方ができたとこ踊りしている野党はもう一度冷静に考えて戴きたい。どこの国の国会議員をしているのかと。この法律ができて困る国はどこの国なのか。日本ではあるまい。

幼稚園教諭や保育士のこと

あおば台幼稚園は認定子ども園になっているから保育所的な役割をも持っている。だから幼稚園教師の免許状と保育士の免許状保持者が混在している。両方の免許を持っている教師が多いのである。第二幼稚園は認定子ども園と言う保育所機能を持った幼稚園ではなく、あくまでも幼稚園であるが、幼児施設の在り方が少しずつ変化している。あおば台で幼稚園が認定子ども園を取得して一体何が変わったのだろうか。第一に保育所機能が追加されたので、保育料の換算が大きく変わってとても複雑になった。第二に保護者の立場が一律ではなくなった。

共働きの夫婦にとっては、奥さんの働き方にもよるけれどもほとんどの方が2号認定と言う認定を受けられることになる。そうすると保育所と全く同じ扱いになって、預かり保育なども無料になったりする。でも保育所よりも保育寮が幼稚園のほうが安いと言う現象も現れてきて、制度としてはよくなったのではないかと思っている。ただ2号認定の保護者は10人しか預かっていないけれども、これで十分だと思っている。その理由は、原形が幼稚園なのだから幼児教育をあおば台のメソッド通りに追求していくには、保育所の形態ではやりにくいということがある。

幼稚園に認定子ども園が誕生したからと言って保育士の数が足りなくなったわけではなく、政府の方針である働き方改革や、経済界全体が人手不足になったことが大きな原因である。建設業界やIT産業界でも人が足りないと言っている。そのうちAI産業が盛んになってくると人余りが現象が起きて、働けるものとそうではない者との格差が大きくクローズアップされる世の中になるだろう。幼児教育はロボットの入る余地はないので、何が何でも人力に頼らなくてはならない。それまで待つことができれば、この業界は将来性のある仕事である。あと10年でそのような社会になるだろう。

どうする幼児教育

保育者の数が足りないという。保育園数の4園に一つの園は保育者不足であるらしい。そうなれば幼稚園教諭の数も減って行くのではないか。今保育所を建てているけれども、保育士が来るかどうかも分からない。多分こないだろうしいないのだろう。養成大学を卒業してもその50パーセントは乳幼児教育に就職しないといわれている。その大きな要因は給料が少ないからだと言われているが、一般の会社の女子社員の給与と比べると30代全般で10万円ぐらいの差があるといわれている。

一般のと言われているけれども、その一般の女子社員はどもの会社を言うのだろうか。一部上場会社のOLの話ではないのか。そんなことを言うなら他の職業でも同じことが言えるだろう。確かに保育界はよく分からないけれども、幼稚園教諭は確かに安い給与であった。国にも県にも現在幼稚園として存続できるのは教師たちの安い給与の犠牲の上にあるということを訴え続けてきた。それでも幼稚園教諭と言うのは保育者になりたいという人であふれていた。採用に困るというのは殆どなかった。

ところが待機児童の問題が膨らみ保育所の数が足りないとなると、当然のことながら保育士需要が増え、派遣業界がそこへ触手を伸ばし、卒業する学生の就職先を迷わす結果になっている。派遣業界の人たちが卒業する学生に登録させてその学生を各幼稚園あるいは保育所に売り込むわけだ。派遣業界はそうして売り込んだ教師あるいは保育士の年収の10から20%の報酬を得ることになる。しかも学生は登録しておくだけで1万円ぐらいの報酬を戴けるらしい。こんなことで幼児教育に磨きがかかるわけがない。

保育者や幼児教育者が『子どもが好きだ』という一念だけで就職してくる時代は遠くに後ずさりしてしまう。教育に拝金主義を計らずも導入してしまうのは、行政の対症療法の結果で先見性が全くない。お金を多くもらいたいというのは否定するものではないけれども、それではいくら欲しいのか。金色夜叉ではないけれど、人間の美徳が薄れてくると、後から来るものは愛憎劇と言う醜い人間の不徳の羞恥に見舞われることになる。そんな世の中つまらないと思いませんか。

田んぼ

毎日のように通る学校への通学路に借りた田んぼがある。田植え時期になると田んぼにある井戸から水をポンプアップして田植えの準備をする。トラックターは畑を耕すのに自前の物として購入した。そうでなければこんなに広い畑を維持することは困難だ。小中ともに人数が満杯であれば人海戦術でもって開拓者のように開墾して畑を整備することができるだろうけれど、仮にそんなことをしていたのでは、社会主義の国の国民のようになってしまう。学校ではなくて収容所のようで気持ちが悪い。

田植えは近所で田植え時期になると活躍するおじさんがいて、田植え機でもって600坪の田んぼに田植えをしてもらう。勿論有料である。しかしトラックターがあるので田植え以前に田んぼの代かきができるので楽である。自分たちの決めた時間にやることができて、田植え前には田んぼの中で運動会みたいなことをして泥んこになって遊ぶ。まるで幼稚園みたいだなどと言う人がいたが、幼児期から義務教育時代の子どもたちにとっては、泥んこは精神的な靄を除去するのにはとても優れた教材である。むしろ都会の子どもたちは、このような自然を得ることができないので不憫である。

田んぼの脇を通るたびに隣の田んぼと違って私の頭髪に似て隙間が目立つ。普通の田植えの時期よりも3週間ぐらい遅いので仕方がないと思いながらも、どうも気になって仕方がない。親が子の成長を願うのと同じことかなと思ったりする。しかしながら稲刈りが近づいたりするとほとんど同じ成長を遂げ、天日で乾かすうちのコメの方がおいしいだろうと思っている。稲刈りの時期になるとまたコンバインを借りなければなるまい。何かと大変だが、衣食住の『食』についての今年のテーマが『米』だから性根を据えてやらなければならない。

リヤカー祭り

あおば台では年長の保育参観で『リヤカー祭り』を行った。年長がリヤカーの免許を取ったので、そのお祝いみたいなものだ。以前はバスから降りてくる年中さんや年少さんをクラスの前までリヤカーで送っていくということをしていたけれど、現在では一つの活動を長々とひきづらないで、活動にメリハリをつけて行こうと言うので、一つのお祭りにして打ち上げとしている。だからと言って、まったくやめてしまうわけではなく、子ども達の中で『やりたい』という声が上がれば、リヤカーは保育者が必ず付いていることを条件に自在に利用できるようにしてある。

子ども達の成長に感極まってしまう母親の姿は見ている者の気持ちも高揚させてしまう。思い入れが一心同体であるという証拠であろうが、いつかわが子を客観的に見なくてはならない時が来る。その時こそ母親は子離れし、子どもが独立宣言をするときなのだろう。そうして一つ上の教育機関に預けるわけだけれども、大切なことは子どもたちの主体を損なわないことだ。どんなに学校の成績が良くても、人が個として独立していなければ、人間として意味がない。自分を生きなければならないのだ。

何も難しいことではない。物事に対して逃げることなく考える力さえつけば、後は主体的に生きられる。私たちが客観的に評価するのではなく、子どもたちがそれで満足しているのかどうかを探ることだ。他人には何も面白くもないのにと映ることも、本人にとっては至上の喜びだったりすることがままあるではないか。リヤカーの免許は自分を獲得するためのほんの一歩に過ぎないけれど、これがやがて大きな強いステイタスを得ることになるだろう。

国は国民を見ていない

学校法人がつまらない。本来神聖で正義であることを要求されるはずのものなのに、森友の小学校建設が下火になってきたと思ったら、今度は大学の学部建設について加計学園がやり玉に挙がっている。いずれにしても現在の総理が絡んでいる話で、全くの潔白であるならば堂々とその潔白性を国民の前に晒さなくてはなるまい。それが国を預かる者の責任である。そしてその潔白が証明されたら、一連の仕掛けをしたものを国家恥辱罪か何かの法律を作って厳正に罰すればよいと思う。そのジャッジをするのは評論家ではなく国民であることを忘れてはならない。

私は国を預かる政党は今のところ自民党しかないと思っているので、安倍総理のこのようなことが毎日国会で議論されていることが情けないと思っている。早めに幕引きをしようとすれば余計に疑惑が深まるだけで、日本国のために良くない。日本を取り巻く国際情勢などを考えてみれば、こんなことに時間をかけなければならない国会を思うと、日本国民は不幸である。誰でもたたけば埃が立つけれども、自らの身をさらすことによって、国民に納得してもらうか、静かにその場を立ち去るかを選択すべきだ。自民党には人材が豊富にいるではないか。

テロ防止法について、内心を処罰してはならないと言うことを盾に反対している野党は一体何処の国の議員なのかと疑いたくなる。政府も一般の人が対象になることはないなどの苦しい言い訳は不要ではないか。これではテロを未然に防ぐことは出来ないではないか。テロが起こって見なければ一般人なのか或いは内心が顕在化された時点でしか処罰ができないのでは、防止策はとれない。これだけあちこちでテロが頻繁に起こっている現状を考えれば、一般人も内心も一応疑ってみなければなるまい。それをさせない勢力は国民の味方ではあるまい。いかがか。

久し振り

今日は月曜日で半日保育であったが、幼稚園に行ったら保育者が背の高い植木屋の職人が使うような脚立に乗って植木の刈り込みをしている。見ていて申し訳ないなと思いながら、「皆よくやるね」と言ったら『もう何でもやらなくては』と言って、全員が植木の手入れをしているという。明日に子ども達とお楽しみがあると言って園庭整備をしているらしい。一人一人の保育者が、先輩保育者の意気込みに感化されて、汗をかきながら頑張っている。素晴らしい保育者に、そして素晴らしい人間性を持った大人として成長するだろう。幸せになってほしいと願わずにいられない。

小中学校へ行ったら、たまたま帰りの時間に出くわしたのだけれども、上級生3人の女子が私に相談があるという。何事かと耳を澄ませて聞いてみると、夏になってスカートの黒では熱を吸収して暑いという。色を変えたらどうでしょうかと言ってきた。『好きなようにやってみたら』と言ったら多分興味を失ってしまうと思い、色を考えて絵を描いてきてほしい。ついでにデザインもできることなら考えてみたらどうだろうと言っておいた。興味のあることをすぐに声に出して実行するというところがとても良い。楽しみが一つ増えた。

リヤカー運転免許証の魅力

今日は朝から重苦しい雲が垂れこめていて曇天である。9時から登園する子どもたちから順に試験を行うことに決めてあったが、どうも空模様が怪しくて空の雲とにらめっこが続く。大した雨ではなくて、多少濡れても構わないと言うことなら一気にやってしまいたいし、子どもたちもそれを望んでいる。雨もまた仲間で雨の中でやりたいとも思っている。『風邪を引いたら大変』だなどと思っているのは保護者で、今日は保護者が数人幼稚園に来ているので、雨の中でリヤカー試験やっていたとなると大騒ぎになる。それで仕方なく空模様を眺めていた。

雨が降ろうがやりが降ろうが雷が落ちても、今日免許証が貰えるとなると何としても試験をやりたいというのが子どもたちの気持ちであろう。そして帽子につけて年長だけのステイタスを満喫したい。デッキに腰掛けて恨めしそうに空を見上げている様子は何んともかわいい姿である。

すぐに雨がやんで、しばらくリヤカー試験をすることができたが、20人ぐらい終わったところでまた雨が降ってきた。いったん試験をやめて、子どもたちを中に入れたが、待っている子どもたちは、すでに終わって帽子に免許証を付けている仲間の様子を恨めしそうに見ている。そんな時『さあやろう!』と保育者の声がした途端、勢いよく飛び出す姿に子どもたちの何とも言えぬ期待感があふれている。私が『ゴーカク!』と言うたびに、保育者の執拗と思える拍手喝采に、子どもたちのにんまりとした笑顔が拍手喝采に余韻が残る。

小中学校の子どもたちも私にとっては同じだ。高学年の女子の頭をなでると言うことはしないが、時折ふと手が行ってしまう時がある。男の子は5年生にもなるのに頭をなでてやると、隣の子が頭を出してくる。男の子は単純にして明快だから分かりやすい。何と言っても青葉台の自主的委員会である『お替わり委員会』の存在がとてもユニークで、それを認めた高学年の子どもたちの寛容さが素晴らしいと、学校で食事をするたびに思っている。子どもたちの育ちの良さであろうなきっと。

世界に一つしかないリヤカーの免許

リヤカーの免許取得は年長さんのステイタスだ。リヤカーと言えども運転者とリヤカーの後輪の距離があるので内輪差が生じる。これがどうも子どもたちには難しいようで、何故歩いているようにリヤカーが歩いてくれないのか不思議なようだ。現実にリヤカーを見て後ろのタイヤが中に入って来るのを目撃しても、次やるときには同じことを繰り返してしまう。そんなことを繰り返しながら、出発点まで帰ってくると最後に待っているのは車庫入れだ。コースはS型やクランクがあって歩道では一時停止をしなければならない。ないのはサイド発進ぐらいなものだ。

車庫入れが終了すると、試験官の私のところへ来て、私が大声を出して名前を呼び『ゴーカク!』とやる。そして本人の前で印鑑を押す。そして隣の教師のところへ行ってラミネートしてもらうと、周りにいるみんなが『おめでとう』と言い、帽子のところへつける。これでめでたく免許証が自分のものになるのだけれど、まったく子供だましのようなことだけど、子どもたちも私も真剣にやる。だから見ている年長さんも真剣に応援してくれる。これで一つ年長さんのステイタスが上がった。

マンチェスターの大きなホールで若い歌手のコンサートに来ていた子どもたちがテロにあった。そして22名の尊い命が失われた。このようにテロと言うのは予見できない突然やってくるのだから、それを未然に防ぐのには多くの網を張らなくてはならない。

憲法に保障されている『表現の自由』に抵触するから駄目だと言っている人がいる。自分の身内が犠牲になったらそうは言うまい。日本の法律は何故にこんなにも犯罪者をかばうようにできているのか不思議であるが、それこそ自由と言っても周りを思い諮り自分を抑制しなければなるまい。このように権利ばかりを主張する輩は、自分勝手で幼稚な人が多い。どれだけの知識を持っていようがである。

断じて容認できない

断じて容認できないと言う言葉は、北のカリアゲ君がミサイル実験をする度に政府高官が発する言葉である。そんなことはもう何度も聞いているので、カリアゲ君は何事もなかったように何度もミサイル実験をしている。そしてまた『断じて容認できない』と言う。総理の発言もうつろに響く。日本には力がないと言うことを何度も確認させられた。だからどうするのかと言うアクションがないし、国民も同じように政府を突き上げるようなことはしない。

誰が何を言おうが危機管理システムの構築を急がなければならない。それどころか共謀罪の成立に反対をして、テロを未然に防ぐ法律を通そうとしない。一般人をも巻き込むからだというのが理由である。何も起こらないときには誰が一般人で、怪しいのはだれかなど分からないではないか。その一般人の区別はどのようにして決めるのだろうか。そのようなリスクがあろうがテロは未然に防ぐべきであろう。理想主義者や北朝鮮に抗議のできないものに耳を貸してはならない。彼らは日本を落し込めようとする仲間であるから。

危機的な日本と言うのを毎日見せられていながら、その防御についてのアナウンスがないのも不思議であるが、多分それはいたずらに国民を不安にさせてもならないという配慮であろう。いざと言う時のためにある程度の国民の負担は当たり前のことだ。トランプ大統領は、カリアゲ君と同じで予測不可能な人であるので、いつトマホークを打ち上げるか分からない。北朝鮮のミサイルを日本の技術で途中で撃ち落としてくれることを望んでいるけれど、それも難しくなったと言っている。もしもの場合にどうするのだ日本は?

あおば台プレイデイ

雨で1週間延期になったプレイデイだが、今日はさわやかな5月晴れである。それは良いとしても、市内の小学校の運動会と重なって、小学校へ参加する保護者が1クラス以上いた。それは仕方のないことだとあきらめて、大多数の保護者と子どもたちで伸び伸びと遊ばせて戴いた。最初の予定のときに休みを取ってしまって、延期されてしまった今日は取れなかったというお父さんもいる。気にしないでその分休みのときに遊んでやってほしい。子どもたちはきっとわかっているから。

きらきらした子どもの顔が素晴らしかった。いつも私のところでギャーギャーと騒いでいる子も、今日は音沙汰なしだ。私など路傍の石の存在である。それはそれで素晴らしいご家庭であろう。子どものいる風景とは緩やかなそよ風に似ている。

厭なニュースがあった。仙台の中2の自殺問題を、学校と教育委員会で隠蔽していたという。この問題だけではなく、学校と教育委員会の姿勢は許せないことが多い。多分泣き寝入りしているご家庭もあるだろうが、これでは教育機関の信用は地に落ちてしまうのは当然である。仙台と言えば東日本大震災で大変な目にあったところで、心の中にその傷跡もあったかもしれない。世の中に恨みを持つだろうな。そもそも教育委員会は、子ども達の味方ではなく学校の教員の味方で、そんなところに真相究明なんて頼んでも真実は出てこない。総理大臣以下真剣になって子どもを守ってほしいものだ。とにかく大人のウソは駄目だ。

暴力を伴う教師

愛のある暴力というのが本当に実在するのか。一番自分に近い親でも、殴るときには『お前を愛しているから』と言って殴りつける親がいるのだろうか。殴る行為そのものが常軌を失っているのではないか。殴り合いでも最高に高揚していて、冷静さとは全く逆のほうに自分の感情がある。憎悪があってやるものとそうではないものに区別ができるかもしれないが、それにしてもやはり人間はそんな野蛮なことをしてはなるまい。

私はどうだったかと言うと、20歳ぐらいまでは喧嘩三昧で、いつも顔にあざをつけられていた。今から考えると、自分の感情の逃避にしかならないけれど、自分の生き方が分からないのと、優秀な仲間を見ていてコンプレックスと焦りがあって、自分に対して怒りを持っていた。本を読んで何とか自分を変えようと努力はするものの、意志が弱かった。私を見ていて心配してくれていた仲間がいたことによって、何とか軌道修正ができた。野蛮で全く獣道であったように思う。恥ずかしい限りだ。だからそんな子供たちをつくってはならないと強く思っている。

小中学校時代は教師によく殴られた。殴られなくて教師に覚えめでたい子もいたのだから、私は教師からすると余程手に負えなかったのであろう。今だからはっきりと言うことができるけど、殴って人は育つわけがない。強制はできるだろうけれど、人を育てる手法ではない。兵隊のように自分の考え方を主張できない状況におかれなければ規律を保てない社会なら、それもひとつの考え方であるけれど、教育の現場では、絶対あってはならないことだ。時には熱血教師などと持てはやされるけれど、殴られている生徒の身になれば『これが先生か?』と大人を不信に追いやるだけだ。信頼関係こそが唯一子どもを救う道であると思っている。

私は家に帰ってくれば父親に殴られ、まったく身の置き場がない。それでも何とかまともに生きられたのは、最後まで私を信じてくれていた母親の存在であろうと思う。それによい仲間がいたからだ。親子の間では、殴られてもいつか忘れて強い愛情だけが残っていると言うことがあるけれども、感情的になれば憎しみだけが残ってしまう。修正不可能になってしまうようなことだけは絶対に避けるべきだ。教師の場合は、場面が沢山あるから、ふざけて頭をこつんとやるだけならまだしも、殴ってしまったら教師の負けだ。自己否定と同じことになる。

あおば台に保育所ができる

作っている私自身があまり興味がない。これから結婚をして子どもを産む先生たちにとっては朗報だろう。働いている先生たちが、安心して子育てができて仕事にも専念することができるように願って保育所を建てることにした。興味がないというのには理由がある。そもそも幼稚園から初めて、日本一の幼稚園を作ろうと、幼児教育の文献を漁り、筑波大の故杉原一昭先生や、幼年教育研究所の故久保田浩先生に学び、机上の空論を是正しながらあおば台の幼児教育を作ってきた。

保育所の『子どもを預ける』と言う概念とは一線を画し、発達心理や小児科医の小林登先生の本などに傾倒し、徐々に保育所的な施設は、子どもをしっかり育てることはできないという結論に達し、保育所イコール虐待ではないかという極論にいたった経緯がある。確かに保育所は子どものための施設と言うよりは、働く母親の利便性に焦点を置いている。これにどうにも納得がいかなかった。多くの保育者仲間と議論をし、目の前に困っている母親がいるのだから一概に保育所はだめだと言えないのではないか、と言う仲間がいる。多いに反発をし、今でも幼児教育について語りあっている。

保育所には生後3カ月から入所できる。乳幼児施設で死亡事故が起こるのは、0歳児が一番多い。子どもへの愛情がどうのと言うより、利便性だけを考えて保育所選びをした結果である。政府の後押しも働く母親の利便性ばかりを考えているようで、設置基準による安全性などは声を大きくして叫んだりはしない。設置基準のハードルを高くすれば、保育所が建たなくなってしまうからだ。その上大阪の方では保育所設置に反対する大人たちがいる。彼らは自分もかつて子どもであったということを忘れている。老後を静かに暮らしたいというのが理由だそうだ。静かになんてできやしない。そのあとで閻魔さまに大声で怒鳴られるだろうから。

そのような経緯があって、保育所施設はそれほど身を乗り出してまで作ることに意欲が乏しい。0歳児は母親が責任を持って育てなければだめだ。その後のことは、私どものスタッフで何とかするように、保育室を建てる。1歳児でも2歳児でもいればいたで、可愛くてどうにもならなくなって、作ってよかったなどと言うにきまっているから、私の理論上の拒否と感情の受け入れは、まったくベクトルが違う。

プレイデイ

今日はあおば台のプレイデイだったが、朝から本降りに近い雨音で昨日のうちに延期を決定しておいてよかった。何か行事があるときには、いつも天候が気になる。私個人としては、その時勝負でも仕方がないと思っているけれど、保護者の中にはその日に休みを取るなどと会社と相談しなければならない人もいるから、なるべく全員参加でやりたいので、空模様を気にしなければならない。保護者と子どもたちと保育者が一緒になって遊ぶという企画だから、子どもたちばかりではなく、保育者もまた楽しみに期待している日なのだ。明日は第二だけれども空模様は大丈夫だろう。

人の成長と言うのは、(教育と言うのは)自立を持って終息すると言う考え方があるけれど、だからと言って早く自立を促せばよいというものではないだろう。年齢的な発達理解が大切だし、人によって発達と言うのは一様ではない。自立と言うのにも何を持って自立と言うのか、自分の力で飯が食えるようになればそれで自立と言うのか。そうでは決してあるまい。もっと細かに分析すれば、エリクソンのアイデンテティの概念のステイタスが、どの程度まで本人が認知しているのかであろう。

以前にも書いたように、10歳ごろから子どもたちは大人になる訓練を自ら非認知の中で習得していくように感じる。子どもが反抗するのもこの頃からで、12歳から16歳までの間に正常な反抗期は終了するように思われる。その間に親も子育てには苦労するけれども、子どもが反抗するのは、自分がどうにもならないというサインを出しているのだから、成長過程の一コマと思い、子どもと一緒になって熱くならないで『よく育ってくれた』と自分に言い聞かせ冷静になりましょう。子どもも辛いのだから。

芸術家のいる風景

音楽家にしても画家や彫刻家あるいは焼き物をやる人や工芸家など、何かを作り出す人に私は憧れを持っている。芸術家というのは自分の作品に絶対的な自信を持っている。他の作品に対して批判的な意見をすぐに述べられるという特技も持っていることも特徴的だろう。彼らには天上天下唯我独尊的な要素がないと、自分に嫌になってしまうだろうから、常に感性を磨くために時間を惜しまない。そんな性格であっても、何食わぬ顔で堂々としていられる神経が私を魅了してやまない。自分を何かに没頭することができるということに人として尊敬することができる。それは老若男女年齢差に関係なく、素晴らしいことは素晴らしいのだ。

例えば校内のアトリエ(大倉庫)を使って、長内先生が彫刻をしているところへ、子どもたちが集まって来て、その様子をじっと見ているなどの光景は素晴らしいではないか。東山魁夷のような日本画家がここから生まれるかもしれない。そんなことより教科書のテストの成績が上がった方がいいですか。そんなこと長い人生からすると小さいひとコマだ。

学校の子どもたちも何も芸術家でなくとも、自分が没頭できる何かを探して生きていってほしいものだ。誰が何を言おうとも『自分を生きる』ことができなければ死に体と同じ事だから、強烈にでも辛抱強くでも自己主張して生きてほしい。今『忖度』と言う言葉が流行になりそうだけれど、自己主張には『忖度』できる包容力を持ってできる人格の磨きも大切なことだ。人が好くて、真面目に生きるということは十分にアピールできているのだから、あとは目標に向かってやり抜くという己の力を発揮する時だ。

格好をつけなくてもよい。どうせ人生なんてものは泥まみれになったところに新鮮な新芽が出てくるものだから、汚れることを気にしてはならないと思う。2年生の『進路宣言』が素晴らしかったというのは、彼女たちはしっかりと自分を観ていて、浮ついたところもなく、しっかりと大地を踏みしめているからだ。そのようなことが人間の基本になるのではないか。

子どもはみんな可愛い

昨日六本木にある新国立美術館へ行って、前年度まで美術関係を教えていた非常勤講師の宮崎みどり先生と、今年度より教員として小中学校で子どもたちに教えている長内夏希先生が出品している彫刻を観に行ってきた。国立美術館だから、ここに出品できると言うだけでもすごいなと思うけれども、宮崎先生は上から2番目の賞を戴いたらしい。長内先生がそう言っていた。素晴らしいすごい感性を持っているのだろうな。

その宮崎先生にお会いして会場を案内してして戴いたのだけれども、たまたま宮崎先生が現在教えている都内の中学校の子どもたちの話が出たのだけれども、青葉台の子どもたちの感性に触れ、とても素晴らしいものを一人残らず持っているということはとてもすごいことだと言っておられた。実は私もそう思っていた。今学校には現役の芸術家がいる。そう思っただけでも素晴らしい学校だと思う。

また昨日は中学校2年生の『進路宣言』が行われた。とても堂々として素晴らしかったらしく、ぜひとも見てほしいということなので、今日になって二人の宣言を聞かせて戴いた。確かに堂々としていて内容も地に足がついていて、自分たちの現況をよく把握していて見事なものだ。子どもたちの内面の発露なのだけれど、教師も子どもたちをよく見ているなと感心した。

