初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

お詫びが見えない?

終戦後進駐軍が日本統治をするために、場所ははっきりとしないが、保険会社か今のホテルになったいるところにGHQを置いた。教育部門とか、憲法を改正する部署とか、治安を維持する部署とか、一刻を統治するのだから様々な部署が出来上がって、マッカーサー元帥がその頂点に立った。東京裁判の日本側の裁判記録と、連合国側の記録が著しく違っていることに、日本の文化人たちはその検証をしないでいる。日本側の言い分として、日本の当時の弁護団長たちの分厚い記録があるから、読んでみると情けないほどずさんな裁判であったことがはっきりする。

戦犯の重光葵の弁護をしたアメリカの弁護士が、『戦勝国が敗戦国を裁くこと事態公平な裁判ではない』とか『一般市民への無差別攻撃はしてはならない、という戦争犯罪を問うならば、私は広島や長崎に原爆を落とせと命令した人物を知っている』ということを発言した、アメリカの陸軍中尉がいた。日本の弁護士ではない米国の弁護士である。その時に法廷は一時通訳が切れてしまって、日本語通訳がされていない。そして居並ぶ判事の中から(キーナンだと思う)『我々は日本の言い訳を聞きに来ているのではなく、彼らを裁くために来たのだ』と、私は戦勝国の思い上がった言葉を知っている。だから日本人が自ら東京裁判の結果に従順になる必要なんて全くない。戦後70年も経過しているのだから。

今度の安倍総理の米国訪問に中国は不快感を示しているという。米国の腐心した日本人の心の解体の一つに、永久に罪意識を刷り込むことと言うのがある。韓国も一緒になってやっているけれども、今回の訪問でも記者会見の中で一番最初に出て来たのが慰安婦問題である。韓国政府が米国広告会社と月ぎめ契約で、日本たたきを依頼している結果である。韓国はベトナム戦争で米国と一緒に戦い、現地では韓国軍は一般市民に平気で危害を加えるなど軍規がたるんでいて、青鬼と呼ばれて最も市民に恐れられていた。そんな国にとやかく言われる筋合いはない。米国ジャーナリズムも二三流の金目当ての記者もいるし、正義は米国司法の専売特許ではない。『お詫びが見えない』など、日本人のくせに外国の思うつぼのような意見を言うことのないようにしていただきたいものだ。

学校の教務は順調にいっている。昼食作りなど教務外では、このようになればいいのにな思うこともある。昼食は学内で作ると、人事などで余計な心配を増やしているようなもので、仕出し屋に頼んだらいいのにと思うことがある。一度仕出し屋に頼んだ給食を出したことがあったけれども、何らかの理由でやめた。学校で作った方が安上がりだと思っている人がいたら大間違いで、仕出し屋の方が安上がりになる。現状ではどちらでやったからと言って、どちらがよいということもない。現在は学年で食べているようだけれども、ファミリアで食べる様な提案がなされればよいのにと思っている。

保護者会総会

新しい年度になって新しい役員が選出された。総会のあり方については、いろいろなやり方があるだろうから、これがベストだというものはないだろう。

役員をやっていると、有形無形色々な人から突っつかれもするでしょうから、大変なことだ。みんなが協力してて役員を支えるという度量がないと、役員になる人がいなくなってしまうだろう。とにかく今までの役員さんの労をねぎらうことにしよう。『大変な時にご苦労様でした』。また新しい役員の皆様に『よろしくお願いいたします』。とにかく子どもたちを中心に据え、争いのない穏やかな、そして出会った人たちがみんな幸せになれるような学校にするために邁進してまいりますので、しっかりとサポートしていただきたいと思います。

総会の後に保護者有志による『あおば祭り』が開催された。弓矢があったり、吹き屋があったり皿回しがあったり、ゴム銃もあった。子どもたちは夢中になって遊んでいる。難しそうな皿回しなどに何度も挑戦して、少しうまく行くと黙っていても次の困難なものへ挑戦して行くものだ。子どもの眼がいいではないか。生き生きとして輝いている。いや子どもたちばかりではない。一緒にやっていた大人の顔も生き生きとしていて、しばし童心に帰ったのではないか。保護者との立ち話ではあったけれど、ファミリアに期待しているということを聞いた。俄然やる気になったというか、子どもを見ていれば子どもが変わっていくのがよく見えるではないか。

実践的なフロー教育と言うのが始まったが、子どもたちは戸惑いもあるだろうが、バーチャルではない本物の教育をやって行くので、そのことだけは子どもたちにも伝わっているようだ。今にもっともっとフロー状態にしていくから、期待してもらってもよい。もともとその原点は幼児教育にあるのだから、そのやり方は本を読み読みやらなくても体の中に染み付いているので、先手を取れるのが強みだ。これから楽しくなるぞ!。

歴史認識

私たちが戦前戦後を通して歴史を教える時に、中国や韓国が言っているような日本の『歴史認識』とは一体何なのだ。日本の歴史の教科書では、戦後の出来事をあいまいにしている事柄が多く、野党や他国を必要以上に意識していることがうかがえる。中国とは田中角栄のときに周恩来との間で国交を樹立し『過去を問わない』『戦後補償はこれを問わない』という覚書がある。しかしODAで膨大な補償というか中国のインフラ整備をした。しかしこれを中国は、『当然のことだ』と言って、あたかも戦後補償を露骨に要求してきた。韓国と言えば、今の朴大統領の父親のときに、戦後補償はすでに解決済みということになった。

そもそも現中国共産党と戦ったわけではなく、当時の相手は台湾に逃げた蒋介石の国民党である。国民党と日本が戦っている隙をついて、中国共産党は勢力を拡大していったのである。戦勝70周年だなんてチャンチャラおかしな話だ。日本は彼らと戦ってはいないし、彼らだって戦った覚えはないだろう。蒋介石が生きていたら何と言うだろうか。もっとも生きていたら言えない。韓国は日本と共に連合国と戦ったのであるのに、戦後保障とは何事だろうか。先代の朴大統領の時に、ソウル市内の地下鉄について日本の経済援助でこれができたわけだが、韓国ではそれが汚職が噂されていて、今の娘の大統領は日本のおかげで大学へ行けたともいわれている。

もう一つ言わなければ気が済まないことがある。朝鮮併合のことである。当時の朝鮮は国家として世界地図に記されている中では、地球上では最貧国であった。だから日本では併合することに慎重であったし、立憲政治の初代首相の伊藤博文などはかなり反対したらしいが押し切られたといわれている。余談だが韓国では伊藤を暗殺した安重根は英雄とされているが、北朝鮮では思慮に欠けた大ばかものとなっている。また朝鮮併合は、米国との約束の上でなされたとも聞いたことがある。米国はフィリピンを奪還するためにスペインと戦っている最中である。戦力を移動できない米国が日本に頼んだということだ。それは南下してくるロシアの脅威である。その裏を知っていた伊藤が猛反対したのだろう。

それに現在行われているインドネシアでの『バンドン会議』である。これはアジア・アフリカ会議と呼ばれていたものだと認識している。先進国に対して後進国が団結した会議で、スカルノとかネールとかが活躍していた時だ。ここで日本の首相から『お詫びの言葉が聞かれない』とまたもやクレ-ムをつけた国がある。韓国だ。アジアの国々を侵略したということを言わせたいようだが、これは事実だろうか。当時ここを統治していたのはアジアの民ではなくヨーロッパや米国と言った帝国主義の国家であって、彼らこそ何故侵略したと言わないのだろうか。そしてなぜ言わせないのだろうか。侵略国がその国に謝罪を入れるなどの、欧米にはこのような習慣がないのである。だから米国が日本に対して注文を出すのはお門違いである。

子どもたちと向き合う

これは幼稚園でも初等学部でも一緒であるが、子どもたちを上目線でも下目線でもいけない。教員はややもすると子どもたちより上だという意識がある。だから教えなければならないという感覚。上なのは年齢ぐらいなものだ。年齢だけは死ぬまで追いつけられることはないから、上であると思っても良いけれど、人間的に人間力などはどうだ。それに知識の量はどうだと問われれば、人間力については、子どもたちに追い越される可能性が大である。知識などは最も顕著に追い越されるだろう。その分彼らは覚えなければならないことや、身につけなければならない知識の量が、我々よりはるかに多い。

教師にとって一番大切なことは子ども達から慕われることだ。基本的にこれが機能しないといくら知識を伝えようとしても子どもたちから拒絶されてしまう。そうなっては悲惨だ。子どもたちから慕われるようになると、子どもたちの生活は能動的になり、脳が活性化されるから、子ども自らのやる気という内燃機関が動き出すので、放っておいても子どもたちの知識は蓄積される。だから教えようとしなくても、子どもから好かれる教師になることが先決である。そのような状況が、教師自らが作りだせたとしたら、教師として至福である。だから内発的動機付けには色々と試された研究があるけれども、人的信頼が一番身近にある。

建設委員長の高橋さんが、小中学校の連結の話を書いているけれど、これは文科省で決定したことなのだろう。私は知事が中央教育審議会に知事として出席して、そのような議論が昨年からあったと言うことを垣間聞いていたので、このことなんだなと言うことが理解できた。小中学校の件については、この初等学部を作る時から話をしていたので大変興味がある。そうなるともう一度私が考えたことを、振り出しに戻してやれるということだ。

3歳児

就園まえに公園デヴューをしっかりとやってきたのか、3歳児が新しい場所に来たことにそれほどの違和感がない。初めて接触するのでも、抵抗を感じさせない。不安定な子がいるというのが定説で、必ず何人か入るものである。どうなっているのだろうか。2歳児教室に通っていたという人が多いのだろうか。今はまだ慣れるまで午前保育であるけれど、帰る頃になると疲れてしまうのか保育者に抱かれている子をちらほらと見る程度で、ギャーギャーと泣く子が見当たらない。分からずやがいないというか、よくなついている。

母親の頑張りが、こんなにも子どもたちを幼稚園に近付けてくれたのだろうか。幼児期というのは自然体が一番良いけれども、もし自然体で今のような状況になっているならば、発達段階において、かなり大きな示唆を与えられる状況だ。そのくらい大きな変化である。

初等学部では初めてファミリア開きがあった。それぞれのファミリアに移動した子どもたちは、まず最初にリーダーを決めようと言うことになったらしい。リーダーはほとんどが自薦で決まるが、手を挙げることが大切である。手を挙げられるような子どもたちを作って行こう。子どもたち中心でがファミリアが行われていくけれども、何かと口を出したくなるものだけれども、少し我慢して動き出すのを見てみよう。動き出したら、多くの欠陥に気付くことになる。

子どもたちのやる気というのはすごいエネルギーである。今日は雨だと言うのに、食べること大好きファミリアは、畑を耕したいと言ってきたり、建物ファミリアは、何階建ての家を作ろうかなどと話している。劇団も、まだ何も決まっていないのに劇は何回公演しようかなどと話をしている。まずは脚本を誰が書くのかだろうな。全員が書いてもいいし、自薦でもいいのだが今日は時間が足りなくなってしまった。

初めて幼稚園で遊ぶ

もーりの、3歳になる前に幼稚園で遊ぶことができた何人かを除いては、初めて幼稚園で遊ぶことができた。あおば台の入園式が終わった後に、今日初めて幼稚園に登園してくる3歳児の様子が見たくて第二幼稚園へ行ってみた。保育者の第一声は『泣く子がいない』『とにかく遊びたくて、泣いている暇がない』と弾んだ声で言ってきた。バスに乗るときには何人かの子が泣いたと聞いているけれども、バスに乗ってしまえばそのあとは楽しいことばかりだ。バスに乗るときに泣いた子はこの次もなくだろうか。休みが間にあるから、泣くかもしれないがそれほど長くはないだろう。

バスに乗せるときに子どもが泣き始めてお母さんから離れないということがあるけれども、そんな時には強引にでもお母さんの手から離す。まるで人さらいのようだけれども、保育者も足でけられたりして、必死の思いでバスに乗せなければならない。そんな状況は長くたって1週間と続かない。だから来週いっぱいが経過すると、だれも泣きながら登園してくるものはいなくなる。そうなると子ども自身にも自信がついて、少し大きくなったという実感がわいてくる。沢山ほめてあげると次の段階にいきやすい。だから何もなくスーと幼稚園に溶け込むよりは、何か困ったことがあった方がよい。いずれにしても、これからそのようなことにぶつかっていかなければならなくなる。楽しみに成長を見守ってほしい。

初等学部では児童のファミリアのアンケートが出そろった。どのファミリアに自分が所属したいのかということだが、やはり一番多かったのは基地を作ろうといった『建物ファミリア』が多かった。その次はお店を出そうといった『食べること大好きファミリア』が多く、最後は『お芝居大好きファミリア』だった。それぞれに教師が張り付き子どもたちに夢を抱かせるような導入が必要になってくる。建物とか、食べ物とかは目に見えやすく具現化されやすいけれども、芝居の方は創造力がいる。私は三つのファミリアに所属し、何かと助言を与えていきたい、子どもたちの邪魔にならないように。

アンケート調査の結果、多分この子とこの子はいつも一緒にいるから同じファミリアになるだろうなどの予測は見事に打ち破られて、子どもたちの主張が色濃く出ている結果となった。これから学校での活動は自己決定の原則の中で生活することになる。寄宿舎があれば夜遅くまでもやりたいことに没頭できるのにと思う。フロー教育は時間の制限があってはなかなか到達することは困難だ。だからファミリアなどということが生まれたのだけれども、寄宿舎は絶対に必要だ。何と思われようが必要なものは必要だ。原則保護者には強制しないということを約束すれば、やり易いのではないか。

入園式

小学校の入学式とはちょっと違った雰囲気の幼稚園の入園式があった。大変な思いをしてここまで育ててくれたと言う気がするが、子どもたちにとってはそうしてもらうのが当たり前だから、わがまま言って親を困らせている。それでも親というのは見返りを求めない無償の愛だから、にこにこしてわがままに付き合っている。人間の愛について言えばこれほど高尚な愛はないだろう。かつて高田好胤先生が生前に父母恩重経というお経の話をしてくれたときに、『子が親を思う心に優る親心』という話を聞いたことがある。

その無償の愛も、徐々に子どもたちが大きくなって来ると親子でいい争いが起こったりする。これも子どもが成長する時のセレモニーみたいなもので、通らなければならない関所のようなものだ。何故いい争いが起こったりするかと言うと、ほとんどの場合が親が子どもの成長に追いついて行けない場合が多い。親からして見れば何時までたっても親子関係は消えて無くなるわけではないから、どうしても親権というものを使ってしまう。これは子どもにとっては抗えない禁じ手である。私が産んだ子だから、あなたのことは何でも知っている、ということになる。しかし実際のところ、子どもの年齢とともに子どもの視野が広がってくると、親の知りうることはそれに反比例して知らないことの方が多くなる。

あなたのことは何でもと言えるのはせいぜい3年生までである。それ以後はあまり使わないほうがよい。それは子どもの主体がはっきりしてきて、他者評価も自己評価も不安定ながらできるようになってきているから、大人を評価する時の基準が両親であるから、良い印象を与えておいた方がよい。良い印象というのは、子どもにへつらうことではない。子どもの意見をよく聞き、公平な判断を促すことである。そういったことが大人を信頼し、社会を信頼する大きな要素となって、立派な大人になっていく。

可愛い子どもたちだ。しっかりと手を携えて、ご両親ともどもと歩調を合わせてやっていきたい。卒園するころには『あおば台で良かった!』と言わせしめるよう努力して行くつもりだ。それには互いに一方的な会話はやめて、何かあったらしっかりと話し合える雰囲気を作っていこう。保護者も幼稚園も子どものためには一生懸命なのだから。親子ともども楽しい園生活を過ごせるように、できることは何でもやろう。

寒い日

子どもたちは冬だというのに、素足で幼稚園の室内を駆け回っている。全員ではないけれどもそんな子が結構いる。さすがに3年生以上になると、そのような子は見当たらないが、半袖になって遊んでいる子はいる。寒いというような感覚がないのだろうか。『寒くないのか?』と聞いても舌を出してげらげらと笑っている。子どもらしいといえば子どもらしいけれども、風邪をひいたりして辛いのは本人だから、我慢せずに厚着をしてくれたらいい。

友人が喉頭がんで亡くなった。そのお兄さんには私は名状しがたいほどお世話になった。お兄さんと私は師弟関係といっても過言ではなく、無能な私を開発してくれて、社会に通じる仕事人にしてくれた。幼稚園を始める以前の話だ。そんなものだから当然亡くなった弟さんとは面識がある。それどころか青年会議所で、同じ時期に監事をやらせていただいた経験がある。とても頭の良い方でひとの話を絶対にそらさない。昨年何かの勲章をもらったという話を聞いた。

癌が大きくなって頸動脈を圧迫して、血管が破裂してしまったというようなことを聞いた。死ぬのかもしれないという意識はあったのだろうか。死ぬという覚悟はできていたのだろうか。死ぬという覚悟はどのようなものなのだろうか。どのように自分を設計すればよいのだろうか。どんな気持ちで、死に際を迎えればよいのか。あまりにも身近な人が無くなったので、とても他人ごとではないような気持ちになった。私はまだやることがあるので、生きる覚悟はするけれども、死ぬ覚悟はできないし、それがどんなものかもわからない。

今日から始まった

幼稚園も学校も今日から始まった。幼稚園での挨拶をすると、子どもたちは精いっぱいの大声を張り上げて「おめでとうございます!」という。きらきらと目が輝いていて眩しいくらいだ。とにかく、年長さんはあと3カ月で終わりだから、楽しい思い出をたくさん作ろうということを話した。また年中や年少には、あと少しで年長さんになったり年中さんになったりするから、よく話を聞けるようになろうということを話した。するとさすがに年中さんは、顔を引き締めました。年長になるということは彼らのステイタスなのだということが、はっきりとわかる。

初等学部には昼前に行ったが、ポニーを13時半に迎えるのでその時に外で挨拶をしてくれというので、ポニーが学校に帰ってきてから子どもたちに新年の挨拶をした。幼稚園の子どもたちのように大声を張り上げる子はいなかったが、職員室前での集まりが解散されてからは、低学年の子どもたちが個別に『おめでとうございます』と挨拶に来てくれた。とてもうれしかった。年賀状をもってきてくれた子もいて、読むのが楽しみだ。幼稚園の子も年賀状をかけるけれども、難解なのが多い。小学生は無理やり漢字も書くし、読めるからいい。

今日は賀詞交換会で今から出かけなければならない。賀詞交換会などと言っても地元生まれで地元の育ちだから、知らない人はほとんどいない。知らない人は地元の企業でない人で、いわゆる落下傘部隊だ。ネクタイをしていないけれどこれが仕事着だから許してもらおう。

明日から全開

長い休みはもやもや感があって、どうもすっきりしない。子ども達の前に出れば、すべてすっきりする。子どもたちの癒しの力はすごいものがある。同じ人間でありながら、子ども時代のあの見えない力は一体何なのだろうか。力もなく、考える力も大人には遠く及ばないが、無限の力量があるのは何なのか。口に出してしまうと壊れそうなので、めったやたらと口には出せないが、何か尊いものが潜んでいるのは確かだ。しかもガサツな人間には、絶対に見えぬものだから不思議だ。

子どもの目には、優しさだけではなく、大人を諭すような神々しい光があるではないか。そのもったいないような子どもたちに明日から会える。子どもたちの生きようを、静かに、大切に手のひらで包むように見守り、育んでいってほしいものだ。

幼稚園でも、初等学部でも色々なことを考えて試してやって来ましたが、今年は行動の時、見えるような成果を上げるときにしたい。幼稚園ではそれなりの歴史もあるけれども、旧態依然とし過去の保育力にすがっていたのではならないでしょう。一人一人が現状から脱皮し、新しい自分を感じられるような生き生きとした保育者になっていきましょう。

保護者の皆様へ
あけましておめでとうございます。
子ども達の『幸せ』を追求して、今年も燃え尽きるごとく力いっぱい汗をかきます。よろしくご支援のほどをお願いいたします。また皆様のご家族が、お健やかにお幸せに過ごされますよう、心からお祈りいたします。

月刊青葉

『月刊青葉』という月刊新聞のようなものが、子どもたちの手によって発刊されることになった。その第一号のゲラができたと言って、広報係の子が見せに来てくれた。それがUSBの中に保存されていて、私の机にあるパソコンを手際よく作動して、そのゲラを取り出してくれた。私にしてみれば、目を疑うような出来事だ。なぜこんなに上手に動かせるのか。しかも原稿には、低学年でも読めるようにルビが振られてある。私にはこんな技術はないし、子どもがとても頼もしくなって、とても気分がよかった。

出来上がった委員会の報告だけれども、マンガがあり、物語がありでとても楽しんでやっている様子が伝わってくる。文章を作ったり校正したり添削したりという作業は、なかなか好きでないとできないだろう。何人かいる委員会のメンバーがどのようなローテンションを組んでやっていくのか、とても興味があり役割分担が上手にできるのかどうかが問題である。まあ基本は楽しくやれる人がやればいいのだけれど、このようなことが苦手だとか、苦手意識を持っている子がいるとしたらこの機会に興味や好奇心に火を点けてくれたら幸いだ。

土曜日はいつもの学校ミーティングがある日で、10時からの始まりに参加してきたけれど、子どもたちは熱っぽく真剣にやっているのは痛いほど伝わって来るけれども、なかなか問題解決まで進めないでいる。仕方がないと思うけれども、会議の原則なるものを教えてあげないと、堂々巡りで主催者側が行き詰ってきてしまうのではないかという懸念がある。大人でも議事法など学んだ人は少ないだろうが、これを委員会のメンバーにだけでも伝えようと思う。きっと子どもたちは吸収力があるから、簡単に理解してくれるだろう。

委員会のメンバーで決められた仕事を一生懸命にやっている子と、上手に逃げ回っている子がいるということで、委員長が涙ながらに訴えてきた。それで月曜日の5・6時間目を使って集会をしたいので時間を下さいと言ってきた。何を始めるのだかわからないけれども、会議にかけずに独断で快くOKを出した。子どもたち同士で感じる心がぶつかり合って、動き出した。こういったことを真剣に考え、勉強ばかりやっていればよいと言うということを自ら打ち消して、大切なことに気付いたことは何よりの財産になる。頑張れ皆!

顔が見えない

昔でもないが、インターネットに書きこむ2チャンネルというのがあった。今もあるのかどうかは分からないけれども、初等学部が始まった時にこの2チャンネルに散々な目にあったようだ。私はその2チャンネルそのものがよく分からないし、どのように作動して見られるのかもわからないので、周りの保護者が『散々な目に遭ったね』という言い方をしていたので、きっと散々な目に遭っていたのだと思う。誰かがそれをコピーして私にくれたものだ。悪意に満ちた悪魔のなせる技だと言って、そのままにして置いたら、保護者会があってその場で書きこんだ主が糾弾された。誰が書いたのか、どうしてわかるのかは分からない。

1年目で私は校長でなかったが、何かがあると引っ張り出されていたものだ。黎明期だから何があってもおかしくはなかった。だから覚悟の上であったけれども、保護者の意見は辛らつなもので、子を思う母心なのかそれとも自我の業なのかは定かではなかった。しかも顔の見える場で行われているのだ。私から見ると、気がふれたのかと思うほどの修羅場であった。修羅場とは人間界の話ではないということだから、その時の熱気と罵詈雑言の交錯する中で、じっとしていることが辛かった。耐えるということではない。そのような人たちとその場にいることが嫌だったのだ。幼稚園とは勝手が違う。

何を話しても無駄という気がした。あまりのひどさに『黙れ!』と一言言ったきりだ。でもそれは顔が見えているから、気持ちもわかる。困るのは顔の見えない中傷である。2チャンネルと同じように、言い放しというのは卑怯千万である。役所が私に確かに伝えたということを、証明するために書いているようなものだが、役所は教育者ではないので私に突っ込まれたら言葉に詰まってしまうから、仕事だからとはいえ大変な役回りだ。よく説明して下さいと言われても、顔が見えない。私は1月31日にこれからの学校について話をするといっている。

そして学校が変わる、変わってもらっては困るという風なことを言っている人もいるし、きのくにのようになっては困るという人もいる。きの国の堀先生とは2回ほどしかお会いしていないが、簡単にきの国を批判するのは慎むべきだろう。あの先生に負けない論陣を張ってから堂々と激論すればよい。彼は彼の手法で命がけで子どもを育てているし、その学校への応募する保護者が絶えることがない。一つ断っておくことがある。私は初等学部を屈指の有名中学校進学校にするなどと、おこがましいことを約束したことはない。私が中学校を建てたらどうなるのか。

私はそもそも教科書を丸暗記して成績が良いというのは一つの特技ではあるが、人間の成長の一部であるとしか思っていない。そんなことだけで10年・15年後の子どもたちが、社会で通用する大人になるとは思っていないし、信じてはいない。まずわが子をどのような子ども像をもって期待しているのか。わが子を自分の思うように育てたいなら、どこの学校へ行っても満足はしないだろうから、自分で思うようなカリキュラムを立てて頑張るしかないではないか。

幼小中の発達

幼少中とここまでできればしっかりとした人間像を構築することができるだろう。しっかりとしたというのは、自分のことは自分で決めるという人間としての自立のことだ。あと20年足らずで現在の職業の65%が無くなり、新しい職業になっているというのがアメリカの経済学者の言うところだ。多くはベンチャー企業だろうが、コンピューターを自在に扱えることは絶対に大きな強みとなる。パソコンを駆使し、新しい発見をしたりする人は重要に扱われる。どこの大学がどうかなどの話は全く聞こえなくなるだろう。時代が変わるのだ。

目まぐるしく変わっていく世の中に突入することは間違いがない。乗り遅れないように、アンテナを高く維持していなくてはならない。私はワープロが出てきたときにいたく感激し、その便利さに絶句するような文明のショックを得た。しかしワープロを習い図面まで書けるようになり、ほとんど自在に使えるようになったのだが、それに慢心したところがあって、そのあとに出てきたパソコンに見向きもしなかった。それどころか無視していたのだから始末が悪かった。全く乗り遅れたのだ。だからパソコンに入っていくのにとても苦労した。

ワープロができれば簡単に覚えられるよと言ってくれるけれども、キーボードは同じだけれども、内容が全く違う。これを覚えられれば、すごく便利で、USBメモリーなどというのが会って、簡単に保存もできる。これで図形や絵も書けるなんて夢のような道具ではないか。乗り遅れたおかげで習う気にもなれない。全く悔しい話だ。今さら習うより、若い先生方は結構自在に利用できるので、彼らにお願いしたほうが早い。とはいっても内心は自分でできれば楽しいだろうと思っているが、覚えようとする気力がない。