幼稚園の年少さんの部屋へ行ったら、指を3本立てて『3歳!』と得意になっている。そこで『先生は何歳?』と聞いてきたものだから『68歳』と答えたら『ふーん』と言って、会話が途切れてしまった。同じように年中さんは指をぱっと広げて『5歳!なった』と言う。先生は?と言うので『68歳』と言うと『へー90歳かと思っていた』と言う。会話の中にふんだんに数字が出てきて数唱の練習だ。遊びの中で数の概念を身につけていく。非認知的なことの大切さだ。

学校法人とは何たるか

きのくに子どもの村学園の創始者である堀真一郎氏は学校法人の学校を作るにあたって、寄付を募ったり、他の職業で得た利益で学校を運営するには限界があるので、何としても学校法人を取りたかったと言っていた。私が初めて作った幼稚園は最初から学校法人であったが、これは現在当学園の理事をしていらっしゃる弁護士の風間幹夫先生が県に行って交渉して作ったものだ。だから私には当初のご苦労に対して全く知り得なかった。けれどもその頃は、設置基準は厳しかったけれども、それほど目立って経常費補助も多くはないし、しばらくの間は私は無給どころか教員給与が払えなくて、アルバイトで得た得た賃金を幼稚園に入れていた。これは驚くほど多額ではないから何でもないことだけれど、身内に来て戴いてただ同然で働いてもらっていた。

まあ40年も前の話だけれども、幼稚園経営はそんなに楽なものではなかった。地域の郵便局と同じようにちょっとした資産がある民間の人に頼んでお願いするようなものであった。しかし私には有り余るような資産もなかったし、今の幼稚園が建っているところがかろうじて私の名義のものであった。自分の土地を寄付しなければ幼稚園は建たないし、建設費は自己資金でなければならないことが法人になるための約束事であった。借金漬けになっていた私が何故に学校法人立の幼稚園が出来たのかと言うと、そのような決まりを知らなかったし、勝手に建設をはじめてしまっていたから後戻りできなかった。それに許可を取りに役所と交渉したり書類の提出などは弁護士の風間先生がやっていたから、どうなっていたのか詳細にはわからないうちにできてしまった。

そして昭和51年11月29日に幼稚園は完成し、翌年2月8日に法人認可をもらったがなぜか登記簿謄本には3月31日になっている。幼稚園は設置基準は厳しくて面倒なことであったのは、第二幼稚園を建設する時にしみじみと理解することができた。すでに学校法人があるにもかかわらず、ゼロからの出発である。融通のきかない役所との交渉にはほとほとまいってしまった。都道府県によって設置基準が違うらしいが、森友のようにそんなに簡単なものではないことは確かだ。

そう言えば森友の籠池さん、『けつを割る』という汚い言葉があるけれど、散々世話になった人に対して、『毒をモラワバ皿まで』とばかりに、関係者を道連れにしているようだ。人として絶対にやってはいけないことだ。結局は民進党の楽しい餌にされていて、民進党とは本人の信条とは決して相容れないものなのに、もう自分は終わってしまったのだと言うけじめがしっかりとしていない。この風が止んで風化してしまったら、誰にも相手にされず放り出されるだけだ。政治家と付き合うのは、切れてしまったら政治家を相手にしている方が惨めになるものだ。なぜなら自分を守るためには誰よりも長けているのは政治家だからだ。籠池さんも夢から覚めてしまったのだから、そのあとの夢を追い続けると後は何も残ってはいない。真っ白になるだけだ。

北のカリアゲ君

『蟷螂の斧』の如し。カマキリは象に対しても刃を挙げて向かっていこうとする。その気概は良いにしても、それは一度見せてくれればそれでよし。何度もやっていると、オオカミ少年のように相手にされなくなる。そして最後にはオオカミに食われてしまう。核を持たない国の方が持っている国よりも多いのだから、その国の仲間入りして平穏に暮らし、北朝鮮の国民を飢えから救ってやったらどうだ。核を持っても使えないし、他国への脅しにしかならない。それを維持していくにはまた莫大なお金がかかる。何をそんなに恐怖感を持っているのか。韓国が北へ攻めてくるとでもいうのだろうか。金王朝の瓦解を恐れているのか。

誰か有名人が『日本を巻き込まないでくれ!』といったことを米国向けに行ったそうだが、これもまた社会観と言うか、世界観に乏しい発言ではないか。冷静に考えてみれば、日本が米国を巻き込まなければ朝鮮半島の危機に関してはなす術を持たないではないか。米国の後ろ盾がなければ何も進展を見ない。いつも口先だけの抗議で拉致問題然り手も足も出せない。その上中国に『日本は黙っていてもらいたい』などと高飛車に出られると、しゅんとしてしまう。小笠原付近で、日本のサンゴ礁を根こそぎ持って行ってしまった中国漁船に対しても、取締りの船がないと言ってさせ放題であった。情けないではないか。

日本の法律で縛られてしまっていると言い訳をしているけれど、法律は国民の生活を守るためにあるはずなのに、外国の漁船を守るためではない。駄目なら法律を作ればよいけれども、中国をあまり刺激しないほうがよいなどと、どこの国の議員なのかわからないうつけ議員がいることも不幸なことだ。

新入生歓迎餅つき大会

あまり派手さはないけれど、毎年のことながら新入生歓迎餅つき大会をしている。みんなが餅が好きと言うのもある。中学生の男の子がいるから、つき手はあまりある。しかも若くて力があるから、出来上がった餅はすべすべしていて見るからにおいしそうである。つき手も上手だし、愛の手を入れる子どもたちも上手だ。小学生全国餅つき大会なんていうのがあると、多分わが校は県で勝ち残り全国大会に出ても日本一がとれるのではないかと思うくらい見事だ。

けんちん汁があるけれど、これの味付けは私がやることに決まっているようで、子どもたちが調味料とかを持ってきて『よろしくお願いいたします』などと言って柄杓を片手に頼みに来る。本当はだれがやってもいいのだけれど、私にわざわざ出番を作ってくれているようだ。幼稚園の餅つきのときには、保護者が40人以上来るので、大人の姿がよく目に入るけれども、学校では子どもたちが中心だ。だから応援団がいたりと役割ができていて、餅つきは活気がある。

いつの間にか大きくなってしまった子どもたちだ。頼もしい限りだ。これからがどのように生きていくのか、慎重によく見ていかなくてはならないだろう。

のんきな日本

水面下では在韓邦人の救出作戦などシュミレーションを行っていると思うけれども、国内にいる日本人はどのような覚悟で、どのような対応をすればよいのか、用意をする分には行き過ぎはない。何と言っても命がけなのだから。性急に避難命令など出してしまうと非難の的になるけれど、とにかくこのような経験は政府の高官でさえ初めてだろうからなかなか難しい。その点韓国などは夜間外出禁止令などつい35年前にはまだ施行されていたので、退避の仕方を知っている国民が多い。

じたばたしてもしょうがないと思うのは、私の年齢なら良いけれども、これから生きがいを求めて生きていく人たちには酷な話だろう。何も起こらなければよいけれども、北のカリアゲ君はタナボタで権力を掌握したので国家間の闘争などの経験もない。米国とのやり取りもまるでテレビゲームを楽しんでいるようで危険この上ない。核実験をしたら間違いなく戦争になるだろう。

私が35年前に欧州を旅行したときには、何処に行っても核シェルターがあったことに驚いたものだ。欧州は陸続きだから危機意識が高い。このような状態が続くのであれば、学校にも核シェルターが必要になってくるのではないか。せめて退避場所にする丈夫な防空壕が必要になるかもしれない。サリンを空から落とされたらどうすればよいのか。政府のある機関が防ぎ方を国民に伝えたようだ。サリンは空気より重いから高台に逃げるか風上に逃げる。ゆっくり揮発するのでそばにいると危険。

危険は去ったわけではない

北朝鮮が中距離弾道弾の打ち上げに失敗したと報じられている。実のところ、やるぞと言う意思を見せて置いてわざと失敗させたのではないか。米国のかなりの圧力のある中大陸弾道弾のような長距離ミサイルを発射させることは精神的にも難しい。しかし核武装は北朝鮮の生命線だから、必ずやるだろう。日本のコメントなんか何も気にしてはいない。北朝鮮は必ずやると私は思っている。日本にミサイルが飛んで来なくても日本経済は混乱するし、平和ボケしている日本に脅威の現実を突きつけるだろう。

米国はカールビンソンを派遣して脅しをかけたが、北朝鮮は度重なる脅しにはびくともしないし、例えば米国が本気になって空爆を実施した場合そのリスクは計算されているのだろうか。そのリスクをきちんと計算しているのはむしろ北朝鮮なのではないか。韓国は空爆には反対だろう。そうでなければこれだけ危機をあおっておいて、ソウルの街が普段通りに展開しているというのはあり得ない。空爆が始まってからではソウルの人たちは逃げ切れまい。だから例えば北朝鮮が核実験を仮にしたとしても、米国は手足を縛られたままだ。なすすべがない。空爆を抑えているのは韓国なのだ。

出来ないことを百も承知だから、米国は最後の切り札として中国を揺さぶりにかけた。中国の国家主席はトランプの軍門に落ち、為替操作の件は不問にされた。窮鼠猫を噛むの例えがある通り、このまま危機は通り過ぎたとは言えない。戦争になれば韓国の国民が雪崩を打って日本に助けを求めに来るだろう。韓国の戦争難民である。この分では必ず起こる。桜を観るどころではないのだ。

ところで学校の桜は満開である。桜も学校の歩調に合わせてゆっくりとしているから、近所のソメイヨシノの桜の花が散り終わったころにやっと満開である。何も急ぐことはないじゃないか。『大器晩成』というではないか。また『散る桜残る桜も散る桜』という。世のある姿を桜の花に例えるなんて粋なものだ。

不穏な朝鮮半島

北朝鮮が核実験を行ったら米国が先制攻撃を仕掛けると明言している。カールビンソンの一団が攻撃をするにしても、国内にある第7艦隊が攻撃に加わることにしても、日本との事前協議の対象となるなどと政府は悠長なことを言っている。もしも本当に攻撃することが現実になったら事前協議などの手続きを踏むのかどうかわからない。そんなことは作戦の手の内を相手に伝えるようなものではないか。シリアに放ったトマホークでさえ米国民は事前に知らされてはいないだろう。

サリンが弾頭につけられて、日本や韓国に打ち放されたらどうなるのか。韓国は当事国として戦争のど真ん中にいるのだろうが、日本を攻撃する場合には長距離弾道弾が必要だ。その先にサリンをつけるということだが、サリンを防ぐにはどうしたらよいのか民間防衛も真剣に考えて、国民に用意させることも必要なのではないか。まさかそんなことにはなるまいというような正常性バイアスは危険である。スイスのように率先して平和主義を唱えるなら完ぺきな防衛力が必要である。

私の住んでいるところには自衛隊があるから標的になる可能性も多少はある。米軍が駐留していないから、第一義的に狙われることもないだろうが、何と言っても幼稚園や学校があるから、できることならそんな物騒なことにはならないでほしい。しかし自分の身は自分で守るという鉄則は、いつもどこかに考えておく必要があるだろう。

学校の校庭の真ん中にある桜が咲いた。ソメイヨシノではないので、桜が満開だと世間で騒いでいるころはまだ学校の桜は静かに沈黙を守っている。やっと今日あたりになって、桜が咲いているということに気がついた。多分月曜日には満開になって、そのあと2~3日で散ってしまう。花の命は短くて・・・・・。

動き出した幼小中

小中の入学式はひと足早く始業日を迎えた在校生が工夫を凝らしながら作り上げたものだ。司会から歓迎の挨拶など最後まで子どもたちの脚本だ。唯一教師の紹介は教師が行ったが、新入生を歓迎する心のこもったものであった。特に新入生にお土産を渡す場面が面白かった。うちの子どもたちはマイクを握っても堂々としているから、何かへまをしないだろうかなどの心配は全くいらない。学校を作って本当に良かったと思える瞬間でもある。屈託がなく心が自由だから生き生きとしている。1年生もまるで自宅にいるようで、伸び伸びとしていて気持ちがよい。

そして幼稚園。数年前と比べたら泣く子どもたちがぐっと減った。女児では泣く子が殆ど見当たらないのに対して、泣いている声が聞こえて、そこへ行ってみると保育者の膝の上で泣いているのは殆どが男児である。大人になっても、強そうに見えても影に隠れて泣いているのは男性ではないか。その内容は幼児期とは違っていても、殆どは女性に助けられている。女性は強い!

久しぶりに晴れた日だったので、園庭は子どもたちの花が咲いて満開である。おりしも雨上がりであるので、水溜りがあちこちに出来ている。よせばいいのにその水溜りをめがけて『じゃぼん!』とやる。水しぶきが上がると同時に歓声が上がる。それをあきることもなくやり続けている。だれも注意をしないから思い切りそれを楽しんでいる。親がいたら必ず止めるだろうと眺めていたら、その水溜りに座り込んでしまうものが現れた。そこへ保育者が現れると、今度は『鬼ごっこ』だ。楽しいはずだよ幼稚園は。

始まったぞ!

小中学校は昨日から、幼稚園は今日から新学期が始まった。小中学校は校長を辞任したとはいえ、理事長として子どもたちとの関わりはある。何といっても自分で作った学校だからそれなりに思い入れはある。距離を置いて学校を見て見ると言うのもよいものだ。それに私のように学校をどのようにしたいのかを、命がけで考えられる人はいないから、私が教職員のすぐそばにいると、教職員も委縮してしまうだろう。体をこわしたのはそういったことを解決するにもよい経験であったように思う。

とにかく学校も幼稚園も始まってよかった。子どもたちのいない園舎や校舎に大人がうろうろしていると、どうも似合わない。もっとも最近は幼稚園では『預かり』と言うのがあって、学期休みなど無視して子どもたちは幼稚園に来る。休みの日でも保育者には山積した仕事が沢山ある。そんなことはお構いなしで国の決まりができてしまったようだ。子どもたちにはそんなことは関係ないので、ギャーギャーと騒いでいればそれで大人たちは安心している。

まず幼稚園の園児たちは年中さんと年長さんだけがホールに座って私が話しだすのを待っている。その時の生き生きした目の輝きが何とも言えない。純粋に深海の奥に潜んでいるような瞳で、それでいて食いいる様な炎のような目つきをしている。それは進級したことへの自信と高ぶりなのか。大人には二度と戻ってはこない、これからの決意の瞳だ。子どもたちは四季折々ではなく、心の変化がある時々に新鮮な表情を見せてくれる。楽しきかな子どもたち、素晴らしきかな子どもたち。

校長辞職

まだ子供たちと会っていないので校長を辞職したという実感がわかない。いずれそのうちじわーっと来るだろう。校長という責任から離れるというだけで、その実態としては全体の責任があるわけだが、ちょっとした役割から離れられるというのは、それなりに肩の荷が下りるものだ。今まで仕事の量は増える一方だったけれど、幼稚園を始めて中学校を設立したことを含めて、初めて仕事の量が少し減ることになった。

幼稚園にも園長室と言うのがあり、小中学校にも校長室と言うのがあるが、そこを自分の定位置となったことは今までに一度もない。幼稚園に行けば職員室の中の一つの席にいる。初等学部でもそうだったが、これからは理事長室という部屋にいることになる。職員とは隔離されてしまうので、仕事が見えないし、職員の方でも何かと不便があるだろう。まあそれは一時のことで慣れてくればそれが普通になるだろう。

居心地の悪いのは私の方で、幼稚園でも今までの初等学部でも園庭や校庭が見え、子どもたちの躍動する姿がすぐ前で見ることができた。でもほかに座るところがない。職員室に新しく自分の机を持っていくのも、少しいやらしい。

せっかく6号バイパスの片側2車線の工事が3月27日に終了し市内の全線が開通したというのに、自分が役職から外れるのは工事をしてくれた人たちに申し訳がなく感じるけれど、子どもたちは多分新しい風を感じてくれて、今までと違った『やる気』を感じてくれるような気がする。私はいつでも子どもたちの味方だから、いつでも話をしに来れば良い。喜んで応えるよ。

インフルエンザ

インフルエンザという小さな悪魔がわたしの体内を侵している。31日の夕方近くであっただろうか。急に頭が重くなって意識が朦朧としてきた。女房が何度か耳元でお医者さんへ行こうと囁いていたけれど、自分ではどうして良いものか判断がつかなかった。 結局1日の昼過ぎごろ女房が病院と連絡を取り合って、診察してもらうことになった。

半分気を失っている状態で車に乗り込んだが、車に乗り込むときにも女房が私を抱き上げようとするのだが、私の体重が重くて、あっちへフラフラこっちへフラフラと女房にしては大変な思いで あったろう。私を車に乗せるときも、車の中にいるときも絶えず女房が「大丈夫だからね」「心配いらないからね。ずっと一緒についているからね」と声をかけてくれていた。

到着して主治医の前に行ったときに、すぐさま入院させてくれるように頼んだけれど、願いは聞き入れてもらえなかったので、そのまま気を失ってしまった。気を失ったと言ってもところどころは覚えていて、うまく情景がつながらないだけだ。ちょっとベットへ横になって点滴を打ってもらう事になったが、その際も女房がわたしを支えようとして私の背中に手を回すのだが、どうにも私を支える体力がない。それを見かねた主治医が急いで車椅子を用意してくれた。

点滴を途中でやめ、薬局の薬を飲んだほうが良いと主治医の究極の判断なのか、すぐに処方箋を出してもらい近くの山口薬局に飛び込んだ。起き上がることもできず立ち上がることもできず、重心を失った黒い物体が待合室の長椅子のところで横たわっている。女房が私のそばに寄り添って「いま薬を出してくれるからね。それを飲むとすぐに治るからね、心配いらないからね、すぐ帰れるからね」と言っていた。

係の薬剤師が私のそばに寄り添い真新しい白衣も気にせず私のそばにひざまづき「すうすう吸って、ずっと吸って下さい。それを4回やります」と言って丁寧に対応してくれた。なんだかその優しさに涙が出てきた。その人の名前は健太郎と名札に書いてあった。

家に帰る途中でも「あしたになればもう全て終わっているから、大丈夫だからね」と言っていたけれど、次の日までまで眠ってしまっていてよく覚えていない。目覚めたときにはすごく爽やかで純白の風が部屋の中を通り過ぎて行って、そこには尖ったものがなく、全てが柔らかく包まれていて、いま自分は臨死体験をしているのではないかと思ったくらいだ。何も考えなくても、何を知らなくても時間はすぎて行く。死ぬときってこんなものなら何も恐れることはないな。

がっかりした!

宇都宮さんが都知事選を撤退した。野党統一候補を一つに絞って戦いたいと言うのが思惑だろうが、やはり宇都宮さんは共産党の党員だったのではないか。党派に縛られていなかったら問題なく出馬することが出来る。党派に縛られない都民党などで出馬することは難しいのだろう。鳥越さんなんかはかなりの知名度があるし、野党統一候補にならなくても戦えるのではないかと思うけれども、素人の浅い考えなんだな。考えてみれば全くの無所属で何処の党派にも属さないで支援を受けない知事などは日本にはいない。茨城県の橋本知事は、前回は自民党の反対を押し切って勝てた。数少ない知事だろう。無党派だけれど現存する野党とはくみしない。

私は宇都宮さんの政策の演説を聞いたことがないので一度聞いてみたかった。勿論私が都民であっても一票を投じることはないけれども、どんな戦い方をするのか楽しみにしていた。これで三つ巴戦になったけれども、増田さんと鳥越さんの一騎討ちと言うのが大方の予想だろう。自民党が謙虚であれば勝てる気がする。もっとも政治の中で謙虚であると言うことはどのようなことかというと、反対派の意見も取り入れて政策を推し進めるということだろうが、それでは民主主義の大前提である多数決の原理から遠のいてしまう。私も政治家にあこがれた時代もあったが、よほどの体力と図々しさがないと務まらない。頭もよくないとだめだ。

これはたんに東京都の問題ではなく、日本の首都の長を決めることだから『私には関係ない』とうそぶいていても、オリンピックを控えているということもあって無関心を決め込むことの方が難しい。華美にはならない実力のある人になってほしいものだ。いずれにしても31日には結果が出る。体に気をつけて健闘を祈るとしか言いようがない。皆さんこの暑いさなかに、大声張り上げてぺこぺこと頭を下げて、体がもつのだろうか。

今日はとっても暑いようで、初等学部の子どもたちに会うたびに、『かき氷が欲しい!』という挨拶ばかり聞かされている。そんなもの用意されているわけではないから、知らん顔していたけれど。草取りをしている先生も汗びっしょりで、子どもたちも先生たちも本当に頑張っているようなので、近くのスーパーに言ってソフトクリームを買ってきた。子どもたちはギャーギャーと歓喜の声。これがまた嬉しい。

色々あるな

鳥越さんが東京都知事選挙に出馬すると言うことが正式に決まったようだ。野党四党の枠組みの中で出ると言うことだが、出馬と同時に古賀さんと言う経産省出身の人が鳥越さんの記者会見に現れて鳥越さんに出馬をお願いしたという。古賀さんはそれ以前に野党四党の枠組みの中から出馬を打診されていた人だ。あまりにもでき過ぎな選挙戦だ。出来レースをあたかも突然起きたようなやり方は大人げないし、恥ずかしいことだ。鳥越さんはニュ-スキャスターを長らくやっていて知名度もあるけれど、リベラルではない左翼である。

同じ左翼から出馬する宇都宮さんの方が骨がある。如何にも骨っぽい左翼である。鳥越さんの出馬の弁について納得行かない。彼は参議院選挙の結果をみて大きく世の中が右に傾いているようなことを言って、それに危機意識を持ったから都知事選に出るという。それなら国政に出るべきだろう。自分の年齢も考えて、一つ花を咲かせたかったのだろう。あくまでも彼の言い分には大義はない。かつて競馬を辞めた知事がいたけれど、それはすぐに復活してしまっている。野党四党の枠組みで出るとかいうのは、まったくの戦術であって思想がない。

ファミリアの報告を毎日聞いているけれども、この学校の子はまじめな子が多いからやるときはきちんとやるし、ちょっとでも外れたことをするとみんなでそれを問題にして、しっかりとした自浄作用ができている。ファミリアで学習する子がいなくなったなどと、学校を辞めていった保護者が言っているけれど、とんでもない話だ。中学校も出来たことだし、ここの子の潜在的学力の高さを、これから顕在化して、勉強したいという子はすべて土浦一高へ行かせてやる。そのくらいの力はある。しかし興味を示さない子は何処の子でも無理だ。

寄宿舎が完成する

2016/07/12
寄宿舎が完成する
| by 塚原 港
寄宿舎はほぼ完成した。周りの足場は取ってしまったし、部屋の中の床もきれいにできている。後は家具類などを運ぶだけになった。通水試験も、通電も終わって、引き渡しが8月1日と決まった。これは7月の終わりの週には毎年行っている穂高の研修があるからだ。ちょうど茨城の幼稚園協会の研修と重なってしまったけれども、両方にうまくいけるように手配してほしい。ところで寄宿舎の名前が決定した。『志峰館』という名前にした。

ここで人間を人間らしく育てる。自分だって半人前の人間だけれど、いつもどうあるべきかを教師たちと議論している。みんなで力を合わせて、素晴らしい学校にしていこうというのはいつでも合言葉になっている。幼児期の発達理解がベースになっているので、子どもたちの心を大切にすることができる。何といっても大切なのはその子自身を生かすことだ。勉強だけが良く出来ても駄目だけれど、多くの保護者はとりあえず学業の成績の良い子を求める。案外それも大切なことだけれども、もっとすごい人間になりそうな『芽』が育っているような気がする。

そんな『芽』を見落とさない学校生活を保障してあげたい。それには毎日の子どもの様子をつぶさに報告できる教員の結束が必要だし、子どもを見る着眼点を磨きあげなければならないだろう。毎日の職員会議での報告で、私はそれを聞き逃さないようにしている。

あおば台がオアシスに来た

あおば台の年長さんと年中さんが合同でオアシスに遊びに来た。並び方を教えているわけではないけれど、すぐに整列できるのはどうしたわけか

幼稚園にあるプールより相当大きいから、色々なことができる。オアシスの防水は分厚いラバーでできているから、そこを素足で登ったり降りたり、滑り台にしたり考えられる遊びを工夫しながら遊んでいる。

オアシスが一杯そうなので、溢れた子たちはカヤックに挑戦している。オールを出して子どもたちに任せてみたらどうするのかやってみればよかった。カヤックで遊んだのはクジラ川というところ。壁をよじ登って川岸にたどりつくのは滑って大変だった。

ひたち海浜公園遠足

学校の子どもたち全員で楽しもうということで近くの海浜公園に行くことにした。大型バス1台で教員を含めて全員で行くことができる。片道1時間ぐらいだからちょうどよいところにある。普段から子どもたちが一生懸命生活をしているので、今日はみんなにご褒美と言う形で行くことにした。1100円分の乗り物チケットを配られたので、子どもたちと一緒に乗り物を楽しむことにしたのだが、子どもたちは『わーわーキャーキャー』と奇声を上げて楽しんでいるようだが、何が楽しくてあのような奇声が飛び出すのか、じっくり考えてみた。何のことはない危険を楽しんでいるのだ。危険ほど楽しいことはない。

危険と言うことだけで片付けてはならないが、、彼らにとってはこの乗り物に乗って見ようと決断するときには、少なからず楽しいと言うことだけでは決断はしない。未知への冒険的要素があるはずだ。『親の意見となすびの花は千に一つの無駄もない』と言う諺があるけれども、子どもたちの遊びにもそれが言えるような気がする。幼稚園の子どもたちの砂遊びや泥遊びにしても一心不乱に集中して遊んでいるけれど、言葉に出してまとめ上げることはできないけれども、かなり多くの気付きがあったりしているのだろうなと思う。

それと同じように子どもたちが夢中になるものには、それなりに得るものが沢山あるのではないか。抽象的な感じ方かもしれないけれども、やがてそれらが具現化されて論文発表なんてことになる礎になっているのが子どもの遊びなんだろうと確信を持って言える。だいたい偉大な発見や発明などと言うのは、ひょんなことから、普段の人では通り過ぎて行ってしまうような事柄から奇跡的なことが生まれている。だから遊びを深める子ども(集中する)は洞察力が鋭いので将来有望である。