これは自分自身が世の中の動きに無頓着で、アンテナをしまっておいたことが原因で、取り返しがつかない。とても情けない話だ。幼少中と子どもたちを見るとなると、よくよくアンテナを巡らせておかないと、子どもたちの行く末を誤ってしまうだろう。コピーも三次元のものが作れる時代になってしまった。昔の人が見たら全く信じられないような出来事だ。コンピューターの画像解析などは最先端技術となって、パソコン一つでモノが作れるようになってしまう。沢山の冒険の経験を積んでほしいものだ。それが何よりの学習だろう。

4年生の収穫祭

ご近所の中山さんのおばあちゃんに子どもたちはよく可愛がられている。そのおばあちゃんに教えていただいた田植えから稲ができて、ご飯として食べられるまでの工程を左上の図に示されている。右上の写真はそのお米をおにぎりにしてお客さんに配っているところ。
      
熊谷さんも事務長も、いつも畑の作物づくりを教えて下さっている坂本さんも、勿論中山さんのおばあちゃんもご招待された。私もしっかりとご招待にあずかっている。左上の写真はみんなで上手におにぎりにしたのをお客さんに配っている様子で、右上の写真は招待された3年生がもみを脱穀しているところである。
      
左上の写真は脱穀されたコメをすり鉢の中にいれて籾殻を取り除いているところである。4年生の可愛いお姉ちゃんが、これまた可愛い3年生の女の子にに説明したり方法を教えているところである。右上の写真はやんちゃな3年生の男の子に、少し賢そうな4年生のお兄ちゃんが、瓶の中にいれた玄米を上手に精米することを説明したり実演したりしているところである。

余談になるがおにぎりが今年食べたお米の中で最高においしかった。おだかけして天日に干した米だそうで、毎年このような米を食べたいものだ。それに今日の子どもたちは、3年生も4年生も生き生きしていて、とても楽しそうだった。こんな授業の連続がいいのだろうな。生き生きと楽しくなければ学校なんてつまらないだろう。だから4年生は特別演出なんてことを考えて、アトラクションまで用意してくれた。何やら仮面をかぶって、なんだか分からなかったが。

卒業生にあってきた

昨年卒業した中学一年生に会ってきた。ビックボーイへ行ってたらふく食べてきた。私が沢山食べないと、みんな遠慮して食べないのではないかと、ダイエット中だけれどすごい開放感があって沢山食べてしまった。4人しか卒業していないから、私の乗用車にちょうど乗れるので手軽に連れて歩ける。彼らが初等学部にいたときには、赤坂御所の中まで連れて行って、お亡くなりになられた三笠宮寛仁親王邸に上がらせて頂いたこともある。ちょうど皇太子殿下のお子様と同じ年の子だったので、話も弾んだ。ここは東京見物に来ても、そのコースにはなっていないので、御所の中に入ることは普段ではなかなかできない。

前回あったのが中学校に入ってちょうど疲れてくるのではないかと思われる6月1日の日曜日にあった。だからかれこれ半年が経過しているが、仲間同士というのは屈託がなくて話の内容も遠慮がない。皆よく勉強も出来て、表彰されたという子もいる。今やっている彼らの勉強は基礎学だから、途中で下りるわけにはいかない。どこかで何日も休んでしまったらもうお手上げだから、少しづつでも続けていくことが大切だ。まじめな子どもたちだから授業が面白いと言っていた。徐々に専門的な学習に入るともっと面白くなるだろう。

一人は家族旅行に行ってしまって参加することができなかったが、次回会う日を決めてきた。彼らは大人のような会話ができるので、こちらもいらぬ遠慮はしなくて済むし、初等学部の6年生といえども、会話の先は読めるものだが、中学生になると読めないから面白い。それだけ視野が広まっているのだろうなと思う。それから彼らは6年生の進路について、気になるのか一人一人の名前を挙げて、私に尋ねていた。そして6年生全員の名前を挙げて予想などしていたが、なぜかよく当たっている。

今日は衆議院と県議会の投票日である。卒業生と昼食を済ませて家にたどりつき、楽しい浮いた気持で投票に行って来た。今年は投票時間が短縮されて夕方6時までである。差し迫った浮ついた政局でもないし、少数政党の惨敗に終わるのではないか。政権与党側は絶対安定多数を確保しないと思いきったことができないだろうから、大勝利を得なければならないだろう。もう絶対に民主党政権に戻すなどと愚かな選択をしてはだめだ。政権の変化は面白いけれど、素人政権はこりごりだ。

しばらく見なかった風景

家の庭にあるもみじがいつの間にか散ってしまっている。何日か前は真っ赤に燃えるような色をつけていたのに、もっとゆっくり見ておくべきだった。家の裏にある大きな土山に、山の下につながれているヤギがその山の中腹まで登って行って草を食べている。ヤギは何を考えているのか、いつも食べることだけしか考えていないのか、土山を登るときは、こちら側がよいとかこちらは危険だとかの考えはないのだろうか。それでも幸せなのだろうか。いやそのような意識は持てないのだろう。そのような意識が持てないほうが幸せなのか、それとも意識をはっきりと持てる人間のほうか幸せなのか。

あおば台幼稚園の周りの風景も少しずつ変わっていっている。南の道を挟んだ近くには住宅が建っているし、今日はその一角で住宅展示会か見学会をやっている。東側正面玄関の前は、少し前まで田んぼであったけれど、そこを埋め立てて空手道場が建った。これからは、道場に通う彼らが、幼稚園の警備を担当してくれるだろう。工事に来ている職人さんが自分たちが施工した側溝のところに座って、みんなでタバコをふかしている。ずいぶんとうまそうに煙を吸い込んでは吐き出している。物を作り上げるという自負心が、年老いた親父たちの顔ににじみ出ていて、力強い頼もしさを感じる。

私ももっともっと若かった時に同じような土方仕事をしていた経験がある。一日の日当が1600円だった。腕の良い職人さんは3000円。親方格になると3500円だった。日当が少なくても、それがどのような意味かをよく理解していたから不満など全くなかった。給料をもらって、ガソリン代を払うとあまり手もとに残らない。それでも意気揚々としていて、朝方まで飲み歩き、あくる日はしゃきっとして仕事へ出て行ったものだった。今のように土曜日曜が休みだなどと言われると、食えなくなってしまって日干しになってしまう。それでもなんだか、毎日が幸せだったような気がする。

あの時のことを思うと、今のほうが経済的には楽にはなった。いや、私の資産の話をすると結婚前より全く乏しくなって、話せるようなものではないが、生活そのものは文明とともに楽になっている。仕事にも恵まれ、子どもとともにいられる仕事は最高に素晴らしい仕事である。しかも運もよく小学校まで作らせて頂いた。何も不満はない、何か不満でもあるのかと自分自身を問い詰めてみると、都合のよいことを言ってのらりくらりと逃げてしまう。子どもと一緒にいられることは何事にも代えがたいことだが、それ以外はだれかにやってもらってもいいなんて、情けなくも逃げ出そうとする自分がいる。

今日は仲間の認定子ども園の認可になった建物の竣工式で、招待されて挨拶をしてきた。早稲田の応援団にいた凄い先輩だけど、彼も大変な時があったのだと思うと少し重荷が取れたような気にもなった。私も人生つきまくっているようだけれども、彼もつきまくっている。本人がそう言っていたから間違いないだろう。

 
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2014/12/12
アベノミクス
| by:塚原 港
安倍首相の唱えた経済政策で三本の矢にたとえられているものだ。デフレが進行し景気を何とか回復させるべく、日銀と協力して円安に持って行ったけれど、その間に消費税率を今までの5%から8%に上げたためにまた景気が落ち込んだ。消費税を上げないと、掲げた政策がうまく行かないこともあって、政策遂行のために円高是正をしたようなものだが、意外とうまくいかないものだ。野党が政権を取ったところで自民党よりうまくいくことはない。もっと混乱を招くだけだ。この際、圧勝して安倍さんには腰を据えて経済政策に取り組んでほしい。

円安で史上空前の莫大な利益を得た大手の自動車会社などは、為替で得た利益は為替で損もするという理屈で、その利益を下請けに回そうとしない。お金が大会社でだぶついているだけでなかなか下請まで下りて来ないのも、景気が停滞している所以でもある。大会社ばかりが潤っていて、中小企業までお金が巡回して来ないのだから、零細企業などはおこぼれもない。私たちの事業所などは経常費補助金が頼りで、まったくの他力本願であるので力の出しようがない。景気のよくなったという実感がないどころか、みんなは物価が高くなったから、実質給与が目減りしていると言っている。

以前の消費税から5%上がるわけだから、5%以上の給与を上げなければみんなの暮らしは良くならないではないか。まず所得が上がってから消費税をやったら良かったのではないか。まず塊より始めよで、公務員から給与を上げていくのはいかがなものだろうか。経常費は今年度はすでに決定していてこれから増額されるということもないから、昇給はどうしたら良いのか。私たちの仕事はブラック企業になってしまうではないか。新採の初任給をどうするかではなく、今いる教師の次年度の昇給について思い切ったことをしなければ、いつまでも彼らの犠牲に頼ってはいられないだろう。

私立学校の教師は公務員の教師と所得を比べられる。教育内容は私立独自のものがあるから、断然私立の方が選択余地があると思うけれども、学校教員になりたいというより公務員になりたいという人の方が多い。また私立の幼稚園教諭は公立の学校教員から比べると、情けないほど低給である。学校教員も仕事は良くするけれども、幼稚園教諭はそれと比べて優るとも決して劣ることはない。しかも私立の学校というのは、常に競争の中に晒されていて自己研さんを怠るとすぐにお払い箱になる。なのに公立より給与が低いのは納得がいかない。いつの日か、学校教諭も幼稚園教諭も同格の給与になることを夢見ている。

今日の餅つきはあおば台で行われた。仕事を休んでお手伝いに来てくれたお父様ありがとうございます。昨日からもち米を冷やしておいてくれたりして、またおいしいけんちん汁を作ってくれたお母様ありがとうございます。おかげで子どもたちは大喜びです。心から感謝いたします。

アベノミクス

安倍首相の唱えた経済政策で三本の矢にたとえられているものだ。デフレが進行し景気を何とか回復させるべく、日銀と協力して円安に持って行ったけれど、その間に消費税率を今までの5%から8%に上げたためにまた景気が落ち込んだ。消費税を上げないと、掲げた政策がうまく行かないこともあって、政策遂行のために円高是正をしたようなものだが、意外とうまくいかないものだ。野党が政権を取ったところで自民党よりうまくいくことはない。もっと混乱を招くだけだ。この際、圧勝して安倍さんには腰を据えて経済政策に取り組んでほしい。

円安で史上空前の莫大な利益を得た大手の自動車会社などは、為替で得た利益は為替で損もするという理屈で、その利益を下請けに回そうとしない。お金が大会社でだぶついているだけでなかなか下請まで下りて来ないのも、景気が停滞している所以でもある。大会社ばかりが潤っていて、中小企業までお金が巡回して来ないのだから、零細企業などはおこぼれもない。私たちの事業所などは経常費補助金が頼りで、まったくの他力本願であるので力の出しようがない。景気のよくなったという実感がないどころか、みんなは物価が高くなったから、実質給与が目減りしていると言っている。

以前の消費税から5%上がるわけだから、5%以上の給与を上げなければみんなの暮らしは良くならないではないか。まず所得が上がってから消費税をやったら良かったのではないか。まず塊より始めよで、公務員から給与を上げていくのはいかがなものだろうか。経常費は今年度はすでに決定していてこれから増額されるということもないから、昇給はどうしたら良いのか。私たちの仕事はブラック企業になってしまうではないか。新採の初任給をどうするかではなく、今いる教師の次年度の昇給について思い切ったことをしなければ、いつまでも彼らの犠牲に頼ってはいられないだろう。

私立学校の教師は公務員の教師と所得を比べられる。教育内容は私立独自のものがあるから、断然私立の方が選択余地があると思うけれども、学校教員になりたいというより公務員になりたいという人の方が多い。また私立の幼稚園教諭は公立の学校教員から比べると、情けないほど低給である。学校教員も仕事は良くするけれども、幼稚園教諭はそれと比べて優るとも決して劣ることはない。しかも私立の学校というのは、常に競争の中に晒されていて自己研さんを怠るとすぐにお払い箱になる。なのに公立より給与が低いのは納得がいかない。いつの日か、学校教諭も幼稚園教諭も同格の給与になることを夢見ている。

今日の餅つきはあおば台で行われた。仕事を休んでお手伝いに来てくれたお父様ありがとうございます。昨日からもち米を冷やしておいてくれたりして、またおいしいけんちん汁を作ってくれたお母様ありがとうございます。おかげで子どもたちは大喜びです。心から感謝いたします。

海外語学研修の経過

月曜日にグアムのセントジョンスクールへ向かった子どもたちの様子を、現地からK先生が報告してくれた。K先生の感想が私と同じような感覚であったのがうれしかった。私も現地報告とまではいかないけれども、帰ってきてから感想をこの欄に書かせてもらった。K先生の現地での報告を読んで、その時の自分の気持ちがよみがえってきた。あのような教育の主体では、それが正しいやり方だろうなと思っても、日本では受け入れられないだろうと残念に思う。

しかし私は残念に思うだけではとどまらないのが私の性格だから、必要だと感じたことは、特に3年生以上の子どもたちにはそれを試したりもする。それに偉人伝を読みその感想を書いて来るなどと言うのは、子どもたちの目標の支えを作るのにとても大切なことだと思っている。それが科学者とかだと、理科だの算数だのと教科に結び付けて考えてしまうのが日本の教育にいやらしいところである。そんなことよりその子の人生において大きなインパクトになればすごいことではないのかと思うけれども、教科にして作文の評価を考えてしまうのには悲しい。

アメリカの授業がすべて良いとは思わないけれども、自分がどう考えるのかと言う問題が多いことは確かだ。論文形式が多いのでそれに論評を加えるのにはそれだけの知識と哲学を持たないと、子どもたちを説得できない。まあどこの国でも立派な教師ばかりがいるとは限らないだろうけれども、できれば子どもの気持ちのわかる教師の集団にしたいものだ。勉強はどうするのだといつものようにたずねてくる人もいるだろうけれども、学習というのは子ども自身が内発的動機づけに従って机に向かうものだ。

幼稚園ではリヤカーの試験が終わった。子どもたちには生まれて初めての試験で、リヤカーの免許証いなんて世界にあおば台にしかない。年長を持つご家庭では、子どもたちがどのようなことをお話していたのか、記憶に止まっていることがあったら連絡長でお願いしたいと思います。車の免許と同じように、クランク、S型、横断歩道、車庫入れと大変難しいのがあります。自分の歩いている位置とリヤカーのタイヤの位置が理解できないと脱線してしまいます。今日の私は厳しい試験官であります。

もっとレアな話

1・2年生はつくばローズガーデンへ行った。イギリスやフランス生まれの種類のバラもあり、300種2500本のバラが植えられている。かつてはつくば市の市長をなさっていた藤澤さんも、今ではローズ爺と呼ばれているそうな。上の左側の写真はローズ爺から説明を受けている子どもたち。右側和ガーデン中央で集合写真。
      
ファミリアに別れて自分たちが気に入ったところで写生をしたり観察している様子であるが、バラに囲まれて気分がいいだろうなと思う。とても挨拶がよく、『この辺の子ではないね』などと来ている大人に言われていたけれども、子どもたちが私の顔を見て『校長先生!』なんて大きな声で呼ぶものだから、『この辺の子なの?』と周りの大人たちは方向転換してしまった。それはどうゆうこと?。
      
 幼稚園の子どもたちが食事をしようとしているところ。4年前は初等学部の子どもたちが次々と熱中症で倒れてしまって、このローズガーデンに救急車が何台も来たことがあった。
同じように来ていたあおば台幼稚園の子は誰一人として倒れる者はいなかった。
        
 逞しいあおば台幼稚園の子どもたち。幼稚園の時にペアだったお兄ちゃんが初等学部にいて挨拶に行ったりしていたけれど、小学生のお兄ちゃんは『悪いけど忙しいから』と恥ずかしそうにしていた。

ちょっと寒い日で雨

今日は雨で昨日のように半袖でいると肌寒い。けれども半袖のまま外に出て、雨の中を楽しんでいる子どもたちがいる。いつでも子どもたちは普通でないことをしたがる。それが子どもの特権なんだろう。だからそういったことを理解している大人は、そのような子どもの姿を微笑ましく見ている。そして子どもは大きくなっていくのだ。大人たちも実はそのように育てられていたはずである。多くの大人たちから寛容に許されながら育てられた。でも忘れてしまった。

雨に濡れて寒くなれば、濡れた物を乾いたものに取り替えたくなる。それを要領良くやれるのが小学生だ。どんなに濡れていても立ったまま動かないのが幼稚園の子たち。だから保育者はどんな天候の日でも四方八方に気を配り、広角レンズのように目を光らしていなければならない。初等学部の今日の保健室は、めまぐるしく児童の往来が激しかった。そこで親がいれば、親が何かと口を出して手を出すだろうが、いないということが幸いして、自分の力で何とかしなければならない。

子どもはみんな素直な子に育てたい。素直というのは、ただ大人に迎合し、服従を誓い従順に育てるということではない。それではロボットか奴隷であって人間として育たない。私の言う素直と言うことは、事にあたって損得を考えずに精いっぱいの力を発揮することだ。だから家庭教育の中で、損得の話を多く持ちだすと、素直な子は育ちにくいことになる。その上で男子は荒々しく勇気のある子に、女子は頭がよくて思いやりのある子に育てたい。

私は発達のプロで、それなりにアクションプランも立てることができるし、何人かの6年生を卒業させてきた。たまたま素直な子どもたちだったので運が良かったこともあるけれども、卒業した子どもたちはみんな素晴らしい。彼らは根が真面目であるということもあるけれども、きっと幸せになれるだろう。素晴らしい子を育てるために、絶対にしてはならないことがある。『お前はだめな子だ』『何故これが解らないのだ』というやっつける否定語である。

子どもの前で他を批判することも素直な人間を作るのには邪魔で、却って非社会的な子を作ることになる。大人の考える社会正義と子ども社会での社会正義は違う場合もあるから、自分が正しいと思っていることだけを押しつけるのは間違っている。なぜなら子どもは親の前で反論できないから、そのまま子どもが親の意見をコピーしてしまうと子ども社会で異端児になってしまう恐れがある。拘りを持たずに(刷り込みをせずに)意見を聞くべきであろう。

親は親としてプロだが、それがそのまま子育てのプロであるとは限らないので、プロの意見を取り入れるようにお勧めする。しかし断っておくけれども、子どもは最後には親元に帰さなければならないので、子どもへの責任は親が取るべし。しかし私たちもまた『子供への責任』から逃れることはできないことは当然のことだと理解している。

給食の時間

ファミリアの責任感の強い5年生から直訴があった。毎日給食の食べ終わるのが遅くて、休み時間がなくなってしまうので、週のうちに何回か学年別に給食を食べさせてください。というものであった。代案を持ってくるなどはしっかりしたインテリジェンスが働いている。早速給食の時間の食事の前に、全員が集まったところで話をした。『5年生から校長に食事の時間のことで直訴があった』『ファミリアの中で食事が遅くて遊び時間がなくなってしまうということだ』

この話は以前にも聞いたことがあった。毎年のことであるけれども、いつも食事の遅い子がいると、面倒見の良い子が残ってその子のそばにいて、まるで母親のように接しているということを見たことがある。面倒見の良い子だけ残して遊びに行ってしまうのは要領がよすぎる。直訴してきた子はあくまでもファミリアの責任ということを考えていたようだ。しかし食べるのが遅いという子の責任だけではあるまい。『いただきます!』をする時間の、集まる時間が不徹底であることも問題であるだろう。

自分たちに直結した話なので、全員がしっかりと話を聞いていた。それで今日はどうなったのかというと、十分に遊び時間がとれるほど食事の時間の流れがよかった。ということは、毎日ゆっくり食べている人は何だったのか。それでも残飯を出さないと言うのは見事という以外にない。残飯が出る時には必ずと言って私が作るときだ。量が計算できないというのと、足らなかったら可哀そうだという意識が働く。なんてったって戦後間もなく育ったのだから。

それからもう一つ。ファミリアオリンピックとオアシス開きについて6年生のある女の子からの直訴があった。ファミリアオリンピックの練習期間にオアシス開きがあるので、ファミリアの練習に支障をきたすから、オアシス開きを少しずらしてファミリアオリンピックが終わってからオアシス開きをしようというものである。これは6年生の提案なので、全員が納得して校長のところへ話を持ってきてください。学校として変更してもかまわないということを伝えた。最近子供からの直訴ばやりである。とても良いことだと感心している。

泣けてきた

17日は大変忙しい日だった。学校では今年第1回目の学校説明会があり、加えて第二幼稚園のプレイディがあり、親父主催の懇親会があり、そのあとで私の仲間の会議があった。この日は朝早くから出勤し、職員室の自分の席に座っていると、第二幼稚園の保育者たちが忙しそうにプレイディの準備をしているのが見える。さすがにてきぱきと動いている。

スクールバスが到着して、にわかに子どもたちの活気のある声が校舎中に響き渡り、今日の一日が始まる。相変わらず私は自席から校庭に目をやって、第二幼稚園の先生たちの動きを追っている。すると職員室から外に出る出入り口のところで、女の子と男の子が私と同じように幼稚園の先生を目で追っている。誰なのかなと思って出入り口の戸を開けて外に出てみると、第二幼稚園を年中のときに退園して外国へ行ってしまった子で、今年日本に帰ってきて3年生に転入してきた子だ。

1年生の妹が兄に寄り添うようにじっとしている。そして手には、年中で退園するときに担任が書いてくれた色紙をしっかりと持っている。それを無言で私に渡す。その色紙には担任の写真が写っていたので、すぐさま当時の担任を大声で呼んで、私たちがいるところまで来てもらった。息を切らせながらそばに来た担任が、その瞬間『○○君だよね!』と声をかけた。担任はそばにいる妹の名前まで覚えていて、彼女の名前も呼んだ。

男の子は3年間の空間を埋め尽くすかのように担任の顔を静止したままじっと見ている。幼稚園であったことを担任を通して思い出しているのだろうか。どんな気持ちで色紙を持ってきたのだろうか。担任の顔を視線を外さずに、じっと見つめていたのは、どんな思いで何を考えていたのだろうか。担任に会えて思いは通じたのだろうか。小さな胸の中で、何を感じ何を思ったのだろうか、そう考えていると無邪気な愛らしさに泣けてきた。

子どもたち

マララを読んだ後の感想で、6年生はマララが『女の子にも教育を!』と放送局へ行った年齢とそれほど違わない頃の話だから、『自分たちはできない』という声が聞かれた。しかしそんなことはないということを話してあげた。パキスタンという社会背景を話し、きっとみんなもそこで生まれ育ったら立ち上がったかもしれないと。勇気がないということではない。必要であれば立ち上がれる勇気はあるはずだ。もっと知識が沢山あれば、何とかしなくてはならないと思うはずだ。

5年生は『驚いた!』『すごいな!』ということを異口同音に言っていた。何か感じればいいし、このような積み重ねが自分自身の人間としての思いを作っていくものだ。みんな読み終わった後に一瞬静まり返っていたけれど、勉強をしたくてもできない人がいるということが信じられない様子だった。そこでマララのように勉強をするな!と言われたほうがいいのか、それとも自由に勉強はさせてもらったほうがいいのかを聞いたところ、全員が勉強したいということだった。それはそうだろう、ご両親が何のために初等学部に入れてくれたのか意味がなくなってしまうと言ったら、神妙にしていた。

        
とても面白い写真である。 左の写真は年中からこの前年長になったばかりの頼もしくなった顔の写真である。右側は無心に土木工学の基礎を学んでいる年少の姿であるが、だれが生徒か先生かというめだかの学校である。
         
 初等学部の児童たち。初等学部の人たちにはどちらが1年生で2年生だかすぐにわかるでしょうが、全く関係のない人にはわからないと思う。全員が私服になったら幼稚園の年長さんと変わりがない。   
      
左側は新入園児。3歳児である。右側は初等学部の新入園児(幼稚園の子どもたちと同じ)の姿である。共に共通なのは『かわいい』というところか。幼稚園では何をしていても学校で言うところの授業中であるから、年少はくたびれるはずだ。こんな面白い恰好をする子どもたちだが、6年生にもなると大人に近くなってくる。ゆっくりと育てたいものだ。

タリバンに撃たれた少女

教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女『わたしはマララ』という本を読んだ。彼女はパキスタンの北部にあるスワート渓谷で生まれ育った。父は教師だが母親はほとんど教育を受けていないという。男尊女卑が根強く残っていて、今でも女性は家事の仕事と子育てだけでよい。教育を受けるなんてもってのほかであるという風潮がある。スワートという地域はタリバンの支配地域にあり、イスラム原理主義による宗教支配が強いところでもある。

マララは父親に『女の子が勉強してはいけないと、コーランのどこに書いてあるの?』と何度か聞くたびに父親は、『コーランのどこにも書いてないよ』『勉強したい子はいくらでもしてもいいんだよ』と優しく答えていた。しかしタリバンの放送では、相変わらず女の子は学校へ行ってはいけない、学校へ行くようなことがあればその学校を爆破するという脅迫が続いている。身の危険を感じた周囲の人たちが、父親にマララを学校へ行かないように忠告するが、それどころかマララは地域の放送局へ行って『女の子にも教育を!』と訴え続ける。

そんなことをするものだからタリバンにも挑戦的であるように映り、名指しで脅迫を受けるようになる。スワートの住民は、マララが狙われるというより父親が狙われているとだれもが思っていた。ところがある日いつものように帰りのスクールバスに乗り込む。白のトヨタのダイナでワンボックスカーであるが、これに20人も乗るからこれ以上は乗れないというくらいすし詰めだ。後ろにはドアがないというから危険極まりない車だ。そのドアのない後ろからある男が乗り込んできた。その男は『マララは誰だ!』と言って手に持った拳銃から3発撃った。

マララ15歳であった。そのことによってマララは瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に助かった。そして回復した後に彼女は国連で演説をした。その演説の内容が最後の何ページかに収められているので、それを4年生以上の各クラスへいって読んであげた。4年生以上でないと理解できないだろうとの思いからである。彼女が地域の放送局の電波を使って『女の子にも学校へ行かせてください!』と訴えたのは13歳ぐらいのときだから、それほどみんなと歳は変わらない。

私がこの本を読んであげた時の感想は、各クラス様々であるけれど、『女の子なのに偉い』というのがあった。何故女の子なのにという言葉が出てくるのか。勿論男児のことばであるけれども、無意識のうちに女の子と男の子は違うというのがある。意外と家庭教育の中にはびこっているのかもしれないが、このようにジェンダ意識というのは根が深いものがある。世界の国には私たちが通常考えられないことが平然と行われている。私たちは現状の幸せを認識して、たくさん学び不幸な人たちに少しでも手を差し伸べることができたらいいね。ということを伝えたかった。