子どもと一緒に遊ぶのはとても疲れる。ついその気になってしまって、足腰にすぐ張りがきてしまう。若くはないのは分かっているけれども、今日の遊びの種類の中に65歳以上の方は乗れませんと言うのが何台かあって、もっとも65歳以下であっても乗る気になれないものであったけれども、少しずつ一般社会から特別扱いされるような年齢になってしまった。覚悟はしていたけれど、もう戻れない。子どもたちと一緒にいられる毎日の生活があるというのが、私の誇れる唯一のものだ。

園長設置者研修会

昨日は朝早くから現役の青年会議所のメンバーが幼稚園まで迎えに来てくれて、赤坂御所にある故三笠宮寛仁親王殿下の宮邸に行って来た。寛仁親王がお元気であったころ、土浦青年会議所と親交があり、殿下を交えてウエルフェアーゴルフをを開催させて戴いた。ウエルフェアーも殿下の提案で、障害を持った人たちの施設へウエルフェアー基金を寄付すると言う活動が来年で30年になる。継続はまさに力となるので、来年の30周年のウエルフェアー大会には、殿下のお嬢様である女王様がお出まし下さるそうだ。

午後1時ごろには幼稚園に帰ってきて、そのあとから水戸三の丸ホテルで茨城県私立幼稚園協会の主催する園長設置者研修会へ向かった。殿下のところへ行くことも研修もどちらも大切なことなので、かぶってしまったけれどもどちらにも顔を出すことができてよかった。研修の内容は社会労務士による雇用における注意事項などと、保育者の確保とか、幼稚園教育要領の改定とか、小中学校の教育内容の見直しなどの話があった。小中学校の話は殆どなく、もっぱら幼稚園のことだけだったのだけれど、文科省の役人が出した資料の中にあったのでそれを読んでいた。

泊まりがけの研修なので、さすがに今日はくたびれた。泊まりがけだと、きちんとご飯を食べるので太ってしまうのではないかと心配である。

ザリガニ釣り

ザリガニというのは戦前の日本には小さなものしかいなかったそうだ。戦後日本の食糧事情が悪くて、アメリカの兵隊さんが日本に持って来たそうだ。日本に持ち込んだエビガニをアメリカザリガニと言うらしい。そのアメリカザリガニをあおば台の保護者が2年前だったか定かではないけれど、バケツいっぱい持ってきて『子どもたちにあげてくれ』という。子どもたちにあげるのには少ないし、どうしたものか考えあぐねていたところへ私に相談があった。私は即座に『ゆでて食べよう』と提案した。しかしそのような経験のある教師がだれ一人いなかったので、賛成する者はいなかった。少しばかり孤独になったがさっさとゆでる用意をした。

そのアメリカザリガニを1・2年生を連れて釣りに行ったのだ。半世紀ぶりに釣りなどをした。しかもザリガニ釣りは、小学校低学年の時に近くの用水路やため池で、カエルを掴まえて、ちょっと残酷だが、胴体と足を引きぬいて足を餌にして釣りをしたという経験だ。糸はタコ糸で、おもりは魚釣りと同じように鉛を使った。私は魚釣りやザリガニ釣りは良くしたものだ。また霞ヶ浦では淡貝をよく取りに行った。

淡貝というのは淡水に棲む大きな黒い貝のことで、大きいのになると30cmぐらいのもある。これを佃煮にして食べるととてもおいしい。私はそういった遊びのようなものを、まったくの遊びとして捉えたことがない。ザリガニでも魚でも淡貝にしても、少しでも家族のためになるというような気持ちでいるから、何も捕れなかった時には悲嘆にくれる。

そのザリガニを子どもたちと一緒に釣りに言ったのだが、初めてだと言う子もいて子どもたちも私も興味津々である。甲高い声で気勢を上げるものだからザリガニも逃げ足が早い、それでも全員が釣り上げた。少し要領を覚えると立て続けに何匹も釣り上げる子もいる。ザリガニを触れなかった子も、背中の方から掴むことを覚えて、他人の分まで取ってあげたりしていた。最初の計画では1匹づつ持って帰るとなっていたけれども、無制限にして小さいものだけ戻して、あとは持って帰ってきた。どうするかって?。ゆでて食べようと思っている。子どもたちは絶句して言葉を失っている。生まれて初めて食べるザリガニの味はいかがかな。

お泊り会

金曜日に幼稚園に来て一泊して土曜日に帰るというお泊まり会である。何日か前からお泊まり会の導入をして今日に至ったわけだけれども、変わったイベントなので子どもたちは喜びと不安を会い半ば持っていて、顔だけはにこにこしている。不安がないと言ったら嘘になる。親から離れて泊まったことがあると言う子は別として,初めてのお泊まりであれば小さな心を突き抜けるような不安があるはずだ。それでも健気に楽しいとか面白いとか言っている。みんなでお泊まり会を盛り上げようなどと言ってはいるけど、どこかうつろである。

お泊まり会の係があるから、これだけはみんなで協力しないと先へは進まないから、飯盒のご飯を炊いたり、レストラン係があったり、デザート係があったりと、必ず何かの係を誰もが負担することになっている。夕食を食べて、お楽しみ会をやったりしているうちは楽しいけれど、肝試しになるとその様子が一変する。いつも元気でいる男の子がどうにも手がつけられないほど泣きじゃくったりして、興奮のるつぼにはまったりしてしまう。第二ではそれほどのことはなかったらしいが。もっともかつては第二幼稚園ではあまりにも面白がって子どもたちを脅かすものだから、反省会で、もっと楽しいものにしようとなったいきさつがある。

幼稚園の行事というのは、一つ超える度に子どもたちの成長が見えるので、教師たちも楽しみにしている。一晩経って、たかだか一晩だけれども、朝の子どもたちの顔は一様に輝いている。自分自信が超えたと言う自信が体中にみなぎっているようだ。そうではあるけれども、お帰りの時間になって、ご両親が迎えに来ると、りりしく見えた顔もふにゃとなってもとの甘えん坊の顔に戻ってしまう。全くそれでいいのだけれども、だからと言って今日の『自信』がなくなってしまうのかというとそうではない。体験したものが積み重なって経験となり、それは自分の血肉となって自分自身のものとなっていくものだ。

甘くはない

早速EU委員会や英国抜きの27のEU参加国の首脳会議があったが、英国に対しては冷たい意見が相次いだ。それは離脱ドミノを防ぐためでもあろうが、次の英国首相が決まるまでは離脱のための事前交渉は一切しないなどの申し合わせがあったり、離脱後の展望が英国にはまったくないとは一体どういうことだ、というような厳しい意見があった。英国の大使が『今まで通りのお付き合い』と日本に言っているけれど、英国がそう思っていても、EUは英国抜きで結束を固め英国からのものを締め出しにかかっている。日本の商社は英国を基点としてEUに商品を送り込んでいるから、そういったものにすべて関税がかかってくることになるので英国にいてもメリットが無くなってしまうことになる。

ピューリタン革命から逃れて、アメリカ東海岸に到着したメリーフラワー号に乗っていた英国の人が米国本土に根を下ろしたころには、米国原住民は9000万人ほどいたとされているが、それから2.3百年のうちに原住民は350万に激減してしまったといわれている。それはヨーロッパから移住してきた人たちの奴隷になったりして過酷な労働を強いられて、体力の消耗や病気が蔓延したりして減っていったらしい。それで足らなくてアフリカへ行って人間狩りをしたのだ。今さら移民問題を出すだけの資格は英国にはないだろう。

英国には連邦国家というのが53カ国ぐらいあるといわれている。かつて英国が植民地としていた国だ。コモンウエルズと言うらしいが、そのコモンウエルズがあるからEUと協定を組んで彼らに従う必要はないと言うことを真剣に言っている人がいた。大英帝国の懐古趣味である。とにかく英国がどうなってしまうのかしばらくは目が離せないだろう。EUのニュースが毎日報じられるが、あちらの人の名前は面白い。EUにはユンケル委員長という人がいる。殆ど風邪は引かないだろう。

朝から第二幼稚園で役員会があるというので顔を出した。議題はバザーについてだそうで、役員のほかにお手伝いさんもお願をして、毎年盛大に行っている。子どものためだと言え、頭の下がる思いだ。そのついでにというとおかしな話になってしまうが、明日からお泊まり会が始まるのでお家の人も心配しているだろうから、お家の人には「プーピータンシン!」と言えばよいと言ってきた。北京語で『心配いらない』という意味。昨年から私が楽しんでやっている。勿論ドントウオーリと英語でも教えた。みんな喜んで暗誦していた。七夕が各クラスに飾ってあって、「ドラえもんに会いたい」「空を飛んでみたい」など可愛いのが目に付いた。

英国離脱で何が変わるのか

日本の教育が変わるわけではないけれど、経済行為については激震に違いはないだろう。英国の議会制民主主義を倣ったのは日本の議会だけれども、国民投票というのは議会で結論を得ることが出来ないから、もう一度国民に問いかけようと言うもので、議会人の怠慢でもある。国民投票に訴えるのら、議会人が要をたさないのだから、議会の定数削減と言うことも視野に入れなければならない。もっともキャメロン首相はまさかEU離脱派が勝とは夢夢思っていなかった節があり、また離脱派の演説には被害妄想的な誇大主張があって、英国国民との約束を反故にするようなこともちらほらと出てきたらしい。

離脱しても今まで通りの恩恵を受けられるように英国代表はEUの会議で交渉をすると言っているけれども、早くもEUの代表格のドイツやフランス、イタリアと言ったところが、『いいとこ取りは出来ない!』と手厳しい発言が相次いでいる。EU委員長に至っては『もともと円満な結婚でもなく、愛し合っていたなかでもない』と露骨に嫌悪感を示している。元の鞘に収まるという気配は今のところない。英国に進出している日本の商社は1000社を超えるという。それはEUへの足掛かりとして英語圏で仕事ができるということであったものだけれども、これからはEU圏内のどこかにハブになるところを探さなければならないだろう。

もともとヨーロッパと言うところは非常にまとまりの悪いところで、第二次世界大戦前などはしょっちゅう戦争ばかりしていたところだ。フランスとイギリスなどはずっといがみ合い、大戦前などは植民地を取ったり取られたりしていた。100年戦争などと歴史にあったのは、フランスとイギリスでなかったか。最初はスペインが太陽の沈む時がないと言われたほど地球上のどこかに植民地を持っていたが、無敵艦隊を誇ったスペインがドーバー海峡で英国艦隊に敗れて大英帝国の始まりとなった。ずっとそれ以前などはオーストリアなどが力を持っていてベネチアの統治権を持っていたり、ロシアなどもちょくちょくと顔を出していた。ドイツはまだドイツ国家として統一されていなくてプロイセンと言われていた時代だ。

プロイセンと言えばビスマルクだ。プロイセンが中心となってドイツ共和国を作ったのは、ビスマルクの功績が大である。ドイツの教育の根幹にあったのがビスマルクの国家主義の思想の教育である。フォルクスシュウレ--はその名残で、これを倣ったのが日本の明治の教育である。

中世には戦争ばかりやってきた歴史の西洋史である。そのような国家の集まりだから欧州統一と言うのは、経済行為だけではなく戦争回避のためにもEUを作るというのは欧州人の夢であったのかもしれない。しかしまたここにきて互いの国をののしるような、中世の国家集合体に逆戻りしそうな気配である。英国EU離脱についてどのように君は思うか。というのが大学の入試論文に出そうな気がする。

保育参観日

あおば台は年少の保育参観日である。何処の幼稚園でも年齢が小さいほど可愛いものだ。保育所での0・1(0歳から1歳)というのは良く分からないけれど、あおば台幼稚園には2歳児もいる。2歳児がうろちょろしている様は実に可愛いものだ。ここまで育てるのには大変なご苦労があっただろうけれど、幼稚園に来てくれて感謝したい。私の心も身体もすべてを癒してくれる。こんなありがたいことはない。2歳児を見ていると、幼児期の発達がよく見えるような気がする。

今日はあいにくの雨でホールで行ったが、天候は関係なく親と一緒に遊ぶことができたのは、子どもにとってこんなに嬉しいことはない。この時期は何かを覚えるなんて言うことよりも、五感に感じさせることがたち説だ。何でも早めにやればよいなんて言うことはない。むしろ学校での教科を学習することによって、考える力を弱めてしまう。考える力と言うのは、感じる力の連続性の先にあるものだから、早めの学習によってその力を失ってしまうという、最悪の場合もありうるから、大切なことはよく遊ばせることである。

あの3歳児が食事の時間になると行儀よく手を膝の上にのせて、『いただきます』を待っているなんて想像できますか。よく幼稚園に行くときはその光景をこのんでみる様にしているが、何とも愛くるしいものがある。子育ては焦らないで、ゆっくりと、他人の子がちょっとばかり先に行こうが気にしないことだ。誰かの子が急いで先に行っていても、その間にわが子は無量のものを感じているはずだ。そのことの方が人間の生きていく力に必ずなるものだ。

初等中等学部では、雨なので1頭残ったポックンが馬小屋の中で外を見ている。私の方を見て入口の戸を足でけっていたので、外へ出してやった。小屋から出るとすぐに隣にいたアオバオーの部屋を覗いてから、中を確認してから振り返って外の広い場所に出て行った。ポックンはこのところよく鳴いているそうだ。教師がそう言っていた。

アオバオーが亡くなった

この学校が建設された年からずっと見守っていてくれたのがアオバオーだ。この名前の名付け親は第1回卒業生の男子である。
   
亡くなったという一報が入ったのは朝6時で、運転手さんが発見してくれた。
     
近所のおばあちゃんからも花が届いたり、在園児の保護者やお坊さんもお経をあげてくれた。
     
横になっているアオバオー。目のところはタオルで覆っている。子どもたちから多くのメッセージがある。急きょ竹を切って作った花挿しも心なしかうつむき加減である。
     
西門のところの塀の工事をしているのは齊藤建設で、偶然だけれどもその社長さんは私の後輩でアオバオーを寄付して下さった方だ。その会社の人たちがとても親切にアオバオーを小屋から出してくれて、お墓をほってくれて埋設までして戴いた。アオバオーは幸せだったろう。
     
ポックンも最後の見送りに参加してくれて、仲間がいなくなったことを感じているようだった。
     
最後のお別れに小さな手を一杯に開いて土を握ってお墓に入れていた。子どもたちはアオバオーがいてくれて楽しかった。天国へ行っても忘れないでねとか、今度は人間に生まれてきて一緒に遊ぼうとか言っていた。今日はこの後卒業生がたくさん来るようだ。勉強ばかりしていたような子のように思っていたけれど、優しさが前面に出てきたので嬉しい。
             

続きの続き

0・1・2歳児までは養育費として各家庭に支給して、母親が子供を育てるというようにすれば子どもは幸せだ。支給額は現在の貨幣価値で18万円。その基準となるのは0歳児保育に対して各市町村が支払っている金額の平均値みたいなものである。これが根拠となる。これは何も強制はされない、母親が仕事に出るかそれとも家庭で子育てをするか選ぶことができる。そのことによって日本の経済が打撃を受けるかどうかは分からないが、経済効果ばかりを追求する国家の在り方には限界があるのではないか。ブータンみたいに幸せの指標を明確にして、そちらに進む道もある。お金があるからと言って幸せだとは限らないではないか。

私が言っていることは少数意見よりも小数点以下の意見で、10年ぐらい前に全日に出向していたときに、この問題をみんなで語ったことがあるけれど、この話が全日の中から出て来ないところをみると、この問題は立ち消えになっているのかもしれない。全日は補助金をより多く取らねばならないということも使命のうちだが、子どもの問題を政府に提言することも大きな重要な使命であるはずだ。もっとも私の考え方が全く世間の考え方と大きくずれているようなら、立ち消えになっても仕方のないことだと思う。

子どもたちには選挙権がないからとか、幼児期の母親の年齢層はとか、それらが票に結びつかないからやっても無駄だと言うような考え方をしてはならない。これが正しいことで、国家百年の計として必要なものだと言う信念があれば生涯にわたって言い続けるべきであろう。私が生きている時は無理であろうが、将来は必ずそのようなことになると思っている。幼稚園経営者は、経営も大切なことであることは十分承知しているけれど、子どもの本当の幸せは何かということを議論しなくてはならないのではないか。

人間は『足るを知る』ことが最も大切だ。『無欲の大欲』と言うのもある。まだ私はその境地になったことはないけれど、欲によって苦しむことは確かなようであるから、あまり欲をかかずにみんなと楽しく生きていくことを考えた方がよい。

昨日の続き

幼稚園を建てた人は幼児教育をやりたいのであって、間違っても子どもを預かる保育と言うものはやらないと言ったことが、幼稚園連合会で研修を積んで来たものにはそう言った不文律があった。ところが園児数が減り文科省も幼稚園を救うために乗り出さざるを得なくなって、究極の選択肢が認定子ども園ということになった。だから認定子ども園というのは、保育所へ預けたいけれども空きがないと言った保護者のために新しい制度ができたのではなく、園児減で経営不振になった幼稚園を救うためにできた救済措置なのである。

それはそれでその制度は功を奏したと私は思っているけれども、同時に保育所の保育者のシステムについても幼稚園教諭の知るところとなって、同じくして私も初めて知ったことだが保育に関する保育料の決め方がこと細かくできていて、それをまとめ上げるのにA-4の上で1年間で10センチぐらいの量になる。この事務手続きだけでうんざりしてしまって認定子ども園を返上する幼稚園もちらほらと出てきた。もっとも認定子ども園の保育料などは、まだどうなるのか見切り発車してしまったということも否めないが、県の宣伝効果が最も表れた格好となった。

都市部で保育所が足らないと言っても今から土地を探して新設するとなるとそう簡単には行かない。かすみがうら市や、筑波山のふもと辺りには結構な土地があるけれど、そのへんは坪いくらというところではなく1反歩いくらというところで、したがって人家もない。それよりも子どもの未来や国の将来を考えるなら、子どもにとっては母親に育ててもらいたいと思うのが当たり前のことだろう。何故子供と母親を引き離したりする政策がまかり通るのか。どうして母親は声を上げないのか、私には不思議である。

ずっと子どもと一緒に家にいて四六時中顔を見合わせていたら、それこそ大変だろうと主けれども、そんな時にこそ母親が息抜きに保育施設にきてリフレッシュすればよいのではないか。大人の一生はまだまだ長い。幼児期の時間はそれほど長くはない。そう思えば、母親が1・2年家にいて子育てしても良いのではないか。子どもにとってはそれが最高に幸せである。昨日も描いたけれども母親が家にいて、子育てに専念することに後ろめたさを感じているのだろうか。そうであるならばそのような社会的な価値観をひっくり返さないと、いつになっても子どもの幸せはやってこないのではないか。

待機児童は減らない

待機児童が5.5%増えたという記事を読んだ。多少出生率が増えたと言ってもこれだけ政府が待機児童を減らそうと躍起になっても、待機児童はなかなか減らない。しかも幼稚園なども認定子ども園にして、何とか保育所における待機児童を減らそうとしているが、待機児童は減らない。待機児童が存在している都市部では、幼稚園を認定子ども園にして待機児童を減らそうとする動きが鈍い。もともと幼稚園が認定子ども園にして保育所機能を併せ持つと言ったことは、待機児童解消のためではなく、幼稚園自身の自己防衛のためであったのだから仕方のないことである。

昔は大家族で、子どもが何人もいてもおばあちゃんやおじいちゃんがいたからどうにか子育てが出来た。しかし今は家族の単位が分散化されてしまって、核家族と言われるようになってしまった。そんな中で子育てするのは容易ではない。社会事象として核家族と言うことが一般的になっているにもかかわらず、家にいて子育てしようと思っている母親を無理やり外へ出して仕事につかせようとしている。子どもは当然置き去りにされてしまうから、行き場がなくなってしまう。それで保育所が足らないと言っているのにはどこかに無理があって、家庭生活にひずみのようなものができてしまうのではないか。

政府の要人は『未来は子どもたちからの借り物である』などときれいなことを言うけれども、子どもの側から政策を考えたことがない。だからやっていることが後手後手だし、可哀そうなのは意見を言えない子どもたちだ。子どもの側からものを言える、未来を見ようとする政治家が必要だと思う。子どもを産んで3カ月もすると、家庭から離れて仕事に就こうとする母親がなんと多いことか。生まれてきた子どもは、何故自分を生んだのかと質問したくなるだろう。例え政府がお金を出してくれるからと言っても、それは幸せに続く道では決してない。生まれてからすぐに母親の温もりから無理やり離されるなんてことは不幸の始まりである。

母親は社会に出て自分も社会の役に立ちたいという願望というか、強迫観念みたいなものもあるのだろうけれども、女性が子どもを産んで子どもを育てる行為は、それに優るような職業はこの世にはないということを、人間すべてが認識すべきだ。女性が子どもを産んで何カ月かの間はぐっすりと眠ることも出来ない、産みの苦しみを通って来る。そんな女性に対して子どもを産んだら社会に出て働けとは罰が当たるのではないか。子育てを選挙の道具にしか使えないようではだめだ。もっと子どもも女性も優しく扱わないと日本の将来はないのではないか。私は幼稚園の園長として、つくづくそう思っている。

ブログを読む

久しぶりに友人とあって夕食を共にした。その友人というのは私のところの建設委員長で、言ってみれば私の相談役のようなもの。その人が曰く、『最近俺のブログ読んでねーだろ』全くその通りだったので、慌てて彼のブログを開けてみた。実に面白いことをたくさん書いてある。たまにハッとするような示唆を与えられるので、読むようにしていたのだが、コンスタントに書かれていないので、時々抜かしてしまうことがある。彼の文章は無駄がなく歯切れがよいので読んでいても抵抗がなく、いつの間にか引き込まれてしまうような気がする。

誰でも生きることに一生懸命だが、彼は自分のことだけではなく、常に人生というものを他者とともに考えることのできる稀有な存在の人だ。言ってみれば、人生における己の美学というものを会話の中にちりばめてくるから、何を考えているのかがよく解る。頭脳明晰でもそのような素振りはみじんにも見せない。子煩悩で女房想いである。医者のことをかいているけれども、よく書いてあるのは私のよく知っている医者であって、あまりピンとこない書き方をしているのは、私は全く知らない医者である。私に気を使っているわけではあるまいが。

あおば台幼稚園の玄関には、毎年のことだけれども燕の巣があって、そこに小さな子どもが4羽ぐらい育っている。親鳥が巣のところへ餌を運んでくると、黄色いくちばしを一斉にピーピーと泣いて顔いっぱいに口をあけて餌をおねだりしている。ピーピーピーと全くにぎやかだけれども、その上をふと頭を持ち上げてみてみると、ベランダの手摺のところでピーピーピート園児たちが連なって私の名を読んでいる。このコントラストがなんとも愉快であった。子どもたちの心の中も、燕の子どもの心も何か似ているような気がした。

世の中が変わる

大学受験ばかりではなく、米国の大統領が仮にトランプ氏がなったとしたら対岸の火事では済まされないだろう。中国は大歓迎だろうし、南シナ海のシーレーンをどのように確保していくのか。大丈夫だ日本は何とかなるという人がいたら、納得のいくような説明が欲しい。自分のところは何も起こることはないというような正常性バイアスをかけて、何の根拠もない安心感を持っている日本人は地球規模では異端である。戦後の太平のムードから眼が覚めない。目が覚めないというより考えが及ばないのかバイアスが強すぎるのかもしれない。

トランプ氏が今まで言って来たことを実行に移すとしたら、安保条約を縦にしたって弱い国が強い国にどんなに大声で騒いでも無視されて終わりだ。国際社会が黙っていないだろうと言っても、過去に何度も条約など破られている過去から学ばなければならない。国際条約なんて言うものは、平和な時代の産物であって一旦緩急あればそんなおめでたいことなど言っていられない。弱い国は集団自衛をしなければ強国に食われてしまう。欧州にはNATOがあって、集団安保体制が確立されているが、日本は米国が守らないと言ったら一体どうなるのか。その議論を一刻も早くしてほしいものだ。

私が死んだ後の社会は混沌としたものになるだろうと20年後を予想していたけれど、言論に節操のないトランプ氏が大統領になって、今まで言ってきたことを実現するとなるとあと5年もしたらこの社会は右往左往することになる。日本政府はトランプ氏の側近とコンタクトを取って、もしもの場合に備えているはずだ。それができなければ危機管理などできるはずもないだろうし、ガバナンス能力に疑問を持たなければならない。日本の経済力で何とか生きてきたあの韓国でさえ平気で日本を裏切ってしまう。国際社会なんてそんなものだ。

一番厄介なのは中国である。いまだに中国資本と化を頼って日本の経済人が儲けをたくらんでいるけれども、彼らは日本を弱体化させるのに一翼を担っているようなものだ。文化大革命で追放された鄧小平が復帰して、中国は覇権を求めないと断言したけれども、現在やっていることはというと、600年前に南沙諸島を行き来していた中国の商隊がそこを寄ったというだけで、南沙諸島は中国の固有の領土であると言ってはばからない。偉大な中国に朝貢せよと言っている。こんな時代になっては小手先の教育論などは通用しない。間に合うかどうかは分からないが心底強い子を育てなければならぬ。

プレゼンテーション

幼小交流の一環として、初等中等学部の児童が各ファミリアのプレゼンを行った。

幼稚園の子たちも真剣に聞いている。明日の交流で何か役立つようなことがあったのだろうか。とても明日が楽しみになるようなプレゼンであった。

とてもここまでやるのかと思うほどよくできている。幼稚園の子どもたちにもよく解るように文字を使わずに絵を描いて紹介するなど、さすがに幼稚園の先生も驚いたり感心したりであった。

最後に対面してQandAを行ったけれども、何と幼稚園の子どもたちからも沢山の質問があったりして、児童たちもかなりの手ごたえを感じたようだ。

これだけのプレゼンが出来れば、多分何処へ出しても恥ずかしいことはない。しかも専門的にプレゼンの時間を作って練習しているわけでもない。自分たちがファミリア活動で感じたことを、いかに分かりやすく伝えることができるかということを大きなテーマにしているだけだ。写真はもっとたくさん撮ったのだが映ってないのはどうしてか?

泥んこ祭り

泥んこは幼稚園の専売特許ではなく、初等中等学部でも行っている。たまたま米作りをするのに近くに田んぼを借りたのだが、これが広すぎる。だから田んぼの中の土を起こしたりするのには、私たちと子どもたちでは無理だ。それでトラクターを中古でかった。トラクターで田んぼの中を上手に行き来している農家の人を観ていると、簡単に出来ると思ってかったものだが、やってみるとそうはいかない。畑なども、何故あんなに平らに土おこしができるのかと、逆にその技術の凄さを思い知った。いつかは我々もそうなるだろう。

土曜日に水を張った田んぼの中に子どもたちが入り、駆け足をしたりボール遊びをする。顔中泥だらけになることをことさらに喜んでいる。そんなことをしているなら、漢字を覚えたり算数の問題でもといたら同だなどと思われる親御さんもいるかな。いやもうそのような保護者はいないだろう。むしろこの後の子どもたちの笑顔を観たり、楽しかったことなどの話を息もつかずに一気に話したりする、子供の情緒面の豊かさをきっと感じてくれるはずだ。教師たちも顔まで泥をはね上げて真っ黒になる。田んぼの中で泥んこ化粧を施したようだ。泥だらけになった若い女性の姿は、ここには載せられないだろう。

真に子どもたちのために生きているこの職業にある人たちは、仕事中は現象的なことを気にするなどのことはない。一生懸命さに頭がさがるが、幼稚園でも初等中等学部でも、懸命に仕事に打ち込んでいる教師に出会えて私は幸せだ。ありがたいことだ。明日は4年生以上の子どもたちが、ファミリア活動について、幼稚園へプレゼンをしに行く。どうなることだか、私が運転をして幼稚園まで子どもたちをマイクロバスで送迎する。

集会委員会

集会委員会というのは、学校の全体会でその会議を取り仕切る委員会である。取り上げられたテーマは幸せボックスという箱の中に、だれでもよいから取り上げてもらいたいものを書いてその箱の中に入れる。集会委員会で取り上げられたものの中に『シャープペンシルは何年生から使ってよいのか』というのがあって先日全員で話し合っていた。全体会を開く前に、集会委員会のメンバーが私のところへ来て『先生はどう思いですか』と相談に来たことがあった。私は何年生が使ったっていいのではないかと思っていたけれど、子どもたちからするとそうではないらしい。どんなことでも一生懸命議論する姿に胸が熱くなる。

どうでもよさそうなことだと言ってしまっては子どもたちに申し訳ない。この学校には校則なるものがないから、何かを感じるたびに集会のテーマになる。階段を一つ一つ踏みしめるように、自分たちの自治を自分たちで決めて行く。時間がかかるようだけれども、子どもたちは社会の中のものを大人が決めるのではなく自分たちで決められると言うことを体験して、自立していく。その中で自分というものに気づいてアイデンテティを確立していくのだろう。集会後の子どもたちの顔はみな自信に溢れている。

それでどうなったのかと言うと、4年生から持ってきてもよいことに決定した。それにも理由があって1年生から3年生までは鉛筆を自分で削ったほうがよいということだった。そして4年生からシャープペンを持ってきてもよいが、①自慢しない・②遊ばない・③借りたら返す・④落書きをしない・⑤ちゃんと管理する・⑥ちゃんと字を書く・⑦分解をしない・⑧悪口を言わない・⑨交換をしない、などと思いつくままに約束事になっていく。子どもたちの決め事というのは、大人よりも厳しいものがあって、これに違反などしたら『まあいいか』などの妥協は一切ない。

高校合格発表

私のところの幼稚園教諭のお子様が高校入試見事に合格した。ホッと胸をなでおろした。午前中からずっと待っていたので、連絡がなかったのでだめだったのかなと半分どのような言葉で慰めようかと苦心していた。そんなところへ女房から合格したという知らせが来たので本当に良かったと思う。お母さんが私のところにいるので、とても優秀であることは昔から知っていたので、大丈夫だろうと内心は思っていたけれども、はっきりと聞くまでは半信半疑である。もう一人の方が早くから合格の知らせをくれたので、後一報が待ち遠しかった。

この学校でも3年後にはこのような状態になるのだろう。中学校の定員も20名と少数だから、高校入試は希望通りに行かせたいものだ。今から入試に必要な学力について5科目のカリキュラムを作成しているところだ。高校入試のカリキュラムなどというのは、ふつうは作らないだろうが、子どもたちの内発的動機付けを重視しながら、その気にさせる授業展開をしていく。ファミリア活動を中心にアクティブラーニングを形成し、子どもたちがアイデンティティを持ち、自分の生きざまをチョイスできるような人間形成に向かっていきたい。中等学部教師によるプロジェクトを作って万全を期したい。にわかに闘志がわいてきた。

[保育園落ちた日本死ね]が国会でも議論されている。匿名だろうがなんだろうが、そのような実態があるということについて、閣僚は認識不足である。この記事が書かれていたというときからブログに書いたけれども、言葉が汚く独りよがりのような気がして、どうも支える気にはなれなかったので単発で終わってしまった。以前にも書いたけれどもこの現象は都会の現象であって、都会の利便性を選んで生活しているなら、何でもかんでも自分たちの思う通りにはいくまい。そのことだけではなく、悩み苦しんでいる人たちも数多くいるはずだ。ちょっと都会から外れて生活すればそのような悩みはなくなる。

手っ取り早い解決法がある。行政の許可が根ければ出来ないことだが、幼稚園バスというのを作って、それは勿論保育園バスでも良いのだが、バスの中で保育をする。バスには5名ぐらいの保育者を乗せて、何人かを乗せる停留所を作って送り迎えをする。保護者にも協力いただいて、時間を守るなどを徹底してもらう。近くの公園で保育をすればよいけれど、0歳児は無理で2歳児以上になるだろう。0歳児は自分で養育する。0歳児から他人に預けるなんて、母親としておかしいだろう。このやり方はドイツを視察したときに「青空幼稚園」とか言ってやっていた。雨の日はバスの中だ。トイレは公衆トイレ。

充実した生活

幼稚園では年中さん主催による「お別れ会」があって、主催と言っても殆どは保育者がセットしたものだけれど、気持ちだけは年中さんが主体だ。お世話になった年長さんに、お別れを言うのにホールをきれいに飾り付け、一緒に食事をするという趣向である。みんな満足そうな顔をしていて、幼稚園にいることが何となくうれしくてたまらないと言った様子である。幼稚園に来ることを嫌がらず、幼稚園に行って多くの仲間とあって遊びたいという気持ちがあれば、とても今が充実していて、幸せなのだろうと思う。

幼稚園といえば、ここにも何度となく書いたことがあるけれど、20年ぐらい前には3歳児保育がなくて、年中さんからの保育である。4歳からの保育だから幼稚園に入れたいと思われる保護者は3年間ご家庭で養育をなさっていたわけだ。ご家庭でもゆっくりとした生活をしていたものだ。ところが今は、満3歳児がいたり、その下の未就園児がいたりしている、2歳児などは階段を思いきり足を広げて「よっこらしょ」という具合に登っていく。『危ない!』と何度か思ったことがあったけれど、体全体でバランスをとって上手なものだ。子犬の置物のようでとても可愛くて見ているだけでメロメロ、しばらく見ているとデレデレだ。それが人間のように話をするものだから、可愛さ倍増である。これではお父さん会社に行けないだろう。

初等学部では食ファミリアの高学年が出店をを失敗したままではいやだという訳で、二度目の出店を今日試みた。今回は何度かシュミレーションをしたようで、用意周到である。役割認知もしっかりできていて、そこで指揮を執るような児童もいなくて、自分の与えられたことを黙々とこなしている。失敗を謙虚に受け入れたという姿勢が、今日の成功を生んだのだろう。住のファミリアではメートルをミリ単位で下級生が上級生に報告して、鉛筆で線を引く者と、のこぎりでまっすぐにきる者とに分かれ、仕事がスムースに流れていく。

衣のファミリアでは17ページに及ぶ脚本を手掛け、講堂はマイクを使えないから、大きな声でやろうとみんなで決めたそうだ。その結果見事な出来栄えであったではないか。出来上がったものはミュージカルに近いもので、劇の中の挿入歌等は子どもたちの作詞作曲であったというではないか。私の全くできない分野なので驚きも人一倍だ。子どもたちは着実に人間として伸びている。素晴らしいではないか。テストに明け暮れている学校と比べるとなんと優雅な学校でなかろうか。保護者の皆様が、結果を急がずに待っていてくれていたからこそ、子どもたちの素晴らしさが垣間見えるようになったのだ。子どもたちはもっと伸びると思う。

職業体験

職業体験として6年生があおば台第二幼稚園へいって来た。年中と年少に分かれてクラスへ入って言ったけれど、その対応の仕方は授業に対するアタックと同じである。子どもの中へ積極的に入っていこうとする姿勢と、ちょっと尻込みしてしまう子がいる。幼稚園児の中に飛び込んで一日を過ごすということは大変なことである。まず最初に一緒に遊んでもらえるかという難関を突破しなければならない。幼児は自分から合わせてということはしないから、自分にあった人しか選ぶことはしないので、そこで品定めをされてしまう。私に子どもたちが集まって来るというのは、私が園長という立場にあるということを子どもたちが周知しているからであって、魔法使いのように子どもたちを引き寄せる術を持っているわけではない。

ロケット滑り台の上から何度か滑り落ちて楽しんでいた子もいたけれど、久しぶりに幼児期に戻って遊ぶことができたであろう。とてもいい顔をしていた。食事も園児と一緒にしたようだったので、子どもたちとの話もきっと弾んだろうなと思う。帰りに職員室へきて、幼稚園の主任の先生と私の前で、今日一日の感想を個々に述べていたけれども、堂々と自分の感じていたことを話していて、幼稚園の先生も「着眼点がいい」と感心してくれていた。ちゃんとメモをとっていて、すらすらと応える姿勢にも驚いていた。良く校外学習で行っていることだが、習慣化されているのがよい。褒められると私もうれしい。

このところ西郷と勝海舟の話をしているけれど、まず本当に二人っきりで行ったとすれば、その時の心境はどうだったのか。それと西郷の方がかなり優勢であったのに、二人っきりで行う理由が何処にあるのだろうか。また二人の話の起承転結には、私たちが学ばなければならないという、知識を理解して応用するという三つの学習の方法の他に、ロジカルシンキングとかクリティカルシンキングとかクリエイティブシンキングとかの手法が全て包括されているのではないかと思っている。だから学ぶということではなく、生き方とか感じ方でそういったことが身についてしまうのではないかと考えるのである。そうありたいものだ。

学校でもやるけれど、日本のあるいは世界の偉人の話は是非父親から伝えてやって欲しい者だ。14歳を超えるとあまりご両親の話をきかなくなって、友人の方が大切になって来る。それは子どもたちの全くの錯覚なのだが、友人の方が私を理解してくていると思うのもこのころだ。私を知っているということよりも、私を理解してと爆発的に叫ぶのが青春の蹉跌の入り口なのだから、理解してやってほしい。子育ては難しくない。自然体がよいのだ。

知識を伝える

知識の切り売りをしているというのが学校の教師だ。知識なんて言うのはその容量には限界がある。だから教科書が頼りになるわけである。教科書を超えて、それ以上のことを伝えてあげられるようになれば教師と言えるだろう。教科書通りを何年も繰り返しているような教師に魅力を感じるのだろうか。社会人として、どこかの飲み屋で話すとしたら何も話すことはないだろうなきっと。しかし同じ教科書を何年もやっていると、熟練されている訳だから教え方も上手だろう。面白くも何ともなくても、保護者にとっては教え方がうまいと評判の先生がいいわけで、飲み屋で饒舌になる必要はないわけだ。子どもには知識を正確に与えてくれる教師がいいのだろう。

西郷隆盛と勝海舟が一対一で二人っきりで話した内容よりも、目の前にいる子どもたちがどれだけの成績を上げられるのかの方が大切なのだ。どうせ自分の子はそのような人にはなれないとか、人間の生きていく価値観を現金化して考えてしまう人がいる。価値観を高くもてば仲間だってそのような仲間を呼ぶことになる。低俗な価値観しか持てない者はそれなりの仲間しか寄りつかない。道徳観も、損得で計るようになってはこの世も末である。そんな人ばかりの社会ではないという確信があるから、自分も生きようとしているのだが、過去と他人は代えられないから、何とか面白く生きていくことを考えていこう。

今いったような価値観が劇的に変わろうとしている。この学校が出来たときには、よくドリルを一生懸命やっている子を何人も目撃した。そのたびにドリルをやることよりもものづくりをした方が良いといって来た。ドリルというのは創造力を退化させてしまうような気がしてならなかったからだ。過去問を取り出しては一生懸命授業中でもやっている子もいた。それらはみんな受験対策だ。そのようなことがこれから変わるのだ。何度かパラダイムシフトがなければと言ってきたが、それが現実に起ころうとしている。文科省では明治維新と戦後民主主義を経験したような、大学受験が劇的に変わると言っている。

アクティヴラーニングという言葉を何度かきいたことがあるかもしれないけれど、高校が大変である。今まで過去問の復讐ばかりやってきた授業体系というか、受験姿勢をどのように改めたらよいのか苦心しなければならない。これからは出された問題の解答を得るということから、自分で問題を探して解答を出さなければならない、考える能を試されることになる。初等学部のファミリア活動はアクティヴラーニングの一環であるけれども、これからは基礎学習についても積極的にアクティヴラーニングを深めていく。

昔の人

明治維新で活躍された人は大体薩長土佐で、たまに九州の佐賀あたりの人が出てくる。殆どの人が西日本の人たちだ。それもそのはずで、関東は徳川領だし、徳川にたてつくのは外様大名でしかない。関東の大名はみんな徳川だから、維新で活躍するはずがない。維新の方の総大将は、朝廷をバックにした西郷隆盛だが、徳川方は、徳川をバックにした総大将がいない。本当のところは、京都守護職にいた会津の松平容保あたりがなるのかなと思うけれども、鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜と一緒に江戸に帰ってきてしまった。勝てるはずの戦いをやめて、江戸に帰ってきてしまったのは疑問であるので、多くの歴史学者がああだこうだと言っている。

だから関東人は保守的な人が多いのだが、明治維新に対して保守的だったのは、江藤新平が率いる熊本出身の警察である。九州男児は警察官になれば出世ができると感じたのか、就職がなくてそこへとどまったのかは定かではない。それにしても江戸城総攻撃をやめて、江戸城無血開城にした西郷と勝海舟の話とはどんなものだったのだろうか。勿論、勝は西郷が静岡あたりにきているときに使者を送っているけれども、西郷はその使者とは合わなかったらしい。だから江戸城総攻撃は、絶対にやるという強い意志があったのだろうと思う。

西郷というのは薩摩藩でも厄介ものであって、二度ほど島流しにあってその島で暮らしていたところへ、大久保とか仲間たちが迎えに来たらしい。何度も歴史の中に登場する人物だから、その辺のいきさつはよく知っている人たちが多いだろう。それよりも江戸城で勝と西郷がどんな話をして江戸城総攻撃をやめることになったのか、かなり命がけの話であることは確かだ。このような時に堂々と話しあえる学問や授業というのが必要だろう。もっともそのような胆力も必要である。時代錯誤でも何でもない。この二人は今でいう有名大学は出ていない。

素晴らしい人物はたくさんいる。そこへ向かって、何を子どもたちに伝えればよいのかを考えるのが教育者であるのだろう。あまりつまらないことを考えないで、子どもたちが真の幸せを感じるのはどんな学校なのだろうかを、口角泡を飛ばして議論してみたいものだ。勿論学校の教師たちとはやっているが、内部だけでは、これが真実だというまで深まらないだろう。永遠にこの議論をしていくのだろうな。生涯。

もうすぐ1年の締めくくり

暦では正月が1年の始まりだけど、私たちは4月1日が1年の始まりである。だから今は大みそかを迎えようとしている年の瀬である。1年の始まりがすぐだということではなく、1年1年の切り替えがあって担任になっている教師は、1年を振り返るというよりかみしめながら一日一日を送っているようだ。幼稚園では年長と年中さんの仕事の引き継ぎ式が終わり、今日は両園共に小学校の体験があって初等学部へ来ている。クラスを見て回ったり、講堂で小学生と遊んだり、一緒に昼食をとったりして、小学生とともに楽しく遊んだ。

講堂でじゃんけん列車みたいな遊びをしていて、幼稚園の子どもたちはそれぞれのトレーナーを着ているから、すぐにそれとわかるけれども、全員が私服で遊んでいたら、体の大きさで小学生の高学年はわかるけれども、あとははしゃぎ具合から見ていたら、幼稚園の子も初等学部の子も大差ない。全く屈託がなく同化し合っている。幼稚園の子どもたちの中に小学生をそのまま入れて置いたらどうなるのか、しばらく様子を見ていると、こちらで色々と話しかけるわけではないけれど、自然な形で小学生が幼稚園の子どもたちに気を使うようになる。自分たちの好きな遊びをしに消えてしまうなんて子がいないのだ。とても素晴らしい子どもの世界だ。

素晴らしい子どもの世界も、いつしか都会のあおりを受けて中学校受験などがあって、早くから受験体制を整えようとする。何をそんなに早めなければならないのかよく分からない。人間の発達真理とか発達理解から行くともっとゆったりと育てることの方がよいに決まっているのだが、良い大学へ入れるためには先手を売った方が良いらしい。脳科学者たちはどのように感じているのだろうか。脳科学者だっておそらく中学校受験に対しては賛成することはないだろう。中学校受験を考えている人たちは、小学校4年生から考えだす人もいる。鼻先にニンジンをぶら下げられて、これからずっと走り続けることになる。

誰だってどこの親だって、わが子をロボットのように学習マシンにしたいなどと思っている人はいないだろう。先手必勝は、学業の世界ではあまり通用しないのではないかと思う。先手必勝も、良い大学へ行けば何とかなるというのも、妄想か幻想である。あくせくしない方が良い。学業はびりでは困る、中よりはちょっと上にいてほしい。何よりもわが子が、自分の親は私が食わしていくという強い信念があった方が、人間として素晴らしい生き方をすることは間違いないのではないか。

学校では今ベーゴマの後はスケボーがはやっている。3年生だか4年生にせがまれてかったものだが、職員室の前をコンクリートを打ったものだからここで楽しく出来る。家でもやっている人がいると聞いたけれども、家でやっている人は道路でやっているようなので、とても危険であります。学校へ持ってきてやってもよいという許可を出したので、ご家庭のご理解を戴きたいと思います。子どもたちは覚えるのが本当に早い。

これからの幼児施設はどうなる?

幼児施設というのは、就学前に子どもを預ける場所である。代表的なのが幼稚園と保育所であろう。今その施設に異変が起きている。幼児施設で働こうという学生が激減している。茨城だけの話ではなく、日本国中で幼稚園の先生や、保育所の保母さんになろうという人がいない。それでは大学の保育科や幼児教育科などに入学して来る学生が少ないのかというと、そうではない。増えてはいなくとも減ってはいないのである。大学を卒業しても幼稚園や保育所には就職しないということだけの話だ。派遣会社の社員が大学のそばをうろうろとして、卒業する学生に派遣登録をしてもらって、小遣いを渡すということをしている。

もっとも派遣を期待して幼稚園や保育所に応募しないという人は、例え派遣ではなく最幼稚園に応募したとしても幼稚園に勤めるのは無理であろうから、幼児と共に暮らす職業にあまり魅力を感じない人が多くなってきているのが事実なのだろう。大学の就職担当の教授も、どこでもよいから就職させればよいというような態度はやめて、授業中に幼児教育の大切さや、子どもとともに生きることの素晴らしさを学生に伝えてもらいたいものだ。保育所に落ちたなどの問題よりも、働く人がいないということの方がもっと深刻であろう。

自分の幼稚園は安泰であるけれども、この仕事全体を考え、将来を見据えてみた場合には寒気がするようだ。もっとも私たちの業界では28年度に保育者不足が27000人になるという試算があったのだが、それを考えてみればまだ傷は浅いとみるべきなのだろうか。しかし間違いなく保育者は激減しているというか、幼稚園に入るべき幼児が保育所にシフトをしたものだから、保育所の設置基準に照らし、保育者数が足りなくなっているということもあるだろう。ちょっと政策における対応が後手に回っている感がある。

現実に戻って、幼稚園では年長さんを相手に『立派な年長』の賞状渡しをやっているけれども、毎年のことだけれども楽しませてもらっている。子どもは全く素晴らしい。その世界に浸ることはできるけれども、その時代に帰ることはできない。それでもいい。その子どもたちといるだけで、心が洗われて、なんだか自分もピュアな人間になっている気がする。

保育所に落ちた日本死ね

こんな投稿がなされたと言って大騒ぎしている。日本の保育事情をそのまま投影したようなものだが、自分の子どもが落ちたからと言って、日本が死んでしまったら他の人も道連れにしたいとでも思っているのだろうか。何処にお住まいの人なのだろうか分からないけれども、日本の幼児施設は全体的には許容できるだけの容積はあると思っているが、大都市周辺はまだ待機児童がいる。大都市というのはとても利便性に富んでいる。その便利さをとるか不便でも地方へ移るかという選択肢がある。大体大都市で保育所を作れと言っても、それに見合った空き地が確保できるか。そして保育者も確保できるのかが問題だろう。

基本的に子どもを産んだらそれは親の責任である。少子化だから国の政策でも子どもを産んでくれと言っているけれども、国に子育てはできない。施設を作ったところで、ただ預かってもらうだけでは親の義務は全うできないのではないか。子どもを産んだら子どもへの責任は親にあるということをもっと強く認識すべきである。この子を誰かの責任にゆだねるなどのことはできないということを親になる前に自覚すべきだ。それが親になるということではないのか。戦後と今を比べたら申し訳ないけれども、戦後食えない家庭が沢山あったが、幼稚園や保育所にみんながいけたわけではない。

小学校へ行っても給食制度がなくて、昼食の時間になると何人かの子は外に出て水道の水を腹いっぱいに飲んでからクラスに入ってくる。いわゆる団塊の世代である。それでも子どもたちは逞しく生き抜いて来た。子どもを乳児の時から預けなければならない理由がどこにあるのだろうか。子どもの発達を犠牲にしてまで、どんな生活を得ようとしているのだろうか。今児童生徒の貧困の連鎖というのが問題になっている。それは目に見えて貧困が理解できるが、その原因の多くは親の身勝手な選択によるものもあることは否定できない。保育所に入れないのを解消するには、田舎暮らしを覚悟したらどうだろうか。

子どもを大切に育てたいと心から思うのであれば、孟母三遷の諺もある通り、住む場所を変えるという思い切った考え方もある。地域の人たちとのうまいサークルでもあれば、みんなで知恵を出し合って子育てが出来ないこともないだろうが、誰が音頭を撮ってくれるかが問題になる。利便性をとってある程度窮屈な生活を覚悟しなければならないか、不便でも田舎生活をするのか、どちらもうまくいけばよいのだが、世の中自分を中心には回ってはくれない。

ファミリアの発表会

ファミリアって何をやっているのか?と不思議に思っている保護者の方もおられるのではないかと思い、ファミリアってこんなことをしているのだよ、というところを見てもらった。教師には「前のめりにならないように」「子どもたちのあるがままの姿を見てもらおう」「成功させようなどと思ってはならない」ということを何度も言ってきた。成功なのかどうなのかということは、子どもたち自身が、思いきり自分を出せたかどうかということで子どもたちの心の中にある。大人がいちいち評価してやらなくても、子どもたち自身が自己評価をしているだろうし、またそのことで子どもたち同士で話し合いがあるだろうから、そちらの方を期待したい。

私としてみれば、子どもたちの力を改めて見直した。どこかで、これはできないだろうとか、これはたぶん無理だろうなどと否定的な結果を予測していたりするけれど、これらが見事に覆されて、子どもたちは清々しくやり遂げることができた。失敗したら私の出番で、見事にフォロウアップしてやろうと待ちかねていたのだけれど、それは空振りなってしまって、子どもたちの姿に感動してジーンとしたことが何度もあった。やればできるということを形を変えても何度も経験すれば、それがそのまま自尊感情を高めることにもなるだろうし、学習意欲も高まっていくし、何よりも自信を持てる。今に子どもたちが証明してくれる。

立派な年長が始まった

第二幼稚園から立派な年長が始まった。それぞれ最初に何をいうのかを考えて来るようで、3人の応援者の中で誰が最初にいうのかというのが問題になる。というのはせっかく考えてきても先にいわれてしまうと、次の言葉が出てこなくなってしまうからだ。言葉に窮して「以上です!」なんていう子も出て来た。毎年そのようなハプニングがあるのでとても面白い。面白いなどというのは子どもたちに大変失礼である。緊張でいっぱいの顔をして懸命に仲間の良いところを考えてきているのだから、それにはきちんと応えてやらなくてはならない。ビデオにとってあるから見たい保護者には後で連絡がいくと思う。きっと涙が出てくる場面もあるだろう。

涙どころか笑い転がるようなシーンもあると思う。何故こんなに緊張するのかと思うくらい緊張してしまう子もいる。園長室というところが独特な雰囲気があるのかもしれないが、まあたまにはこんな緊張があってもいいか。見事に賞状をゲットすると園長室から出てくる子どもたちを待って、職員室にいる保育者から大げさな拍手喝さいがあるから、もらえた子は本当にうれしいだろうな。第二幼稚園は後2日ぐらいで全部終わるのではないかと思うけれども、その間に年少の保育参観があったり、劇遊びを見てやったりと続けてできないのが残念であるが、毎年このようなものだからペースを守ってやっていこう。

きょうの朝刊に大学受験のことが掲載されている。皆さんにお約束したようにどうなるのかというようなことを抜粋して書きだしてあるので、近いうちに保護者の皆さんにお配りすることができます。初等学部ではお話しいたします。だからといってそれほど神経質になることはありません。要は偏差値によってその子の一生が決まるということではなく、創造的によく作り出せることや、物事を批判的に捉えることや、今までよい子とされてきた事柄にメスが入れられる。あおば台の保育理念が、小中学校や高等学校でも通用するということが初めて明らかになった。如何にドリルを速くこなせるかなどは、全く無意味であることが実証されたのです。