ジェンダフリー

ジェンダフリーと英語で言われているけれども、そもそもどこからこのような概念が生まれてきたのだろうか。ある日本の大学ではこの研究会があって、卒論にも採用されているということを聞いたことがある。男女雇用均等法ができたのはこの流れからである。また男女共同参画社会などと銘打って様々な企画がなされるのも、ジェンダフリーを表看板にしたからである。男女という性差をなくして、人間として平等に扱っていこうじゃないかというものだ。

ジェンダフリーなどとことさらに言わなくても、法治国家は法の下に男女は平等であるし、何故この言葉が嵐のように吹き荒れたのかを、私なりにそのもととなることを調べたり考えたりしたことがある。半ば遊び半分で調べたりしたものだから、それほど深くはないということを断ったうえでそのさわりを話してみる。

もとはロシア革命において、男女に別はなく互いに労働者である。という意識からロシア革命は労働者の苦役をなくすための労働者革命とも言われているが、何といっても女性の台所の仕事は、女性に負担を負わせるものであるので男女に差をつけるべきではない、という労働者階級闘争の頂点にいるレーニンが、男女解放をうたったのがどうもジェンダフリーの大本らしい。共産党革命とも言われているけれども、1987年(定かではない)にソ連崩壊とともに消滅した。

男女解放をうたった後の社会は、その結果どうなったのか。男女間のモラルが非常に低くなった。何かどうはき違えたのか、旧共産圏では私生児が多く、その子どもたちは大統領の養子となり将来には大統領の警護につくといわれていた。しかしいったん崩れてしまった社会は元には戻しにくい。共産主義革命と同じように、ソ連の崩壊とという東側の国々に起こったパラダイムシフトによって価値観が変わったかもしれない。

ジェンダフリーはあってもいいけれどもことさらに構える必要はないだろう。強いものが弱者を守ろうとするのは、当たり前の行動だから、そこには男女共同参画社会などといっても入る余地はない。性差がないと強く主張するのには違和感を感じる。人として同じ権利を持つのだからその権利を互いに認め合うことが大切だろう。また同じジェンダの問題だけれども、幼少期の女性の発達の速さをどう説明するのか、その研究はされていない。

毅然とした態度

嫌がらせを受けている子に、嫌がらせをする子を撃退する方法を教えた。絶対にうやむやにせず、大きな声でやめろという。ぼそぼそとした蚊の鳴くような声で拒否しても、それを面白がって続けてやられる。相手には絶対的拒否をされたということを知らしめなければならない。男児も女児も同じことである。声の出ない子はどうするのだなどと言ってはならない。拒絶をするならば勇気をもって、声を打さなけばならない。毅然とした態度が必要なのだ。

それは子どもたちが学校という社会の中で生きていく最初の難関である。しかしよく考えてみると、そのような嫌がらせを個人的に受ける子のほうが極めて少ない。興味のある子に対しての愛着的接触手段なのかもしれないから、絶対的拒否は少し間をおいたほうがよい場合もある。授業中に大きな声を出して授業妨害をするとかいう子がいるが、この子はあまり他人や家族から認められたことがない。自虐的でもあるし、自己顕示欲が強い。しかし自尊感情は非常に低いのではないかと思う。

『包丁を持ってくる』といった子の家庭は崩壊している。学校が両親を呼んで注意をして、このようなことがない様に諭したところで、聞く耳も持たないであろうし上の空であるだろう。子どもがとんでもないことを口走っているけれども、子どもの責任でないから子どもを叱っても何の解決にもならないし、叱ってもこの子が治るわけでもない。両親の子どもへの無責任さに果てしない憤りを感じる。これから生きていくこの子の一生はどうなってしまうのか。

良く『二十歳にもなってこんなことが理解できないのか』と言って警察で取り調べを受けている子をテレビで見たりするけれど、いくつになっても教えられないことはわからないし理解できない。狼に育てられた子はオオカミの生活習慣を学ぶのだ。人として生まれ、人間社会に溶け込めないで反社会的になって、他を傷つけたりして生きている人は違った価値観や生き方を見つけられなかった。親の一方的な優しさだけでは育たない何かがある。

現実にこのような子がいることを考えると、あおば台の両幼稚園や初等学部に居る子どもたちは幸せなものだ。親の愛情をたっぷりとあふれるほど戴き、何不自由なく暮らしている。幸せを実感している人は人に優しくできるし、人を幸せにすることもできる。幸せを感じたことがない人は人に優しくできないし、人を幸せにすることができない。全く当たり前のことだ。だからうちの子たちは、人を幸せにできる素晴らしい人になれるだろうし、なって欲しいものだ。

土曜日の話(1年生の集い)

卒園してから2カ月余りだけれど、両園ともにほとんどの子が遊びに来てくれた。元気という文字が体中から飛び出して、目がきらきらと輝いている。だいたいいつも決まって、小学校で困っていることはないかということと、算数や国語で困っていることはないかということを聞く。授業で困っているということはない様だが、乱暴な子がいて困るということを言っていた。

乱暴な子と言うのは大人から感じると取るに足りないような事柄が多いけれども、小学校低学年ではこれが恐怖だから、丁寧に見てやらなければならない。登校班でも登校のときには上級生がいて、上級生が面倒見の良い優しい人だと救われるけれども、この上級生と合わないと毎日が恐怖だ。集団登校も善し悪しだ。恐怖などと大げさに言っているようだけれども、決して大げさな言いようではない。子どもにとっては気がふれるくらい嫌なものなんだ。

給食の時間が短いという保護者からの話があったが、あおば台の子は最後まで残さないように食べようとする習慣が付いているので、ゆっくりに見えるのかもしれない。牛乳なども飲みたくない人はストローを挿したまま残飯入れに捨ててしまうというのを聞いたが、青葉台初等学部にはそもそも残飯入れがない。幼稚園と同じで食べきることを目標においている。食べたくないということがないのである。食材や量などに神経を使っているし、作っている人たちの愛情がこもっている味が違う。

すぐに宿題が出て、遊ぶ時間がないと嘆いているという。小学校の教師をしていてさえ、子どもの遊びは頭脳の訓練に無駄がないと言うことを知らない。宿題を多く出していればそれで授業の継続を図っているぐらいに思っているようだ。1・2世は宿題はいらないのが私の持論だが、それにはしっかりとした裏付けもあるし理論武装もしている。

教師が怖いというのもあった。新入学児童に対して、まず最初に教師への服従を強いるのは最低だ。物騒な子もいるようで「明日包丁を持ってくる」等といってる子がいるという。学校に連絡して早めに対処するべし。反社会的な言葉を使うにはそれなりの理由があるけれども、この子は必ずやるから今のうちに芽を取らなければだめだ。

劇ごっこ

第二とあおば台幼稚園で発表会と同じような劇を見せてもらった。どちらも共通して言えることは、やらされているということではなく、自分たちの劇を自分たちが中心となってやっているという、非常に積極的な雰囲気が印象的であった。もう少しで発表会ですが、保護者の皆様も楽しみにしていると思います。是非体調を崩さないように、当日には全員の子ども達が出席できますようにお願いいたします。

劇遊びは幼稚園の子どもたちでは大変難しいのではないかというのが、幼児教育に携わる者の共通の認識であります。それは表現の分野でありますが、役に成りきって表情を作るとか、その劇の背景などを消化できないだろうというのが主な理由です。大人の視点が実際の劇場での芝居を見るところにあるから、子どもの劇遊びを難しくしてしまうのです。子ども達は演ずることが大好きです。

ステージに上がったあおば台の子ども達の顔を見れば、劇の楽しさが良く出ていると思う。年長と年中では1年の隔たりしかないけれども、劇遊びの狙いが違うから、発達が見易いのではないかと思う。子どもたちの自信にあふれた、満面ニコニコ顔の素晴らしく輝いた顔を見られるのももう少しです。どうぞご期待下さい。

フィンランドのような

フィンランドの国民が資源のない国家が生き延びていくには、教育に力を入れる以外にないという結論を出して、大体所得の45パーセントから50パーセントの税金を納めることに同意をして今の体制がある。日本でも所得の多い人は50パーセントぐらいの税金を支払う人もいるだろうし、消費税が10%になればさらに税金は多くなる。税金というのは固定資産税や、市民税、社会保険税、源泉税、なじみはないだろうけれども労働保険税などもある。会社を経営している人は世界一高い法人税などがある。

考えてみれば結構税金を支払っている。フィンランドは国家予算の12%を教育費に支出している。それで大学まで無償で進学できるようになっている。勉強の嫌いな人が学歴を取得するために大学へ行こうとしても、高校の卒業試験で大学入試の資格を得なければならないから、それは無理だ。しかし職業を選択する場合でも専門の学校があって、そこから向学心に燃えて再度大学に入ることもできる。良い制度に感じる。

日本の官僚は最高の学歴を持って国の行政を仕切っている訳だが、国民のためにというよりは省内の組織を守るために汲々としているように映る。天下りだとかわたりというものが国民の血税を自分たちのために使ってしまう。それでは頭は良いけれど人が悪いではないか。そんな人ばかりではないけれど、天下りとわたりだけでも相当な予算が付けられていることは確かだ。

そのお金で学校の一クラスの定員を減らすとか、保育所を建てるとかいうように考えられればいいのだけれど。そんなお金で制度の変更などできないという人がいるかもしれないが、一度にやらなくても何年度からやるという風に計画すればできる。なかなかフィンランドのようにはいかないけれども、義務教育の学制を決めたのは日本の方が早いのだから、もっと真剣に考えてもいいのではないか。

今日は豆まき。幼稚園でも初等学部でも子どもたちの歓声と同時に鬼の役になった教師は子ども達から逃げながら、子ども達にとっては楽しい時間であったろうと思う。しかし豆が少ない。初等学部では豆を鷲頭神ではなく指に挟んで鬼にめがけて投げる。投げた後にすぐさま下を向いて『リサイクル・リサイクル』と言って豆を拾う。豆まきだか豆拾いだかわからない。それでも子どもたちが楽しい顔をしていればそれでいい。

小保方さんってすごい!

ⅰPS細胞を作り出した山中教授に続いて新型万能細胞STAPが理研の小保方晴子さんから発表された。30歳の女性と聞いて、二度驚きだ。現代のキューリー夫人のような気がする。英国の科学雑誌に投稿して、生物科学を愚弄するものだと一蹴されたときは、一晩中泣き明かしたという。今彼女にそう言った学者はかなりの負い目と羞恥心で己の心に恥じ入っているに違いない。すごい人がいるものだ。

実験に実験を重ねて、今日駄目だったらもうやめようとか、明日一日経って見て駄目だったらと、悔し涙と共に何度も眠れない日があったと言っていた。そうして5年の歳月が流れたと。あきらめることに成功はないと、あきらめには明日はないということを子ども達に話してきたが、今回のニュースは子どもたちへの良い知らせになる。

何かをなすことは大変なことだ。誰もが分かっている。しかしそれを確かに継続し、どこかで歯ぎしりをしてでもやり通さなければならないことがある。それができるかどうかで人の価値が変わる。忍耐力のない、すぐにあきらめてしまうような人間に育ててしまってはならない。そんなことは分かっているだろうが、ではどうしてそのような子が育ってしまうのか。しっかりとした目標を持てないからだ。

大人に従順な子でなくてもいい。多少言うことを聞かなくてもかまわない。しかし自分の良心と希望には従順に従うべきだ。目標に向かってまっしぐらに進んでいく子どもに育てたい。

フィンランドの学校

フィンランドの学校建築についての講演会が文科省の第一講堂で開かれた。主催は国立教育政策研究所である。誘いのダイレクトメールが来たので興味があったので参加してきた。フィンランドと言えばOECDで調査している、15歳の学習到達度(PISA)でいつも上位にある国である。そんなこともあって教育内容なども聞けるのではないかと思って期待を胸に参加してきたのだが、結果的にはフィンランドの総合学校〈小中学校〉における校舎の工夫が主となっていた。日本からは富山県にある小中連携の学校建築が紹介された。

フィンランドは1年の半分が冬で、夜が長いという大きなハンデがあるにもかかわらず、そこでの教育の質の高さはどんなところにあるのだろうかと、ますます興味がわいてきた。まず国民に平等の教育機会を与えるということが大前提にあるということは魅力だ。誰でも高校へ行けるし大学へもいける。それはすべて無償である。国がすべて面倒をみるのだ。大学入試は高校卒業試験を充てる。

総合教育学校(日本の義務教育にあたる)ではテストがない。生徒の学習到達度は担任の教師が分かっているはずだから、通知表みたいなものに克明に記述される。日本の学校にはテストがないという学校がない。全国統一テストや期末中間テストなるものもない。テストの結果によっては自信を深める子どももいるだろうが、その反対もある。フィンランドのようにテストがなくても、やる気を起こして頑張れる子どもはどうすれば育つのだろうか。

できないことはない。しかし私学では成り立たないことが多い。まず保護者がそのような学校を選ぶだろうか。子ども達にもっと自由な時間を与えて、自然の事象に自ら考え、それをしっかりとサポートできる教師を養成すること。毎日の授業に生き生きと参加することができれば、能力は必ず伸びる。ひとクラスの定員を、少なくとも15人以下にしてきめ細かな指導ができること。この部分だけは何の努力もせずに達成できているが、私学では大変だろう。

餅を焼いた

昨年の餅つき大会で大量ののし餅を作ってくれたので、その餅を小さな四角に切って、子ども達の口にちょうど良くしたものを炭火で焼いた。あおば台は山の前で、第二は倉庫の前で焼いた。どちらの園も炭おこしが上手で、私が園に行って焼き始めようと思った時には真っ赤に燃えていて熱くて近寄れないほどであった。ジョイフルで購入したアウトドア用のコンロであるが、その中で燃え盛る炭を均等にならして焼き始めた。

焼いた餅を醤油につけてのりでまいたものを、クラスの数だけそろうと担任が子ども達の先頭にいて、座るところを探して着座すると、皆がそろって『いただきま~す』と言っておいしそうにほおばる。皆とても行儀が良いのには驚いた。こんな時は『しっかりやらなければ』という気持ちが前面に表れてくるようだ。『先生!』『家でもおもちを焼いて食べたけれども園長先生の焼いたお餅は超おいしい』と、涙が出るようなおほめの言葉も頂いた。

次々と焼きあがってくるお餅がトレイの中に並べられるが、それが自分のところへは来ないということが理解できると、何だかんだとお世辞を並べていた子はどこへやら姿を消してしまった。子ども達の他愛のない言葉や、ありったけの賛辞を並べてくれる優しさに、しばし恍惚としていたけれども、ふと次の餅焼はいつにしようかと考える。お雑煮にして食べようかとも考えた。

初等学部でも同じようなことをしたけれども、アウトドアで炭火焼ではなくて、職員室で石油ストーヴを囲んで、私一人がちまちまと餅焼をする。ストーヴも正面に長いこと座っていると、腿のあたりが火傷しそうになる。ぐっとこらえながら焼きあがった餅を大きなお皿に乗せて、クラスごとに配達をする。まるで子ども達のサーヴァントだ。サプライズだからクラスのドアを開けた時から子ども達の歓びの歓喜に満ちた顔が飛び込んでくる。子ども達と一緒にいる歓びの一瞬である。これがたまらない!。

普天間飛行場

世界の飛行場の中でも最も危険な飛行場として名高い。私は沖縄には4回ほど行ったことがあるが、そのうちの2回は宜野湾市に行って、普天間飛行場を見学させて頂いた。近くに小学校や病院があって、一時も早く移設を願っていたのは他でもない沖縄県民でなかったのか。名護市の市長が移設反対派の市長が当選したからと言って、国の計画や県の計画が白紙になるとは考えにくいが、マスコミがこぞって国に反対の手をあげているようだ。

国民投票でそうなったのなら頷けないこともないけれど、たかだか2万票ぐらいの事で国の方向が変えられるとしたら、それこそ独裁政治ではないか。名護市も独善的で、普天間飛行場近隣の危険な状況を何とか回避してあげようという気はないようだ。そもそもあそこに軍の飛行場があること自体がけしからんという気持ちもわからないことではない。が、日本は戦争に負けたのだ。沖縄県民も日本人ではないか。

先の大戦で負けたおかげで沖縄は占領され、返還されたのは佐藤総理の時で、その時のニュースは、日本国中変換一色に染まっていたからまだ記憶にある。沖縄県民は地上戦もあったし、本土よりは言葉に言い尽くせぬような辛く悲しい思いをしたということは理解している。本土にいる人だって、多くの肉親を亡くしたし、その苦しさは比べられるようなものでもなかろう。戦争が悪いんだ。もういい加減に怨讐を超えて、あの危険な飛行場を回避してほしいものである。

過去の戦争は誤ったものであるけれども、誰かれの責任を問えるものではあるまい。戦争に負けたのは私たちの責任ではないし、靖国神社参拝に反対する理由もない。むしろ他国からいちいち干渉される問題ではない。日本人として誇りを持って強く生きていく以外にどのような生き方があるのか。韓国や中国は安重根の記念碑を建てて、日本国民を卑屈ならしめようとしている。昔の事だったらすぐにでも戦争だろう。

歴史認識のないのは彼らだ。伊藤博文は当時世界でも最貧国だった韓国を併合すれば、日本国が疲弊すると言って最後まで併合することに反対であった。異論百出したが、併合した上で、わざわざ朝鮮人民と日本国民は同等であるというおふれまで添付した。お陰で今の韓国は清国やロシアの進駐を防ぐことができた。反対した伊藤博文が朝鮮総統に赴任したことが皮肉だ。日本国民として一番大切なことは、決して卑屈になってはならないということだ。

サバイバル

幼稚園二園の年長さんと初等学部の児童とでサバイバルを行った。10時40分には初等学部の校庭に全員が集合し、まずは対面式を行い、初等学部の児童と幼稚園の園児3~4名で一つのパーティを組み、そのパーティを初等学部の児童が責任を持って遂行するという形で行った。ぽちゃぽちゃ顔の1~2年生も今日の顔は少し力が入った。

コース作りは学校の周囲を回るという案もあったが、陸の孤島のような僻地であってもたまには車も通るので、幼稚園の子ども達と一緒では危険が増加するという心配もあり、校内に作ることにした。手作りの大型滑り台の前から、講堂の裏を通り理科室の前を抜けて、大きな山の山登りをし山を下る。オアシスの前を通りUターンをし、くじら川の橋を渡り、駐車場の前を通り馬小屋の前を通って元のスタートの位置までを1周とした。その距離800メートルを3周する。

幼稚園の子たちは力いっぱい走ることができるが、初等学部高学年児童は幼稚園の子たちを心配しながら走らなければならないので、少し欲求不満が残ったかもしれない。けれどもそんな素振りも言葉も出さずに、食事が終わるまで幼稚園の子どもたちの面倒を見てくれた。食事の熱いうどんを食べる時も、幼稚園の子ども達に先を譲ってくれたし、おつゆを入れるときにも心配そうな顔をしながら見守っていてくれた。幼稚園の子は最後まで伸び伸びと遊ぶことができたし、初等学部の児童の優しさがずいぶんと引きたった一日だった。

最後にこれは書かなくてはなるまい。幼稚園の子が座りこんでしまって、先に進めなくなってしまったが、初等学部の子は先に進むことよりも、懸命にその子の状態の状況判断をしようとしていて、無理に立たせようとせずにずっと待っていた。もう他の子たちは2週目を終わろうとしているときである。私はその子をうっとりとして見ていた。このような子たちに囲まれて育ったら、心の優しい立派な子に育つことは間違いない。

学校を選ぶ

初等学部は私立の中学校へ行こうとする児童が多い。子ども達だけで自分はどこの中学校へ行きたいなどと、誰かの助言や示唆がなければ選びようがないはずだけれども、5年生の全員が、そして4年生の殆どの子が目標としている中学校を選んでいる。私学に通っているからということも大きな要因だと思うが、それはそれで普通の公立に通っていたらそんなことはこの近辺では稀であろう。すごい体験である。

学校を選ぶとなると必然的に学校のランクというのが付いて回る。これは殆どが大人社会のランク付けであるけれども、それを子どもたちが素直に継承してくる。そこまでは良いけれども、必ずと言っていいほどランク上位を狙う子たちは、ランク下位にある学校を何らかの形で蔑んだり侮ったりする傾向がある。これはよくないことだ。受験における学校教育なんて、これからの人生を考えればほんの瞬間に過ぎない。

難関の中学校を合格することは、それなりに評価すべきであるが、それは人生における一過性の出来事であるから、気を引き締めて謙虚に行動することが好ましい。学校をランク付けすることが、それが人間性をランク付ける事ではないということを、両親が子ども達に言い聞かせねばならない。そんな思いあがった傲慢不遜な子どもに育ててはならない。もしそういった子どもがこの学校で育ってしまうようなことがあれば、学校としての意味をなさない。ご両親は、よくよく気を付けてほしい。

大学を卒業して、社会に出てどのように勝負できるかということが究極のプロセスである。どれだけ素晴らしい大学を出て、優秀な成績を収めても、その人間性に欠陥があれば一流企業の人事部では採用してはくれない。意見を持たないと一人前の社会人として扱ってくれないが、独りよがりな独善的な意見では話にならない。精神的貴族の卵をしっかりと温めて育ってくれることを心から望んでいる。

賀詞交歓会・病院・昨日の続き

賀詞交歓会に少し早目に行ったつもりでいたけれども、受付にはかなりの人出で混雑していた。一時間にわたるセレモニーの後にようやく乾杯があって、セレモニーの間にもううんざりして、何度もあくびをしている者もいた。私の座っている目の前にはレンコンの天ぷらが並べられていて、学校で食べたレンコンを思い出しながら挨拶を聞いていた。乾杯の後に早速レンコンに手を伸ばしたけれども、学校で食べたレンコンの方が素材が良かったのか数倍おいしかった。賀詞交歓会の感想はこんなもの。

久し振りに検査のために病院へ行ってきた。急患の出入り口から入り一般受付までの通りの両脇に、長椅子が置いてある。そこに腰を曲げて座っている人たちは、平均年齢がかなり高い人ばかりだ。血色も良くないし、会話もなくシーンと静まり返っているが、大勢の人が座っている。何とも不気味な通りだ。病院だから活気にあふれているというわけにはいかないけれども、会話だけなら活きの良い会話ぐらいできそうなものだが。

一番活気がある?のは採血室だ。看護婦さんの患者の名前を呼ぶ声に力がある。しかし何故そのようになってしまうのかというと、名前を呼ばれても返事をしない人が殆どだからである。何度も呼ばれているのに、明後日の方を向いていて、挙句の果てに動きはスローモーションだ。看護婦さんの声も徐々に高まってしまうのは当然である。ああ~私もいつかは誰かにそのように見られてしまうときが来るのだろうなと、少ししょんぼり。

これからは昨日の続き。ゆとり教育の発想は決して間違ってはいないということを昨日書いた。現場の理解がなかったということと、現場の力量不足ということも書いた。また「ゆとり」というネーミングも、日本人には緩いとか遊びとかいう風に短絡的に理解されてしまうのではないか。生活化の導入も、最初は教師の裁量で授業を組み立ててもよいということだったが、情けないことに教科書がないと授業ができないということになった。

『ゆとり教育』は押し付ける授業から、能動的に自分たちが考える授業を目指していたものなのだ。ところがあてがわれて授業を受けてきた者たちが教師になって、どうしてよいものか現場は混乱してしまったのだ。このようなアメリカ型の自由で主体的な授業というのは日本には馴染まないけれども、その授業こそがノーベル賞受賞者を沢山輩出する授業なのだ。

日本の授業では、たとえば自由研究などの選択授業を提案したら、子ども達は困惑してしまう。なぜなら自分たちで考えるという授業に慣れていないし、誰かの規格に合ったものでしか学習できないように訓練されてしまっているからだ。初等学部で2年生まで宿題を出さないのは、もっと人と絡み合って対人関係でも、自然現象からも『自分で考える』というプロセスを大切に考えているからなのです。

教育改革が始まる

安倍総理が誕生して総理自身がやり遂げたかった教育改革がある。道徳教育の導入・ゆとり教育の廃止・英語教育の小学校導入などである。今年初めの通常国会に法案が提出されることになる。この三つはすべてが初等教育のものだ。その中で特にゆとり教育の廃止については、かなりの誤解があるのではないかと思っている。

文科省の役人がこの教育方針を打ち出したことについて、何ら間違ったことではない。ゆとり教育の廃止の原因となったのは、OECDの学力調査で、算数も文章の読解能力も年々下降している事が原因である。前にも書いた事があるけれど、30か国中日本は大体10位以内にいたがそれが面白くないらしい。しかし世界でノーベル賞受賞者1位のアメリカなどはいつも15位のところをうろうろしている。なのに教育改革などの話は出てこない。

アメリカの教育改革で有名なのは、スプートニクだかボストーク2号だか定かではないけれどもガガーリン少佐が『地球は青かった』とか言って、ソビエト連邦に宇宙科学で先を越された時に『ヘッドスタート』という教育方針を打ち出したことだ。その後も何かがあったかもしれないが、それほどセンセーショナルなもの見当たらない。学力第一主義になって、机上の空論に時間を費やしてしまっても、日本国民の人間形成にはあまり意味を持たないのではないか。

ゆとり教育の理念と方向性は理解できるし、決して間違っているものではない。ただ文科省官僚と現場の教師や社会に対しての広報活動など理解不足であった。それに導入の時に現場の教師の力量を推し量ることもできなかった。

時間が来てしまった。今日は賀詞交歓会があるのでこれから出かける。この後の事は明日書くことにする。

筑波大幼心研終わる

あおば台幼稚園が名実ともにお世話になった筑波大幼心研が幕を閉じることになった。思えば27年前に杉原一昭先生のところへ飛び込んで行った時から幼心研が始まった。その当時研究生だった桜井茂男先生は、奈良教育大学へ赴任したものの、すぐに筑波大に戻ってきて教授となって現在も活躍中だ。その間大勢の研究生が各地に赴き大学の先生となっている。そんな素晴らしい先生たちに、ご教授いただいたことにただ感謝あるのみである。

徹底的に発達心理を学ばせてもらったと同時に、かわるがわる発表する院生や、研究生たちの内容は、私たちが多分必要だろうと思われる事柄を、興味深く説明してくれた。頭の良い人たちだから、問題点を整理して分かりやすく話しかけるようにして私たちに話をしてくれた。単純な安易な質問でも、懇切丁寧にあきらめずに話をしてくれるので、あおば台の教師たちはその人柄にうっとりとしてしまったものだ。

一昨日行われた幼心研では、私が今までの幼心研に対する感謝の意を50分かけて話をした。院生や研究生に交じって、大学生もいたが、その大学生はあおば台幼稚園の卒園児で、大学の掲示板に私の名前が出ていたのでゼミに出席したと話していた。こんなところで卒園児に会えるなんてとても嬉しかった。帰りには教授と研究生と卒園児と8人で食事をして散会となったが、心に残るゼミであった。名残惜しいけれども、創始者の故杉原先生や桜井先生に重ねて感謝したいと思う。

1年生わくわくランド

昨日から1年生のわくわくランドが始まっているけれども、昨日は幼稚園にいて1年生の部屋を覗くことができなかった。今日は何としても観てみたかったので、5時間目までに間に合うように仕事を片付けてきた。1年生の部屋を覗くと、4年生から上の子たちが交流していて、その様子をじっと見ていたら、皆1年生に気を使いながら、言葉も丁寧に対応していて、ふんわりとした温かい雰囲気を感じた。1年生は何とも得意気である。

上級生の下級生特に1・2年生に対する対応の仕方はとても素晴らしい。優しさというだけでは何とも表現できないものがある。いたわると言うか、仏のように慈愛に満ちた関わり方をする。このような様子を親に見せたらどんな気持ちになるだろうかと想像すると、わが子のところへ飛んで言って抱きしめたくなるだろうと思う。素晴らしい子ども達だ。彼らの目線は上から見るようなことはけしてしない、いつも並行だ。その感覚が素晴らしいではないか。

幼稚園でやっているお店やさんごっこみたいなものだが、中にはゲームコーナーや制作などがあったりして『楽しむ』ということを演出している。幼稚園の年長さんとまったく一緒で満面に笑みを浮かべて楽しんでいる。効果を最大限にかもし出しているのが上級生の存在だろう。彼らの存在がこの学校の特色を充分に出してくれている。

はなしは変わるけれども、小学校の教諭がテストの結果を改ざんして、評価を上げたという話があった。当事者曰く『一生懸命やっている子どもたちの情にほだされた』と。情にほだされてそんなことはしないだろう。一生懸命やっているけれども点数が低ければ自分の教え方に問題があると考えるのが普通だ。申し訳ないと思えば結果を改ざんなどするわけがない。子ども達に『申し訳ない』と謝罪し、子ども達と共に取り組めばよい。

冷凍しておいた餅を焼いた。全員の数だけないので、早く集まった順から3人に1個という風に渡した。3で割るのが難しいけれど、それなりに奮闘して分けて食べていた。不思議なことに分けられた餅の大小にこだわる子が皆無であった。こちらで見ていて『それはちょっと小さいのではないか』と思うものでも、3人でニコニコして食べている。幸か不幸か食に貪欲でない。きっと良いことなのだろう。

文章が長い?

文章は短く簡潔にというのは昔からよく言われている。『娘泣かすな馬肥やせ』とか『おやじ元気で金送れ』的な短文にして明快な文章は、このブログにはそぐわないだろう。幼稚園の子ども達は皆ニコニコ今日も元気、合わせて初等学部もニコニコ元気、全く平和な日であった。では読む人も嫌になってしまうだろう。

私は思ったことや書きたいことを読み手を意識して書くのではなく、自分の気持ちを素直に吐露している。だからたまに身内の者から検閲が入る。時には削除するなど強行にされる場合もあるけれども、私があくまでも拒否すればそのまま掲載されてしまう。ブログは私にとっては滋養強壮剤みたいなもので、楽しみな時もあれば憂鬱な時もある。

私がこの世から去って行ったときに、この学校やら、幼稚園の子ども達にどのような気持で接していたのか。またはどのような思いを持っていたのかなどが参考になる。だからこのブログが、私の後に続く者たちへの道標になれば意を得たりである。保護者は毎年変わるけれども、幼稚園や学校を運営していく者にとっては、ぶれない変わらない信念がないとならないから、たまにこのブログを読まないとならない。

最近動画や漫画に押されて、小説を読むと言う子どもたちが少なくなった。小説だけではなく活字を読み込むと言うことが苦手だと言う子が多い。文章に表れた人の心情とか情景などが、読みながらにして浮かんでくるようでないと、国語の長文の理解は不可能だ。4年生以上になるとこれが結構つまづきになる。算数の問題も『何を言っているのか分からない』ということになるから、読み聞かせは本当に大切だ。

子どもたちと共に暮らせる日々

1・2年生と話をしていると、年長さんとあまり変わりがない。1年生は年長さんよりちょっと口が達者で、2年生はそれよりももっと口が達者である。3年生になるとそれ以上に達者だけれども、精神的にずっと落ち着きが見られる。3年生はものを考えるときに少し立ち止まって考えるようになるが、2年生は考えたことはすぐに口に来るようだ。頭と口がくっついているようだが、3年生になるとそれが少し離れてきて、4年生になると口に出るまでの時間がかなり間がある。だから1・2年生は年長さんの様な可愛さがある。

最近の年少さんは園や保育者に慣れるのが早く、かつてのように泣き声の大合唱で、別世界のような気配は感じられない。まるで猿の子育てのように、保育者の首にしがみついて離れない子や、おんぶしてもらったら絶対に離れないと言う子や、涙を流しながら保育者の手を力一杯握っている子の様子が見られなくなった。それでもまだ母親から離れるのを嫌がる子など、少しは見られるけれども、そちらの方が実は健全である。

少子化になって、子どもを十分に観てあげることができると、幼稚園が初めてのデヴュウとなると、大勢の子ども達の圧力に屈するのは当たり前で、母親から離れられないのが当然である。泣いていることでそれが意気地ないとか考えることなど全く必要ない。むしろ当然の発達であって、しっかりとしたぬくもりの中で育っているのだと考えるべきである。不安でいっぱいなはずの最初の幼稚園だと思うけれども、当人たちは意外と慣れるのが早い。公園デヴューなど、入園前に大変な気を使っていたのだろうと推察している。

あちこちの筋肉がまだ未発達なので、歩き方もなんとなくおぼつかない、駆け足などすると頭が重いせいかまっすぐ走れないでよろよろしている。それが年中になると足腰もしっかりしてきて、話し方もしっかりして語彙も豊富になる。年長になると、考え方も話し方も人間に近くなって面白くなるが、人によっては悪知恵も発達してくる。そうして小学生になるのだが、こんな状況を毎年繰り返し見られるわけだから、こんな人生楽しくて仕方がない。

4年生になると自己内対話がはっきりとできて、他や自己評価を適切にできるようになるから、この時に人生の負の遺産を背負わないように気をつけなければならない。負の遺産とは、「自分にはできないのではないか」と決めつけてしまう、後ろ向きの弱さである。この年齢をうまく通過できれば5年生以降の学校生活は能動的になる。5年生は自分をしっかりと温める時だ。6年生以降は決めた目標に妥協せず進むという意志力を養う時期だ。難しいことではない。側の大人が絶えず『できる』ということを暗示すれば良い。心理学ではこれをピグマリオン効果と言う。是非やってほしいと願っている。

焼津へ市場見学

5年生が焼津へ市場見学へ行っている。昨日筑波登山終了後から、学校に残って夕食を取り、朝2時に学校を出発した。もうそろそろ帰ってくる時間だけれども、まだ帰ってこない。幼稚園で帰る連絡があったけれども、気になって学校へ来てみた。

大人が勢いよく仕事をしている現場を見ることは、畏怖を感じるものがあるだろう。仕事の流れを学んでくるなどの、社会科の勉強も大切なことだろうが、もっと大切なのは心に焼きつくようなことを感じ取ることだろう。それがあれば、旅行気分で早朝よりはしゃいで出かけても大きな意味があるだろう。

社会科の授業はDVDで勉強すると言うのもあるけれども、なるべくならできる事なら現場を見せてあげたいものだ。バスを借り切って運転手を付けていくとなると、大名旅行に成ってしまうから、最小の負担で最大の効果を狙っている。だから教員の負担も大変なことになるけれども、たまたま大型の運転免許を持っている教員がいるのでお願いしている。学校のバスを使うとなると休みの時しか使えないし、しかも土日でない日だから、茨城県民の日はちょうどいい。良かったと思うのはこんなときぐらいだ。

今帰ってきたようだ。お疲れ様でした。だいぶ寒くなってきたので私も帰ることにする。

筑波山に登る

今日は今年一番の冷え込みだと言われている。どのような因果かこの日に筑波登山を決めていた。幼稚園の登山の日は、学校説明会と重なってっしまって、筑波山へは行けなかったが、今日は私の役割もあったので行くことになった。私の役割は、車の運転手と、けがなどの理由で登れない子をケーブルカーで引率することである。ケーブルカーで登るとすぐに着いてしまうので、しばらく時間を遅らせて、乗り場のお土産屋さんの椅子に座って時間を過ごした。子ども達は、黙って私の言うことに従っていたが少々退屈そうであった。

登山に皆が出発してから30分遅れでケーブルカーに乗り込んだが、その間心配そうにちらちらとこちらを向いて私の顔をうかがっていたけれども、何も言わずに従順に私に従うと言う態度だ。子を持つ親の心境に成って、この子たちを守るという気にさせるものだ。売店がいっぱい並んでいる頂上付近に到着すると、風が強く冷たかった。するとリュックを下ろし、中から予備の衣服を取り出し、重ね着をしている。低学年の子だけれども、衣服の調節など主体的にやれる様子を見てすっかり感心してしまった。

じっとしていると寒いので体を動かしていたけれど、にわかにやり始めてもすぐには温かくならない。『あったかい甘酒でも飲みたいな』というと『甘酒ってお酒なの』と聞くから『お酒ではないよ。子どもも飲めるものだよ』と答えると、ずらっと並んでいるお店を一軒一軒見て回って、『先生!ここに甘酒って書いてあるよ!』と教えてくれる。しかし一向に私がお店に入る気配を示さないものだから、そのうちお店のお土産品を手にとって見ながら、長椅子に座りこんでしまった。土産品に興味を示しながら『ほしい!』などと言わないのもいい。

そうこうしているうちに全員が登り終えて、男体山に登るものと、ここで景色を見るものとに分かれたが、男体山に登ると答えたのは3分の1ぐらいで後はゆっくりしたいという意見であった。そこで私が『どうして筑波山ができたのか、詳しく書いてある自然館があるよ』とそちらの方へ水を向けたが、4・5人の子が駆け出してそちらへ飛んで行ったが、残りの子は無関心のようである。せめて4年生以上の子は関心を向けてほしかったが、もう喉までいっぱいで強制されて学習はしたくないと言った抵抗にも思えたので何も言わなかった。

強制されやらされていると感じている学習では、この先続かないだろうと思うが、いかがだろうか。学習しなければならない期間は、この先の方がはるかに長い。もしも私が感じたことが当たっているならば、心を解きほぐしてあげて、自らのエンジンに点火して自走してほしいと強く思う。危惧だけで終わればそれでいい。そんなことを想いながら子どもたちの中に入って弁当を広げ昼食となった。

同じように山登りに来たどこかの幼稚園の子どもたちが、土産屋で買ったおもちゃのピストルを出して、食事をしている初等学部の男の子のところへ『バンバン』とやってきた。するとそこにいた男の子全員が箸を持ったまま両手をあげた。幼稚園の子は満足してそこを去って行った。私の弁当は野菜サラダとおにぎり一つである。1年生の子が『先生僕のあげようか』と言ってくれる。鳥の唐揚げと厚巻き卵である。何故こんなに優しいのか。

帰りのケーブルカーはこども7名になった。登りだけでも何とか頑張ろうとして登った子たちである。昨日医者に言って『無理しないように』と言われたけれども、何としても登ると根性のあるところを披露してくれた。登りの途中でねん挫してしまったという子がいたけれども、私には言ってこないので教師が伝えに来てくれた。ケーブルカー組は発着所からつつじヶ丘まで車で移動したが、車内では『家を建てると結構かかるから大変だよ』という男の子の話があって苦笑せずには居られなかった。楽しい一日をありがとう。

勉強は何のためにするのか?

筑波大心理学教授だった故杉原一昭先生が、退官時に『生きることと死ぬことと』という議題でさよなら講演を行った。私はその話の中で、あるユダヤの青年がアウシュビッツに送られていく汽車の中で『どうしても読みたい本がある』と言って、途中の駅で一泊した時に、汽車を抜け出し友人とともにその街の中で図書館を探し、読みたい本を漁り、汽車に戻ったという話を聞きました。今死にに行く汽車の中で、なおも『読みたい』という本を読もうとする行動に彼を動かしているものは、一体何なのか。

私はその話を聞いて講堂を出た時に、どうしても涙があふれてきて仕方がなかった。はっきりとは言葉に表せない感動が、全身を稲妻が走ったように通り過ぎて行って、体が震えていた。私はものを識ると言うことにあまりにも無頓着であった。知識に対して甘く見ていたのだ。自分が生きていくのに不自由のない知識で十分であるという狭い領域でしかものを捉えていなかった。何とあまりにも低俗な生き方ではないか。自分の情けなさに涙したのだ。

それ以来専門分野は勿論のこと、それ以外についても学ばなければならない事に気がついた。色々なことを学ぼうとすればするほど、自分の底の浅い知識を自覚する。そうなるとますます貪欲にはなるけれども、あまりにも知らないことが多すぎて、自分自身にあきれ返ってしまうこともしばしばであった。杉原先生の最後の講義で教えて頂いたことは、様々な生き方があるけれども、人生は知的に生きることの素晴らしさである。

私が目指している『精神的貴族』像は、まずそれなりの知識を得なければならないではないか。しかもその知識は個人所有のものではなく、多くの人々に分け与えていくことでなければならない。その結果として自分も飯の食える人間にならなければならないのだ。勉強はそのような人間になるためにやるのだ。勉強はやりたくないとか、ずっと遊んでいたいなどの話は聞いていられない。皆で困っている人を救っていかなければならない、ということを自覚しなければならない。

医者に成りたいと言っている子が結構な数いる。ままごと遊びではないから、願望だけでは夢物語である。何故なりたいのか、正しい意識がしっかりしていれば必ずなれる。それがお父さんやお母さんのためでは絶対にうまくいかない。なぜなら途中下車しても親なら甘いから、それに責任を感じないだろう。内発的動機が社会のためなら責任はいつも自分にあるという意識をもつものだ。しっかりと子ども達に伝えなければならない。

ハンドボール・低学年優勝!

昨日の試合終了後にK先生から第一報が入った。思えば3年前に初めての試合に出場した時には、殆どの子が低学年の部であったけれども、高学年のメンバーが足りずに低学年から出場した経験がある。まったく試合にならず、試合中に審判から注意を受けることは再三あって、審判も意を決したのか、試合中にルールを教えながらの試合で、それが相手チームも寛容に見守っていたことがあって楽しい雰囲気であった。そんな試合であったのに、相手チームから何のブーイングもなかったのが温かい雰囲気を作ってくれた。

そんな状況であってもめげない子ども達だから、優勝できたのだろうと思う。ハンドボールのルールを知らなくてハンドボールの試合に出るなどということは、大人の感覚ではとても恥ずかしくて出場そのものにまずつまづいて、拒否反応が出てくるのが当たり前だろう。竹刀を持ったことのない人が大勢の前で剣道の試合に出るようなものだ。だから当然打ちのめされて、見る影もないほどにやられてくる。最初から何が何だか分からないのだから、打ちのめされようがどうされようが本人たちの知ったことではない。それでも立ち上がれるという力があったということは称賛されるべきことだろうと思う。

それが今回の結果なのだ。スポーツの面白いところは、必ず結果として近い将来に表れることと言えるだろう。優勝したということで、4年生以下の出場した子どもたちが大挙して賞状とともに私のところへ報告に来た。皆の目が光っていて、顔が輝いていて眩しかった。得意そうな面持ちが、次のステップへの意欲となってみなぎっているように感じた。大きな自信となっただろう。

昼食後にミュージックフェスタの会議をしていて、予定より長引いたので全学年を見ることになった。とはいえ1・2年生は外で思い切り全力で遊ぶこと。3年生はボルタリングをすること。4年生から上は全員が5年生の部屋に集まることというように振り分けた。4年生から上の子には特に私から話さなければならないことがあった。それは自分自身の事についてである。この話は3年生以下には難しいので、4年生以上になったわけだけれども、なぜ勉強をするのかということと、なぜ成績に差がついてしまうのかということ。

担任にも話はできるだろうが、私が話した方が与える刺激が違うので効果はある。毎日家で勉強していると答えたのは半分にも満たなかった。家ではなく塾へ行って勉強しているので、家に帰ってからはしないと言う子もいる。学習の仕方が学校と塾に任せ放しである。いつもいつも塾任せにはできない。家庭学習は自分のテーマを探究したりするには絶好の場である。どこどこの学校へ入学させたいと言う願望が先走っていて、どのように生きたいのか考えるゆとりがないではないか。これで子どもはいいのかな。

幸せの追求

『幸せの価値観』は子ども達にもある。大人のように色々と理屈を述べたりはしないけれども、体で感じているものがある。それは何かというと、『楽しさ』『嬉しさ』である。だから幼児期はご両親と一緒にいるときが幸せなのだ。そうして『幸せの原点』ともいうべき生活を続けていくうちに、幸せを感じられるようになる。そういったことによって、主体的で豊かで、意欲的な生活ができるようになるのだ。だから『嬉しい』『楽しい』幼稚園や学校生活を送らなければならない。それ以外は取るに足らない小さな事柄だ。

何故そう言えるのか。そんな質問が飛びこんできそうだ。良く考えてみるが良い。『嬉しがる』『楽しがる』状態にするにはどうしたら良いのか。そこにはおのずと約束事や、秩序というものが存在するはずだ。そういったことを主体的に議論し、自分たちの生活を作っていく。やらせられてその日を過ごすのではなく、能動的に自分を生きることだ。それは、幼稚園生活でも小学校生活でも、そのように生きられることは可能である。本来子ども達は知識欲に飢えているから、意欲的な生活が保障されれば学習意欲も増大する。

お金の量が幸せを決定すると思ったら、それは空しい。経済的豊かさは幸せを測る物差しではない。ただ手段にはなりうるけれども、使い方を間違えれば奈落の底に突き落とされることになる。まったく幸せとは真逆の境涯となることは周知の事実だ。幸せの価値だのと、幸せをふんだんに使って書いているけれど、実際問題として幸せを追求して毎日を過ごしている人はいないだろう。幸せは求めるものではないのであって、真実を生きる者についてくるものだ。鉛筆一本で喜び、幸せに浸る子どももいるのだ。

私の頭の中で幸せとは何だとイメージしてみると、自分の力で決めた目標を持ち、その目標に自分が着実に進んでいるという実感を持ち、希望に満ちて次のステップに踏み出そうとしている状況などは、まさに幸せだろう。与えられる物によって幸せを感じるのは、ほんの一瞬である。そんなもので子どもの心を釣り上げては、程度の低い子どもに育っていく。そのような子どもは、いじめの格好の的にもなる。

久遠返せばⅢ

人生には節目節目があって、青春時代と同じようにその時はその状況がわからない。いつでも振り返って、通り過ぎ去ってから思うものである。まだまだ人生が終わりに近づいているとは思わないけれど、振り返ってみれば、あの時にこうすれば良かったとか、馬鹿なことをしたものだと言うことが次々と思い返す。その反対に、これはうまくいったとかいう成功事例というものが思い出せない。失敗例は山ほどあるから、思い起こせば赤面のしっぱなしになる。しかし、人生なんてこんなものだなどと、解ったようなことは言いたくない。

長らく書いてきたけれど、結局何が言いたかったのかというと、有形無形に私を支えてくれた人たちに何かで感謝したいという気持ちの表れである。感謝はしているけれど、それに報いるお返しができないと言うのがはがいいものだ。多分生涯お返しができないというものが多々ある。

経済的に苦しくなったときに、死んだ方がよっぽど楽だと瞬間頭の中をよぎったことがあった。それではあまりにも無責任だと思い、まずは高額な生命保険に入ることにしたけれども、それでもまだ足りない。そこまで来たら当って砕けろ!っだ。そしてある先輩のところへ当ってみた。ところが当たっても砕けずに事が運んでしまった。命拾いをした。それはまだ第二幼稚園設立の前の話だ。そんなところへ第二幼稚園設立の許可が出たものだから、大変なことになってしまった。

第二幼稚園の設立申請を、3年間連続して提出したけれども許可が下りないので、半ばあきらめて、設立資金を流用し、あおば台幼稚園を鉄筋で新築してしまった。それで、手持ち資金が全く底をついてしまっていた。学校法人立幼稚園を新設する時には、銀行借り入れはできない。勿論小学校も学校法人の名のある学校は、借金では建てられないようになっている。個人の資産を寄付しなければ設立できないようになっているので、財産のない私には不可能である。苦しみもがいていた時代だ。

何かをやろうと決心した時が節目である。初等学部の子は中学受験をしようと決心した時が節目である。人生の節目と発達の節目は違う。発達で言えば、3歳・4歳・5歳という発達の差は毎年訪れてそれぞれが節目である。そして小学校では3年生と4年生という発達の節目がある。人生の節目を今子どもたちが越えようとしているのだから、私が支えられてきたように私は全力で子ども達を支えていく。何かを越えようとしているのだ時から、泣き言は一切漏らしてはならない。泣きごとに手を貸してもならない。

始まった!

初等学部の新学期が始まった。それぞれの顔を早く見たかったが、思った通りはちきれんばかりのエネルギーを蓄えた顔が勢ぞろいした。クラス担任の紹介をし、新しくなるファミリアの仲間を決めて、新しい1年生をどのように迎えるかをみんなで考えているようだった。私たち年寄りと違って、この時代の1年と言うのは歓びに比例して大きなものである。許されることも増えてくるけれど、果さなければならない義務や使命もあるはずだ。自分を振り返りながら着実に前に進んでいこう。

それにしても、何ときれいな顔をした子どもたちだろうか。男の子は見るように見ればりりしくもあるし、坊ちゃんとしているようにも見える。知的で聡明な雰囲気は男女ともにある。このような雰囲気を壊さないで、自由に大きく羽ばたいていってほしい。それにはまず、何よりも冒険を沢山しなければならない。冒険は何も未知の探検ばかりではない。例えば、創造的なものを創作したり、多くのものに挑戦し、失敗を重ねることが必要だろう。

とにかく今日は、元気な笑顔が見れてそれだけで満足。

新学期

いよいよ新学期が始まる。明日からは初等学部で、次の日からは幼稚園が始まる。初等学部も幼稚園も万全の用意をして子ども達を待っている。皆それぞれに進級して、一年大きくなって新しい自分の立場に挑戦していくことになる。喜びと不安と期待に満ちた初日になるだろう。そんな心の中を大切にして、私たちが彼らの重要かつ素晴らしいサポーターであることを自覚して、ともに楽しい生活を作っていってあげたい。春休みの間、先生たちはずいぶん忙しく動いていたようだったけれど、私には長かった。

この期間を利用して、グアムのセントジョンスクールに行き、昨年の6年生がお世話になったお礼をしてきた。それに来年度のお願いを含めてきたのだが、快く承知をして頂いた。このように書いていると、なかなか外国語も達者に聞こえるけれども、実は、私の言いたいことを単語を連ねて話して、後は聞いているだけのこと。聞いているけれども相手が何を話しているのかは全く理解できない。時々分かる単語が出てくると、ニコニコして頷く。これだけのことだけれども、交渉は100パーセントうまくいっている。

終始ニコニコしていたのが良かったのかもしれないが、ああいう場合はそうするしか他に手段がなかった。一緒に食事もしましたが、例のごとくビーフ定食見たいのを頼んだけれども、ケリー先生のと私のとが違う。同じものを頼んだつもりだったのに、指を指したところが一段違っていたようだ。少し残念だったけれどもそれでもニコニコして、何だかわからない話にも時々頷く。そんな光景を、私のことを分かっていて誰かがビデオにでもとっていたら、全くの笑い話だ。来年泊まるホテルはここがいいと、そこへ案内してくれたがなかなか立派なところで、そこは少し無理かなと思う。

斎藤隆氏が現代語訳に直した「学問のすすめ」を全部読み終わった。福沢諭吉には興味があったので、抵抗もなくすらすらと読むことができた。さすがに一万円の肖像になるだけのことはあると、つくづく思う。あの当時には国家を憂うものが山ほどいたろうに、私心なく大局的に見通す眼力のある人間はそれほどいなかった。諭吉は、なるほど聖徳太子と肩を並べるだけの凄い人物である。慶應義塾も大変な苦労をなさって立ち上げたけれども、経営に行き詰まり、ときには呆然としたこともあったらしい。私なんぞはまだまだヒヨコだ。

初等学部の終業日

幼稚園と同じように昨日終業日だった。2年生の男女一人ずつ私の処へ挨拶に来た。2年生の代表と言うのではなく、全くの個人的だと思うが、「1年間ありがとうございました」「また4月からお願いします」と礼儀正しく礼をして帰って行った。終業日なので、全校生徒の前で「礼儀と言うのはその人の人格を示すものだ」と言う話をしたのだが、そのせいではなく、いつもきちんとした挨拶のできる子である。

担任に話を聞くと、どの子も帰りの時にかばんをしょいながら「先生ありがとうございました」と言って行ったらしい。素晴らしい子どもたちだ。同じ子どもたちだが、一方では台車を使って遊んでいて、思い切り壁にぶつけてしまい壁に穴をあけてしまった。神妙な顔をして職員室まで謝りにきた。なかなか潔い。「ごめんなさい」「本当にごめんなさい」「もうやりません」と謝りながら泣き出してしまった。「これは直せない」と言ったことで事の重大さに気がついたようだ。

それで何度も泣きながら謝っていたのだ。しかしふと思ったことだが、子ども達の謝り方は今も昔も変わらないようだ。私自身を思い出して「よく言ってきた」と頭をなでて返してあげた。そこでまた思い出したのだが、謝ったってまたすぐに忘れてしまうんだと。しかしこんな子がやるようになったんだと思うと、学校の子どもたちの社会は全く伸びやかなんだなと思う。

幼稚園では大掃除が始まった。それが終わると指導要録の清書がある。そして3学期総括の研修資料の印刷と、なかなか今学期が終わりそうもない。新学期の用意は4月に入ってからになるだろう。毎年この繰り返しだけど、気を抜かずに頑張ってほしい。初等学部は3月いっぱいはスプリングスクールがあって、新年度の用意はまさに新年度になってから、頑張ってやる。みんな気合が入っていて楽しい。