休みが多い

私は仕事以外にやることがないから連休が多いとうんざりしてしまう。一日中本を読んだりすることも最近では集中力が散漫で長続きがしない。本を読みながら違うことを考えたりして、一向にページが進まない。若い人たちや保護者の年齢の人が私と同じ考えでは、日本の国は滅びてしまうだろうけれど、私には週一回の休みがちょうどよい。とにかく仕事以外のことというのは自分にとってはつまらないことになってしまった。歳のせいだろうな。しかし私の仕事というのは、金もうけの話ではないから、いくら時間をかけてもくたびれないのが何より素晴らしい。むしろ楽しいから休みなど要らないはずだ。天職ってこんなものなのだろう。

初等学部の子は純粋培養されているから、とても気分のいい子たちばかりだ。これは学校の雰囲気ばかりで醸成されるはずはないので、ご家庭での普段の家族の雰囲気がとても和やかなのだろうなと思う。幼稚園というのは家庭のそのままの雰囲気が直接的に出てくるから、家庭での会話のやり取りや躾なども、すべて子どもたちが仲間の会話や行動で教えてくれる。そんな姿を見ながらにやにやしながら子どもたちの目を覗いているのだけれども、そんなことが日常茶飯事のごとくある。それが癖になってしまって、初等学部でも子どもを見ながらある程度のご家庭での雰囲気が推測できる。純粋培養されていると、世間に出て打たれ弱いのではないかと思われるが、社会で一番強いのはまっすぐに見れる目だ。

初等学部今年になって第一日目の日に、ある男の子が真剣な表情で担任に訴えているのを、私の席から見ていたのだけれども、どうにも私は耳が悪いのではっきりと聞き取れないでいる。その子は私の方を見ようともしていないので、私には関係のない話なのかなと思って、自分の仕事に戻った。すると担任が私のほうを向いて何やら話をしたそうな雰囲気なので、担任のほうへ向きなおって『何かあったの?』と聞いたら、アトリエ(大倉庫)のところにスピーカーを付けて欲しいと訴えに来たというのだ。

私がそばにいるのに私に遠慮しているところがなんとも可愛いではないか。私がよく『こんにゃく食べ方研究会』を職員室でやっているのだけれども、それがアトリエにいると伝わらないのでスピーカーを付けて欲しいということだ。全員が来たかどうかをいつも確認しているのだけれども、3時過ぎになってしまうと各クラスで話し合いがあったりして、帰りのバスに間に合わないと言って職員室を素通りしてしまう子もいるようだ。寄宿舎の工事が3月から始まるので、その時に電気屋さんにできるかどうか聞いてみようと思う。それにしても真剣に訴えるというのが面白いではないか。教師もまたそれに乗って真剣になったりして。

2学期の記録

幼稚園は学期ごとにどんな活動をしてきたのかとか、その時の子どもたちの様子はどんなふうだったのかとかの実践記録を作成し、それをもとに学期のまとめとして総括を行っている。昨日は久しぶりに第二幼稚園の総括の議論に参加して来た。教師の人数も多いから一日では終えることができなくて、二日間にわたって総括をすることになってしまった。普段は『緑の葉っぱ』という保育者たちの劇団を作って、楽しく保育に携わっているのだが、この時はかなり鋭い質問があったりして、応える側もたじたじする場面もあった。白熱した議論の中にいて、楽しい時間を過ごさせていただいた。

久保田浩先生が幼児期の子どもたちの生活を、三層構造論にまとめた理論を基底に、1年をテーマごとに5期に分け、その中に主となる活動を入れていく。その活動についての指導計画を立て、その計画に沿って実践記録をとっていく。私も20年ぐらい前に、保育をしながら記録をとるということにチャレンジしたことがありますが、これが大変難しい。保育者はいつも子供の様子をメモできるような小さなメモ帳を携帯して、目にもとまらぬ早業でメモをとるようだ。メモに注意がいくと保育がおろそかになるし、保育中にメモなんて取れるわけがない。だから私のやり方が間違っていたということだ。

実践記録をつぶさに取れる保育者に敬意を払いつつ、実践記録の今回の内容をつまみ食いしてみると、うっとりするくらい子どもたちの心の美しさが見えてくる。例えば、運動会にやった年中の恐竜の件だけど、クラスのあちこちに恐竜の足跡を事前に保育者が作っておく。するとその足跡を見つけた子どもたちは『こんなにいっぱい足跡があるから、きっと僕たちと仲良しになりたいんだ』と言い、続けて『もうその辺にいるかもしれない』『エー!やだ怖い!』『大丈夫だよ恥ずかしくて出て来れないんだよ』『ふふふふ・・・すぐそこにいたりして』。こんな会話のやり取りがある。子どもたちの園生活を想像してみてください。

年長の記録は、仲間を思いやるとか、仲間同士の結びつきの強さなどが印象的であった。また年少の実践記録の『ごっこ遊び』のところで、どのような自然現象の中でも大胆に遊びが展開されて行くところが印象的であった。例えば雨上がりの少し引っ込んだ水たまりがお鍋に見立てられて、その中に色々な葉っぱを見つけてきて、それらをニンジンや大根やごぼうに見立て料理を作ってしまうなど、子どもたちの顔が浮かんでくるようだ。もちろん保育者の誘導がなければできないことだけれども、こんなに豊かな生活を送っているのだとニヤニヤしたくなるようだ。あおば台にいて本当に子どもたちは幸せだと思う。

またこんなこともある。3歳の子がお漏らしをしてしまって衣服を脱いで『先生これ洗って』と小さな声で言ってきた、という実践があって、その時の保育者が続いて書いてあるのが『私が早めに気付いてあげられなかった』と自分を責めているくだりがあった。保育者は常に子どものことについては低姿勢どころか自虐的は言い過ぎだが、母親のように、ときには母親以上に子どもに愛情を注いでいるものだ。小学校でも低学年を持つ教師はいつも子どもに対しては低姿勢で『私がこうしてあげればよかった』という発言が多い。小学校になると、なかなか理解してはもらえないけれども。

幼稚園はできたけど

幼稚園はできたけどその理念は何もない。園長はやとわれ園長で、その人がどうにか維持してくれていた。私は理事長職でめったなことがなければ幼稚園に顔を出すこともない。むしろ私のような者が幼稚園をやっているということに羞恥心を持っていた。だから行事があるたびに呼び出されたりするけれども、恥ずかしくてなるべく保護者と顔を合わせることがないように隠れていたものだ。素人が大切なお子様を預かるようなことはダメだと自分を許せなかったのだ。

幼稚園は年寄りの大人でしかも女性がやるものだというような先入観があった。結婚してから女房が幼児教育の本を沢山買い集めて私に読んでみたらどうだと勧めてくるようになった。園でも保育者たちが園外研修を私に勧めるようになってきたし、どうしても動かざるを得なくなってとうとう園外研修へ出てみることにした。これも全くの部外者であるけれども、他の者たちは私を部外者だと思ってはいないことが恥ずかしくて苦しかった。

回を重ねるごとに「この仕事は有意義なことで、だれかに任せればよいというような安易に考えられるようなものではない」というように考え方が変わっていった。こうなれば観念して、どうせやるなら日本一の幼稚園にしてみようというような大それた考えを持つようになって、以前お世話になったことがある筑波大学の杉原先生の部屋を訪ねたことから『幼児心理学研究会』を立ち上げていただいて猛勉強を始めた。やはり職人になるには現場が一番であるけれども、幼児教育を修めようとするには確かな原論を学ばなければならない、というのがふと感じたことであったからだ。保育現場では、久保田浩先生とその仲間たちという素晴らしい保育者を得て、私のそばには最高の師がいた。あとは私の「やる気」にかかっている。

久保田浩先生も杉原一昭先生も亡くなられてしまったけれど、大学の幼心研は26年間続けて、久保田先生が長らく所長を続けていらした『幼年教育研究会』は今も続けている。特に学生と一緒に学んだ幼心研での発達心理は、杉原先生の得意とするピアジェやエリクソン、教育学のデューイを幾度となく登場させてお話をされていて、それが小学校を始めるための文献を選ぶのに非常に役立った。しかも久保田先生の三層構造論がデューイからのものであったことが、小学校を始めてやっと気がつかせていただいた。

私が小学校を始めたのは、卒園式に子ども達が泣きわめいて『園長先生!小学校を創って下さい!』と情に訴えられたのがきっかけで、安易に『よしわかった』と応えてしまったことから始まった。子ども達に志を伝えるものとしては、だれと約束しようが、約束は必ず成就させなければならないのが使命である。しかし小中学校は約束したけれども、高校までは約束していない。校長になることも約束はしていなかったけれども、幼児教育をやってきた者として、小学校教員たちとあまりにも子どもを観る目が違うことに驚いて、自分が校長を引き受けただけのものだ。だから久保田先生の三層構造論が幼児教育にも義務教育にも当てはまるものだということも発見できた。

明日は正月だこの辺で野暮はやめよう。素晴らしい新年をお迎えください。また来年も親しくお付き合いください。この後のことは1月2日以降に書きます。1年1年を一生懸命生きていきます。

幼稚園はどのようにしてできたのか

年の瀬も迫り、また一つ年を取っていくけれど私の先輩たちは私の歳を聞いて「まだ若いな」という。私の尊敬する先輩で医者をやっている人が、75歳を機に医院の規模を小さくするといっていた。大体70を境に自分の身の振り方を考えている人が多い。だから私もそうしたい。もう40年も幼稚園をやってきたし、小学校も作ることができたし、中学校も来年度からできることになった。私の人生では『図らずもこうなった』というのが幼稚園の先生である。

20歳の時に父親を亡くし、これからどうしようというとき友人が『男なら何でもできる』と無責任にも励ましてくれた。その友人は大学生だったけれど、あまり学業には興味はなく、商売をやってみたいという。ある時『ドライバー1本で金になる』という仕事があるといって私のところへ来た。今ならそんなうまい話があるわけないだろうといえるが、何しろ世間のことはゼロに近い。彼は学生やめるから一緒にやろいうといってくれたので、私はその勢いに完全に飲まれてしまって、二つ返事で了解してしまった。それが私の一大転機になった。その仕事というのは空調や水道を扱う設備屋だ。職人ばかりの世界へ飛び込んで行って、その人種というのは短期で気が荒くて、しかし妙に人懐っこい人の良さもある。

半年ぐらい職人の手元をやったりしていたけれども、会社から設計をやって見ないかと言われてやってみることにした。初めて見るトレーシングペーパーに自分が線を引いたものが焼き付けされる。そしてそれが職人の手に渡り仕事の指針となる。なんだか夢のような出来事で、図面を書くことがとても気に入ってしまって、本物の施工図を描いてみたいという願望が強くなっていった。そんな時に同じ職人の仲間から、ある会社で現場代人になれる人を探しているということを聞き、その会社に移ってしまった。その会社の専務という人がとても優秀な人で、私に一生懸命図面のことを教えてくれた。現場代人というのは会社を代表するもので私のような駆け出しにその資格は全くなかったけれど、その専務が目をつぶって私を仕込んでくれた。

私をこの仕事に引き入れた友人は、独立して現在でも会社の社長として立派に仕事をこなしている。実は会社を二人で始めたけれども、私はいい恰好をしてしまい金銭感覚が彼とは違っていたのでうまく行かなかった。経営者はやはり彼の方が飛びぬけてよかったと思っている。私も専務に助けてもらい独立して会社を始めたが、融通手形を持たされて失敗してしまった。約束手形は必ず返してもらえるものだと保証人となる裏版をいとも簡単に押してしまったのだ。とても恥ずかしい話だ。当時の金額で数千万円に上る。手形を渡された会社へ行って何でもよいから持ってこなくてはダメだといわれても、そんなことを本気でできるものではない。それで私は会社にあった機械や材料をすべて職人に渡して、会社をたたんでしまった。

倒産させたわけではないので、私は設備図面屋一本で生計を立てることにした。A-1の施工図は8千円で、A-2は4千円であった。この方が給料取りよりよほど楽しいし、金額も良い。家から一歩も出ることなく何日も部屋の片隅で過ごしたこともある。そんな日が楽しかった。融通手形のことで私がお願いした弁護士が、私の私生活について『まだ若いのに家に閉じこもってばかりではだめだ』と言って私のこれからの仕事をいろいろと世話をしてくれた。『塾』『保育所』『幼稚園』といったものを考えてはどうかと真剣に考えてくれた。それで『幼稚園がいいな』と言ったら、弁護士と懇意にしていた建設会社の人が勝手に現在の場所を整地してしまった。

私は当時の図面描きがとても気に入っていて、お宅でも何と言われてもその方が良かった。たまたま幼稚園のある土地が私の名義になっていて、差し押さえになる可能性があるから公的な施設を作った方が良いのではないか、という誰かの入れ智慧であったのだ。私にはお金もなく、幼稚園を作るなどの大金も工面できる自信もないし、そのような知り合いも人材もない。できるわけがないではないか。99パーセント無理な話であると自分では結論を出していたけれど、まずはやってみなければわからないと思って、土浦市にある金融機関をすべて歩くことにした。

私が25歳の時で、案の定会社をやっていた時の主銀行をはじめどこへ行っても体よく断られてしまう。銀行が悪いのではなく、あの当時だったら冒険を侵さなくても銀行は十分にやっていけるのだから、私のようなどこの馬の骨だかわからないものに簡単に銀行が付き合ってはくれないだろう。裏付けになる担保も不足しているし、保証人になってくれる者もいない。どのようにひっくり返っても、無理というものだ。世の中はそんなに甘いものではないのだ。考えてみれば、もしも借りられたとしてもどのように返済できるのかを考えていなかった。

毎日のように戦術を考えて銀行で借り入れができるかどうかということが私の仕事になってしまったようだった。『絶対できる」『絶対にやる』『借りられるまでは絶対に引き下がらない』『どんな手を使ってもやり抜く』。決心が徐々にエスカレートしていって、私に寝る暇を与えなくなってしまう。ある日まだ行っていない茨城大手の銀行の入り口に立って『何を言ったらいいのか』を考えていた時、名案が浮かんだ。名案といってよいものかどうか『今まで殆どの銀行や金融機関を回りましたが、どこへ行っても貸してはもらえませんでした。そこで県に相談しましたら貴行に話をしてみたらどうですかと言われました』と。県がそのようなことを言うはずもないし、詐欺みたいなものだ。でもその銀行は快く貸してくれた。当時の借入金3600万円であった。それで幼稚園を建てることができた。

生きてきたこと

まだこれを書くのには早すぎるが、今まだ生きているのだから生きて来たことに後悔はしていない。バラ色の人生であったとは言いきれないけれど、多くの人たちに無量の迷惑を駆けてきたことは事実だろう。もし人生がやりなおせるものであるなら、そしてこの時代だけはやり直したくないというものがあるとしたらそれはいつの時代だろうか、思い起こしてみる。

12歳までの小学校時代は学校は嫌いだったけれど、仲間と遊んでいた自分はあのままで失いたくない時代である。戦後の復興期であったので、しかも私がすんでいた部落は満州からの引揚者の集合住宅であった。私の家族はその集合住宅に入らずに、かつて軍が使っていたと言われていた調理場の家を改装してそこに住んでいた。集合住宅というのは、松班とか竹班とか言われていた寮で、軍人さんが住んでいた。その寮が焼失してしまって、その後にできたのが2DKの一軒家である。勿論水道はなくみんなで利用する井戸が集落にいくつかあった。また風呂はあるけれど、新築されたときに据え付けられていたものではなく、新しく入居したものが買い足したものだ。そしてどの家でも薪を燃やして風呂を沸かす。私の家の勝手場は外にあって、流し台やバケツに入った飲み水も外にあった。

農家の集落は隣り合わせにあって、近くの畑や田んぼには豊かに実った稲や野菜を目にしたことがあった。私の家も農家であっったけれども、父がラバウルから帰還兵として戻ってきて、分けてもらった田畑では足りなかった。しかも両親ともに農業を知らなかった。できたコメは家で食べるものまで削って全部売ってしまうから、満足に食べられない日もあった。皆が貧しい生活をしていたので、今客観的に考えてみると貧乏のどん底にあったような気にもなるけれど、当時は食べられない家族はたくさんいたからそれほど気にはならなかった。

小学校時代は私の年代はベビーブームのまっただ中であったので、あちこちに子どもがうようよといた。小学校から帰ってくると、いつもみんなで集まるところがあって、そこには必ずリーダーがいる。そのリーダーになっている人がすべてであって、学校の先生の話よりもよく聞くし、いつも遊びは生活に実践的なものであって、雀を捕まえるやり方を教えてくれたり、魚釣りに連れて行ってもらったり、霞ケ浦の淡貝を取りによく行った。今文科省で「生きる力」を教育の柱にしているけれど、そのころは何を柱にしていたのかは知らないが、放課後の子どもたちの遊びの中で確かに生きる力を実践して教えていただいた。しかもそれは家族の一員として役に立ちたいという一念であったように思う。

子ども達の団結力も強く、隣村の子ども達の集団に仲間がいじめられたりしたら、リーダーが仲間を招集してかたき討ちに行ったりもした。その仲間に入らないと次の遊びに入れてもらえないので、ちいさい体の自分としては相手が恐ろしいほど大きく見えて怖かった。体中の勇気を振り絞って参加するけれども、やられてしまって体中傷だらけになって家に帰ってきたものだった。近所の大人たちも子ども達の喧嘩だとよく知っていて、だれがどのようになったのかなどは、口出しも知ろうともしないので子どもの集団はそれだけで独立していた。喧嘩は泣いたらおしまいだ、だから泣くまいと歯を食いしばって頑張った。それは仲間のために、そして自分のためにだ。

私たちの集落は引揚者だけの部落なので、旧村の子どもの人数と比べると極端に少ないけれども、親も子ども達も団結力が強く一つにまとまっていた。私の父親が旧村の出身者だったので、私の存在は異端児であって旧村の子ども達からも、引揚者部落の子ども達からも距離を置かれていたようだった。しかし私としては中途半端ではなく引揚者部落の仲間としてふるまっていた。何故かというと旧村の大人たちは、引揚者たちを貧乏人呼ばわりしていて鼻持ちならなかったからだ。貧乏人であったけれど子どもたちの心は豊かであったように思う。とても楽しかった時代は小学校5年生ぐらいまでのことだ。だからといって、そのあとはそれほど面白くなかったということでもない。

結婚式

幼稚園の教師も初等学部の教師も女性は未婚の人が多いので、結婚式に出ると言うのはさほど珍しいことではない。最近の式は教会で行うのが多く、おごそかな雰囲気で牧師が何やら英語なまりの日本語で始まる。耳が聞こえないうえに歯の抜けたような日本語を聞いているので、式の間は自然に寡黙になる。そして讃美歌を強制的に歌わせられることになるのだが、これが何度聞いても覚えられない。しかし同席している同僚たちは元気に堂々と、口を大きく開けて歌っている。後から聞いてみると『何度も歌っているから』と言っていた。

一応私が主賓として招かれているので新婦側での御挨拶と言うことになる。好きなように話して良いからなどと心にもないことを言って、私の緊張を取り除いてくれようとしているのはよくわかるが、その心に緊張が増す。いつも女房に式場に行く間にレッスンを受けて参加するのだが、ある程度紙に書いて置くのだが、いざマイクの前に立つと、一通りの礼儀のような挨拶が終わると、次の言葉に窮する。そして結局は紙に書いたものを思い出してそれをつなぎ合わせる。あまりにも時間が短すぎると、あとはアドリブだ。失礼がないように神経をいっぱい使う。とにかく疲れるのだ。

余興に入ると私の勝手な解釈だが、幼稚園の先生方の出し物は芸能人ばりで、一味も二味も違う。とにかく圧巻なのだ。隣に座っている女房が言っていた『舞台慣れしているね』と。素晴らしいエンターテナーなのだ。新婦に送る素晴らしい披露宴であったろう。きっと会場におられた方々も最高に喜んで頂いたはずだと思う。あのような保育者のいる幼稚園なのだから、子ども達も楽しいはずだ。来年度は40周年だから何か考えたほうがいいのかな。とにかく重ねてご結婚おめでとうございます。

余計なことかもしれないが、最近のと言ってもこの30年ぐらいの結婚式は、最初はおごそかな気分で会場を水を打ったようにシーンとさせて、披露宴に入ると賑やかにがやがやと楽しくなって、最後の締めは新婦が『お母さん・お父さんありがとう』と言って会場を涙で包んでしまう。悲喜こもごもだ。そして帰りは『よかったね』とか言って散りじりに別れる。

リーダーシップ

自己主張を押し通すことは良い時もあれば悪い時もある。それが個性だと言われればそうなのかもしれないが、個性とは自己主張の内容であって、押し通すのは我であると思っている。我を通すと言うことは一概に悪いことばかりではない。ただこの言葉と一緒に付きまとうのが、『わがまま』とか『和を乱すトラブルメーカー』『他の意見を聞かない』など、あまりよい評価を得られない。しかしそれで善処できた場合には良い評価が爆発する。民主主義が定着する前には、世を治めた人たちは、すべてが自己主張が強くわがままな人ばかりだ。

企業の創業者も似たところがある。何かを始めるというときに、最初の発想は一人の人から始まるのだろう。『船頭多くして船山を登る』の例えがあっても、船頭を多くしたからといっても船は山を登らない。何でも最初は一人が決めて、協力者が知恵を出すという方式が良い。最初に決めたことがよくなければ協力者は現れないだろうから、決定する者にはそれなりの覚悟が必要だ。誰もついてこなかったら孤立無援となり消えてしまう。このような現象は、集団生活の中では経験知としても必要であると思う。リーダーシップをとるということは、大きな声を張り上げても腕力を振っても、うまくいくことはないということを体感してほしいものだ。

初等学部の餅つき

山奥の過疎地の『やまびこ小学校』みたいなところでないと餅つきなどの行事は行わないだろう。ここは過疎地ではないけれど、過疎地にできたような学校だからとても家族的で、校長が全員の名前と顔が一致するなんて言う小学校は都会ではないであろう。職員室は校長のクラスで、クラス分けなどない出入り自由なクラスだ。そこでストーブを囲んでお話をするという、とても牧歌的雰囲気のあるクラスだ。子どもの中に同化できるのは、私の唯一の特技だ。

幼稚園の餅つきと違って、つき手も愛の手も子どもたちがやっている臼のグループがある。6年生がやるとそれなりに杵の音がよく出ていたりするけれども、定額ん年がやると、杵に振り回されたりしていて楽しい。大体やりたがるのは男児であるが、杵に足をとられても、さすがに弱音を吐かない。周りで見ている子どもたちが心配そうにしていて、杵を振り上げる度に『危ない!』という気勢を上げる。それがとてもタイミングがよい。

吹きあがったもち米を臼の中に入れて、それから杵で練り上げて多少餅になってきたところでつくのだけれども、練り上げるところが力の入れどころで、うまく腰を使わなければならないが、それを子どもたちが大人のまねをしてやる格好が面白い。何でもはじめてのことはやりたがる。やりたがりが何度も失敗して見事な技術者になるのだろうな。だから学習の初発は興味や関心からだというデユーイの言うとおりだ。教科書を出して、教科書を暗記させることなんて面白くもないし、それが楽しいなんて言う子がいるのだろうか。

面白いことあり

6年生の修学旅行の報告会があった。こちらで報告して下さいと頼んだわけではないけれど、自発的に全学年を集めて始まった。もっとも自分たちで決めた旅行だから、最後まで起承転結を行わなければならないと感じたのだろうか。順にしたがって報告をしていたが、全体的な報告のプログラムも整理されていて見事だった。いつも感心させられるのが、パッと出てきても怖気づくことなく堂々と話ができるということだ。私自身をだぶらせてみても、多分心臓の音が隣の人に聞こえてしまうのではないかと思うくらいのものだ。

最後の流れのところで気になったところがあったので、6年生全員を職員室に呼んで話をした。勿論ほめることが最初だ。じっくりと私の話を聞いていたが、私がいつも食べているこんにゃくがストーブにかけてあったのでそれが気になったようだ。これは全員に配った後の残りであったけれども、特別に6年生へのご褒美としてあげると言ったら、順序良くきれいに食べてしまった。おつゆだけ残っていたので『これどうするの?』との質問があり、『このおつゆでおそばをゆでて食べるのだが皆も食べるか?』と言ったら『食べたーい!』という返事だったので『そんなに簡単に食べることはできない』ともったいぶって言った。

するとみんなが次の私の言葉を待つようにじっと私を見つめている。『うんそうだな、運動場10周かな』と言ったら、すぐさまみんなで顔を見合せ『よし!行こう!』と言って、靴をはき替えに靴箱の前まで突進していった。随分と気の合うものだ。そばを食べると言ったって、それほどあるものではないし、お椀に少しづつぐらいなものなのに、みんなで一緒に気を合わせるというのはこんなに楽しいものなのだ。10周と言えば2kmだ。みんな気を抜かずに走っている。はーはーと息を切らしながら、そばを食べるために。

やがて一人二人と10周を終えてゴールしてきたが、体がとても熱そうである。フーフーと言いながらおなかを抱えていて、おなかが痛いというものもあらわれたり、『あっそうだ僕はそばアレルギーだった』というのもいる。それでも笑っていたのは私と担任だけで、あとの子たちは疲れて笑えなかったようだ。全員が私の机の後ろにある長テーブルに座り一緒にそばをすすった。6年生といえどもこのような純真さだ。この学校の良さが分かるだろう。

美しいもの

一番最初に『きれいだな』と感じたものは小学生の低学年の頃で、やんちゃな仲間と一緒に山歩きをしていて、山歩きと言っても雑木林であるが、そこで見た鉄砲ユリだろうとかすかな記憶がある。その雑木林もどこだったかをはっきり覚えているし、友達の顔も覚えている。花粉がつくと洗濯してもなかなか落ちなくて、母ちゃんに叱られるから、触らないで匂いだけかいたほうがよいということまでガキ大将に教えて戴いた。野に自然に咲いている花なので、どうしても根っこからとってきて家の庭に植えておきたかった。

家からスコップをもってきて根っこのところまで掘り下げて球根まで取り出したけれど、家まで持ってくる間に、茎が折れてしまって、家に着いた時には無残な形になってしまっていた。三つぐらいに分かれてしまっていたので、球根のある部分は庭に植えて、茎だけの部分は捨てて、花のある部分は母親が畑から帰ってきて、すぐにコップに水を入れて飾ってくれた。家の中に花があることがとても誇らしいし、嬉しかった。自分が家族のためになったという気持ちを持てたのは多分この日が初めてだったような気がする。