卒園式・卒業式そして終業日

初めて初等学部で卒業生を送り出した。たった6人の卒業生であったけれど、初
等学部も卒業生6人の家族のおかげで、一つの歴史を刻むことができた。地球の誕生の黎明期は、9次元の世界があったとされている。どのような世界なのか調べようとも考えようともしないけれど、想像ができないようなものであったと言われている。ましてやたかだか初等学部の黎明期は、何があってもおかしくはない。地球の誕生との脈絡はないけれども、何かが生まれようとしているときには必ず予想もしないようなことが起こるものだ。

あおば台幼稚園では、卒園式の後に「ありがとうの会」を開いてくれた。保護者が記録として撮ってあったDVDの中や言葉の中に、「ありがとう」や「大好き」という言葉がふんだんに盛り込まれてあって、素晴らしい甘美な感激に浸ってしまった。こちらこそ「ありがとう」と言う感謝の気持ちでいっぱいである。最後のお父さんの一本締めで終了したけれども、あのお父さんは何かと先頭に立ってやってくれた人だ。最後の子どもが卒園し、自分自身での一本締めでもあったろう。淋しくなるよ。

あおば台でもそうだったように、第二でも泣かされた。私は初等学部もみているので、子ども達と本気で関わりあうときは「立派な年長」の時ぐらいしかなく、卒園式になると本当に申し訳ないという気持ちになるけれども、保護者はそんなことは気にしていない様子で、またまた申し訳なく思う。ハイレヴェルな職業にあるおやじたちの、ローレヴェルなAOB83の踊りを見せてもらったが、本当にここまでやってくれるかという、笑わせられたり泣かされたりと、感動に次ぐ感動であった。

あおば台でも第二でも多くの保護者に感謝されて卒園式を終えたけれども、実は私たち保育者こそ、素晴らしい保護者に出会えたことに感謝しなければならないだろう。あの二つの幼稚園は保護者の思い入れが強くあって、その力で運営されているようなもので、私たちが本当のサポーターであるという理想的な幼稚園である。私は初等学部の子ども達に「矜持なる心を持て」と教えているが、私の誇りとするところは、保護者と言う人間の温かみである。私は生涯これを抱いて生きていくことができる、幸せな男である。

ちなみにAOB83や、ピカチュウグループにはオファーをかけておきました。またあの人たちに会えると思うと、私ばかりではなく第二の保育者も感動である。

原発事故

原発事故が起きた時に、当初はこれほど大きな事故であることを想定できなかった。と言うのもNHKが中心となって全国に流したニュースは、毎日著名な学者を招いて安全保安院とともに大した事故でないことを装っていた。NHKの真面目なアナウンサーも、まことにこれを信じ切って学者のいいなりであった。核納容器の図面を取り出し、「メルトダウンはない」と言うことを言っていたわけだが、だが実際にはメルトダウンはあった。しかも初動作業によっては、これまでに至らなく未然に防ぐこともできた。

放射能の拡散も、外国メディアの方が日本よりも早く出す始末である。真実を隠蔽し続けた結果が、ちょっとしたほころびで重大な局面を作り上げてしまった。不安が不安を呼び風評被害が拡大して行ってしまった。茨城の西の方でも、葉ものの農家の人たちが泣いていた。トラックにホウレンソウを山ほど積んで、東京へ出てきたが、茨城の看板を見るなり客はみんなそっぽを向いた。現場で生のまま食べてみせるが全く反応がなかった。

福島県はこの風評のおかげで、農産物は出荷できないのではないかと言われている。食べ物のみならず、先日も書いたけれども人間まで拒否されてしまった。福島県民は、それでもなお我慢を強いられている。またそれに耐える忍耐強い県民だ。その忍耐に我々は甘えてはいけないのではないか。とはいえ一体私たちに何ができるのだろうか。福島の温泉につかったり、スキーに行ったり、福島特産物を買ったりと考えては見るものの、なかなか実行には移せないでいる。

幼稚園は最後の保護者会の運営委員会も終了し、いよいよ幼稚園の卒園式を迎えるばかりとなりました。あおば台は200人弱の保護者を取りまとめ、第二幼稚園は220人強の保護者をそれぞれに取りまとめて頂いて、大変ご苦労なさったこともあったことだろうと思いますが、無事に次年度へ引き継ぎをなされたことと思います。ご苦労に対して、心から感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。

東日本大震災

1年前の昨日、午後2時46分に大地震と大津波が東日本を襲った。私はたまたま、初等学部の6年生の海外語学研修の打ち合わせに、グアムを訪れていた。ホテルの部屋に帰りテレビを付けたところ、日本の大船渡だか釜石だかに、海からの海水が街を飲み込んで走っている様子が映し出されていた。まさかこれがライヴだとは信じられなかったので、だからと言って何をどんな目的でこの映像が流されているのかも、全く知る由もなかった。

そのうちグアムにも津波が来るというニュースが流れ、初めてこれが真実なんだと言うことが分かった。携帯から、いくら日本に連絡を取ろうとしても全くつながらなかった。夜になって初等学部の女教諭から第一報が入って、子どもたちはみな無事だという安心した雰囲気が伝わってきた。そのあとで女房から連絡が入り、幼稚園の子ども達は、みんなで園庭に出て肩を組んでうずくまっていたという話であった。話を聞いているだけでも、すごい地震だったというのがひしひしと伝わってきた。

それにしてもテレビに映し出されている津波の速さが、どうしても信じられなかった。何度も同じ映像を流しているので、そのままベットに腰かけたまま見ていたが、はっと我に返り明日の帰りの飛行機はどうなるのかということに気がついた。フロントデスクに電話をかけるが、ここもいっぱいでいつもお話中である。フロントまで下りて行き、確認を取ってもらったが、成田行きの全便が欠航でこれからの出発は未定とのことである。徐々にことの重大さが身に迫ってきた。

あくる朝になると、16日にジャンボを飛ばして残った客を拾い上げるということだったが、それまで待たなければならないという歯がゆさは言葉に表せない。まったく一方的にと言っても、こちらは何ともすることができない。居ても立っても居られないので飛行場まで行って、航空券を見せて何とか早くできないかを折衝した。何もできるわけではないけれども、日本がどうなっているのか心配でならなかった。そこで何とか14日の飛行機で帰れることになった。

飛行場に着くと、津波と原発の話で、テレビでも人々の会話でも持ちきりであった。グアムのホテルにいた時も日本に帰って来て家でテレビを見ていても、ただオロオロしているばかりだ。一旦家に戻ってきたにもかかわらず、会社が心配だと言って出て行ったまま帰ってこなかったと、全身力が抜けたように話している奥さんの表情がまだ自分の脳裏には残っている。役場の仕事で、他人のお世話をしながらわが子と女房を探していた夫のやり切れない表情もまだ残っている。あの人は見つかったのだろうか・・・・・。

そして昨年の一文字は「絆」であった。絆を感じると言った人が多かったからで、今はそうではないかもしれない。瓦礫の処理にしても断る自治体が多い。それは放射能汚染の問題をからんでいるからというけれど、原発から遠く離れているにも拘らず何故そんなことを言うのだろうか。きちんと測定されているのに。

山梨かどこかで、福島から来た子の保育園入園を断ったというニュースがあった。無知もはなはだしいではないか。無知と我欲が交錯していて、いつか人間は恥を忘れてしまう。「もったいない」と言うのが素晴らしい言葉として世界に広まったが、是非とも「みっともない」をまずは国内に広めようではないか。

騒ぐな!私はここにいる

何か変わったことがあると騒ぎ立てる者がいる。必ず震源地があるわけだが、震源地が当事者で、それに近いところにいるものがその仲間である。学校は何ら揺らぐことはない。いたって平穏で波一つない、カーム状態である。波を立て波を作るそばにいると、やがてその波と一緒に揺れ動くことになる。何があっても不動心であることが一番である。ここには子どもたちがいる。分別のない大人の濁った心で、その手で近寄ることを禁ず。

ここは学校だ。学校には子どもたちの心を育む神聖なものがある。それを育てていく義務が私たちや保護者にある。そのことを無視したりその邪魔をする者は、ここから出ていかなくてはならない。当たり前のことだ。どうも勉強さえできれば社会での優位性を保てるという風潮が根強くある気がする。そんな失敗は当の親たちが経験していることではないか。そうでなくとも社会を見渡してみればわかる。

人間にとって、何よりも大切なことは恥を知ることだ!。矜持の心がない者に優位性などバカな話はない。金があっても使い方が分からない者、金がなくて金持ちに媚びる者、いずれも根底にあるのは意地汚さである。何がなくても現状で満足し、周りに感謝ができる人間の心が一番澄み切っている。私たちはどのような仕事をしていても、人間が評価されるのではなく職業が評価されているので、偉くもなんともない。職業も人間性も同じように評価されればそれに越したことはない。

そういった意味では人間は平等だ。しかし福沢諭吉が言ったように、学問をいくら積んだからと言っても「心の持ち方で卑しくも貴くもなる」。私はこの学校を立てるとき、あのスペインの哲学者オルテガの言う「精神的貴族」を目指していこうと決意した。これは経済的に貧困である私にも、立派に生きられると感じたからほかにない。保護者も自らの姿勢を正すべき。子どもには勉強だけさせといて、自分は何もやってもいいということにはならない。子どもは慎重に親を見ている。そして教師も。

良くも悪くもその結果は必ず現れる。善因善果で悪因悪果である。何度でも言うけれども子どもは親を見ていて見抜いているところもある。小学校の高学年になれば、言ってもいいことや言わない方がいいことなどをきちんと分けている。子どもの顔にも、笑いの中にふと陰りがあるときもある。そんな悲しい思いをさせてはならない。

親の言い分を聞く

親の言い分を聞くと言っても、私の耳は今手術中で良く聞こえない。このまま聞こえなくても何ら問題はなさそうである。私の古い友人や先輩方は、「どうせ人の意見は聞かないのだから、今のままでもいいんじゃないの」と言っている。しかしこれは間違いだ。聞こえていても頭の中で即座に取捨選択できる技術を、自然な形で取得してしまっているのだ。だから聞いていないのではなくそれに答えないだけのことだ。

しかしそうは言っても、保護者が聞きたいという事柄については、正確に丁寧に説明する必要があるだろう。まず絶対に変えないのは、当たり前のことだが理念である。その他には絶対にと言うものはない。子どもの様子を見て、カリキュラムを変えたりもするし、急きょ時間割を変更したりもする。通学バスの路線は、4月に決定したものを1年を通して運行する。途中での変更はしない。給食については現行を維持する。幼稚園給食とあるのは、幼稚園で作っているからで量的なものは小学生に合わせている。

また幼稚園給食は、管理栄養士のもとで非常に食材に凝ったものを使用しており、幼稚園では保護者に喜ばれている。初等学部では全給制度をとっており、どうしても不満だと言う方は弁当に変えても結構ですが、途中で変更はできません。それに人事の件での批判はご法度です。また事前に人事を探ろうとすることもご法度です。もう一つ絶対的なご法度があります。それは教師と保護者との癒着です。

何人かの質問を受けております。保護者の方もわが子の将来のことですから真剣にならざるをえません。忙しいのはお互い様ですが、私は原則としてお会いしてお話をすることにしています。質問は責任者である私が受けてお返しいたします。結果として決裂してけんか別れになるか、それとも方向性を理解し共有できるか真剣にやりたいものです。話をする際にも基本的なことは子ども達の幸せへの道程です。価値観が違えばかみ合いませんので、主題からかけ離れた会話しないようにしましょう。

あおば台幼稚園では、保育について異議あるものは異議は言わなくてもよいから退園するように言い渡してあるので、問題が全く起きません。私立だから自分に合った幼稚園を探せばよいことです。これはなにも私が威張っている訳ではありません。保護者はそれぞれに意見を持っていて、しかし全員の意見を集約はできないだろうと言うことを理解しているからです。それでいておやじたちもみんな仲がいいのです。

青葉台初等学部は児童が少なくて経営が大変だなどと、まったく余計なお世話である。私を信頼して下さる保護者がいて、私を慕っている子どもたちがいる。これ以上のものはいらない。そのような人が一人でも二人でもいれば、私は命がけで信頼に応えるだけだ。経済的なものは後から必ず付いてくるものだ。そう信じているから、全く心配はしていない。

両幼稚園の年長が小学校見学に来た。最初は緊張している様子だったが打ちとけるのが早い。初等学部の児童もみんな幼稚園生とは違うんだという意識が高く、よく面倒を見てくれる。特に6年生は職場見学で幼稚園へ行っているので「○○ちゃん覚えていてくれているかな」と言って、子ども達を探している様子もあった。6年生もよく子どもたちの名前を覚えているものだと感心した。今日は寒かったので熱く蒸した肉まんがとてもおいしかった。

立派な年長違反第1号

立派な年長ではない行動をとった子が、教師に賞状預かりとなった。第一号である。毎年ある現象だから、そうなったからと言っても心配はいらない。むしろそのような子によってクラスが一丸となったり、仲間関係がより一層深まったりもする。その原因は何かと言えば、まったくどうでもいいことなのだが、この時期はそういった細かい心の動きをどうでもいいと捨てきれないところに、幼児期教育の深みがある。

まずどうなって賞状が預かりになってしまったのかを、保育者も一緒に子どもたちと話し合って共通理解をする。それでは賞状はいらないのかそれとも必要なのかを子どもたちに議論させるのだが、全員が絶対に必要だという。そのころになると一号君は声を出して泣き出してしまうが、周りの子は一号君の肩にそっと手をかけて慰めようとするが、涙は止まらない。大体まだまだ自己中心的なところが強く残っている年齢だから、何をどうしようか、どうすればよいかの結論を出すのには時間がかかる。

一日置いて園長との話し合いになった。私の前に現れたのは一号君と彼を応援した男女4名の仲間たちである。園長室で、賞状をもらうときと同じように、私の前に並んで「賞状を返してもらいにきた一号です!」という。それに続いて「応援に来た○○です!」と全員が言う。「それで賞状は返してもらえるの」と聞くと、一同がうなだれて沈黙に変わる。皆は園長先生に「一号君は立派な年長だから賞状をあげてください!」と言ったけれども、本当は違っていたのかと言うと、「仲間だから返してほしいんだ!」と言う。

じっと子ども達を見ていると、一人ずつ涙をためながら懸命に訴えている。花粉症のために近くにおいてあったティッシュボックスを差し出すと、めいめいにそれをとって涙をふき出した。一号君もこれには耐えられず声を出して泣きだした。そして私は賞状を一号君に返すのではなく、応援に来た4人の仲間に返すことにした。それで全員が納得したようだった。子どもたちの心は本当にきれいだから、濁っている大人が悪戯にもてあそぶようなことにならないように心した。

初等学部も3年を過ぎようとしている。何をするのでも3年や4年は無我夢中で気が付いたら月日が流れていたということが多い。新しいところは特に雑音が多いのも、世間の習わしだ。世間は無責任だから、言い放題で粗さがしの名人でもある。弾が飛んできたり、矢が飛んできたり、槍が飛んできたりもする。これはよけてばかりいるとやがて当ってしまうものだ。時には跳ね返したり、飛んでこないところで一休みもしなければならない。

何を言われても何をされても動じない心境が大切だ。いわゆる不動心だ。私は自分で作った初等学部には夢がある。その夢は入学説明会のときに何度も説明をしてきたし、保護者とともに共有できると確信を持っている。だからこれから先も決してぶれないし、めげないし、負けない覚悟が十分にできている。私がフラフラしていたら、子ども達に何が残せるというのだろうか。子どもを守り、健やかに幸せの方向へ向けてやるのが私の仕事であると、強く認識している。

兵隊

『内憂外患交々来る』というのがある。まさに言いえて妙である。世の中はいいことばかりではないけれど、そう解っている上にまたまた内憂外患交々来てしまう訳だ。その繰り返しが人生なのかもしれない。毎日ニコニコと笑顔で暮らすことは至上の歓びだろうが、そうはいかない方が人生の長い間には、多分多い。それでも書物などには「わが人生悔いはなし!」などと精一杯の強がりを言ってご臨終というのが多いのは何故か。精一杯の人生への皮肉なのか。

水木しげるさんは、初年兵としてラバウルへ行ったが、彼らを最後に新しい兵隊は誰もラバウルには行かなかった。だから水木さんはずっと初年兵のままでラバウルで終戦を迎えたことになる。定かではないが2年ぐらいはいたらしい。毎日ロッキードの爆撃にさらされ、うまいこと弾に当たらずにいたけれど、小隊で移動の最中に現地の組織に襲われ、仲間とは生き別れ、三日間もジャングルの中をさまよっていた。椰子をとりその中の水でのどの渇きを凌いだ。

地上戦で交戦する前は、毎日陣営作りと小銃の手入れに飯盒洗い。たまに上等兵のふんどし洗いもしたらしい。そして気に入らなければビンタが飛んでくるという毎日の生活だ。しかも自分より新しい兵隊が入ってこないのだから、やられっ放しだ。そんな毎日を暮らしていて、自分のいた小隊が全滅になって三日もジャングルをさまよい歩きやっと日本軍の兵舎にたどり着いたら、「小隊が全滅したのに何故生きて帰ってきたのか!」と怒鳴られたそうだ。人間不信になったとある。

戦争とはとんでもないことである。兵隊のそのような生活は何も日本ばかりではない。他国の兵隊もとんでもない生活を強いられたことは、外国の戦記にも色々掲載されている。ただ日本は武士道というのがあって、精神論が前面に強く出されるので困る場合もある。竹やりではどうやっても戦闘機には勝てないだろう。その精神を鍛えるのにビンタがある。これは兵隊にだけあったのではない。戦後の学校はどこもかしこもビンタばかりだった。ビンタは手っ取り早い統制である。

ビンタでもしなければ統制のとれない男どもは今でもいるが、こんなことで言うことを利かせても空しくなるだけだ。あれは統制ではなく、統率者の欲求不満のはけ口ではなかったのかと思う。水木しげるさん生きて帰ってきて本当に良かったと思う。結構要領が悪くて、誰よりも多くのビンタを頂いたらしいけれど、生きて帰ってきてくれてありがとう。これからももっともっと生きて、素晴らしい作品を残してほしい。

汐見俊幸先生とその御一行様が青葉台初等学部を見学に来た。早速できたばかりの桜の木の上のバンブーハウスにのぼり、子ども達と記念写真を撮っていた。川を作った時の土山の上に上がっては、ニコニコしながら下を向いて楽しんでいる。川を見て「夏には必ず来るぞ!」とニヤニヤ。私よりも年寄りなのに子どものような感性をお持ちでいらっしゃる。あの中央教育審議委員の先生が・・・・とても親しみやすいお人柄であった。松永先生は第二幼稚園の子どもたちの前で腹話術をして遊んでくれた。いつもいつもありがとうございます。

もう一つついでに

中等教育学校(中高一貫校)にしても、小中一貫校にしても、大体3つぐらいの形態がある。ひとつ目には同一敷地内に同一校舎の中で生徒が授業を受けるという形と、同一敷地内に小中高の生徒の校舎が併設されてあるというものと、学校が同一敷地ではない提携という形をとるものがある。だから土浦にできた真鍋小と第二中学校の関係や、つくば市の幼少一貫にしてもどのような目的と配慮があるのかをよく調べることが必要だろう。

今日は初等学部の6年生があおば台幼稚園で職場体験学習をしている。年少から年長まで各2名づつの配置で行われている。事前に各クラスの現在の子どもの様子や、各学年の狙いと活動などがプリントされている用紙を渡してある。幼稚園の保育者が、6年生のために一生懸命作成したもので要点がしっかりと書かれてある。そのプリントを今日見せてもらったが、プリントそのものを全部暗記したとしても理解するのは困難だろう。むしろ面喰ってしまっているのではないか。

まず活動の中に6年生は入れないだろう。小学生が来てもあおば台の子ども達はべたべたとまつわりつかない。自分たちでやることがあるから、6年生を気にかけていられないのだ。だからほとんど無視されているだろう。自ら入っていこうとしないとだめだと言っても、高校生でもなかなかできることではないので、6年生にしてはよく頑張っている。

そうこうしているうちに6年生が帰ってきた。開口一番「あ~あ疲れた」「幼稚園の先生は大変だ…あ~あ先生にはなれない」と溜息交じりに言っていた。「みんなのお父さんお母さんは毎日働いているよ」「仕事をするということは大変なことだ」というと無口だった。それでも中には楽しく遊ぶことができたと感じている子もいるはずだ。いずれにしても初めての体験だろうし、有意義であったことは間違いない。

小中一貫教育Ⅱ

私がやろうとした小中一貫教育をさらに高等学校も併設して、幼稚園から高等学校まで考えていることと、市町村が考えている教育課程の編成と理念についてはまったく異なっているもの
である。はっきり言えばこのたび建設されたつくば市の小中一貫教育の理念が見えてこないので何とも言えないが、保護者のみなさんは中等学校〈中高一貫教育〉と混同して理解しているのではないかと思う。小中一貫教育は人間形成の、主に内的な成長を重点的に行う学校であり、中等学校は、それに大学受験を加えたものである。

公立における中等学校は市立中学校と県立高等学校の併立で、原則中学校登校範囲によるもので、学力的な選抜試験は行わないのが通例である。また高校入試のための学力試験もなく、まさに中高一貫教育である。私は、小中一貫教育と中高一貫教育の違いを解りやすく書いたが、これは理念であって私がそう思っていることなので、それがそのように定義づけられたものではない。また公立における中等学校の入試の形態を書いたけれども、選抜制の私学では入試が必ずある。

私言いたいの、はつくば市にできた小中一貫教育に関して、周囲の保護者は色めき立っている節があるけれど、今までの小学校や中学校となんら変わるところがないと思うので、ゆっくりとその推移を見守ることの方が賢明であることを伝えたいのだ。表札が代わっても、中の住人が変わらないのだから、何も変わらないのと同じことではないか。私が小中一貫校を建てた時に「なるほど」と思われるような学校を作る。

青葉台が何故今中学校を作ることができないのか。県の総務課の役人が、私に「教育基本法の学校種に記載されていないからできない」といったことは明らかに間違っている。小中一貫校は現実にあるし、その辺のところは県も理解している。設置基準の中学校の生徒数にしても480人以上というのは、これまた現状から全く遊離した基準であるということが県が理解されていない。しかも県知事の認可であるから、頭の良い知事が現状を認知してくれれば解決することである。

一番の難題は、学校運営が初等学部だけで展開できない現状である。借入金はともかくも月々の固定費が生徒納付金で賄えるようになれば、すぐにでも県に申請を出すつもりでいる。お金がないからできないということではない。経済的に裕福になるのを待っていたら、あの世にいってしまう。生涯無理な話だ。この学校が数字の上だけでも回転してくれれば小中一貫教育はできる。私は「できる」ということしか考えていない。いつできるのかは言えないが、期待して頂いて結構である。

このように前を向いているときには闘志がわいてくる。ちょっと振り返って幼稚園に目をやれば、ある年中さんの言葉に『私はもう赤ちゃんじゃないの…子どもになったの』と言ったことを保護者から聞いた。こんな子ども達に囲まれている保育者は幸せだろうし、私も幸せだ。もっと幸せ感の充足しているのはご両親だろう。幸せになってほしいと心から願っている。

昨日初等学部の餅つきのためにかまどにくべる薪を作ってくれた。若いお父さんの振り上げた小野が、丸太を真っ二つにする『カーン』と言う気持ちの良い音が鳴り響く。さすがに若いお父さんは躍動的である。その周りに6~7人のお母さんが、それと同じようにやろうとしているのを見かけて、そのパワーは認めるけれどやめてほしいとお願いした。彼女たちは割れた薪を手際よくまとめ、その周りをすっきりとしてくれた。幼稚園も初等学部もよく動いてくれるお母さんたちだ。一緒にいる仲間たちという実感がある。心から感謝している。

小中一貫教育

小中一貫教育は学習指導要領等によらない特例制度を活用したものの取り組みとして、構造改革特別区域として全国で17件、研究開発学校制度として全国で22件ある。いずれも平成18年4月現在なので5年前の資料である。最近近隣市で小中一貫教育をうりものにして設立された学校があるが、市町村独自でそう決めたからと言って小中一貫校として国としては認めてはいない。しかも何の理念のないところで、そのような学校ができたからと言って何の意味があるだろうか。

新たな教育課程の編成や、カリキュラムのあり方が何を柱になされているのかを確認する必要がある。小学校と中学校を併設したからと言って、にわかに子ども達の質が変わる訳ではない。公立にあっては初めての取り組みだとしたら、まず教師がその理念を徹底して頭に叩き込まなければならない。一人一人が機関車のけん引のように、自ら率先してその理念を広げるくらいの情熱がなければ、絵に描いた餅になってしまう。

このようなものは、私が小学校を作るときに小中一貫校を目指していた時に学んだものである。県の担当官は、小中一貫校は作れないと何度も私に繰り返し言っていた。その理由として、教育基本法に則った学校種の中に小中一環と言う学校が記載されていないからと言う理由であったが、「それは違う!」と言い切れないものが私の中にあった。そのような議論をして、初等学部建設に支障があってはならないという懸念があったからである。

いくつもの障壁に出会って、そのたびにそれを超えるたびに何度もへりくだった姿勢でいた自分が、今思うと情けないと思う。小中学校9年間の子ども達との生活は魅力である。誰が言い出したのか2・3・4年という教育課程の編成などが一般的であるけれど、子ども達の発達理解や、発達心理から行くとこれはどうも違う気がする。私は1・2年生は全く別の世界があると思っている。4年生の発達は人としての自律のときで、混沌とした自我からはっきりと独立する時であるように思っている。

それでは3年生はどうするのかと言うと、4年生に近づいていると言うより、2年生に近い一番のヘッドであるので、1・2・3年生は一つにくくってもいい。4年生から中学1年まで、はっきりと自我が独立した4年生から思春期までを人間として修練を積む。本来は中学2年生から高校1年生までをくくりたいのだが、中学校までであると中学2年生と3年生をくくる。学問と異性について両立させなければならない大変難しい時だ。いずれにしても、選抜のある私学でないと小中一貫は難しいだろう。

現在の青葉台初等学部では、私の考えている小中一貫校の教育課程の編成のようにはいかないけれど、幼児教育から学んだ発達理解を基礎に、子どもたちの心の育ちを十分に理解して、6年生までの間の育ちをどこにも負けないという自負心を持って、共に生活していきたいと願っているしそう努力していきたい。中学校を建てるという信念はいささかも後退していない。むしろ毎日少しずつだが燃え広がっている。それまでは死なないし、心配ない。

保育参観

両園ともに年少の保育参観が終了した。一日一日成長していくわが子を見て、ご両親もさぞ目を細めて見つめているのだろうと察する。母親がわが子を見つめてほほ笑んでいる時の姿は、至福に満ち満ちている。子どもも、また母親も生きていることに満足している姿だ。子どもも多分、生まれてきてよかったと、言葉で表すことができなくても五感を通して十分に感じているはずだ。あのにこやかな柔らかい笑いは何物にも代えがたい至宝だ。

急がずに、一瞬一瞬を大切に、親子でいるときの流れを体中で感じて、共に幸せに暮らしてほしいと祈っている。いずれにしても時間が止まっている訳ではないから、この先色々な物や人に出会ったりし、仲間関係などや、他者との関係についても学んでいかなくてはならない。だからと言って先取りするようなことはやめて、今を大切にすることが将来において伸びやかなゆとりのある人間性を構築することができる。ゆったりと育てられた子は、他者に寛容になれるのだ。

自分とわが子に自信を持って生きていってほしい。自分には何が足りないとか、具体的に他人と対比してあれこれと欠点を探るような愚かなことをしてはならない。どのように努力しても完璧と言う訳にはいかない。私たちは、神や仏に優らないようにできている。だから全くの不完全だ。だからこそ、助け合い支え合わないとうまく世の中を渡れないようにできている。自分ばかりが足りないのではない。私も隣の人もみんな不完全だ。子を思う親心は、だれにも負けないではないか。それでいい。

今日は唐揚げ定食を作ると言う約束になっていて、幼稚園からトンで返して初等学部に来た。からりとキツネ色よりも濃く揚がった鶏唐は、子どもたちの大好物だ。だから誰も無口になっておいしそうに食べている。私のとっても嬉しい時間だ。こんなことができるのも今のうちだろう。何人ぐらいまでできるのか挑戦をしてみるけれど、100人を超えたらここに厨房を作って私は引退だ。早くそんな日が来てほしいものだ。

危機管理

何度か人生の中で危機に直面することがある。これは誰もが経験することであるが、その時自分はどのようにして、その危機を乗り越えてきたかということは、殆ど覚えていないのが実情であろう。人間て不思議なもので、不幸に陥った時のことはあまり具体的に覚えていない。そのせいなのか、災害を未然に防ぐ方法をテレビなどで盛んに言われているけれども、それでも防ぐことはできない。

油断と言えばそれまでだが、油断しているという自覚はないけれども、まさか自分はそのような目には合わないという根拠のない自信がある。時には根拠のない自信が必要な場合もあるが、ことが社会的現象に及ぶ場合や、広域的な災害などは、自分だけを避けて通っていくことはないだろう。これからは解決しなければならない社会問題が山積している。いつも人任せにしていると、いつしか取り残されてしまうことになるのではないかと危惧している。

日本人は従順というかお人よしなところがあって、問題が身近に起きても誰かが解決してくれるだろうと、なるべく自分の問題というようには取り合わないようにすることに慣れている。良いことなのか悪いことなのか、それが見て見ぬふりをする学習に一役買っている。余計なことを言って、火の粉がわが身に降り注いでくるのを避けようとする。孫子の兵法、「君子危うきに近寄らず」である。しかし「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という諺もある。

TPPの問題を何度か書かせて頂いたが、私が何を言ったところで反映されるものではないけれども、問題意識を持ってその推移を見つめていくことは大切なことだ。自由貿易の拡大で日本はどうなったのかを、生きた教材として子ども達に伝えていくのは、私たちの責務である。大きな社会事象のうねりが子ども達を巻き込んでいく。その時に、どの位置に立っていればよいのか、正確な示唆を与えることができることが肝要である。自分はそうありたい。

米国はオバマ政権になって、3兆ドルの赤字を作った。ポピュリズムに徹した結果である。その赤字になった分を印刷してばらまいたものだからドルは暴落した。日本も負けずに印刷して円をばらまけば多分円高は防げる。ドルを印刷して株投資に回すから株は下がらないけれど、雇用統計は改善されないし、主要産業の住宅建設についても斜陽である。今や米国国民がドルに不信感を持っていて、ニクソン以来の金本位制に戻す動きすらある。米国が咳をすれば日本は風邪をひくんだ。

栗ご飯

食べ物の話ばかりで恐縮であるが、今日はあおば台で栗ご飯を作ってきた。みそ汁の番だけしていたのだけれど、一応は私が栗ご飯を作ったということになっている。ご飯は塩加減を、みそ汁は味噌の量と味付けが私の仕事である。それでも子どもたちが来て「園長先生ありがとうございます」と言っていく。全く得な役割だ。各クラスに配膳をして食べ始まると「世界一おいしい!」という声が聞こえる。大したことがなくても、子ども達はありがたいものだ。

子ども達に派手に喜ばれると、サンマもやって見るかという気にもなってくる。保育者はやる気でいるようだ。幼稚園の先生の素晴らしいところというのは、子どもたちの喜ぶことをするのには何でもやってのけると言う、母親の根性にも似ているところだ。「面倒だ」とか「大変だ」というような、逃げる態度が皆無だ。お嫁さん候補ナンバー1であった時代があったが、頷ける話だ。ちなみに現在のナンバー1は看護婦である。まったく余計な話であるが・・・。

TPPは直接的に国民の暮らしに影響する。だから慎重にならざるを得ないが、今ごろなぜ唐突にこの問題がクローズアップされているのか。どじょうが、アメリカ大統領と約束してきたのではないかという噂もある。いつも米国の人気の落ちた大統領は、様々な手段を使って友好国に難題を押し付けてくる。矜持の心を持たない軟弱日本は、いつもカモにされている。国際貢献しろと言われて、大変な額を国際連合に拠出もしている。本来拒否権を持つ国が、その大半を担うべきではないか。

TPPの問題と言われているのが4つある。医療の問題、郵政簡保の問題、農業問題、公共事業の問題である。医療の問題としては、国民皆保険が自由診療となると崩されると言っているが、よく分からない。郵政簡保の問題は、株式を公開しろと言ってきて、多分外国人が参入してくるだろうと言うことだが、そんなもので郵政簡保が崩れるとは思えない。農業問題は深刻だ。日本の農業が壊滅状態に陥るだろうと言っている。いわゆる日本農業は米国に太刀打ちできないと言っている。

関税が撤廃されたら日本の農業は全滅という。関税のおかげで農業が成り立っているということを、堂々と言ってのける神経の麻痺状態。その分だけ国民は高いものを買わされているのではないか。彼らを助けるために、国民は余分にお金を出しているということを感じてほしい。公共事業に外国の参入を認めてほしいと言っている。この辺は良く分からない。日本の事業者が困ることはわかる。色々あるけれど、なぜそんなに性急にしなければならないのか。もう少し周知徹底した方がいいのではないか。そう思う。

レンコン

昨日話した「あしながおじさん」のところから頂いたレンコンの量が、ハンパじゃない。見た目には驚くような感じではないけれど、いざ料理に使うとなると、あるわあるわで天ぷらにすると言っても「どうする?」と顔を見合わせるほどのもの。頂いた10分の1ぐらいのものを洗って皮をむいて、厚いもので5ミリ程度のものだが、それを早速天ぷらに揚げる。カラッと揚げて早速口に頬張ると本当においしい。ついでに色々なものを天ぷらにするのだが、レンコンは全て完食で残らなかった。

あの量のレンコンを、どのようにして子ども達の腹の中に入れるかが問題である。何とか子どもたちが喜びそうなものを発案して、どうにか完食したい。私にとっては最高の嬉しい悩みだ。まったく欠食児童の時代を生きてきたものは、食い意地が張っている。戦後間もない頃、食うに食えない状況があちらこちらにあった。しかしみんな歯を食いしばって何とか頑張ってきた。私の家の両親もその部類で、新しい教科書を買うどころではない。まず食わなければならなかった。

勉強ができないのを教科書のせいにするつもりではない。生活保護世帯が、あの戦後のひどい時期よりも増えているという話を聞いたので愕然としている。生活保護世帯というのは、屈辱的なものだから、誰もがそこへ手を出さないで頑張ってきたから、戦後の復興を早めたのだともいえる。今は生活するにも格差があって、富める者と貧者との差があまりにもあり過ぎると言う。本当だろうか。かくて、生活保護を受けるのは、各部落に1世帯あるかないかであった。その世帯にはテレビも電話もないのだろうか。

あの時期よりもひどい時代になっているなどと到底思えないし、全く夢の中にいるようである。だとしたら、この現況から抜け出るには大変である。それはこれから来そうな世界大恐慌である。EUの債権の問題に端を発し、ギリシャの次はイタリヤである。イタリヤはGDP比率で120パーセントであるにもかかわらず、その震度は大きく、フランスでは赤字削減に国が動いた。日本はGDP比220パーセントである。必ずEUの債権を抱えている国には、少なからず近い将来不況の大波が来る。

子どもたちの将来を希望の持てるようなものにしてあげよう。さんざん60年以上も生きてきた者は、将来のある者のために余生を生きていこうじゃないか。もっとも先ほどの生活保護世帯が増えている話では、どこから進めてよいのやら困ったものである。私たちは将来を見据えた上で、子ども達に生きる力を授けていかなければならない。これからが大人として真価を問われる時だ。保護者も、私たちも共に腹に力を入れて頑張っていこう!。レンコンのように、先が見えないのが悔しいけれど。

美味しい昼食

今日は焼きそばだ。焼きそばの日は、幼稚園も初等学部もたくさん食べるので、あおば台にある厨房施設では、飽和状態になって作りきれなくなるので、初等学部の分は私が作ることにしている。いつもはみんな揃ってから学年の係りの子が『いただきます』をしてから一斉に食べ始まるのだが、今日はできた順から食べることにして、温かい焼きそばを食べた。皆がおかわりをするので、大人の60人分があっという間に終わってしまった。最後は1枚のキャベツや紅ショウガを争って食べている。中には『まだ僕は3杯しか食べてない』と不服申し立てをしている子もいた。

こんなに食べるなら1カ月に1回ぐらい作ってあげてもいいと思うが、どれくらいの人数までならできるのか見当もつかない。6年生が近くに寄って来て、驚いたように「わーおいしそう!」とか奇声を挙げて、挙句に「校長先生が焼きそば作りなんて、ほかの学校ではないよね」などと言っている。それが耳に優しくて気持ちがいい。腰が痛くて座りたくなったが、我慢しなくてはという気にもなってくる。早く6年生、違うところへ行ってくれないかな~と内心思っていたら、なんと椅子を差し出してくれた。

作り方のコツを覚えたから幼稚園でもできそうだ。今度手伝ってもらって焼きそば作りに挑戦してみよう。少しでもお母様の弁当作りのお役にたつのなら本望である。まあ今年中には結構行事があったりしてできないかもしれないが、必ず作る。幼稚園では私が食事作りをやることが保育になるけれども、初等学部は授業とは直結していない。食事作りが学校生活の中に位置付いていないということだ。これが青葉キャンプだったらそのまま授業になるのだけれど。

明日は天ぷら定食だ。あしながおじさんのところで採れたレンコンを学校で頂いた。レンコンと言えば正月に食べる酢の物や煮物に代表されるが、私はあの固さ加減が好きになれなかった。しかし家庭科室にあったレンコンを気軽に「天ぷらにして食べてみよう」と言ったことから、レンコンの天ぷらのうまさが病みつきになって「こんなにうまいんだー!」ということになった。その大好きになったレンコンの天ぷらを明日作る。レンコンだけという訳にはいかないので、野菜のかきあげや、ナス、ピーマン、サツマイモといったところも天ぷらにする。

そんなことを書いている私のところへ、4年生が全員で来て「3.14x☐」「この☐の中に16までの数字を言ってください」「暗算で答えられます」と言ってきた。なるほど答えを全部暗算でできるのではなく、答えを暗記してきたのだなと直感したが、一応16までの数字をいくつか言ってみると、全員で楽しそうに口をそろえて答えを言う。のぶTと話していたら、いちいち計算していたのでは試験では間に合わないと言っていた。なるほど、これが一つ上の算数かと感心した。

幼稚園児と小学生

幼稚園の中を歩いていると年長さんは『おはよう!』と元気な声で挨拶をしてくれる。年中少さんは大体まつわりついて来る。そして一方的に話しかけて来て、その話は取り留めもなく続く。主語を言わない話だから、何を言っているのか分からない。それでもしっかりと目を見て話を聞いてやらないとと思ってじっとしていると、話が終わらないうちに「バイバーイ」とか言って離れていく。一生懸命話すことを楽しんで、話し方を獲得する学習をしているのだ。聞いてやらないと話はしなくなる。

年少さんがダンボールでお部屋作りをしていて、出来上がったお部屋で楽しそうに遊んでいる。楽しそうと言っても、入口らしいところから出たり入ったりしているだけで「キャッ!キャッ!」している。そんなものだけれども、とろけるような顔をして、いかにも満足そうに笑っている。不惑の世界の天使たちだ。そんな子ども達を観ながらほほ笑んでいると、そこへ男の子が割り込んできた。思わずどうなるのかとかたずを呑んでみていると、女の子から猛烈な抗議の嵐で、それでも平気な顔をしている男の子は、女の子の実力行使にあって、足を引きずり出されてしまった。

その時に顔を少しこすってしまったらしく、痛そうにして泣きながら私の方を見ている。女の子たちは『大丈夫?』と心配そうに頭をなでてあげているが、気が入ってない。だから男の子は泣きやむ気配がない。まだ私の方を見ているが、私は何も言わずにその結果を見ようとしていたら、女の子たちは全く無視して次の部屋へ移ってしまった。まだ男の子が泣いているので、肩を抱き寄せて言ってあげた。「女の子は強いんだ、お前も強くならなくちゃ・・・なっ!」。男の子は泣きやんだ。

芦田愛菜ちゃんは何故可愛いのか。あのままじっとしていたのでは、いくら可愛い顔をしていてもやがて飽きが来る。あの顔と動きがうまくセットになっているから、可愛さが無尽に果てしなく広がっているのである。幼稚園での子どもたちの動きで、それが確かなものであることを確信した。つぶらな瞳で懸命に動き回る様子は、見ていて飽きないしうっとりするものがある。そのうちじっと見ていると、ひっくり返りたくもなる。男の子はあちこちと破壊し回っていて、うっとりと見られることはこの先もないだろう。可哀そうな一面もあるのだ。同性としては、ただひたすら励ますのみである。

そんなことがあって初等学部に来ると、野球場で子どもたちが遊んでいる。馬小屋の方から見ると、子どもたちが小さくしか見えなくて、ごちゃごちゃと交差しながら飛びまわっているのしか見えない。やがてその子どもたちが教室へ戻ってきた。やんちゃな1年生である。私がクラスに入ると、結構静かに席に着くことができる。そして一人の男の子が「野球場楽しかった人手を挙げて!」と立ちあがって言う。良くある風景である。すると男の子たちが「はーい!」と相談でもしたかのように手を挙げる。女の子はそんなことには無視。幼稚園も1年生男子もあまり変わらない。

学校説明会と入園考査

幼稚園では平成24年度入園考査が行われ、初等学部では今年度最後の入学説明会が行われた。午前中に両園を見てと思っていたけれども、右の耳が全然聞こえないので近くの耳鼻科に行ってきた。そんなことであおば台幼稚園だけを見ることができたが、第二には行けなかった。耳は小さいころ中耳炎をやったことがあるので、それが原因しているという。もう半世紀も前のことだ。どうも水が溜まっていたらしくて、それをプシュッ!と抜いたら少し聞こえるようになった。治療を続けたらもう少し聞こえるようになるらしい。なんだかとってもありがたい先生だ。

学校説明会は、もう何度かやっているので、そのたびに目先を変えたお話を心掛けてはいるものの、引き出しの中が空っぽになると恐怖を感じる。どうせ自分はこれしかないと言い聞かせても、保護者の圧力は凄いモノがある。昨日の説明会で、私の35年の幼稚園園長生活を振り返って、多くの保護者との懇談会や、話し合いから抽出してほとんどの話し合いが母親の悩みの解決であった。そこから、本来母子は向き合って、微笑み返しをしながら、幸せ感を持ったり人生の充実感を持つはずなのに、苦労や苦痛の話ではだめじゃないか。母親が幸せにならなくちゃ・・・・と思った。

幼稚園でも「子育ての基本は何ですか」と問われたときに、私は即座に「母親が幸せになること」と応えている。しかし日本の母親の多くは「私が犠牲になってもこの子だけは」と、野口英世の母親の残像に重なり合わせる。それで野口英世は幸せだったのだろうか。彼は母親の葬儀にも研究で忙しくて出席していない。彼は多分母親に感謝こそすれ、自分が幸せだったなど感じたこともないだろう。

母親の苦労や苦痛な表情を見て、どれだけ大金を積まれても幸せになれる子はいない。母親の笑顔こそ子どもの生きる希望であるし励ましなのだ。もともと日本には「犠牲になる」という概念は存在しなかった。つつましい生活態度の中から、自然に助け合う心があった。「犠牲こそ究極の愛の証である」と言ったのはフランスの詩人。いかにもキリスト教的な発想であるが、私はそうは思わない。人は助け合い、励ましあい、共鳴し、共に手を携えて同じ方向を向いて歩いて行けることこそ、究極の愛の姿だと思っている。「犠牲」はやめよう、周りを困惑させるだけだ。

今日は初等学部の子どもたちは行方郡へハンドボールの試合に行っている。彼らは非常に燃えている。この前の試合で初めて勝ったので、その勢いもある。三島由紀夫の書いた『葉隠れ』に、「死に物狂いという狂い方がある」という文節がある。この時期こそ彼らはそれに没頭できるのであろう。私は幼稚園で事務の仕事だ。これから長い道のりだから勝敗はどちらでもよいが、何か一つでも閃くことがあれば、それこそが大切だ。

TPPに一言。尊王攘夷ならぬ尊農攘夷である。かつて開国派の幕府と尊王攘夷派が戦い、結局幕府は大政奉還を強いられ、事実上攘夷派が実権を握ったが、その展開は思いもかけぬ速さで開国へと向かった。今は平成の開国騒動である。この問題の意見は、この紙面ではとても書ききれない。

ファミリア

ファミリアとは家族と言う意味だけれども、ファミリアで食べる5年生が作る自炊給食は実にうまい。おかわりの列が長蛇の列だ。全児童合わせてもたいした数ではないから長蛇といってもたいしたことはないけれど、1・2年生を気遣う3年生5年生の姿にうっとりする。確かに家族と言う気がする。優しさが育たなければ本物の強さは育たないから、とても良い傾向にある。

昨日1年生と2年生に泥んこパンツの購入を勧めたが、2年生の女児については家族の判断に任せますので強制はしません。大きなユンボがあるので田んぼを造ったり、泥んこプールを作ったりします。

幼少期はなぜ泥んこが好きなのかとのお尋ねがありました。
別に好き嫌いというジャンルでくくることではなく、内面にあるもやを吹き消すには泥遊びは最適です。しかも泥につかって周りを気にすることなくそれに没頭できることは、自己を開放することであります。それは夏にしかやりません。泥のぬくもりと母親のぬくもりを一緒に感じられるのでしょう。そうして気持ちを安定させていくのでしょう。もうひとつ、泥は子ども達の身近にある科学的な道具であるのです。水の加減によってどうにでも変化するとても感動的なものであります。

気持ちを安定させるだけのものなら、泥遊びに限りません。新聞破きや何でもいいから破壊的行動など、塗ったくり。全てストレス解消になるけれども、泥んこプールなどは最高にいいだろう。これは何も幼稚園の専売特許ではない。小学校低学年でも必要なことなのだ。「もう小学生なのだから服は汚さないで!!」などと無理解なことは言わないで。汚してくる服を洗える幸せをかみしめて欲しい。

内面の育ちはその年齢に応じた育ちを大切にしよう。能力はいくら磨き上げても良い。しかし年齢にあった言葉遣いが必要だし、遊びが必要だ。

初等学部のことばかり書いているようですが、幼稚園が基本ですから二つの幼稚園に行って気がついたことがあると、保育者を呼んで耳打ちをします。幼稚園も小学校も大切なことは子ども達が明るい笑顔を保っていること。気になることは一人で寂しい顔をしている子はいないかということです。今楽しいと感じていることの持続こそが幸せになる道です。私達は皆ファミリアですから。力を合わせて楽しく生きてまいりましょう。

やることがまだ残っている

脳梗塞と言う私には無縁だと思っていた病気にかかってしまった。病院に入る10日前頃からこのブログを書いていて変換すると、めちゃくちゃな文字に変換されていて、打ち方を間違えたと思い何度も打ち直しをしてみても同じ結果しか出なかった。多分パソコンが壊れたと思ってそのままにしておいた。

あくる日に続きを書こうと思って、普段どおりにキーを打ってみるとやはりうまくいかない。きっとこれは脳の仕組みが少し壊れたのかとそのろきはじめて思ったが、しばらく経つと治るのではないかと誰にもそのときのことは話さなかった。今度はパソコンの前に立つのが怖くなってブログもそのままにしておいた。

それから4~5日たって幼稚園で保育者にお茶を出されてそのお茶を飲もうとしたが湯飲みが持てずに、湯飲みを下に落としてしまい、湯飲みを割ってしまった。近くで見ていた保育者数名がすぐに車を用意して私を病院に運んでくれた。半ば強制的に有無を言わさず私を運んでくれた。私もよく素直に従ったと思っているが心から感謝している。

病院で自分の名前を書くときにうまく枡の中に入らなくて、自分自身でも「これじゃほんとに参ったな」と思った。即座に入院となったが、ベットの中で「今はまだやることが残っている。もう少し生かして欲しい」と真剣に祈った。

退院して(ほとんど無理やり)学校に来ると、ある子どもから手紙を貰った。「先生がかかった脳梗塞に良い生活」と不ぞろいの文字を並べて私にくれた。最後に「先生のかかった病名はわからなかったのですが、血管や血流に良いことを調べました」とあった。思い出して書いているだけでも熱いものがこみ上げてくる。「ありがとう」。

書きたいことがあふれている

今日の1年生は幼稚園でも通用するようなすごい動きだ。泥んこプールだと言ってわざわざ蛇口をひねって水溜りを作ってその中に飛び込む。ペットボトルに水を入れて頭からかける。泥水の中に飛び込んでいって水しぶきがあがるのがとても気分がいいようだ。まるで幼稚園の年少さんや年中さんのようだ。結構開放できたのではないかと思う。

2時間ぐらいやっていたけれど、担任も一緒になって泥の中を横断したりして、子ども達に泥水をかけられキャーキャーと言って騒いでいる。担任が一緒になってやってくれるので何も気兼ねせずに没頭して遊びに集中できる。幼稚園を経験している教師だからこそできることだ。ブランコに乗りながら「1時間目遊び」「2時間目遊び」「3時間目も遊び」「4時間目も遊び」と節を付けて歌っている。「オイオイいつ勉強するんだよ!!」と私が言うと、全員が私を無視して「5時間目も遊び」と歌いだした。担任が私の隣でげらげらと笑っている。いい風景だ。

子ども達が緊張感を持たないで堂々とそのような歌を歌っていることはとてもいいことだ。このような生活が学校の中にあるということを体感してくれただけで、これからの授業に集中して取り組むことができるだろう。遊びばかりじゃだめだけれど、教室の中にすし詰めにして机上の授業ばかりしていたのでは、こちらのほうが人間の育ちとして害が大きい。

これからこのようなことを頻繁に取り入れていくので、運動着だけでは着ているものが不足してしまいますので、1・2年生にはあおば台幼稚園で取り入れている泥んこパンツを、全員が購入していただきます。幼稚園と同じ1着1400円です。3年生でも欲しい人は連絡帳でお知らせください。泥んこをやるときにはその泥んこパンツをはいてやります。そうするときれいな制服のままで帰ることができます。

もひとつシャワー室が必要になりました。現在井戸を掘ることで業者の人と交渉中です。井戸ができたら水とお湯の出るシャワーを作ってあげたいと思います。男子の場合は外の馬小屋のところにあります。これはもともと馬のために作ったのではありません。今までそのような遊びがなかったために使われなかったのです。これからは両手両足をびゅんびゅん伸ばして生活できる学校づくりにまい進していきたい。シャワーもどんどん使って、勉強するときは一点集中型で取り組むことが必要です。

大きなユンボ(穴を掘る大型重機)を借りてきました。いよいよ池を掘る作業に入ります。池を掘って、川を作ってそこにカヤックを浮かべ、出てきた土で山を作ってそこで子ども達にマウンテンバイクを走らせる。そんなことを友達に話したら「霞ヶ浦を買っちゃえよ」だって。やるといったらやるんだ。子ども達が私のまねをするんだ。途中で決して投げ出さない。子ども達が描いたアスレチックを頓挫させてはならない。見ていてください。

まずは幼稚園Ⅲ

先日幼稚園の子ども達の黒目の美しさを名状しがたい美しさだと書いたがまったくその通りだ。ただの美しさだけではあまりにも軽軽しい。あの透き通った汚れなきむくな瞳はななにものにもかえられない。じっとみつめているとしばし時を忘れる。美しいものに多くの言葉は要らないが、是非にごらなくても良いものならば、そのままそっとしておきたい。

 

まあその話はあとにして。年少の子が最近よくないているのをみかける。その理由は何かというと、それがどうもわからない。多分集団の恐怖から来るものではないかと思っているが、これは集団に馴染めない子が暴発的にふるいたたせるエネルギーだ。だからその力は強くて十分すぎるほどの爆発力だ。これは、幼児が世に出るためのセレモニーだから余りきにしなくても良い。

初等学部のPTA総会

昨晩の雪が朝方にはうっすらと積もっていた。4月に入って今頃に降る雪など私の記憶にはない。この異常な天候。きっと今日の授業参観と総会を天地創造の神までもが一緒になって喜んでおられるのだろう。お陰で1週間前に満開になった校庭のど真ん中にあるサクラの花びらが落ちない。しっかりと額に収まっている花びらが、とてもけなげだ。そして力強い。

 

サクラの花びらを「力強い」と表現するのはおよそ私が初めてだろう。サクラはその花びらが暖かな春風に揺られて、さらさらとはらはらとゆったりと舞う姿がどうにも日本人の情緒にぴったりと合う。散り惜しむ人間の心の姿がサクラの木の下で行われる酒盛りなのであろう。サクラ散るわびしさを、酒盛りで押し隠してしまう心はとても恥ずかしがり屋だ。これが大和心のウィットだ。

 

あのサクラのこと、ずっと山桜と思っていたがどうも違う。ソメイヨシノではないことは確かなので近くにいる人に聞いてみたが、その名を知っている人はいなかった。なんとも負けず嫌いがいるもので「山桜とソメイヨシノの中間」と言う答えを出した。本居宣長は、古事記をその当時の読み方で編纂した国文学者であるが、山桜を評して「敷島の大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花かな」と詠った。語尾の「かな」が入ると字余りであるけれど、わたしはこのように暗記してしまった。知る人ぞ知るこれが土浦市の町名の由来である。