10数年ぐらい前にj純白の西洋ユリ(カサブランカ)を紹介されたときには、その美しさに固唾を呑んで一瞬声が出なかった。それから家にはカサブランカを何本か植えたけれど、最初だけ純白であったけれど、あとはピンクになったり赤いゴマが入ったりして自分のイメージとは少し離れてしまって興味が薄れてしまった。花弁が大きくて、とても立派で気品があって貴婦人のようなんだけれど残念である。女性の美しさは『瞳』であろうと思う。『目は口ほどにものを言う』とあるようにそれがすべてである。あくまでも個人的主観であるけれど。

心打たれる純粋さの美しさは少女の頬を伝わる涙(tears)であろう。悲しみの涙でも、うれし涙でもどちらでもよい。瞼の内側にたまった涙(しずく)がそっと頬を伝わるとき、まるで真珠の輝きではないか。、それはピュアを越してイノセントだ。女房曰く『単細胞にして最も騙されやすいタイプ』だと。何と言われようが半世紀もそう思い続けてきたのだ。現実に戻ったところで何も面白き事はない。かつて高杉晋作は、そうであっても面白く生きようと言っていたが、それほどの人物にはなれそうにない。

しばらく見なかった風景

家の庭にあるもみじがいつの間にか散ってしまっている。何日か前は真っ赤に燃えるような色をつけていたのに、もっとゆっくり見ておくべきだった。家の裏にある大きな土山に、山の下につながれているヤギがその山の中腹まで登って行って草を食べている。ヤギは何を考えているのか、いつも食べることだけしか考えていないのか、土山を登るときは、こちら側がよいとかこちらは危険だとかの考えはないのだろうか。それでも幸せなのだろうか。いやそのような意識は持てないのだろう。そのような意識が持てないほうが幸せなのか、それとも意識をはっきりと持てる人間のほうか幸せなのか。

あおば台幼稚園の周りの風景も少しずつ変わっていっている。南の道を挟んだ近くには住宅が建っているし、今日はその一角で住宅展示会か見学会をやっている。東側正面玄関の前は、少し前まで田んぼであったけれど、そこを埋め立てて空手道場が建った。これからは、道場に通う彼らが、幼稚園の警備を担当してくれるだろう。工事に来ている職人さんが自分たちが施工した側溝のところに座って、みんなでタバコをふかしている。ずいぶんとうまそうに煙を吸い込んでは吐き出している。物を作り上げるという自負心が、年老いた親父たちの顔ににじみ出ていて、力強い頼もしさを感じる。

私ももっともっと若かった時に同じような土方仕事をしていた経験がある。一日の日当が1600円だった。腕の良い職人さんは3000円。親方格になると3500円だった。日当が少なくても、それがどのような意味かをよく理解していたから不満など全くなかった。給料をもらって、ガソリン代を払うとあまり手もとに残らない。それでも意気揚々としていて、朝方まで飲み歩き、あくる日はしゃきっとして仕事へ出て行ったものだった。今のように土曜日曜が休みだなどと言われると、食えなくなってしまって日干しになってしまう。それでもなんだか、毎日が幸せだったような気がする。

あの時のことを思うと、今のほうが経済的には楽にはなった。いや、私の資産の話をすると結婚前より全く乏しくなって、話せるようなものではないが、生活そのものは文明とともに楽になっている。仕事にも恵まれ、子どもとともにいられる仕事は最高に素晴らしい仕事である。しかも運もよく小学校まで作らせて頂いた。何も不満はない、何か不満でもあるのかと自分自身を問い詰めてみると、都合のよいことを言ってのらりくらりと逃げてしまう。子どもと一緒にいられることは何事にも代えがたいことだが、それ以外はだれかにやってもらってもいいなんて、情けなくも逃げ出そうとする自分がいる。

今日は仲間の認定子ども園の認可になった建物の竣工式で、招待されて挨拶をしてきた。早稲田の応援団にいた凄い先輩だけど、彼も大変な時があったのだと思うと少し重荷が取れたような気にもなった。私も人生つきまくっているようだけれども、彼もつきまくっている。本人がそう言っていたから間違いないだろう。

講演会

堀真一郎先生をお呼びして保護者会主催の講演会があった。堀先生は、イギリスの教育学者ニイルの著書5巻を翻訳した教育者として日本では有名な方である。大学の先生をしていて、それを投げうって自ら『きのくに子どもの村学園』という学校を中心に何校かを経営しているので、彼の学問は机上の学説ではない重みのあるものであって、著書でもいつの間にか引き込まれてしまう魅力がある。信じて来たものを具現化して、これが真に子どもたちを幸せに導くものだという信念がある。私は彼の著書の一つである『きのくに子どもの村の設計』を、身震いしながら読んだ記憶がある。大学教授の退職金では学校経営は困難だろうから、それなりのご苦労はなさっているはずなのに、それはおくびにも出さない。

もっとも現在が順調ならそんなことは懐かしい昔のことであって、ことさら大変だったことなど思い出さないものでもある。私もいつかお呼びして、ご講演を戴きたいと思っていたけれど、保護社会の会長からいとも簡単に『堀先生を読んで講演会をやろう』と平然と言うものだから、駄目もとでもよいから思い切ってお願いをしたところ思いかけなく快諾を戴いたのでありがたかった。ちょっと失礼かなと思いながらもやってみるものだ。新たに強烈な図々しさが体中にみなぎったような気がした。

このところ男子生徒の高学年が野球らしきものをやっている。いわゆる三角ベースという奴だが、学年だけでは人数が足りないので、色々な学年が入り混じってやっている。男子だけではなく必要とあらば女子まで一緒になってやっているのを見た。今日などは女子だけが外に出てバットを振り回している。なかなかバットにボールが当たってくれない。見ている方がイライラしてくるが、当の本人たちは一生懸命なのだろうなと思う。校庭や中庭などを見ても、よく子どもたちは走り回っている。なんだか分からないけれど楽しいのだろうな。

3歳児の保育参観が第二幼稚園であった。保育参観のあとは私がお話をすることになっているけれども、実際3歳児について話などない。無邪気で可愛らしくて、あの子たちを見ていて母親に何を示唆するようなことがあるだろうか。今はこのままでよい。あるがままの姿を抱きしめてあげる。これ以上何もないではないか。『お幸せに』と手を合わせたい。

楽しい話2話

第1話  何時そうなったのか自分でも分からないけれども、鼻の頭のところに吹き出物のようなおできのような物がぽつりとできていて、そこのところが赤くなっていてまるでピエロのようであった。それを目ざとく見つけた年少さんが『先生!鼻のそこんとこ赤くなっているよ!どうしたの?』と思い切り上を向いて私に言う。『うんこれはね、もう少しでクリスマスが来るだろ、だからトナカイさんの練習してるんだ』と言うと、けげんそうな顔をして『じゃあ先生って変身できるんだ、へええっ!』と言って『変身!変身!』と叫びながら散っていってしまった。それを見ていた年長さんは『先生!そこはいたくないの?』と心配してくれる。

第2話  それは栗ご飯を食べる日であった。私の役割は毎年そうなのだが味噌汁当番で、その具材は決まって豆腐とワカメである。200人もの味噌汁を作るのであるから、味加減を整えるのに私が選ばれているわけだ。私の舌が肥えているからではなく、あんなに大きい鍋で作る味加減は度胸がないとできないだろう。まあどうでもいいやと言う、半ばどうにでもなれというような気構えがないと対処できない。それで私が責任をとってやるわけだが、今までに失敗したことはない。庭で火を燃やして、そこに鍋をかけて火の当番をしていると、かわるがわる各クラスごとに『先生ありがとうございます』を言いに来る。

やはりまた年少さんだが、ピョコンピョコンとお辞儀をしながら『ありがとうございます』を言ってくる。そんな子どもたちに『先生の作る味噌汁はおいしすぎてほっぺが落ちちゃうよ』と行ったらきょとんとしている。すかさず一緒にいる保育者がそれを優しく話をしてあげると、真剣な顔をしてほとんどの子が頬を両手で押さえていた。保育室へ入ると、『ほっぺたが落ちたらどうする?』と真顔で話している。『大丈夫だよあとでさ、ガムテープでくっつければ』と言うものもいるけれども、いざ食事になったら頬を抑えながら食べる子も何人かいた。

中学校ができる!

2005年に卒園した子どもたちとの約束がいよいよ果たすことができる。卒園式の時に『小学校を作って!』と哀願する子どもたちにほだされて、約束したのが『小学校も中学校も作る』と勢いあまって言ってしまった約束であるけれども、その当時の子どもたちはとっくの昔に忘れてしまっているだろう。相手が子どもだからといっても、約束は約束で守るためにあるものだ。思いは思い続けることで実現できるという見本みたいなものだ。やろうとしていることへの絶対的な価値観を持ち続ければ、おのずと他に対しても説得力が生まれるだろうし、共感も得られる。

しかし最初の想いは一人だが、想いを同じにする何人かの仲間がいないと出来ない。実現までには多くの人の力や知恵が必要になってくる。そうなって来ると同時に良質な仲間が必要になって来る。仲間は切磋琢磨出来る仲間がいい。その仲間を追いつけ追い越せして、自分を磨いていき仲間の幸せを考えてあげられるようになったら、最高の人間になるだろう。わが子にはどんな仲間がいるのだろうか。

文科省が平成28年度4月から新たに教育基本法第1条の『学校とは』というところの学校種に『小中学校』という小学校と、中学校を合体させた一貫教育学校が新設される。この学校種に移行する教育機関は新たなカリキュラムに取り組まなければならない。今までの6・3制を自由に解体することが出来る。何もしないで移行するのでは意味がないから、そのような学校は移行はしない。わが校のカリキュラムは当然見直しをすることになるので、教職員にはこれからの奮闘をお願いしたい。発達に見合った制度にするので、新教育ではなく『真教育』にするつもりだ。

最近土曜日に休む子が多い。病気というのであれば仕方のないことであるが、そうでない場合があるらしい。公立は土曜日が休みだが、わが校はきちんとした教育を行う時数に数えられている。しかも土曜日は子どもの内面を自分たちで創作する集会がある。これは学校の目玉としてとても大切にしているもので、あまりそのことに重きを置かない行為というのは看過することはできない。学校は授業料さえ納めれば何をやってもよいような安っぽいものではないし、商業的感覚でいる教職員は誰一人としていない。義務教育期間は学年を問わず、何処の学校へ移ろうと、要請があればあるがままの内申書をお送りしなければならないので、学校行事を軽んじているようでは論外である。

今日お父様たちが来て戴いて登り棒の修理をして戴いた。青竹が目に飛び込んでくる。ずいぶん頑丈に作られたと思う。もっとも自分たちの子が、この棒を渡ったりするのだと思うと、作りながら点検しているのだろうから、登って安全安心だ。子どもたちのために、ありがとうございます。

学業の進度

初等学部の子たちは、自ら進んで学習する内発的な土壌を持っている。また自らやろうとしなければ、どれだけ素晴らしい教師をつけても成績は上がらないだろう。私が校長になってから学習方法のスタンスは変わってはいない。理詰めで、ドリル漬けの学習方法は一度もとったことはないし、強力なやらせの方法もとったことはない。だからどのような子にも無理はないので、子どもたちは伸び伸びとしている。しかし進度を気にする保護者もおられることは存じ上げている。でもよく考えてみてください。そんな子が並木や茗渓や江戸川に合格するのでしょうか。ねじり鉢巻きをさせてむきになってやらせたことなど一度もないのだ。

勿論文科省から戴く教科書の他の教材も使っているけれども、わが校は最初に入学して来る時にお話したように、2年生までは宿題も出さないし、幼稚園の年長さんの延長のように考えていて、まずは仲間と関わり方を学ぶことが重要であると考えている。だから他の学校と比べて見るとかなり遅いのではないかと思われる保護者もいるかもしれませんが、ゆっくりと内在されたものが噴き出してくるのは時間の問題で、5年生の2学期ごろになると公立の学校よりかなり先に行ってしまう。これがよいなどとは思っていませんが、普通にやっていても年間時数が多いので与えられた教科書は終わってしまうのが実情です。

私は幼児教育と同じように、学校教育もプロにならなければならないと決心して、多くの教育書を読み、教育の理念や、偉人伝なども読み漁り、どのような教育の方法がベストに近いのかを常に考えてきました。基本は幼児教育と同じように『子供を幸せにするために教育がある』という考え方に変わりはありません。子どもを中心に置く学校生活を目指しております。だから私は、この学校へ来ると進学指導について『何処へ行けます』などと詐欺のようなことは言った覚えはありません。そもそも勉強して難関中学校へ進めたのは、本人の努力のせいで、学校の指導力のおかげではありません。

本人の努力に惜しみない拍手を送り、より良い人生の在り方についてのアドバイスは勿論いたします。目的もなくただお金持ちになるために医者になりたいとか、弁護士になりたいなどは無意味な話で、そのために勉強するのではなく、まず言いたいのは、内発的動機が必要であり、目標を持つことが大切であると言うことです。お金はいくら自分の蔵にため込んでも、生活に必要以外のお金は外にまいてこそ役に立つというものだ。ためるより何に使うかを考えられるようになった方が、将来性はあると確信している。お金があったら何に使うか、こんな話し合いも面白いのではないか。

学校というところ

小学校も高学年になってくると、『何故勉強をしなければならないの』という素朴な疑問を抱くようになる。何のために学校があるのという疑問に大人が答えるのと同じだと思う。何故山に登るのかとの答えのようでは納得させることは難しい。明治維新後しかも1872年という維新後間もなく学制が公布されて、なぜ至急に学校を作る必要があったのか。それは維新政府が欧州使節団(岩倉使節団)を出して、先進国を視察して外国列強国の産業や軍隊を見て回って、驚愕の体で帰ってきたことに由来している。

まず産業復興ということよりも、強い軍隊を作らねばならないということが頭にあったようだ。それは奴隷や植民地を見て回ったことで、やがて日本もこうなるのではないかという恐れから、近代兵器を整えその仕様書を同じように理解して使えるようにするために、その伝達方法として教育があったのだ。だから個人の興味を満足させるために教育があったのではなく、教育はすべて国家に帰属するものであった。その当時国外留学をした多くの学士は、国家の威信をかけて勉学に励んだ。だから慣れない生活にも侍魂を発揮して歯を食いしばって頑張ったらしい。

富国強兵政策とは当時の国家には必要であったのだ。その教育理念が現在でも生きていることが、少しずつだが改められようとしている。1900年に4年生の尋常小学校が施行されてから1世紀を過ぎたにもかかわらず、いまだに受験感覚が、富国強兵時代と同じかあるいはそれ以上に熱くなっているような、学校のまたは社会の体制がこれも欧米並みに、自由な学びを奨励できるようにとされている。2020年から現在の受験体制をガラッと変えるようだ。東大の総長と前文部科学大臣が言うのだから間違いがないだろう。人間を苦しめる様な受験ではなく、希望に満ちた大学制度にしなければならないだろう。

日々の学習が、自分自身を磨いていくのだということに気がつくような、学校の在り方が子どもたちを救っていくことになるだろう。もっと言うならば、学習によって自分に磨きがかかったというような、検証可能なことが学校生活の中にあるということが必要だろう。学習することは大切なことだ。しかし学校で起こるペーパー試験で常に満点をとったと仮定しても、それだけではその人の全人格的なものに磨きがかかったとはいえないだろう。薄っぺらな学校の教科書を丸暗記したところで、それがその子の幸せへの最短距離であるとは到底思えない。そのようなことを、ぜひとも共通の理解として保護者と共有したいというのが、私の切なる願いであります。

また学校や幼稚園というところは、不特定多数のご家庭のお子様が来られるところで、家庭での子育て観も子ども観も違うでしょうし、なかなか一つにまとまってというのは難しいものです。何か子ども同士でいざこざがあったり小競り合いがあったりしますと、『うちの子は悪くない』と保護者は主張したくなります。それは間違っておりません。悪くはありません。しかし同時に相手の子も悪い子ではありません。子どもたちの間で起きたことについては、大人たちがもっと寛容に長い目で見ていただけますと、子どもの世界はもっと広がるのではないかと思います。

修学旅行 京都

かつては年に一回は京都へ行ったことがある。青年会議所現役のころだ。30年前にもなる。その間幼稚園の集まりで行ったことがあるくらいだ。グアム旅行のときだって一泊して帰ってきたのに国内旅行で行けないことはない。
      
銀閣というところへ泊ったが、修学旅行用の宿であった。上は夜の食事である。
      
食事前と食事中である。牛肉と海老フライを交換して食べていた人もいた。
      
なぜか食が進まないのでどうしたのかと聞いてみたら、途中で何かうまいものを食べてきたらしい。それでも夕食はお腹が張るほど食べたようだ。
      
京都は『ニシンそば』を食べないと、ということで京都駅の中に入りそばを食べるが、お腹がきついということで4人で一つを食べたグループと一人一つを食べたグループに分かれた。駅の階段のイルミネーションがきれいだった。
      
京都駅前で夜の散策である。引率の教師も子どもたちに同化しているようだった。
      
あくる日の朝食、私を待って制服に着替え正座していた。可愛いものだ。
      
第2日目の始まりの朝。旅館『銀閣』を後にして次の目的地へ行くために勢ぞろいをした。子どもたちは全く疲れを知らない。
      
京都駅について、それぞれに切符を渡している引率者。残念ながら私はここで子どもたちと別れて、楽しい思い出をと願いながら後ろ髪をひかれながら一路学校へ向かった。何とも忙しい日であった。

大切にしなければならないもの

ペスタロッチに感化されたフレーベルは世界で初めて幼稚園を作った。その名は『キンダ‐ガーデン』である。子どもたちの庭とも、花園とも訳されている。その前にも幼児施設というのはあったらしいけれども、フレーベルの功績が大きく、幼稚園はその時に名付けられたままの『キンダーガーデン』と言っている。『花園』といった昔の人に心から敬意を表したい。幼稚園が肥沃な土壌でなければならないことを示唆しているのではないか。幼稚園もそうであるけれども、子ども自体が肥沃な土壌である。何をそこに植えようとしているのか、それは大人の責任である。

それは幼児期だけではない。児童期の前期、8歳9歳といったころまでそれは大切なことではないかと私は確信している。その発達は他者批判や他者評価が芽生えてきて、自己評価もできるという発達が確立されるころまで、その土壌は特に大切にされなければならないと思う。そのように育てられた子は、自尊心も高く、物事に前向きであって主体がしっかりと息づいている。小学校3年生か4年生だ。この頃の学習の成績にはあまり神経質になる必要はない。どのような人との関わりをしているのかということを見るようにして、いつも仲間のことの話をし笑い顔が出ていれば心配はない。あとは内燃機関が働いて自走するようになる。

早期知的教育の話が出ていて、議論をしていると賛成派は『できないよりできた方がいいでしょ』ということになる。そして極めつけは大脳生理学を持ってきて、脳の働きが一番盛んなのはこの時期であるというようなことを言う。このような根拠があるということを言われると、大体の人は反論できなくなってしまう。ニューロンとかシナプスの話をされても奥様達には理解できる人はそれほど多くはないだろうから、これに参ってしまう。

確かに脳の働きの曲線を見てみると2歳からグーンと上がってきて7歳から8歳までがピ-クになっているけれども、そのまま何年も続くけれども人によっては下降曲線になる人もいるし、上昇曲線にもなる。能の使い方には使えば使うほどよくなるという説もある。しかも2歳からの上昇曲線は、私が思うのにはドリルをやらせたり学校のまねごとをさせるために上昇するのではなく、これから生きていくためのスキルを学んでいくといったものであるのではないかと思っている。何よりも人間としての感性を磨かなくてはならないだろう。『感じる力』を素晴らしい土壌に植え付けることが何よりも大切だ。小学校低学年も同じことだ。これから京都へ行ってくる。

脱穀

今日は第二幼稚園で3歳児に運動会があった。私はいつものように、ごく普通の顔をしていても保護者の前に出るときには『もっとにこやかに』とか言われる。これは女房だけに言われるなら無視もできるが、最近では私の顔に慣れてきたのか、保育者までもが『もっと笑って』とかいうようになった。しかし今日は朝からそんなことを言う保育者はだれもいなかったし、女房も終始ニコニコ顔でああった。それはそうだろう。あの子たちの笑顔を見て『ブスッ!』としている大人はそうはいない。子どもの顔もそうだけれども、ご両親の顔も素晴らしかった。

みんなの顔がこぼれそうな笑顔で、至福を感じるひと時であった。それはそれでよかったけれども、昨日の初等学部の脱穀で、ずっと立ちつくしてやっていたもので、腰や足の筋肉が硬直してしまったのか痛くて仕方がなかった。やっているときには無理してやっているなどの意識は全くなくて、ちょっと疲れてきたら教師に代わるというようにしていたけれども、朝起きるときには這う様にして起きた。年寄りの痛みは、すぐにやってこないから用心しないと大変なことになる。それにしても初等学部の教諭たちと投光器を点けながらの脱穀だったけれども、よくやるなと思う。経験があるのは私と事務長だけなのに頑張った一日だった。


今の子どもたちは毎日白いご飯を食べているけれども、田植えをして稲穂が実ったあとのことは殆ど知らないと思う。籾摺りや玄米を白米にする精米などのことは知らない子の方が多いだろう。知らなくても現在の大学受験にはあまり関係がないかもしれないが、実はこれからの受験はそうはいかなくなるのではないかと思う。田植えから白米になるまでの過程を知っているということではなくて、その過程で起こる自分の心の動きが様々な科学の芽を育てることになるのだ。受験のためのドリルをいくら消化したところで、総合的な体験的学習には遠く及ばない。

愛おしきもの

第二幼稚園の1週間遅れの運動会があった。昨日の夜からと今日の朝方は18日にやった方が確実性が高いということで、日曜日にやろうとほぼ決めていたけれど、雨雲の予想通過を見てみると、かろうじてつくばの上は通らないだろうということでゴーサインを出した。1週間遅れだけでもがっかりしている子どもたちだし、お手伝いの6年生にしてもそれぞれに予定を組んでいるかもわからないし、お仕事をなさっているご両親にしても予定がくるってしまうことは極力避けたいという気持ちもあった。

子ども達にとっては雨だろうがなんだろうがやりたいときにはやりたいものだ。大人が駄目というから渋々承諾しなければならないだけの話である。子どもが生まれてから這い這いをし、立ったり座ったりするようになると、いよいよ歩き出す。「立てば歩めよの親ごころ」である。歩き出すと視野が広がり、手に触ったものについては口に持って行って確かめようとする。知識を得たいという原型の本能である探究心が働き出す。腕や足がプクプくしていて、まだ協応性がないから、動作がどうもおぼつかない。しかしどうにもたまんなく可愛い。これ以外に表現の仕方が分からない。

この頃の子は、ベビーシェマと言って顔のパーツがほぼ中央によっていて、黙っていても可愛い顔をしている。それが動き出すようになるから、ご両親や祖父母にとってはぬいぐるみでは表現できない可愛さをすべて持ち合わせているので、どうにもならないくらい可愛い。この時期ならわが子がどうしようが何をしようが、ありのままの姿をすべて抱擁し、寛容に育児ができることでしょう。この気持ちを忘れずにいてほしいものだ。愛おしいもの、それは子どもたちの笑顔だろう。

子どもは育てたようにしか育たないと思うほうが正しいと思う。奇跡は起こらないとみるべきだろう。これからも保護者の皆様とスクラムを組んで子育てに邁進してまいりましょう。今日は子どもの顔と、大人の顔の両方にとても癒された一日でした。お父様方も、朝から駐車場の整理をありがとうございました。とても助かりました。

なんでも計画的に

計画というのは見通しを持つということだから、こうなるはずだという予測を持って出発するのが普通で、どうなるか分からないのは、多分計画とは言わないのだろう。思いつきで動くというのがあるけれど、この『思いつき』というのはうまくいかない場合は周りからヒンシュクを買うけれど、これが当たった時には創造力の豊かな人であるという、おほめの言葉を戴くことになる。幼稚園の行事や運動会の種目、あるいは劇遊びのシチュエイションなどは特にこの突発的な創造力がものをいうときがままある。ねらいは子ども達がどのように食いついてくるかであるけれども、こんなことを考えていると時間を忘れる。

だから『発見』や『発明』には計画性はない。きっかけは思いつきだから、『思いつき』や『ひらめき』をもっと大切にしてやりたい。田んぼを借りたのは思いつきではなく、こうするのだ、ああしたいのだというものはあったけれども、600坪というのが大きすぎた。最初から分かっていた大きさだけれども全部を使うことではなくその中の半分ぐらいと考えていたけれど、水を引くのにそうはいかないということで、借りた分だけ田植えをすることにした。当然あれだけの大きさは私たちの手に負えないので、事務長のお父様に機械を入れてもらって、田植えまで手伝って戴いた。

稲刈りが終わってオダカケをしてある分の稲はこれから脱穀をしなければならないが、あれやこれやと行事や活動が入っていてどうも脱穀まで手が回らないようだ。脱穀用の竹細工はいくつか出来たようだが、自費で脱穀機を買ってしまった。これさえあれば私と事務長とでできる。その間に見物に来た子どもたちにやらせればよいと思っている。やりたがればの話だけれども。これも不確実性の無計画の中の計画である。

初等学部では初めてファミリア活動を観てもらおうと参観日を設けた。最初のころは教師も子どもたちも戸惑うところが見えたけれども、今では高学年と低学年のペアがうまく行っていて、それらが低学年の学習になっているし、高学年はファミリアの活動そのものに理解を深めたいという意欲が出て来たので、これが学習意欲につながっていくことを強く願っている。学習のためにファミリアがあるのではなく、学習そのものが生きるためのスキルであることに気づいてくれれば、もっと面白くなる

幼稚園は遠足の日

幼稚園は大洗水族館へ遠足の予定であったけれども、延期の決定をした。この雨だとバスの乗り降りでバスまで歩く親子では大変だ。雨で視界が悪いし、事故でもあったら大変なことになる。大体事故というのは油断してなることもあるけれども、細心の注意をしていても起きるときには起きてしまう。不運としか言いようがない時もある。それが自分のところで起きてしまっては泣くにも泣けない。『君子危うきに近寄らず』がよいけれど、『虎穴に入らずんば虎児を得ず』という諺もあるから、判断する場合の深い思慮が大切だ。たかだか遠足のことでと思うことなかれ、総合的に判断すれば今日は延期にしたことはベストである。

親子で食べる昼食についても、1000人近い人たちが一堂に食べられる屋根のあるところはなく、いつも外のデッキのところで食べるので、雨が降っていたのではその場所は使えない。一番肝心な子どもたちのことだけれども、残念がっている様子もなく、私が行ったときにはこちらから言い出さないと遠足の話は出て来なかった。子どもたちの柔軟な対応によって、次の新しい楽しいものを探し出す力に改めて感心する。残念なのは残念だと思う。お母さんと一緒に出かけられるなんて、本当に楽しみにしていたものだ。この次にいっぱい楽しんできてほしい。

初等学部では、5・6年生を中心にして集会委員会でアンケート調査から議題にして欲しい物を選んで、全校集会で決定することを楽しんでいる。『楽しんでいる』という言い方ではよくないけれど、そんな気がする。今回はスキーに行くか行かないかということが議題になったが、これは例年3年生から上の子たちの話だから、1・2年生には直接関係ないが、その話の行く末をじっと聞いている。彼らが決定したことは最大限尊重はするが、お金のかかることを経済力のない彼らが勝手にきめてしまってもよいものなのか。今度はそのことを議論していただきたいものだ。

歴史認識の歪曲だって?