 

ずいぶん総会の話からそれてしまったが、総会が今終わって職員室の席に座ったばかりである。前段は総会までのウォーミングアップである。昨日幼稚園の父母会の会長のご挨拶についてコメントしたばかりだが、初等学部の前会長に今回の会長のお話もなかなか心がこもっていてとても優しさを感じるものであった。私は事務長から今年度初等学部の児童数と名前の入ったリストを頂いたとき、感激と感謝で思わず手を合わせてしまった。今でも仏壇のところにそのリストが置いてある。生涯忘れはしない。

 

会長のご挨拶は、まだ始まったばかりの初等学部だから、みんなで力を合わせて児童数を増やして楽しい学校生活を作っていこうと言うものだ。私の挨拶は、全クラスの子どもの様子を感じたままに保護者の皆様に伝えようと思って話し出したところ、時間超過で短縮を余儀なくされた。非常に残念である。話して聞かせたいことと、ホームページに掲載することとちょっと違う気がするけれど。子ども達のことをもっと話したかった。

まずは幼稚園Ⅱ

今日は第二幼稚園で父母の会総会があった。ーーーなぜ「まずは幼稚園」なのか。それはあまり初等学部にのっこみすぎて、幼稚園がおろそかにならないための戒めである。幼稚園も初等学部もどちらも100%の力を傾注することは当たり前のこと。是非ご心配に及びませんので安心してお預けください。幼稚園にしばらくいたから、初等学部でカルチャーショックにあっただけのこと、と言えどもそのショックはとても新鮮だ。

 

あの幼稚園での3歳児のポニャポニャプニャプニャした顔のところに、透き通った黒目の愛くるしさは、確かにこの世のものではない。神様や仏様の贈り物に違いない。大切にしないとバチが当たる。ホントのことだ。

 

242人中10人の委任状で232人の参加。この数字が驚異的だ。そこで新しい役員が決まった。前年度会長と今年度会長のご挨拶をフロアーから聞いていましたが、なるほど含蓄のある言葉が並んだ。保育者よりも保育者のようなところもあった。と言うより社会人として成熟に近いのかもしれない。私もしっかり勉強しないと追い越されてしまうと危機感みたいなものを感じたと同時に、あおば台はあのような素晴らしい保護者に支えられてここまで来たのだという、改めて保護者の力に感謝したいと心からそう思った。

 

子どもが脇にそれた行動や、家庭内暴力に陥る原因は主に保護者とりわけ母親の無関心を装う態度である。よくneglectと言う言葉を耳にするが、これがそうである。母親に子どもが言葉をかけているにも拘らず隣の奥さんと話し込んでいて子どもをおろそかにしてしまう。これもネグレクトだ。一度は子どもの話を聞いてあげればいいことだ。自分の意見を一方的に子どもに押し付けるのもネグレクトだ。あおば台ではこのネグレクトを一掃するように保護者の一人ひとりが少しばかり気に止めよう。

 

初等学部ではいよいよ3年生が書いた(設計した??)アスレチック広場の建設にかかる。期待してもらってもいいのだが、私が大将で手下なしだからなかなか進まないと思う。だが理想は遠大である。着実に少しづつ・・・。

まずは幼稚園

まずは幼稚園のことを書く。朝から雨模様で少し肌寒い。三寒四温ではなく二寒三温のようだ。そんな中でも大勢の保護者の皆さんが幼稚園に足を運んでくれて、保護者会総会が盛大に行われた。前年度役員の皆様、特に卒園児保護者の皆様も積極的に足を運んでくれたことに心から感謝したい。ついこの前卒園したばかりなのに随分前のような気がした。多分新しい子が入ってきて、園内の雰囲気が変わったせいかも知れない。

 

いくつかの委員会があって、その委員会にみんなが所属するけど出欠は自由という、まったく拘束力のない決まり??の中で、それぞれに仲良く助け合って生活できたらいいなと思っている。何といっても不特定多数の人たちが仲良くできるというのは最高の人間の知恵だから、そうして笑ってすごしていただきたい。母親の笑顔それが子どもにとって一番の幸せなのだから。

 

小雨降る寒い朝の中、足を運んでくれたことに重ねて感謝します。「ありがとうございます」青葉台の保育と子どもの発達については、これからのクラス便りや園便りでお知らせいたします。個別な事項については園長又は副園長がお話を伺います。遠慮しないで下さい。よろしくお願いいたします。

 

5年生のクラスで初めて食事をした。1・2・3年生のクラスを回っていたので5年生のクラスがまったくよその家のよう。何が違うかと言うと、端的に言って会話の迫力が違う。大人のようなと言うにはまだ遠すぎるけれど、明らかに3年生とはゼネレーションが違う。食事中の会話が私の頭のすぐ脇を飛び交っている。うるさいのではない。闊達な自己主張が部屋中に充満している。伸び伸びとこんな生活ができていいな~とそう思う。

 

そういったストレスを持たない生活の持続が大切だ。脳を活性化させるからだ。だから5年生の授業の集中力はすごい。そのような子がたまたま集まったのだといったら身も蓋もないが、教師の力もあるのだろうが、子どもの目が黒板やスライドに突き刺さっていて微動だにしない。あの子ども達の迫力がまだ私の身体を包んでいる。甘美なしびれだ。

初等学部のお昼の時間

初等学部の昼食は、担任のほかに専科の教師がクラスに入って一緒に食べる。私も万屋専科の教師だからどこかのクラスに入って食事をする。今日は1年生のクラスからのオファーである。

昨日は2年生のクラスであった。そこで私はちょっとしたジョークを言ったが、それはジョークでもなんでもないという酷評を頂いた。それが顔色一つ変えず淡々と「面白くもなんともない普通の話」だって。そんなことを言う2年生だ。少し手ごわいぞと言ったのが命中した。今度は手を変える。

 

1年生のクラスへ入ると私の食事の用意がしてあって、1年生全員が「みなと!!」「みなと!!」の大合唱。それでは少しおかしいことに気がついたのか「みなと先生!!」と呼び直す子もいる。明るくて元気のいい子ばかりだ。食べにくいものは残しているようだが、全部食べなければだめとか時間内に食べることなどの指示はまだ出してはいない。自分たちが時間内に食べようと言う気になってくれればそれに越したことはない。

 

仲間関係も平等にかかわりを持つような雰囲気が伝わってくる。この辺のことはさすが幼稚園の経験のある教師だけのことはある。目配りが行き届いている。徐々に信頼関係が深まってくると授業もやりやすくなる。1年生2年生3年生の教師は幼稚園の経験がある。だから外に出て鬼ごっこをしたりして一緒に校庭を駆け回っている。小学校の先生が最近では見られない光景だ。

 

かつて小1プロブレムといって、集中力がなくて授業にならない1年生のクラスがあった。そんなことはここでは異次元の話だ。騒ぎまわっているときも、集中して授業を受けているときも、みんなで一つになっている。そんな力を結集して、これから初等学部の生徒全員がスペインの哲学者オルテガの言う「精神的貴族」の道を歩んでいく。ご期待あれ!!。

 

そういえば昨日、冷たい雨の中を辻さんご夫婦が畳を運んでインスタントの茶室をこしらえ、早速お手前の授業をしてくれた。本当に申し訳ない。茶室が予算の関係でなかなか建てられないでいる。色々な人にお手数をかけてしまっている。恩返しは必ずしますからもう少し待っていてください。教師も児童も一堂に会して食事をするのに、とりあえず今食堂を作っている。

入園式が終わった

幼稚園の入園式が終わった。年々泣く子が少なくなっている。20年前は母親から離れられない子が普通であったが、そのような子は見られない。もっともあおば台の入園式は、隣に母親が座るようになっているので、不安がる子はいないのかもしれない。

 

親が見えない場所にあっては、不安を通り越してかなりの恐怖感を持つ。動物の中でこれほど弱弱しく生まれてくるのは人をおいて他にあるのだろうか。だからこそ、そばにいて常に安心安全の生活をして、人を信頼できる人に育って欲しい。「優しい人に育って欲しい」と願っていても安定した温もりの中でしかそのような情緒は育たない。是非心に留めて欲しい。

 

待機児童の解消と言うのがもっともらしく叫ばれているが、正しくはその対象となっているのは乳幼児である。3歳児未満の乳幼児が対象である。実態の分からないものが懸命になって保育所を沢山造れといっている。保育所は乳幼児期から入所でき、保育時間も長い。働く母親にはとても都合の良いものであるが、子ども側からみたらどうだろうか。乳児期に他人に育児を任せてしまうのは、個体発生の発達に合わない。うまくいった例を挙げて言う人もいるけれど、うまくいかないことのほうが大半を占める。

 

一方では母親が安心して子どもを産み育てることが出来る環境を作ると言いながら、保育所の増築だけでは本末転倒な話。母親の要求は経済的なことだけではないと思う。一番に必要なのは、子育てに対する社会の理解である。産まれてから1年ぐらいは、赤ちゃんの夜泣きなどで眠りにつくことができないで、悶々とした毎日を送っている母親に、優しくねぎらう社会が必要なのだ。家庭で安心して親が子どものそばにいてあげられる社会を作るのが本当の話で、保育所を沢山造って、親子を切り離すことを奨励しているような国策はまったくもって愚策である。

 

とにかく今日は、新入園児が始めて親元を離れて幼稚園に来る日である。朝一番に初等学部で子どもたちを出迎えて、そのあとは二つの幼稚園に行って、新しい子どもの様子を見るのと大きな声で挨拶をしに行った。「安心して楽しみに元気に来て下さい!」と言って歩いた。やはり泣いている子がいた。「ママー!ママー!」と保育者の背中にいても呼び続けている。「パパー!」といって泣く子は見たことがない。

 

母親がこういった状況を目の当たりにしたら、きっと子どもと一緒に泣いているのだろうなと思う。親も子もそういったことを経て成長していくのだから、思い出のアルバムの1ページにそっとしまっておけばいい。

 

偉そうなことを散々言ってきたけれど、保護者のご協力がなければ私たちは手も足も出ない。共に手を携えていくことを重ねてお願いをしたいと思う。これから、幼稚園の保育者ともどもよろしくお願いします。きっと素晴らしいお子さんになってお返しすることができます。

授業が面白い

昨日、英語の教師のゾルタンの出身地のハンガリーについて2年生の前で話した。その首都についてどのようにしてできたのかと言うことを話していたら、子どもたちは興味津々。それでは日本の首都はどこかと言う問いに全員が「東京!」と答えた。こんなことって・・・・?2年生で首都をやるの・・・・?少し驚いたが気を取り直して「東京ってなぜ名前ができたか知ってる?」と聞いたら、みんな黙って首を横に振り、困ったように私の顔を見る。その顔がうっとりするほどいい顔をしている。

 

2年生相手に勝ち誇ったようにしていたわけではないけれど、少しばかり言わせて頂くと気持ち良かった。それでしばらく2年生に会うと「先生東京の話してよ!」と言うことになった。今日はあの感激の入学式だけれども、午後の時間に2年生からオファーがあって授業をすることになった。例の「東京」の話だ。ひとしきり奈良、京都、東京の順に話を進め、そして子どもから「北京もあるよ!」の声。

 

何をやっているのか分からなくなって「今は何の時間?」と聞くと「国語の時間!」と元気に答える。今まで地理と歴史をやっていたのだが、子どもたちは良く黙って聞いてくれた。即座に国語の教科書を出してもらい、子どもたちに順番に本を読んでもらった。ここでまたひっくり返るような驚き!!。きれいな声で声優のような抑揚で見事な読み方だ。手ごわい相手だった。

 

楽しいよ!!初等学部。明日は1年生が来る。幼稚園の入園式もある。生きている実感が十分すぎるほど身体から滲み出しているようだ。

サバイバルが終わった

両園合同で行う初めてのサバイバルが、初等学部校庭で行った。少し風が吹いていて肌寒さがあったが、子供は風の子、この程度では音を上げない。校長は気温が低いのを気にして、未使用のクラスを温めて、そちらで食事をとったらどうだというようなことを言って気にかけてくれましたが、野外で薪を使ってうどんを煮ているのでそうもいかない。

 

ほぼ予定通り進行した。10時40分から50分までの間に到着し、まず校長先生にご挨拶をし、「よろしくお願いします」と元気な声で言うことができた。早速校庭に出て、桜の木の下で両園の子ども達が向かい合い顔合わせをした。そしていよいよサバイバル。

 

1周200メートルのトラックを15周した。今までは片道130メートルの所を10往復で2600メートル走ってきたが、今回は場所も変わったし、今までと同じにする場合はトラック13周となる訳だが、いかにも中途半端。そこで区切りよく15周にした。ルールは歩いてもいいが止まらないこと、おしゃべりをしながら歩かない。手をつないではいけない。それだけ伝えて、鍋がかかっているカマドのところへいって火を付けた。

 

保育者たちは昨日まで10州だと思っていたらしい。私がそう言っていたとのこと。年のせいか言ったこともよく覚えていない。しかし今までより少ない距離を走るのでは、子ども達もそれを知ったらがっかりするだろう。是非とも3キロも走ったことはあおば台始まって以来初めての快挙であると子どもたちに伝えて欲しい。

 

最初から歩く子はいないが、時間が過ぎると徐々に歩いている子が目立つようになる。それでも汗を拭きながら黙々と走り続けている子もいる。鍋の中の湯が沸騰するころには1着の子が「やった!」と私のところへ飛び込んできた。両園合わせての1着は第二幼稚園男子。2着はあおば台の男子。3・4と第二の男子。5着があおば台の女子。女子の1・2着はあおば台だった。1着になった男の子は他の仲間からも「駆け足はいつも速いんだよ」と言われていた。

 

続々と走り終わった子が集合してくると、「馬を見に行こう」とか「触ってきてもいい」などと言ってくる子がいて、次々に遊びを見つけている。しかし誰からともなく「まだ駆けている子がいるから応援に行こう!」という子がいて馬小屋からトラックへ小走りで移動が始まる。誰一人落伍者が出なかった。全員が走り終えた。よくやるよ子ども達。

 

次は「立派な年長」の導入があって、その次に生活発表会の劇遊びが始まる。子ども達のグループ名も劇の役柄になっていた。「泥棒グループさん」「警察グループさん」「忍者グループさん」とか保育者が呼んでいると、違和感もなくごく自然に集まってくる。楽しいな子どもの世界。

 

みんなよくやった。初めての経験の割には臆することもなく、堂々と最後までやり終えた。これからもそのような体験をたくさんしていこう。お家の方もたくさん褒めてやってください。あなたたちのお子さんはしっかりと最後までやり遂げることができる。何度でも頭をなでてやってほしい。

サバイバルの準備はOK

いよいよ3学期最初の年長のハードルが始まります。それは10数年前に始まった年長だけのサバイバル。最初の頃は、我が家の隣にあった背の高い雑草の生い茂る空き地で始まった。自分の身長よりも高い雑草の間を縫ってどこまでもまっすぐ歩くというものだった。仲間がいないと意外と心細いものだ。心細いものだから仲間の手をぎゅっと握って、互いに互いを頼る。ヒヤッとするその空間で、何かを発見してくるというものだが、そんな余裕はなかったかもしれない。大体20分ぐらいの時間だが、子ども達にとってはかなり長い時間に感じたかもしれない。

 

本来飽食時代に育った子達が、ちょっと厳しい、辛そうな活動をしたあと粗食に耐えるというものだったが、しばらくやってみたら、粗食が珍しく「こんなうまいものはない」ということになってしまった。いつの間にかサバイバルの後の食事が、とても楽しみになってしまっている。そうなると食事を用意する側もその気になって、少しばかりのバリエーションを加えるなどのことも無意識のうちにやってしまうものだ。

 

今年は青葉台初等学部で行う。初等学部の校長以下全員が快く迎えてくれる。あおば台幼稚園で保育者をしていた貴大先生が仲間に入ってくれる。どのようなことをするのかは私の頭の中だけにあります。ご期待を頂きたい。

 

昨日、私の友人が勤める大学で、保育者になろうとしている学生に話しをしてきた。講義と言って何かの教科を教えるというのは一切やめることにした。あの学生達が私から何を学び取りたいのかというと、レアな保育現場の出来事。質問の中に、仕事を速く覚えるのに何か秘策みたいなものはあるのかというのがあった。男子学生の質問であったが、真摯な態度でとても気持ちのよいものであった。

 

男女共にみんな優しい眼をしている。もっともっと伝えてやりたかったこともある。彼らが何も心配することなく保育者になって、いつも明るく子ども達と向かい合って毎日を過ごして欲しい。保育者になることに大きな夢を持ち、豊かな希望が持てただろうか。私にできることがもっとあったのではないかと省みる。私を呼んでくれた先生に感謝しながら、又一つ学ぶことができたことに「ありがとう」。

年長の役割

両園共に子ども達の弾んだ声が園舎一杯にこだましている。やはり幼稚園はこれでなくてはならない。子ども達のいない幼稚園はどでかい不気味な倉庫でしかない。いいな・・・子ども達の屈託のない笑顔。今の大人たちもそんな時代があったのに、どこかに置き忘れてしまった。いつの頃、どこに置き忘れてしまったのか。久遠返してみれば、どこかにぶち当たるはず。戻りたいとは思わないが、子ども達を前にすると自分が恥ずかしい。

 

年長はこの3学期で卒園してしまう。第2幼稚園で年長の合同集会があるというので、そこで「立派な年長」の話をさせていただいた。年長の保育者と前もって約束したわけではないが、タイミングがよかった。

 

3学期は特に年長さんに力を出してもらわなくてはならない。これからすぐに「サバイバル」がある。今年はあおば台と合同で初等学部でやる。自分の力をよく知って、まだやれると思ったら、力を出し切るのだ。そしてお友達を応援できる優しい心を持つ。

 

「生活発表会」がある。これはみんなが力を合わせないとできない。仲間のすごいところをみよう。そして一人でも多くの仲間の応援をしよう。仲間もきっと自分のことを精いっぱい応援してくれる。

年長さんのやることを、年中や年少さんが見ている。カッコの悪いことをしないようにして欲しい。幼稚園は年長さんという皆がいないとやっていけないのだ。皆の素晴らしい心がこの幼稚園を作っている。よろしく頼むよ。・・・・・このような話をした。皆の目は一直線にわたしのほうを見ている。目に力があって真剣そのものだ。

 

他人の口に戸を立てられない。ごちゃごちゃと外野が騒がしいようだ。理事の皆さんからも「おい、随分頑張っているな!」と連絡をいただく。私に何度も言わせないでほしい。私は子どもたちの幸せを見守るために初等学部を始めたのだ。思い違いをしている親の強引な欲求を満たすために始めたのではない。この先どのようなことがあっても不動不惑である。「子どもたちと共に生きる」。

 

建設委員長の高橋さん。かつて不動産鑑定士の国家試験を全国最年少で合格した秀才だ。つい最近まで破られなかったが、2~3年前に灘高の高校生に破られたということを聞いた。この人は法文を熟読しているから、文章に無駄がなくけれんみがない。人当たりも良く豪快で彼のファンも多い。私と苦難をともにした人だ。彼の意見を120%支持する。

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。今年も「ちょっと言わせて」をよろしくお願いいたします。

 

幼稚園は1月5日から2学期の総括の検討会が始まった。これは2学期に行った保育の反省をかねるものである。子ども達の普段の遊びの中の実践記録や中心となる活動の実践記録です。この中でも、第二幼稚園の中心となる活動の年長の実践記録は、運動会と遊園地ごっこ。あおば台も運動会と人形劇。年中や年少の話を書いていたら大変な量になるので、今回は年長に少しだけ焦点を当てて書いてみる。


あおば台の人形劇は、お話作りから始まって登場する動物や人物を作り、それに針金をつけて言葉に合わせて動かすというものだ。まず唐突にこれをやろうというような手法をとらないから、「人形劇をしたい」というようなグループの雰囲気にするまでの導入が大変。お話作りの途中で、うまく起承転結ができなくて「もう良い・・・」という子も出てくる。一瞬仲間の顔を見合わせ時間が止まってしまったり、先に進まなくなってしまう。・・・そんな気持ち分かるでしょ。

 

そんな時保育者の助言が入る。「どうすればお話がつながるの・・もう一度考えてみたら」気持ちを取り直して、話の続きをうまくつなげる。うまくつながった時は歓喜そのもの。次は人形を持って話をするが、人形を動かすことに気を取られて話がうまく流れない。又どうすれば良いのか・・・悩む。グループの一人が「録音したら!」と何かをひらめいたように生き生きとした弾んだ声で言う。グループの仲間もパーッと明るくなってニコニコしながら「せんせー録音するー!」と得意になって保育者に伝える。

 

第二幼稚園の実践記録は、運動会のタイヤ取りの模様を少しばかり紹介しましょう。第二の運動会は、インフルエンザの猛威をもろに受けて、年長のあるクラスは10人もの休みが出た。これは運動会当日の記録ではないが、どうしてもタイヤ取りの勝てないクラスで勝つのにはどうしたらよいのか子ども達が話している様子。「力を合わせて練習するしかないよ」「オーエス!オーエス!」声を合わせて頑張るぞ!。

 

私が年長の担任に聞いてみた。「オーエス!オーエス!」というのは一体何?。どうもこれは去年の年長から言っているようで意味は分からないという。私の隣に坐っている保育者がそっと辞書を見せてくれた。何とフランス語でロープを巻き上げる時の掛け声と記されていた。多分フランス語で綱引きなどに使う掛け声だろう。・・・一同ポカ~ン。まあ帰国子女も多いことだから、こういったことが結構ある。意味も分からないで掛け声を合わせているというのが面白い。想像してみて下さい。

 

子ども達はこんなに頑張っているのに、運動会当日負けっぱなしはかわいそうだ。しかし他の力は借りない、自分たちの力でやらなければ潔しとしない心がとても嬉しい。

 

誰がどのように言ったとか、子ども達の名前が出ている記録だから、保護者の皆さんも手にとって読んでみたいだろうなと思う。事細かに保育者の意図と考察も入っていて、その場面が手に取るようわかる。あおば台の子は完璧とは言わないが、きめ細かくよく見てもらっている。実践記録を読むと再認識する。

 

1月6日読売。こんな記事を目にした。「生きる力」とは、基礎学力だけでなく思考力、意欲、コミュニケーション能力などを総合した力である。今企業は、まさにそうした力の低下に直面している。人事担当者573人に実施した複数回答の調査では、若手社員の問題点として53%が「読み書きや考える力など基本能力の低下」を挙げ「主体性不足」51%「コミュニケーション能力不足」46%と続いた。

 

「企業は学生の基礎学力や生きる力に不信感を抱いており、チェックも厳しい」一流大卒、成績良好でも風当たりは強い。早稲田政経学部4年のA君は約25社に落ちて就職浪人を決めた一人だ。面接で「自分の言葉で話して」と言われ窮した。就活マニュアル通りの答えが目に付いたという。自分の言葉で語れるようになってやり直すつもりだ。・・・健闘を祈る。

 

明日はいよいよ3学期始業日。早く子ども達に会いたい。休みの子がいなく全員が元気に来て欲しい。

今年ももう終わりだ

過ぎてみると、1年は随分と早く過ぎていってしまうものだ。先日「杉の子会」に出席して、杉原先生の亡くなられた日を確認したら、昨年6月だと言っていたので驚いた。実はずっと今年だと思っていた。そう思うと、先生は私のことが心配で、亡くなってからもずっと私のそばにいてくれたんだと、改めて申し訳なく思う。

 

よくよく考えてみると、5年前に初等学部建設を志し、今年の4月に開校することができた。その間初めの一歩から、土地探しや建設費用の工面、先生をどのように集めるかや、設計は誰に、どのようなルートで建築はどこで、外溝はどのようにするのかなど、又役所に提出する山のような書類などについて、多くの人にお世話になった。特にハードな面は、銀行の全面的な後ろ盾を得、土地所有者からは非常に好意的なご支援を頂いた。


ソフトな面では、友人の精神的なバックアップが大きく支えになった。こう考えていくと私の入る隙間がないほど多くの人の支えを頂いている。新しくできた小学校だから、設備もなかなかそろわないし、不自由を覚悟で一生懸命頑張っている教師や、事務長など全く頭が下がる思いだ。誰が何を経営するのでも最初の一歩は大変である。ナショナル電気だって、三つ又の電気ソケットを単品で売りさばくことから始まったのだ。

 

多分風呂敷包みの中にソケットを入れて売りさばくのには大変な苦労があったに違いない。今のナショナルグループを想像していただろうか。そこまでは考えていなかったろうと思う。1日一日を、時には歯ぎしりを噛み、時には小さな喜びを分かち合い、夢と希望を持って生きていたに違いない。自分の暮らしを今以上にするなど、そのような志ではない。起業家にそのような人はいない。理想に向かっての忍耐と努力である。これがなければ何を始めても自己到達はない。

 

そう考えると私は全くのゼロからの出発ではない。今まで保護者や、幼稚園の教師達が作り上げた幼稚園という土台がある。まだまだ私はいい位置にいる。私を今まで支援してくれた保護者の皆さんや、先輩や仲間に今の仕事をさせていただいている。手を合わせ感謝をしながら1人一人ひとりの顔を思い出し、、来年度の覚悟を新たにしたい。どうぞこれからも私についてきて欲しい。必ず素晴らしい人生を約束しよう。

 

今年1年係りのあった人に感謝し、又素晴らしい新年をお迎えにならんことお祈りいたしまして、今年の「ちょっと言わせて」を終了いたします。ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

夢と希望

およそ教育の中で「子ども達に何を与えるのか」と問われれば、夢と希望だろう。しかも現実化する、それに近づいているという自覚を持たせるということだろう。多くの知識を得ることもそこへ向かっているというようなことを意識させる、一つの手段だ。その道程を視覚化できるような教育が大切だ。

 

又そのようなことを認知できるような脳の組織を作っていかなければならない。その仕組みを作っていくのが簡単な言葉で言えば「冒険」である。冒険の先にあるのは、まだ見たことのない世界であったり、そこから生み出される想像の世界は、夢を醸造する。だから幼児期や、少年期は重要な成長期なのだ。

 

ただ知識を詰め込むだけではダメだ。その知識をやがて何に使うのかという意識付けと、それに伴う、今、教育心理の中で最もはやっている内発的動機付けや外発的動機付けをサポートする。この考え方を徹底させるつもりでいる。教師も共にターザンにならなければならない。忘れていた愉快な少年の日々を思い出していただこう。

 

1ヶ月前になるだろうか、筑波大教授の櫻井茂男氏から先生の著書「自ら学ぶ意欲の心理学」の本が贈られてきた。タイムリーにもその本の副題が「主体的な学びとは」である。櫻井先生は有能感や動機付けに関する研究では日本では第一人者である。このような先生のそばにいられたことに感謝である。そのような櫻井先生の全面的な支援を得ているにもかかわらず、イマイチぱっとしない私の感性。