よく韓国や中国共産党が好んで日本向けに発する政治的用語だ。中国共産党とは何度もここで書いているけれど、日本陸軍とは戦っていない。日本陸軍と正面切って戦ったのは蒋介石率いる国民党である。韓国は一緒に連合国側と戦ったのに、対日戦争というのは当てはまらないから、日本からの独立であろう。ロシアなどはまだひどい。日本の広島に原爆が投下されたのち、長崎に原爆が投下された8月9日に、日ソ不可侵条約を一方的に破って満州に攻め入ってきたのだ。そのあとは満州に残された日本兵はシベリアに抑留されてひどい目にあった。兵隊だけではない、民間人まで蹂躙されたのだ。

そして日本が降伏してから、戦わずして北方四島に入ってきて武装解除してしまったのだ。だから日本人は、中国にもソ連とも戦った気がしないのに負けてしまったのだ。ソ連は酷寒のシベリアに日本兵を連れて行って、鉄道建設や住宅建設に従事させたが、日本兵が作った住宅などは丈夫で今も残っているらしい。敗戦国の日本だから、今さら何を言っても原状復帰は難しいだろうけれど、北方四島などは泥棒に持っていかれたようなものだから悔しい。中国も韓国も歴史を歪曲しているのは、あなたたちではないのか。公文書図書館や、かつて日本と戦った国民党が台湾にいるからよく話を聞いてみるとよい。もっとも彼らは、内政がうまくいかないと、国民の注意を日本に向けさせるという手段を使っているだけだけれど。

中国は天津の爆発について、今も毒ガスを作っていたとは言っていないけれども、あそこから出てくる化学物質を集めてみると、さまざまな毒ガスができるらしい。世界で禁じられている化学兵器までできる。国連の調査団を入れたらすぐにわかるものを、中国はそれを拒んでいる。中国も韓国も内政がしっかりしていれば、反日にはなるまいものを。その話はこれくらいにして、何とも憂鬱な今日の雨だ。

晴れやかな日

朝のうちは少し雨上がりのようなどんよりとした雲があったけれども、午後からは2週間ぶりぐらいだろうか、晴れやかな日差しが戻ってきた。日差しには焼けつきそうな強さがあるけれど、曇りよりはすっきりする。田んぼの稲穂もこの日差しを待ちわびていたのだろう、黄金色に光って何か誇らしげに風に揺れている。昨日あたりから、あちこちでコンバインによる稲刈りが始まったようだ。学校の周りや、幼稚園の周りでも稲刈りが始まっている。初等学部の田んぼは、普段の人たちよりも1カ月も遅く田植えをしたから、ゆっくりでいい。子どもたちとゆっくり話し合いながらやろうと思っている。

旭山動物園の園長をしていた小菅正夫さんて言う人の名を覚えていらっしゃる方も大勢いると思いますが、この人が園長になった翌年には旭山動物園創立以来の最低入場者数を記録したそうだ。この人が園長になったからという理由ではなくて、動物園そのものが斜陽であった時の話で、しかも旭川と言えば日本ではマイナス40度以下を記録した酷寒の地である。そこで10年後には、入場者数300万人を超える上野動物園と肩を並べる動物園に仕上げてしまった。これは何もマネジメントを考えて、寝る時間を割いて、懸命に経営に乗り出したなどという出世物語ではないのが、この人の偉大さだと思う。

それはどうしたかと言うと、動物たちの生態をそのまま見せるというもので、夜行性のある動物は夜にみせる。その生態に合わせることによって、動物を虐待から守り自然との調和を図ると言ったことを動物園から発信したことがすごいことなのだ。札幌に生まれた小菅さんは、春はサンショウオ、夏はセミ、秋はバッタを求めて過ごし、捕まえた生き物を一生懸命育てる様な子ども時代を過ごしたらしい。北海道大学の獣医学部を出たのは子ども時代の延長のようなもので、また救えなかった小動物に対して、もっと生きてほしかったという思いがあって獣医学部を選んだとも言っている。幼少期の延長というのは、確かにインパクトがある。

初等学部でもフロー教育を進めるためにファミリア活動を取り入れているけれども、夢中になったものから不思議を発見し、それを追求できるような集中力を蓄えてほしいと願っている。小さい時から道具等を使っているのだから、道具の便利さを体験でき、そのメカニックについて不思議を感じたり、てこの応用や、上下運動が何故回転運動に変わって行くのか、その部品や道具を発見した人に敬意を払うとか、よい方向へ連鎖してほしいものだ。幼稚園では特に『感じる』ことをたくさん日常の生活にちりばめることを話し合っている。これからも保育力を高めてほしい。

オアシスは満タン

初等学部のオアシスへ幼稚園の子どもたちが来た。実は昨日は第二幼稚園が来る日であったけれどもあいにくの天候で中止になってしまった。今日はあおば台の年中と年長の子どもたちが、両手足を伸ばしてキャッキャッキャッと楽しんでいる。楽しいという日が毎日のようにあればいいな。
         
小さなプールだけども、初等学部の最初の子どもたちがオアシスと名付けた。ここにはキャンプ場があるけれどもその場所の名前は軽井沢だ。左上の写真はゆっくりと階段を下りてオアシスに入っていくようす。
           
オアシスの上からちょうど滑り台のようにして遊べるのが楽しい。右上はロープを伝ってオアシスから出るところ。小さな子どもたちでは、オアシスの上まで登るのには滑ってなかなか難しい。
         
オアシスの隣にある全長202Mのクジラ川でカヤックに乗って楽しんでいる年長の子どもたち。深いと危ないので、昨日のうちに初等学部の教員たちが川の水を抜いてくれた。年長と年中の子どもたちを一緒に遊ばせておくと、年中の子が年長に引っ張られるようにして、より活動的になる。楽しい光景である。子どもたちが帰る頃になって、雨がぱらつきだした。

進路指導

私の友人の兄に京都大学病院の院長をしていた人がいる。勿論その姉も弟も優秀である。私の友人の方はいたって楽しい人で、幼稚園の保育者をしている。研修会などで、日本でも著名な講師を呼んだりするのは、実は大学病院の院長の差し金であったことがつい最近分かった。そんなことを自慢したりしないから、幼年教育研究所の所長の久保田浩先生がお呼びしていたものとずっと思っていた。大学病院の院長というのは、大学に残って病院を運営して一人院長になるわけだからすごいと思う。しかも京都は研究所としては東大よりも世界では有名だ。

初等学部にもすでに医学部志望の児童がいて一生懸命勉強している。医者の子の多くは医者になろうとしているのがいる。自分の親が医者だとそうしたいと思うのだろうか。開業医の場合には、医療器具の支払いに追われて一代では返済できないと言われていて、何とかわが子にあとを継いで戴きたいと思うのは自然な思いである。他人が入って来るよりそのほうが良いということだろう。だがこれは弁護士も公認会計士でも世襲制でないから、大変なことだ。もっとも大変だと思うのは凡人の悲鳴にすぎないが、医者は自分の通ってきた道だから、きっとわが子にもできるはずだなどと思いがちなのだろう。医者になるという目的を持っているのは数人にすぎないが、健気に勉強に取り組んでいる姿がいじらしい。

高校を選ぶならそのような雰囲気のある学校が絶対よい。同じ目的を持っている仲間が近くにいるということは励みになるから、勉学にも相乗効果があって目的意識も強固になって目的を突破できるだろう。何も将来の目標は医者だけでないから、世の中に役立つような人になりたいという希望に沿ったことを推奨して、学習に励むという内発的な動機を培養してあげることが大切だ。私個人としては、手っ取り早く社会に貢献できるのは医者がよいという気持ちはある。白衣を着て聴診器をぶら下げて、意味もなくふらふらと歩いていたって様になるではないか。しかも世界の人類に役立てる。

出来ることなら子どもたち全員に『医者になれ!』と号令かけてみたいが、それだけの器が私にないからあまり無責任なこともできない。私の尊敬する先輩に医者がいるけれど、その先輩は土浦一高で数学はトップだったらしい。周りの人に聞いてみるとそれほど勉強ばかりしていたとは思えないと言っている。養老猛さんも東大医学部へ進んだけれど、少年時代は虫捕りばかりやっていて、その標本作りに毎日を使いきっていたというし、同じように身近にいる優秀な人はよく遊んだ話ばかりしかない。没頭して遊ぶということが大切なのだ。中国の諺に『小医は病を治し、中医は人を治し、大医は国を治す』というのがある。世を正すことも医者の役目だったことがあるのだ。チェ・ゲバラも医者で、革命がはやっていたころには医者が登場する。

正義とは何だ

正義=善ではなかろう。正しいことが正義だという論拠はない。公平なものが善であるとは言い切れない。人それぞれに自己主張の根拠を持っているからだ。子どもが生を受けて、幼稚園に通っているときは間違いなく性善説であるが、徐々に大人に近付いてくると性悪説に近付いて、性悪説を認めざるを得なく。人間の本性である欲望が自分自身を取り囲んだ時に、善悪の意識を超越してしまうのだ。社会に警察や軍隊があるのは性悪説に基づいている。大人になると善悪で物事を判断することが難しくなって、利害得失に決断を迫ることになるのは、これもまた人間の持つ本性なのか。正義を振りかざして生きようとすると、『世間(流れに)に掉(さお)させば流される』ことになる。『とかく世間は住みにくい』ものなのだ。

私の幼児教育から小学校での子育て論は正論である。正論であるという根拠は、発達理解と実践記録によるものだ。だからと言って、これがすべての人たちに押し付けられるものではないことは十分承知している。正論といえども、だれにでも当てはまるものではなく一般論に過ぎないものだからだ。正論がいつでも正しい善であるとは限らないということになるけれど、しかし、だれかが正論を声高らかに言い続けていなければ、必ず世の中のうねりは楽な方の道を探し出すだろうし、それが常態化されると真実に変わってしまう。真実はあくまでも正論の中にあるというのが私の持論だ。

子どもたちの発達は肉体的な発達と心の発達があるけれども、肉体的な発達は現象的に顕著に表れるからとても見えやすいけれども、心の発達は幼児期から9歳までは良く見えるが、10歳ごろになると見えにくくなる。それは何度か言っているけれども、他者評価ができるようになってくると同時に、その評価を自分の中に閉じ込めて自分個人の秘密にしておくという、親からの独立宣言みたいな発達があるからである。女児の場合は男児よりも発達が早いので、よくよく観察していないと子どもに出し抜かれてしまう。子どもたちの独立宣言は、児童期にある。正しく対応できるように心がけていよう。

私はある市の『子ども子育て会議』に出ている。子どもを産んで子どもを預けられるようになるのは産休が明ける3ヶ月後からである。まだ赤ちゃんは目が見えない時期だ。子どもも母親も可哀そうで不幸な境遇である。これが経済大国を誇った日本の子育てに関する国家の政策である。本来母親が安心して家庭で子育てが出来るというのが国家の政策でなければならない。子どもを産んで間もなく仕事に就かなければならない人は、保育所へ。そうではなく家庭で子育てができる人は家庭で。そして3歳になったら幼稚園へ行けばよいというのが現在の方向だ。否、家庭にいる母親を無理やり仕事場に引き出している。これは正義でも善でもない。建前と本音というご都合主義である。豊かな国家では決してない。子どもにとっては母親に育てられるというのが至福である。

初等学部で昼食の時間が終わると、6年生が一目散でオアシスの方向へ走っていく。何をするのだろうかと思っていたら、たまたま担任が通りかかったので『6年生どうしたの?』と聞いたら、『鬼ごっこです』とこともなげに答える。こんなことが好きなんだ。確かに子どもというのは、陸上競技でもないのに、むきになって走りだしたりする。私らの年になるとこの行動が意味不明で、ただ疲れるだけという受け取り方しかできない。6年生が鬼ごっこをしていると、何とも迫力がある。

教育の基本は幼児教育

教育そのものを人格の育成と知識の培養とするならば、その基本的なことは幼児教育にあるのだろう。人間の生活様式は小学生でも幼稚園の園児でも全く変わらない。生活の中に小学校では文字を使った『教科書』が配布され、年間時数が文科省によって決められているが、人間の営みは変わるものはない。幼稚園の中にもちょっと発達の早い子による『いじめ』に似たようなことが起こることがある。しかしそれらは幼稚園の中で解決できるようにしている。そんなものに特効薬はないけれど、ひたすら注意深く『見守る』ということで、子どもたちは自然にそのような事象でも乗り越えていく。そのような復元力みたいなものを持っているものだ。

何日か前のあおば台幼稚園の保護者からのお話がブログに載っていた。幼稚園から帰ったわが子の顔が少し腫れているので『どうしたの?』と聞いたところ、友達のA君が何かを振り回していて、それが顔にあたったらしい。それでもわが子は『でも先生に言わないで、A君叱られると可哀そうだから』と言ったので、思わず母親の方が涙でむせいでしまったという。人を思いやる心が芽生えてきているわが子に感動したり、つたない言葉で自分の気持ちをはっきりと伝えることができたという成長に思わず涙ぐんでしまったのだろう。

子ども同士の出来事は、子どもの中でしか本当の解決は出来ない。保護者がこのようなことを聞きつけて先に幼稚園に解決を迫ったら、親もまたこのようなわが子の成長に気づくこともなかったろうと思う。子どもの心の成長の殆どは、親の知らないところで育つものだ。子どもを信頼して見守ることが出来ると、子どもの発達がよく見えると何度か書いたことがあるけれど、今回の幼稚園での保護者のブログもそれを証明している。子どもを愛するが故に、子どもの気持ちまで感情移入してしまうと、当然子どもは見えなくなってしまう。子どもを思う親心は仕方のないところもあるけれど、そのようなことも差し引かなければならない。

小学生の心の発達についても、幼児の発達を観るスタンスと全く同じである。子どもを見、寄り添う基本は幼児教育にあるのだ。子ども同士で何かぶつかり合いがあると、ある程度の心の葛藤の先が読めるので両方の子どもの様子を『見守る』様にしているが、保護者の方が敏感に反応して来ることもあるので、子どもの心の葛藤を観察するゆとりがない。何が起きても学校でそれを把握していれば問題は起きないものだが、当事者である子どもの保護者であれば、そんな悠長なことは言ってられないのだろう。それもまた親の愛の表現だ。だから一般的に言われるネグレクト(無関心)などは、この学校では無関係である。しかしもっと大きくなって、思春期を迎えるころまで親が入り込むような状態だと、それが子どもにとってはネグレクト(分かってくれない)となる。

教育の神髄って何だ?

学校教育を受ける者、そして教育を授ける者とに分かれるが、実はこの両者は分かれてあってはならないもので一体でなければならない。一体であるということは同じ方向を向いているということで、同じ思惑の中にいる。ここでの『真髄』は『真理』と置き換えてもよい。平たく言ってしまえば何のために勉強するのかという疑問に、噛み砕いて説明できるかということだ。子どもたちの永遠の、大人たちへの質問でもある。大人たちは即座に『自分のためだ』と答えるのが一般的らしいけれども、これを子どもたちが自分の中に取り込んで反芻して理解するのには難解である。大人は経験知の中で話をするが、子どもには宇宙の大きさを測るようなもので理解できない。

何故幼稚園に通ったり、小学校とか中学校へ行かせなければならないのか。保護者は周りの人たちがいくから、わが子も後れを取ってはならないなどと、臨戦態勢に入っている様な言葉では応えないだろう。わがこのためにの一念であることには間違いがないけれども、押しつけているわけでもない。それが社会通念となって誰もがそのような行動をとるようになっているからだ。しかし日本ではそうであるけれども、幼稚園などには世界の同年齢で幼児教育を受けられるのは10%に満たないのだ。小学校へ通える子も半分に満たない。幼稚園や小学校へ通えるというのは地球上でも選ばれた民なのだ。

まあそのようなことを頭に入れといて、何故幼稚園に通うのか。全日本私立幼稚園協会では、幼稚園を『子供が初めて通う学校』というような位置づけでいる。学校というより『子供たちのたまり場』の方がしっくりといく。多くの不特定多数の子たちと混ざり合って、人と関わり合う術を体得してほしいと願い、人生における基本的なスキルを磨いてほしいと願っている。そして、友達ができてその子の名前が出てくると親も歓喜する。全く親子ともに正常な心の発達である。この状況を『はぐくむ』というのだろう。そんな状況だから、親子ともに多くの事柄に対して寛容である。子どもたちからその時に寛容さを学ぶ。

そうはいっても小学校へ入ると、『教科を学ぶ』という新たな取り組みがあって、それについて保護者は他を意識するようになる。子どもたちは、できるとかできないとかいうことには無頓着で、全くマイペースで大らかである。何故学ばなくてはならないのかという疑問は、小学生の低学年では起きてこない。自己評価も他者評価も何となくできるようになる9歳から10歳のころだろう。そんなことは全く考えずに飄々と学問に打ち込んでいる子もいることは確かだ。そんなことを意識させずにひたすら学習できるという態度は驚嘆に値するだろう。そのような子を含めて、子どもたちが幸せになってくれるように願いながら学校や幼稚園がある。

人間として生を受けて一番その子らしく生きられるということは、自分の人生を自分で選択でき、周りの支配を拒絶できる知識と自信を得ることだ。親からも誰からも支配されるということを敢然として拒否することだ。自分の生きざまを自分の力でコントロールできるということは素晴らしいことだ。支配されるということは、奴隷になるということだから、拒絶して自分を一生懸命生きなければならない。そんな自由を得られた子は幸せである。米国で南北戦争が終結したとき、奴隷であった黒人が『次に生れてくるときに奴隷であるならば私は躊躇なく死を選ぶ』と言ったという。

講演会決まる

保護者会役員から要望のあった堀真一郎先生をお招きしての後援会がほぼ確定した。当初は10月下旬の土曜日ということを指定されていましたが、堀先生のスケジュールが一杯で、11月7日ということになりました。また当日は和歌山から出て来るというので、午後からの講演となります。午後1時から3時までということで、幼稚園の保護者も動員いたします。幼稚園の子どもたちは小学生とかかわって遊んでもらうようにします。勿論所々に幼稚園の保育者を配置いたします。初等学部の教師は全員が聴講いたします。講演後には質問をお受けいたしますので、できれば堀先生の書いた本を読んでおいたほうがよろしいかと思います。

堀先生は卒論で『デユーイ』をやると決心していたけれども、ニイルのサマーヒルスクールを知ってニイルに傾倒していったと言っています。教育学を学んだ学生の卒論の定番が『デユーイ』であったり『ピアジェ』であるので、ニイルに対してよほどのインパクトがあったのだろうと思う。堀先生は、霜田静志先生の『ニイルの思想と教育』を読んでビックリ仰天したと『ニイル選集5』のあとがきに書いている。何をびっくりしたのかというと、①授業に出る出ないは子どもたちの自由 ②全校集会で5歳の子も校長も同じ1票 ③校長が、盗癖のある子を連れて真夜中にニワトリ泥棒に入るなどである。『ええっまさか!』という驚きや疑問がやがて『なるほど』に変わったと述懐している。

徐々に自分も学校を作りたいという気持ちが高まっていって、現在の『きのくに子どもの村学園』ができた。日本という土壌では、自由はあこがれのことばであるけれども、『自由』という発想や思想はなかなか受け入れにくいところがあるので、学校を作ってみたけれど理想と現実のはざまで想像以上の問題が山積したのではないかと推察している。何かをやりとおすのには、自分のゆるぎない信念が何よりも大切なものなので、どんな暴風雨に出会ってもしっかりと舵を握って、意見を聞いても流されてはならない。へりくだったり妥協したりせずにぶれてはならないものだ。おもねることも絶対にない。この孤独さを乗り越えられなければ何も残らないのだ。

私が学校を作ると約束したのは,今から11年前の卒園児たちとのことだった。卒園してそれぞれに幼稚園を離れてしまう泣きじゃくっている子どもたちに、非常に感傷的な動機にすぎないけれど『先生も小学校作るから』と言ったことから始まってしまったのだ。発心正しからざれば万業空しというけれど、子どもたちとかかわり合う職業にある者が、自然体で発した言葉なので、発心は全く正しいと思っている。そしていつか『約束は守るためにある』と子どもたちに言う。

幼稚園の先生

昨日は14時から幼稚園の夏の研修の報告会と、それに伴う研修を行った。1年生の保育者からも活発な意見や感想が聞かれたので、よく育っているなという感じがした。幼稚園の保育者と保護者の距離は子どもを通して非常に近いところにあるから、互いに理解しやすいし、信頼を醸成していくことが案外容易にできる気がする。また幼児教育に関して理解しようとする保護者が多いということも幼稚園運営に関して容易にならしめている。親父クラブの活動にしても、かゆい所に手が届くような気の利いたものである。保護者と幼稚園が一体となって同じ方向を見ているようだ。

何年か前だか忘れてしまったけれど、はじめて保育者になってあおば台に務めた女性が年少の受け持ちになって、慣れないこともあってしょっちゅうへまをしていた。保護者からも聞えよがしに私のところへ苦情が入ってくる。勿論担任の保育者に直接小言を言わないで、主任に苦情が寄せられていた。主任から私のところへ保護者の苦情が伝わってくるのだが、そのようなことは私は殆ど無視していた。そんなときにある保護者から保育者にダイレクトに手紙が届いた。内容は『私もお母さん1年生です。先生よろしくお願いいたします』というものでとても短い文章だった。彼女はその手紙を何度も何度も読み返し、握りしめたまま保育室をしばらく出て来なかったが、目を真っ赤にはらしながら職員室にやってきた。そしてその手紙を私に渡すと『わーっ!』と泣き崩れてしまった。思いつめていたものを一気に吐き出したようだった。

大卒でも社会人1年生なんていうものは、人生見習いの初歩の初歩である。社会人を何年も経験した者が高い目線で見ていたら、初歩の一歩が踏み出せないだろう。1年生に寛容なのは当たり前のことで、近くにいる大人が当然とらなければならない態度である。社会人1年生というのは感性も豊かで敏感でもある。だから自分がどのように見られているのかを、すでに見抜いている。大人が子ども時代があったということを忘れてしまっているように、また初めて世の中に出て不安でいっぱいだった自分を忘れてしまっていることがままある。わが子には寛容で優しいけれど、他人には厳しく寛容にはなれないということだろうか。それでは人は育たないのではないでしょうか。

それでその保育者はどうなったのかというと、保護者にも子どもにも好かれる素晴らしく明るい立派な保育者になった。それはそれとして、学校に来る時には多くの田んぼを通って来る。どの田んぼの稲穂も重く頭を垂れているけれど、学校の近くへ来て我が校の田んぼを見ると、まだ稲穂がはっきりと見えない。茎が丈夫そうにまっすぐに伸びている。茎が黄色く変色している田んぼもあるのに、1カ月も遅く田植えをしたのだからと言い聞かせても、やはり気になる我が家の田んぼだ。雨が降ると田んぼの水を気にしなくてもよいので、雨はありがたい。

1年生と6年生の作文を読ませていただいた。ともに二人ずつで、女性の作文だ。鋭い感性と、文の構成力に優れている。文節もすっきりしていて、読むのにつっかえたりしない。素晴らしい能力だ。大切に育んでいってほしいものだ。大人になったらどんな文章を書くのだろうか、今からが楽しみである。

もう一度昔のこと

昔の海軍の寮は松班と竹班に分かれていて、その間の端に独立した多分賄いの部屋だと思うが、その家が改造されて私の家になっていた。竹班も松班も木造の二階建てで、真ん中にだだ広い廊下があってその廊下を挟んで個室がある。その個室が引揚者にあてがわれていたのだ。何人もの家族ではひと間しかないものだから息苦しくなる。それでも住む家がなかったから雨風さえしのげれば文句は言えないという状況であった。その大きな木造の寮だったところは相次いで火災で焼失したが、焼失した後はみんなどこへ行って暮らしていたのか知らない。その火災で何人かが焼け死んだ。

私が小学校低学年の頃に、寮の焼け跡に新しい住宅が立った。すると何処からともなく、かつて寮に住んでいた人たちが戻ってきて、新しい家に住みついた。私の家はあいも変わらず夜でも月がよく見える快適な家であった。台風が来ると大きな重たそうな石を父親が前に抱えてお勝手の下屋の中央に置いて、屋根の樽木の間に幾重にも縄を巻いて大きな石にくくりつけて風で飛ばされるのを防いでいた。台風が来る旅に私は、父親のサバイバルな力強い姿を見ることができて、そのたびに誇らしかった。『武士は食わねど高楊枝』は仕方なく言わざるを得なくても、私は父親を尊敬していた。

5時から土浦幼稚園協会の会議があるので、今から出掛けなくてはならない。

わらのお家

わらのお家を作りたい。そしてそれは『婦ー!と吹けば飛んじゃうようなおうち』。どうやったら作れるのだろうか。とりあえず骨組みを作らないと形にならないので、いくつかの提案をした。分かったような顔をしていたけれど、空間座標の中の話は理解できるはずはない。そして『作って見れば分かるよ』と行ったら1年生から5年生までの子どもたちが首を縦に振ったので、やってみようということになった。昨日は竹取りに行って、今日は骨組みを作るのに、取ってきた竹を縦に8分の1ぐらいに割った。その時の子どもたちの真剣な顔・顔・顔。

人間が初めて道具を手にした瞬間である。子どもたちは道具を使いこなすと言うことが大好きで、そのためにはいくら時間を使っても構わない。何時までも何時までもやっているだろう。そしてまた道具が変わると、我先にとその道具によってたかって近づいてくる。文明はこうした人間の好奇心の蓄積によって開かれてきたのだと、人間誕生の数万年前の類人猿の時代に思いをはせることができる。このような状況の子どもたちなのだから、あまり先を急ぐことはあるまいと、つくづくそう思う。人間形成はゆっくりと醸成していくものである。わらのお家はしばらく時間がかかるだろうけれど、だれもが納得できるものにしていきたい。

昔のこと

私は戦後生まれだから戦争を知らないけれど、敗戦後の荒廃した節度のない社会を体験している。節度のないのは大人も子供みんながそうだった。私の生まれたところは昔からの農家の部落である。しかしそこの村の生れであった父親は、決してその部落になじもうとせず、むしろその人たちに染まることを拒否していたのではないかと思う。かたくなで閉鎖的な社会が嫌だったのかもしれない。だから満州からの引揚者が新しく住んだ海軍の宿舎を改造してそこに住んだ。私の家だけは寮とか宿舎とか言われる建物とは別棟の建物を改造して住んでいた。村の実力者が世話をしてくれたのだろう。別に独立してあるというだけで、まったく粗末なもので、夜になるとあちらこちらから月の光が洩れて家の中に差し込んでくる。

私の部落は満州からの引揚者の部落で、旧村の人たちから貧乏部落とか言われていた。私は子ども心にもその意味がどんなものであったのかをはっきり分かっていたけれど、別に卑屈になることもなかった。誰もが同じような生活をしていたからだ。ある時私の部落の人たちが集団で農作物を荒らしまわってしまって、それが多くの人たちの知るところとなり、駐在所のお巡りさんが部落の何人かを駐在所に呼んで注意をしたそうだ。それ以来わが部落の名称は『泥棒部落』に変更された。

その名称に激怒した父親は、毎晩素振りを欠かさず行っていた日本刀をもちだして、泥棒部落と名前をつけた農家の家に行って『貴公出て来い!』とやった。狭い農村のことだからみんなが出てきて、父親を遠巻きにして一生懸命なだめようとしていた。当然のことながら村の駐在も出てきて、父親の持っていた日本刀を取り上げてしまった。由緒ある名刀であったので、駐在に懇願して返還してくれるように頼んだが、それはかなわなかった。のちに父親は『まったくバカなことをしてしまった』と悔恨していた。父親は旧村の庄屋の出だったから、どうにも我慢がならなかったのだろう。

私は貧乏に慣れていた。学校へ行っても給食ではなく毎日弁当持ちである。弁当の中身は麦飯弁当でご飯が真っ白ではない。そこに海苔を二段に入れて醤油をかけてふたを閉めて、それで立派な弁当である。他人の弁当をうらやましがる暇はない。昼ごはんになったら一目散にご飯をおなかに詰めて、足らないときには水道の水を飲む。それでも生き生きとはつらつとして生きている。父親は二言目には言っていた。『武士は食わねど高楊枝』。本当はうまいものを腹いっぱい食べさせたかったのだろうけれども、そういって教育しなければならないわけがあった。男として自分の不甲斐なさに何度も涙したことだろうと思う。

指導者の責任

ギリシャの新しい指導者に選ばれたちプラス氏は、緊縮財政を嫌いEU諸国の提示した政策に反対してギリシャ国民から支持を得て当選したものだが、だれもが緊縮策などには反対であろう。しかしそうは簡単にことがおさまることはなく、チプロス氏は自分で責任をとることはせずに、EUが提示した政策を国民投票という形で責任を国民に投げてしまった。ほかに打つ手がなかったろうけれども、当初から緊縮財政反対の立場で当選してきたのだから、国民投票などはパフォーマンスにしか映らない。その分財政出動があるだろうに。

ひどい言葉がある。民主主義を生んだギリシャがまた再び民主主義を取り戻したなどとチプラス氏はのたうちまわっている。粉飾決算を繰り返し、EUを騙し通して来たギリシャが今度は借金を踏み倒そうとしている。デフォルトに陥れば自然に踏み倒すことを宣言するようなものだ。それが民主主義とでもいうのだろうか。若者の半分は無職で国民の25%は公務員だなんて、そんな国だから人は働かないし、歴史という過去の遺産で観光地として成り立っている国だ。いずれにしてもEUからの追加支援がなければ、国家は破綻する。そうなると国民は現在よりももっと苦しい状況に追い込まれてしまうだろう。

日本に目をやれば、憲法論議で与野党ともに議論伯仲している。国家の責任は国民の暮らしと財産を守り、そして他国の侵攻を決して許さないことと、領土を守るというのが当たり前の話である。なのにすぐにでも戦争が始まるようなアジ演説が横行している。私は60年安保の時に、亡くなった東大の学生だった樺美智子さんのことを思い出す。あの時も当時の社会党をはじめとする野党や文化人が『戦争反対!』を叫んで、まじめな純粋な青年が『戦争反対!』のことばにおどらされた。そして反帝学評や、全学連が国会を取り囲んだ。みんな一生懸命に真剣に生きていた。

当時の野党の先見性が間違っていて、機動隊も多くの学生が傷ついてしまった。沖縄の問題でも、あの戦争で多くの市民が犠牲になったのは沖縄ではなく、広島である。戦争に行ったすべての人たちが日本の礎になったのだ。犠牲になったといえば私の父親もそうであるし、身内の人たちが戦争で亡くなっていった。『戦争反対!』はだれでもそうであるし、とても耳触りがよい。そんなことで日本の国は国際的にどうなってしまうのか、『trustme』と言って国を危険に陥れた者がいたではないか。同じ轍を踏んではならない。

育ちは様々

学校で子どもたちに同じように接していても、まったく感じ方の違いで内面の育ちは違う。現象的な育ちというのは、形で表れるものだから、だれか一人が右と言えばそれに追随するというのがあるから、一概にだれがどうだとは量りにくい。今日は面白いことがあった。ファミリアの時間に吹けば飛ぶような小屋を作りたいので作り方を教えて下さいと言う。吹けば飛ぶような小屋だから、丈夫に作れないし、骨がしっかりしていないのは組み立てが出来ない。オオカミが来て吹き飛ばす場面だから、頑丈な奴ではだめだという。いろんな話をしていて、屋根を二段階にして一番上のを飛ばせるようにしたらいいという結論である。

小屋の骨組みは竹がいいということになって、具体的な話に進んでいった。1年生の二人も話が分かっているのかどうかわからないが、ノートに小屋の形を書いている。年上の人たちの話は聞いていてもわからないことが多いと思うので、『どう?』と水を向けたら、『やってみればわかるかもしれないからやってみる』というしっかりした答えが返ってきた。非常に能動的な姿が嬉しいではないか。そこでそれでは竹を取りに行こうではないかという話になって、竹取物語だからだれがかぐや姫になるのと言ったら、女の子4人でじゃんけんを始めてしまって、少し楽しい脱線になった。

入れ替わりに、食のファミリアが来て18日の日に行商に出かけたいので周りの道を調べに行きたい、ということで私に許可をもらいに来た。外は雨なのでどうしますか、と言ったら『今行かないと時間がない』と言うことらしく、どうしても行くと言うので車に気をつけてと言うことにして、許可を出した。そこで竹取りに戻るけれども、竹取りのメンバーには『今なら一緒に竹取りに行けるよ』と言ったのに、『今は雨が降っているからこの次にしよう』とのことだった。計画には入っていなかったようで、自分たちの計画が壊されてしまうのが嫌だったようだ。

住のファミリアが来て道具を買いに行きたいので許可を下さいと言ってきた。カナヅチと釘とのこぎりだけでは、出来るものが決まってしまう。ノコギリにも釘にもインパクトドライバーを使うにしても、色々な形の違ったものや、用途の違うものがあるからしっかりと見てきた方がよいだろう。もっとダイナミックなものを作りたくなったかなと思う。子どもたちは創作的なモノづくりが大好きで、やりたい物の中に必ずある。

お泊り会

両園ともにお泊まり会があった。以前は日にちをずらしてやっていたけれども、初等学部を作ってからは同時にやることにした。同じ日にやっても第二幼稚園では外で花火をすることが出来たが、あおば台幼稚園では花火は出来なかった。両園共に外でのキャンプファイヤーは中止となって、キャンドルファイヤーになったけれども、私たちにとってはちょっぴり残念という他の年と比較があるけれど、子どもたちには比較対象がないから、キャンドルでも結構楽しめたのではないか。それに保育者の趣向を凝らした出し物があって、十分すぎるほど楽しんだのではないか。

このところ『度胸だめし』と言う出し物はなくなった。保育者が面白がって?真剣になって、子どもたちが泣き出すまでやってしまった年があって、そのあとで就寝などと言っても寝付かれずに思い出して寝床で泣き出すようなこともあって、『度胸ためし』はやめることにして『夜の探検』などと言ってちょっと気取った出し物にした。何をしても仲間と一緒にいると言うだけで楽しいのだから、満面楽しさであふれている。そして知らずうちに内的な力が備わってくる。『ひとりで泊まれた』ということは、子どもたちには大きな自信になるものだ。

小学校でも同じことが言えるだろう。親から離れるということだけで、否が応でも子どもの自立を助長させるものだ。もっとも兄弟の多い家庭では、万遍なく全員に気配り目配りができるわけではないから、自分自身で何とかしなくてはならないと気付いた子は自立が早い。だが実は気配り目配りが足らないということではなくて、親がじっと見守っているということもある。何度も書いたことがあるけれど、自立する力が自尊感情を高める。自尊感情が高まると、自己選択と自己決定を容易にさせてくれる。間違った道を選ぶことはなく、その抑止力になるものだ。

今日はPTAの役員会がある。毎月1回は行うようにして学校と役員との意思の疎通を図ろうというものだ。お泊まり会の後なので少し眠いけれど、あと少し頑張ろう。

研修詰め

昨日から水戸で泊まりがけの研修である。先月の29日には東京市ヶ谷のホテルで研修があった。幼稚園関係は、このところ制度の変更があって研修が多い。今まで手慣れた県の職員が事務手続きをしていたので、それほど繁雑には感じなかったが、認定子ども園や施設型給付と言うのが新たに加えられたため、事務手続きが各市町村に下ろされた。各市町村の職員も初めてのことだから、見当がつかないのか右往左往していて保育料の振り込み手続きが遅れている。このような法律ができたのだから、そのための研修会を開いて市町村の職員も危機管理に備えるべきであったろうに。何もこれは茨城の話ということではなく、全国の市町村に波及している現象だ。

認定子ども園に関する勉強会に勢いを感じるが、このまま幼稚園側が手を打たないで放置していくようなことがあると、幼稚園が無くなってしまうのではないかという危惧がある。そんなことを29日の全日の集まりで全日の会長に話をしたところ、『いやそれは絶対にない。今幼児教育振興法を提出して、幼児教育を確立していく』という返答であった。幼児教育というのは、幼稚園・保育書・認定子ども園・家庭教育に関するもの、地域社会に関するものとすべての幼児に関するものである。これは官僚の作文であって、全日のスタッフの発案ではないから、どうなるものだかわからない。幼児教育振興法が真に幼稚園のためのものであるように祈りたい。

新しい教員を連れて、知事との懇談会に出席してきた。知事と同席して忌憚のない打ち解けて話し合いが出来たものと思う。知事の仕事はストレスの多い仕事だと思うけれども、さすがにそのような素振りは全く見せない。知事がたまたま幼児教育に造詣が深いものだから、茨城の幼児教育界は有形無形にその恩恵にあずかっている。助成金や補助金を戴いても当たり前のように思っている輩がいることには、少しばかり腹の立つこともあるが、私が腹を立ててもしょうがない。しかし困った時には声を大きく張り上げるのも彼らだ。そのような人は何処の社会にもいるものだ。

今日はあいにくの雨模様だけれども、幼稚園のお泊まり会である。雨だろうが何だろうがそのような集まりがあると言うだけで子どもたちは喜んでいる。雨なら雨のように楽しくやればよい。キャンプファイヤーができないけれども、どこか時間を作ってやってあげたらいい。楽しみが増えるということだ。

オリンピック後

ファミリアオリンピックは強行して行われたのではなく、天候は朝の模様以上には崩れないという予測の上で始まったものだ。結果的には最後までやれてよかった。ただファミリア独自の種目が、結構良いことをやっていたにもかかわらず、本校関係者にしかお見せすることができなかったのが残念である。とはいってもメインステージ以外の方にも見てもらうとなるとどうすればよいのかという宿題が残る。終わったばかりだから、次回のための話し合いの時間はいくらでもあるので、よくよく考えてより良いものを作っていきたい。

幼稚園の子どもたちの行儀の良さを多くの保護者からおほめの言葉をいただいた。幼稚園の保護者からも、初等学部からの保護者からも。とても嬉しいけれど、保育の実態が分からない人には唸るほど素晴らしいと言うように映るかもしれないが、それにはそうなる指導が行きとどいている。保育者の指導のお陰だと行ってしまえばそれっまでだが、まず初等学部に来るまでの何日かで、興味を惹きそうな話をして導入の部分を丹念にやる。年長だけの人数をひとどころにまとめて、15人前後の教師がひっきりなしに声かけをしているのだ。自分の両親よりも興味を惹くではないか。何処へ行っても、どのような場所でも『寄り添う』ということが定着している。

オリンピックが終わってからが忙しかった。あくる日の日曜日には翌日の午前3時までかかってあおば台・第二幼稚園・初等学部の三か所の予算書を作り上げた。今回は幼稚園の法の制度が変わって支出の法は分かるけれども、収入の方がさっぱり分からない。市役所自信がてんてこ舞いで、しっかりと理解している人がいない。そんな中で私たちに正確さを求めるのは酷ではないか、などとぶつぶつ言いながらだから時間がかかる。そしてその日の午前中(月曜日)には、グランドヒル市ヶ谷で全日の研修だ。この研修は自分で求めていったものだから全然眠くはなかった。

昨日は初等学部へ視察に、県の総務課から二人の係官が来て学校を見ていった。その中の一人は、幼稚園行政のベテランの方でよく知っている方だったので気軽に学校のすべてを見てもらった。総務課へは色々な情報が行っていて、私とお話をするときにも時折笑みを浮かべながら大変気を使ってくださっていた。そして『人数は大丈夫ですか?』即座に『気にしていません』と言ったら笑っておられました。小中学校の一貫教育が国会を通りました。これは初等学部を作る時からの私の要望でしたので、あとは県がどのような判断をするかであります。だがまだ書類は提出していませんが。これから水戸で知事との懇談会がありますので水戸へ向かいます。

ファミリアオリンピック

朝3時半に目が覚めて外に出てみたら霧雨模様であった。ヤフーの天気予報が信じられなくなった。それからと言うものは寝付かれずにうとうととしていたら5時過ぎにTTから電話があり『どうしますか?』ということだった。テレビでの天気予報では、霧雨のような雨模様も9時には上がり、あとはくもり空が続くと言うことであった。雨が上がるということだから、決行しようということで決断した。しかしスタートしてからも霧雨は続き、幼稚園の子どもたちももうすぐ集まるのに、困った空模様である。良かったことは熱い日でなかったので、子どもたちの体調の心配はいらなかった。

朝から駐車場係をしていただいたお父様方に感謝いたします。それも用意周到に運動会だというのに合羽持参である。学校行事なるものは、誰かしらが手助けをしてくれないとうまく行かない。初等学部は、子どもの人数は少ないけれども、やることは他の小学校と同じように時間をかけているので、このような日には塚原学園全体で後押しをして盛りたててくれている。幼稚園の先生方や保護者の方にも感謝したい。競技には親子とも出っぱなしという感があって、全く疲れるファミリアオリンピックである。

子どもたちは手抜きをせずに最後までやり抜くと言う姿勢がとても好感が持てる。というよりそんな子供たちが大好きだ。良く見てみると保護者の競技などでも、大人であっても手を抜くようなことはしない。そのような真摯な態度が子どもたちの一生懸命さを育てているのだなと、一大発見したような気持ちだ。子どもたちも、教師も保護者も一つになってファミリアを盛りたててくれた。久しぶりに充足感を感じる。心から感謝をしたいと思います。『ありがとうございました。そしてお疲れさまでした』。

明日晴れるかな?

明日はファミリアオリンピックの予定日であるけれど、明日は何処の天気予報を見ても晴れるような気配はない。朝から天気予報とにらめっこであるけれど、にらめっこをしても予報が劇的に変わることはなくても、何とか変化をして欲しいと願っているのだ。お昼ごろには出来ないだろうと言う結論を出して、幼稚園には日曜日に延期すると伝えてしまった。ところが午後3時半ごろにヤフーの天気予報では明日は曇りだと言うことを幼稚園から行ってきた。慌ててヤフーを開いてみると確かに雨マークが消えている。3日前から天気予報を気をつけて見ていたけれど、どうにも土曜日は助かりようがなかった。これもツキなんだろうか。

普通ならば学校行事は家庭行事よりも楽しみにするというのがこの時期の子どもたちの普段の心理状況である。仲間関係が優先するということもあるけれど、みんなの前で両親や家族の方に自分の晴れ姿というか、自分がしっかりと仲間の中(社会の中)でも堂々といると言うことを認めてもらいたいのだ。それは成長を確認して褒めて欲しいという願いでもあるのだから、どんな失敗をしようが、良いところをしっかりと見て褒めてやってほしいものである。それが大きくジャンプするきっかけにもなることは確かであるのだから。学習態度にもよい影響を与えることになる。

6年生が校内で行う宿泊学習について2月に延期するということを言ってきた。みんなで話し合ったらその時期が一番よいということになったらしい。なるほど素晴らしい民主主義である。強い者の意見がまかり通るなどはない、大人よりも内面が育っているではないか。人数が少ないから、周りがよく見渡せるのか、細かいところまで報告をしに来た。これで修学旅行一本に絞れるなどと言っているらしいが、行き先のブリーフィングを忘れないようにと釘を刺しておいた。釘を刺したつもりだったが、彼らはすでにその準備に取り掛かっているようである。

昔『今を生きる』という映画があった。主人公の教師はユダヤであったのでナチスドイツから迫害を受けながら、子どもたちに自分の心のままを一生懸命行きなさいと言い伝えている。しかし何度も親の中傷で、生きざまを変えなければならないことがあった。最後には自分を生きることの素晴らしさを体得し、ナチスに連れて行かれる教師の後姿を子どもたちが見送るといった映画であった。多分保護者の皆さんが少年少女の頃の映画であって、中には見たという方もおられるだろう。だれかに生かされているのではない、自分自身が生きているのだということを強く主張できる子どもであってほしいものである。

GW 何をしていましたか?

私には長い休みは、退屈の何物でもありません。日曜日からの始まりだったけれども、最初の日曜日は幼稚園で事務的な仕事をしていた。静かだから仕事がはかどると言う考え方もあるでしょうが、幼稚園で事務的な仕事をするときには子どもたちがいる日が多く、園長室でしている。その時には子どもたちがいるので、子どもたちの声をBGMにしているので、子どもたちのいないあまりにも静かすぎると、どこか落ち着かない。自分で決めたやるべき範囲の仕事を終わらせると、その次にやることがないので読書にふける。これといった趣味がないので大困りだ。

次の日には『風に立つライオン』という映画を観に行った。とても良い映画だった。これは実話に基づいて、さだまさしが書いて歌を創ったものだということを聞かされた。素晴らしい日本人がいて、自分の器の小ささに瞬間落胆するけれど、間髪を入れずに勇気を戴けるというものである。そして次の日にはかつてから気になっていた柚子の木の消毒である。昨年は1枚残らず葉っぱを小さな黒い虫に食べられてしまって、一つもならなかった。これで大丈夫なんだろうなと、半ば信じられずに消毒をした。

その次は庭の草取りである。実は草取りは女房が3日もかけてやっていた。申し訳なかったが、私はかがむと腰が痛いのと、痛くて長続きしないので、代わりに夕食の支度をしたり風呂の用意をしたりしていた。私は料理をしたりするのが好きだから、何ら問題はないし、風呂の用意なんて言ってもボタンを押すだけでいいのだから、草取りから考えれば何とも代わりになるようなものではない。それと草刈りの燃料も買いに行ってきた。うちの場合には家事に拘ることは婦唱夫随である。

今日は30年ぶりにスクールバスの運転をした。初等学部では初めてのことだ。子どもたちの待っているバス停に近づくと、ドキドキするような新鮮な感じであった。この子たちを大切に育ててやりたいと思う。幼稚園のバスを運転していた時には、みんな話をせずに前の握り棒をしっかりと握っていたが、初等学部の子は私が運転していようといまいとお構いなしで、子どもの世界の世間話をしている。とても微笑ましく、そういったことが社会人になるためのスキルを磨いているのだなと感じ入った。帰りのバスも頑張っていくぞ!。

私用で立川へ行って来た。常磐線が東京駅までノンストップで行けるようになった。全ての電車ではなく、通勤時間帯は品川まで行くらしい。とても驚いて、夜でも新橋あたりから常磐線に乗れるのかと思いきや、それはないらしい。夜でも乗れなければ生真面目な通勤時間帯だけでは、私には恩恵がない。それに久しぶりだから、昼食を思い切って特盛りのラーメンを注文したら、特盛りの姿には納得したけれども、レピーターにはなりたくないような味で、自分には合わなかった。ラーメンにも、自分に合わない味があるということを初めて知った。

台湾灯篭流し

台湾で初めての灯篭流しが行われた。私も両親が終戦後に住みたいと言っていた場所なので、灯篭に両親の戒名を書いて、台北の隣の市の川まで団体のバスに50分ほど揺られて参加してきた。広い河原があって、そこで地元の人たちが1万5千人、日本から約1千人強の人がその河原を埋め尽くした。灯篭は合計1万基が流されたと言っていました。
      
この日はあいにくの大雨で、ちょっとした間に雨がやんで、地元の大学生のサークルが演奏してくれた。大雨の影響でせっかく作った灯篭が雨に濡れてふにゃとなってしまっている様子。この人たちに傘を借り、椅子を借り、合羽を借りて無事に灯篭流しに参加できた。周りは立錐の余地がないほどであるが、せっかく親切にしてくれた親子に申し訳ないので写真を撮って後で礼状を書くつもりでいる。大雨が降りしきる中で、じっと待っていたわけだが、その途中で『みんながんばれ!』と応援してくれているのか、雁の群れが、大空を、私たちの頭上を飛び越えていった。すごい大きな鳥に見えた。
      
上の写真は灯篭流しが終わった後の様子で、奥の両脇に赤く輝いているのが灯篭で、さすがに一人一人の先祖の明りだけあって、喜んで輝いている様であった。前後してしまいますが、私の灯篭は雨に濡れて散々だと思っていましたが、中には身を挺して灯篭を守ったという方もおられた。そのくらいの気持ちで先祖に対しての感謝を表さないといけないのだろう。思い出したので合掌して先祖に謝る。右側にあるステージで法要が行われた。
      
これはオプショナルツアーで焼き物の街へ行ったときに、偶然小中学校の前を通った時にきれいなモザイクがあったので写真に収めた。子どもたちが作ったような、大人が作ったようなどちらともとれるようなものであるが、あおば台でも子どもたちと一緒に作ってみたい。
      
この上の写真が校門であって出入りは自由ではない。曲者は絶対に入れないという。この門の右側が中学校で、左側が小学校であった。中学校の塀の壁はなかなか難しいモザイクでできている。絶対に作ってみたい。楽しいだろうな。

集会に参加した

掃除の時間が短いのではないかと言うことが下級生から提案された。上級生からは、『ちゃんと集中してやらないからだ』という意見があって、結局現状のままに落ち着いたけれども、私としても現状では少し短いかなと思っている。この学校はクラスが離れていたり、特別教室が離れているので、移動の時間だけでも下級生にして見れば時間が過ぎて言ってしまう。私が裁定を下すわけではないので、子どもたちが決定したことを尊重しながらも、下級生を思いやる考え方を示唆してあげる必要があるのではないかと思う。子どもたちの思考は柔軟だから、すぐに吸収してくれる。

6年生に『素晴らしい6年生へ』という私からのメッセージを渡して私が読み上げたことがある。そこで、好きなだけ勉強して好きなだけ遊ぶには時間が足りないと言うことも話をした。6年生にとっては同感であったのか、今度学校に泊まりたいと言って来た。すかさず1日ぐらいではただの遊びになってしまうから、最低1週間泊まれるようなら許可しようと言っておいた。まずお母さんの許可を取らないと、という話をしたら『めんどくせーな』ということを言っていた子もいる。子どもたちが自分で決断して、自分たちで1週間の計画を練るのはすごいことだ。

どのような計画が出て来るのか今から楽しみにしているが、昨日の話では7月にやることにしたと言うことを聞いた。それはなぜかと言うと、5月は連休が会ってみんなで話し合う時が少ないそうで、6月はファミリアオリンピックがあるのでそれに集中したいらしい。そこで比較的暇になるのは7月だと言うことだ。『何が比較的暇なのだ』と子どもたちの思考回路を覗いてみたくなった。結構語彙も増えてきたので、会話が面白くなってきた。さてそのようにやると決まったら、教職員のローテをどのようにするか頭が痛い。楽しみにしていることだから何とかしたい。

私が政治的なことを書くのは、この国の中にいて教育に携わっているからで、思想的には右でも左でもない。ただ自虐的な日本人には決してなってはならないと子どもたちに伝えて行く。若いころ、とはいっても21か2ぐらいまではマルクスの『労働価値論』などを読み気取っていた。その方がカッコ良かったからで、馬鹿馬鹿しい本だと気付いたのにはそうは時間がかからなかった。私は社会に出るのが早かったから、そんな悠長なことは言ってはいられなかった。そのあとはジョン・スチュアート・ミルの『自由論』に感服した。今は雑多な本を読んでいる。