 

私を特訓してくれた久保田浩先生(白梅大学名誉教授)は、戦後教科書に墨塗りを経験した、今では数少ない小学校の教師である。「勉強どころじゃないんだよ・・。飯が食えねーから学校の空き地に畑をこしらえて、野菜のできるのを楽しみにしているんだよ」「しばらく学校へ来ないので、どうしたのかと見に行ったら、よその家の子どもの守をしている」「しかしみんないい目をしていたなー」「キラキラとこう輝いていて・・・」そう言って、目を輝かせていたのは、久保田先生その人でした。

 

先生は決していい暮らしをしているわけではない。着ている物は失礼ながらいつでもよれよれで粗末なもの。しかし子どもの話しをしだすと、生き生きとして年齢を感じさせない。そういえば久保田先生に私の幼稚園の講演をお願いした時、昨年亡くなった杉原先生も来て下さって、熱心にメモを取っていたことを思い出します。素晴らしい人間は、初対面であっても互いに認め合っているものなんだと感じた。久保田先生も既に92を過ぎた。

 

 久保田先生は、私の中では宮沢賢治や倉橋惣三がダブって見える。すごい先生だ。居ながらにして子ども達に夢と希望を与えてしまう。そう思うと、教師なるものは技術のみではない。決してない。そんな教師になってみたいものだ。倉橋惣三の「生活を生活から生活へ」の中にあるのではないかと密かに思っている。関係各位と共にこれを実現していきましょう。

忘年会

毎年行われる忘年会。両園のおやじくらぶの忘年会も終わった。粋のいい鍋奉行の手ばさき

も堪能した。先に始まったのがあおば台で、第2幼稚園は次の日だった。机の上に並ぶ鍋は最初は鍋の種類もはっきりしているが、しばらくたつと何を食べているのか分からなくなる。もう少し経つと何を話しているのか分からなくなる。録音されたらこまるのが沢山出てくる。

 

何ていったってこのような人生が面白いのだ。私も公人だからそんなことを言うのはやめなさいと、女房や友人によく言われる。私がどんな立場だろうと、私という人間が変る訳ではない。そのようなことを友人も話す。私の友人はひどい。飲みながら酒の害を話し、私に説教をする。まあ説教される私に非があるのだから仕方がないにしても、説教はしらふの時が良い。

 

飲み屋で客の姿は様々。入ってきた時から静かに飲んでいて、何処に坐って何を話しているのかも聞こえず、いつの間にかいなくなったというのもいる。騒ぎ立て、主のような気持ちになっているのもいる。気のせいか、帰る後ろ姿が妙に寂しそうなのもいる。人知れない明日に責任を持たない学生だけが意気が良い。昨今の巷の様子。

 

今日の朝に書いた虐待の話。目に見えるような虐待ではなく、例えば現行の保育所のように生後間もなく母親から離してしまうというのは虐待ではないのか。ものを言えない乳幼児には社会は冷たい。生後2歳ぐらいまでは絶対に母親と一緒にいたほうが良い。保育所に預けるのではなく、どちらかの親が子どもと一緒にいてやることが望ましい。そのような社会的整備が必要である。

 

皆さんは待機児童という言葉を何度も耳にしたと思いますが、発達用語を使うなら、待機乳幼児といったほうが正しい。これではいかにも虐待というイメージを持つではないか。それでは困るので、乳幼児ではなく、児童にした。待機児童は、不幸せになる寸前に幸せを手に入れた。保育所を多く建てるのではなく、家庭にあって養育できるように整備することが大切であります。

 

女性は子育てだけに生きているのではないといっているウィメンに反論します。子育てだけに生きているわけではないけれど、子どもを産める特権は女性にだけ与えられているものだ。そしてそのように体の機能もできている。子育ては責任を持ってやって欲しい。

 

夫はそれに対し最大の敬意を払い、最大の援助を惜しみなく払う。これが人間がホモサピエンスとして誕生した系統発生の慣わしなのだ。このシステムが変ってきていることが、世の中の乱れになっていることに気付いて欲しい。

 

明日は横浜で、筑波大の杉原教授にお世話になった子どもたちが集まる「杉の子会」の忘年会。筑波大と横浜国大と東京成徳の院生と、大塚にある筑波大の社会人院生ととても幅が広い。全て杉原先生が関わってきた大学の教え子です。先生の話をしたら、長いと絶対いわれるのでやめる。

虐待の判断と見分け方

これは何日か前に研修に行ったときのノートで、終業日前に保護者の皆さんにお渡ししたかったものです。時間がなくて書けなかったことをお詫びしながら書くことにする。

 

虐待の判断と見分け方。

①泣いていても放っておく ②食事を与えない ③ける ④大声で叱る ⑤お尻を叩く

⑥手を叩く ⑦頭を叩く ⑧顔を叩く ⑨つねる ⑩物で叩く ⑪物を投げつける

⑫傷つくことを繰り返し言う ⑬浴室などに閉じ込める ⑭家の外に出すことがある

⑮子どもを家に置いたままでかける ⑯裸のままにしておく ⑰子どもの体に噛み付く、など

 

以上17項目

上記の項目に しばしば(3点) ~全くない(0点)で合計10点~11点(虐待傾向)

         12点以上虐待と判断される。

 

この資料は筑波大の庄司先生からの資料。この見分け方だとほとんどの保護者が虐待傾向に陥るだろうと思いますが、いかがですか。4項目で虐待だから、平常な保護者は全く少ないでしょう。「小言を言う」というのは入っていないようですが、これは⑫に該当します。

 

①、②、④、⑤、⑮などはよくある傾向で、それぞれの家庭で、躾に関する不文律な決まりがあるとすれば、上記の記述は参考にするという程度で良いのではないでしょうか。

 

虐待傾向は、保護者が子どもに日常的に叱り付ける行為ですから、1週間も2週間も間が開いていれば虐待にはならないだろうと思います。反面この項目の4種以上でなくとも、毎日小言を言われる子どもにとっては虐待であります。こんな辛いことはない。親が子どもに向かって傷つくようなことは絶対言ってはなりません。むしろ私だったら黙って一発殴られるほうがよい。

 

しかし虐待する側の親を一方的に攻め立てるわけには参りません。それにはそれだけの環境があるのです。例えば親は育てられたように育てるといわれます。虐待された経験のある親は虐待してしまう傾向にあります。それが子どもを育てる方法だということをDNAの中に組み込まれてしまうのでしょう。そのほかに育児不安が強いとか、夫の育児無理解。未婚の女性、精神疾患などが挙げられます。

 

男親の虐待は、ほとんどが経験から来る虐待と社会的孤独(不安)であると言われている。虐待という言葉の強さからすると、かつては、拷問に近いものだという印象があって、とても恐ろしいことなんだと言う怖れを持っていた。しかし今では頻繁に使われるようになった。一日も早くこの言葉が死語になることを願っている。

保育と教育どう違う?

保育するは幼児期で、教育するはそれ以後の話。文科省が区切っているのは就学前を幼児期、それ以前を乳児期といい、小学生は児童、中学生と高校生は生徒となる。大学にいって初めて学生となる。出世魚のような呼称だが、明治以来この呼び名である。

 

保育は子ども達をいたわることが前提となる。教育だって子ども達をいたわることが前提とならなければならない。子ども達を怒鳴り、机の前に坐って、ある教科書を丸暗記してpaper testで100点取ったからといってそれが何になる。教室で教師の人としての温もりを知り、絆みたいなものを紡いでいく作業こそが人間教育だと思う。

 

教育は「生きる力」を育むというのが文科省。私はもっと能動的でないといけないと思っている。生きる力は、内臓がしっかりとしていれば生きていることはできる。人間として生きるには、「生きていく力」でないとならない。

 

生きていく力は、困難に出会ったときに発揮できる力を言うのだ。保護者が恐いといって、冒険ができなくて、何の教育だと首を傾げたくなる。「はっ!」とするような冒険。例えばターザンのようにロープを握り、木から木に乗り移ったり、そのまま水の中にドボーンと入ってみたりする。あのロープを放すタイミングをはかり、離す時の決断はなんともいえない自己充実感があるものだ。そのような体験が経験となり、ものを判断したり決断したりする要因となることは容易に理解できることだ。

 

幼稚園では年長だけの活動にサバイバルというのがあって、130メートルの直線を往復10回やる。歩いても駆け足でも良いが休んではならない。2.6キロをずっと掛けているのもいる。子ども達が活動に入っている間、私が熱いうどんをつくったり、ご飯を炊いたりしてみんなを待っている。息を切らして一番で入ってくる子もいれば、ゆっくりと歩いている子もいる。しかしだれもおしゃべりなどしていない。自分のペースで自分のようにやっている。しばらくしていると、終わった子の集団が、遅い子のところへいって「がんばれ!頑張れ!」と応援に行く。最後には、私が言わせるのではなく、「みんなができてよかったね」と子ども達が言う。子ども達のやさしさに時々泣かされる。

 

口先だけで「個性を大切に」「皆それぞれに違う」といっても、その実、公立では金太郎飴の如くどこから切っても同じ顔の子ばかり作ろうとしているのが現実だろう。保護者も個性だどうのといっても、周りの子と自分の子を見比べている。自分の子の持っている素晴らしいものを見ようともせず、他の子の素晴らしさと天秤に掛け、足らないことばかりを子どもに押し付ける。これでは子どもの居場所がない。閉じこもってみたり、反社会的になったりもしてみる。それしか道がないじゃないか。

 

サバイバルに戻ろう。かつては私の家の隣ががさやぶであって、そのがさ藪を通り抜けると広い道に出るという場所で行っていた。自分の背丈以上の枯れ草が繁っているところへ、グループごとに手をつなぎ、どこまでもまっすぐ歩き、何かを発見してくるということをしていた。どんな発見をしてくるのか楽しみに待っている。「草が多くて歩きにくかった」「違った草を見つけた」「たまごがあった」などと、光もささないひんやりとしたがさ藪の中で、様々な驚きや発見をしてきた。

 

このように幼稚園では子ども達と共に身近にある冒険をしてきた。今度は初等学部の番だ。しかし先ほど書いたターザンの真似事は、多くの保護者から賛同を得られまいと思う。私の幼稚園の保護者からは、苦々しく思っても私に直接不満を言ってくることはないだろう。来年度の初等学部は、保護者はどう思うか分からないが、冒険大好き初等学部にする。どうぞご理解を賜りたい。

物言えば唇寒し・・・

もう冬で日増しに寒くなる季節。表題は秋の季語がついているので現状に似つかわしくないが、社会のあり様をちょっとひねってみただけのこととご理解願いたい。この表題で以前にも書いたような気がする。が、ボキャが少なくて気にしないで書くことにする。


4年生の保護者と、1年生の保護者と相次いで話し合いをした時、特に4年生の保護者は中学校ができるのかどうかということが中心的な話であったように記憶している。目先すぐの話だから無理もありません。

 

あおば台所属学園は伝統のある大きな学園ではなく、小さな個人商店みたいなものだから、何をやるのでもまず私が最初に旗を振り、膨大な文書を用意し、役所との交渉に入らなければならない。合議制などというものはない。私が判断し、私が決断する。そして私が責任を取るというのがあおば台である。

 

既に私は、中学校建設に前向きどころか決断している。絶対にやるという決断です。小学校は気合と共に何とかやらせていただいたが、大きな壁が立ちはだかっていることは事実。それはどのようなことかというと、設置基準に合致しているかどうかということで、尚具体的なことを言えば、それだけの資産があるかどうかということである。それだけを追求されれば、ない。今までは、それがどうしたという気持ちでやってきたが、通る場合と通らない場合とがある。

 

児童数が少ないのが建設に大きな影響を及ぼすのは確かなこと。何とか少しでも建設に足がかりを付けたいと、あおば台と第二幼稚園保護者に「入学のお願い」を書いたことが、園長は「ぶれた」と取られた保護者もいるという。悲しいかな私は他人の目を気にして生きてはいない。何を今更この歳で「ぶれる」必要があるのか。初等学部児童1人になっても、その子のために命がけでやるというのが私の信条だ。そうでなければ初等学部を創った意味も、私が生きながらえている意味もない。

 

私が神様に願っていることは、中学校ができるまで、高校ができるまで生かせて欲しいということ。寄宿舎を建て、子ども達を家族から離しそこから通わせる。親の愛情は離れてみて、親の偉大さは、死別でしか理解不能であるというのが私の考え方。祖父母に畏敬の念を、両親に感謝。どちらも無言のうちに伝える方法である。

 

 幼稚園は今個人面談花盛り。色々と保育者から情報を頂きますが、保護者の方の子どもに対する愛情の深さにありがたさを感じます。子どもが常に「愛されている」という気持ちを持ち続けることは、やがて子ども自身が判断したり決断したりしなくてはならない時に、必ず背中を押してくれる。勇気を与え、強い支えになることは間違いのないこと。

 

ここで間違ってはならないことがあります。「愛している」というメッセージは常に出しておく必要がありますが、押し売りはいけません。押し売りは見返りを求めるものだから、すぐに見破られてしまいます。「私はあなたをこんなに愛しているから、だからお願いこうして欲しい」では、子どもはやがて口を閉ざしてしまいます。

 

「今ある子どもの心に沿うこと」は保育者の必須条件ですが、一番身近にいる保護者の皆さんこそ、この極意が身についたら鬼に金棒です。一緒に努力していきましょう。

お久しぶりです。

 昨日は有事法制が衆議院を通過した。たぶん間違いなく参議院でも可決されるだろうから戦後の歴史的な重大な出来事となることは間違いない。折りしも5月15日というところに歴史的ないたずらが隠されているように思える。
1932年、およそ70年前になる話であるが、海軍将校と陸軍士官候補生が決起し犬養首相を殺害した5・15事件である。その後、軍靴の響きとともに大正デモクラシーの余韻も覚めやらずに一気に軍国主義に突き進んで行ったと言われている。
 首謀者たちは、不公平な軍縮に同意してしまった政府のふがいない姿勢を糾弾したものであったらしい。しかしながら当時のマスコミは彼らに同情的で、「政党財閥、特権階級は出処進退ことごとく私利私欲である」「天に代わって誅伐するにどこが悪い(天誅)」と、現在ではおよそ信じられないような激しく勇ましい報道であった。それはまさしく世論の代弁でもあったろうと思うが、現代の新聞には「彼らのテロを容認してしまった」と悔恨の意味を含んで反省文として掲載されているものもある。しかし彼らは無差別殺戮はしなかった。
 しかし反論を恐れずに言わせていただくなら、彼らには少なくとも私利私欲のない純粋な愛国心の基で決断したことであろうし、結果として軍国主義を加速させてしまったことは歴史が証明していることではあるけれども、それが第二次世界大戦を引き起こしたことではない。不公平な軍縮会議で、日本は欧米列強の属国になってしまうことを恐れた結果の行動であったのだ。国民はそのような心意気を感じ取っていたからこそ、当事者たちを擁護したのだと思う。
現在の道路交通法では、戦車は一般道路を走れないので走れるようにしたり、ミサイルを一発貰ってからしか軍事力の出動できない法を、未然に防ぐことができる法に返るのが今回の有事立法の制定である。有事の際に、個人の権利を最大限尊重するなどの付帯事項があるようですが、空から爆弾が落ちてきているときに個人の利益も何もあったものではないと私は思う。国民が一致団結しなければならないときに、どこまで個人の利益を守れるかは今後議論の的になるでしょう。敗戦国戦後日本のまとまらない国家を作る進駐軍の意図したとおりである。

 暴飲暴食の上に、ストレスがたまると誰でもかかるという成人病に、例に漏れず一般的人間の仲間入りをし、一ヶ月ばかり入院を余儀なくされた。今は仮に退院している状況であるけれども、また何回か検査をして7月には大腸にあるポリープを切除する手術をするらしい。良性だというので心配するようなものではない。
 糖尿病、肥満、高血圧、高脂血症は「死の四重奏」などと言われているそうだ。自覚症状がないものだから、ある日突然倒れて体の一部が機能停止したり、目が見えなくなったりする。「あなたはそうならないと自分の健康に感謝できないのでしょう」と優しい言葉で戦慄に落とし込まれてしまった。疲れやすかったり、集中力散漫だったり、フラフラしたり、少し歩いたぐらいで動悸が激しかったりと、いや今思えば自覚症状はあった。皆さんも知らずして自分の体が何者かによって蝕まれているかも知れない。精密検査をして十二分に医者の言う事をよく聞いて健康維持に努めましょう。

 麻生太郎自民党政調会長の講演を聞いた。経済問題、教育問題、防衛問題と多岐にわたって分かりやすく解説してくれた。テレビに出てくる変な学者よりよほど国民向けでよかった。さすが政治家だと思った。生まれながらの素質に加え、九州の麻生財閥の長男であり吉田茂の孫に当たる人でもある。日本青年会議所の会頭を、地方の理事長もせずに旧来の話し合いから選挙に出て見事当選した。当時は話題の人でもあった。総裁選挙で手を上げたのはこのときの「手を上げなければ何も起こらない」ということをすでに学習していたのである。
 血統書付きの政界のプリンスであることは間違いない。しばしば下半身の話題を持ち出すので云々。とある週刊誌に書かれていたが、生まれのよさの照れ隠しであり、そこに生まれてみないと分からない育ちの良さのジョ-クである。
 その本人のすごさは誰も認めざる得ないが、その周りを取り囲んでいる青年会議所に意義がある。日本青年会議所で何らかの役職を欲しがる会員は麻生事務所詣でをしなければならない。麻生さんがいくら万年青年といえども(確かにそう見える)60を超えた先輩にお伺いを立てなければ人事が動かない現実に、なんら不思議も悔しさも感じない軟弱な青年にこれからの日本を託すわけには行かないだろう。周りにいてその権益に預かっている人たちも、麻生さんはこれから日本の総理大臣になる人なのだから、若い青年の心情をもてあそび、意地汚く姑息なことで足を引っ張ってはならない。それこそ私利私欲ではなく麻生さんの立場も考え日本を考えていただきたい。
 そうこうして一日遅れの新聞に目をやると、「予定利率下げ」「生保経営責任を明記」契約者に負担を迫るだけに責任の明確化が必要と判断した――云々。あのメガバンクは何兆円もの公的資金の投入という国民の負担を強いているのに誰も責任を取ろうとしない。公的資金が投入されれば国民的感情としても経営責任を免れられないと感じるのが正常な考え方である。挙句に竹中金融担当大臣を失政と批判する始末である。あの頭取たちが、まだ自分たちが必要とされていると錯覚しているところに日本国民の悲劇がある。あの人たちが辞表を提出するだけで、期待感にあふれ株は上がる。銀行株が上がれば市場の牽引にはなる。

 拉致問題が沸騰しているさなか、外務省の外郭団体が北朝鮮に人道的な問題として米を送ったという話を聞いた。自民党の大物政治家もそこに含まれているらしい。貧しい人たちに必ず手渡しされているという保証も当然確信もない。たぶん軍隊に優先的に配られるか少数の高官に届けられるのだろう。何か弱みでも握られているのだろうか、かんぐられても仕方がない。不思議な出来事だ。--きっと悪代官がいるのだ。
 時代が違うからあまり過激なことは言えないけれど、古い書物の紐を解いてみると昔は「義人」と言われる人がたくさんいて、正義を盾に世直しをしたというのがある。殆ど私利私欲に凝り固まったやつを成敗してくれて痛快そのものである。
 純粋な愛国者は一人一殺をもって国を変えようとした。右翼という定義は別として、たとえば彼らを右翼と呼ぶとすれば、現在では本物の右翼は出てこれない。チンピラや暴力団が何の思想もなしに右翼の名をほしいままにしているから、崇高な信念を持った愛国者が隅のほうへ追いやられてしまっているのだ。しかしこれだけ安定した社会だから義人も活躍の場所がない。政府要人を一人や二人拉致したところで何も変わらないだろう。国会開会中に戦車で議事堂を攻撃するか霞ヶ関もろともふっ飛ばさないと日本は変わらない。作家三島由紀夫のように東部方面隊に行ってお願いしてこなくてはならないだろう――。やはり少し過激かな。でもこのくらいは書かないと病気は治らない。

 しばらく幼稚園を離れていると子どもたちが無性に恋しくなる。卒園した年長はどんな気持ちで小学校に通っているのだろうか。いじめにあったら「おまえは強いんだからぐっと腹に力を入れて笑ってみな」「何があっても大丈夫だよ。俺がついてるよ」と励ましてあげたい。
ちょっと用事があって病院から外泊許可をいただいて幼稚園に行ったら、デレスケチョンボ(造語-聞き分けがなく失敗ばかりして、しかもニヤニヤしているさま)をしていた年中さんが年長の当番バッジを胸にえらそうにしている。少しほっとした。めちゃくちゃな年少さんだった年中さんも立派にしっかりとした日本語をしゃべっていてほほ笑ましい。保育者は何年もの経験があっても、毎年違う子どもたちと出会うわけだからいつも初心に返り、自らの足らざるを知り、子どもたちに寄り添い、先輩の話しをよく聴いて、明るく元気に仲良くしっかりとあおば台の保育をして欲しいと願っています。平成15年5月16日

もう!疲れる!

 北朝鮮の拉致問題で、横田めぐみさんの15歳になる娘さんがインタビューに答えていた。一見して利発そうな純朴無垢な少女である。インタビュアーの質問の意図がよくわからないので、堪え難くなってあちこちとチャンネルを回していたら、平沢拉致問題議員連盟事務局長に「平沢さんのやっていることは間違っているよ」と言っているのを耳にして、そこでチャンネルを止めた。テリー伊藤と言う色眼鏡をかけたいつも変な帽子をかぶって登場するタレントである。
 「5人の被害者を北朝鮮に返すべきだよ。残された子ども達はどうするの」とテリー。平沢さんは「拉致した加害者に渡すわけには行かない。現状を回復させることが第一である」「その上で子ども達を日本に呼ぶ」。「北朝鮮を怖がりすぎだよ。とりあえず北朝鮮へ返して子ども達に合わせて日本に一緒に帰ってくるのが望ましい」とまたもテリー。この発言は、あたかもテリーは子ども側に立って子ども側の味方のように受け取られる危険性があるが,売名的で木を見て森を見ていない。24年間も娘や息子の安否を気遣い,生きていることだけを信じて暮らしてきた家族の前で発言できるような事ではない。一緒に討論に参加していた司会者も、高速道路公団問題で忙しい猪瀬さんも、やんわりと焦点を外していたけれど、あのような社会的無知な発言は、多少なりとも顔が売れてきたタレントは厳に慎むべきであると私は思う。石原都知事と親しそうに話をしている番組を見たことがあるけれど,石原慎太郎の薫陶は受けていないようだ。

 チェチェン武装組織がモスクワの劇場を乗っ取って、ロシアにロシア軍をチェチェンから引き上げるように要求したが聞き入れられず,今日未明ロシア軍特殊部隊が突入し首謀者を殺害700名の人質を解放した。こんな芸当は日本にはできないだろうな。誰か死んだらどうする,人名は地球より重いとか言って犯行組織に言いなりになって,おまけに大金をくれてやる。海外へ行っても日本人がよく狙われるのもうなづける話だ。今問題になっている‘よど号事件‘もそうだった。人命に関わることでは常に及び腰で、その後になって事態をもっと深刻にしてしまう。何が正義なのか毅然とした決断が求められる顕著な例であろう。
 今回の拉致問題でも、政府がもっと大きな声でアナウンスしていたら、これほどまでの問題にならなかったろう。戦争になることが怖い、テポドンが怖いと言う卑屈な為政者による不作為が生んだものである。日本国民を守れない政府など無用であるとしみじみ思う。他国の国民を拉致することは犯罪行為はおろか戦争行為である。もっと以前に判っていたはずなのに返す返す残念でしかたがない。
 多分日朝正常化交渉の中で,拉致問題と核開発の断念がすぐ前にあるハードルであり,その後に相互に請求権の破棄を確認し経済協力問題に入っていくのだろうが,拉致された家族の賠償請求権は留保すべきだ。
しかし不思議なことがある。日本では不景気で職に困り,各家庭では切り詰めた生活をしているにもかかわらず、他国に何兆円と言う援助ができるのだ。国も地方も税収不足といいながら何故そんなお金があるのだろうか。そのマジックを教えていただきたい。何故介護保険料が値上げされ,雇用保険や社会保険が値上げされ固定資産税が下がらないのか。何故日本に敵対しているところに日本国民の税金が投入されるのか。日本国民をないがしろにして外国へ良い顔をしているのではないか。政府の説明が必要だ。

不満は言っても言っても切りがない。私の周りを見渡すと,勝者はいつも慈悲深く謙虚にして寛容である。その反対の敗者に最も近い位置にある者は,いつも悪言多く他を許さず卑屈である。不満ばかりを連ねると本当に口が曲がってしまいそうだ。しかしもう少し許してもらおう。
保育所がぐっと幼稚園よりになりそうな気配がする。これは保育内容ではない。保育内容と言うか運営内容はぐっと幼稚園が保育所に近づいてきている。それは保育内容は時間延長とかを保育所に近づけ補助金は幼稚園に近づけるものである。幼保一元化は台所事情から加速されそうだ。
この調子でいくと、楽をして子育てをしようとしている親と対立していたのでは、そう遠くない将来において、我が幼稚園の経営が成り立たなくなるだろう。園バスは家の前まで、預かり保育は親の望む時間まで,小学校の先取り教育,あれやこれやの早期知的教育,子どもへ絶えず監視の目と,指示語と怒声,しっかりして、親の手を煩わせない子どもを望む。オーヤダヤダ!子どもはみんな窒息死してしまうぞ。
やはり小学校をやらなければならないだろうな。そう言えば私の友人が、具体的に小学校を立ち上げる設置認可を県に提出した。後で提出書類を見せてもらおう。ガンバレ大久保博之!私にもやらせてくれっ!

頑張り切れなかった小泉さん

 日朝トップ会談が戦後初めて開かれた。専用機から降りてすぐに会談場所へと向かい、そこでは金正日が待機しているかと思いきや,わが国の首相が数分待たされたらしい。本来招待する側は、玄関先で待つというのが儀礼であろう。しかしわが国の首相は毅然とした姿勢で、ニヤニヤせず距離をおいてしっかりと握手を交わした。忍耐と寛容と度量の試される瞬間でもあった。成果はともかくこの姿勢は大変良かった。
拉致問題はすでに死亡している人が8人もいたという衝撃的なことから始まったが,日本国中誰もが信じていない。金正日は「私の知らないところで行われていた」と拉致問題と不審船について謝罪したと報道されている。絶対的専制国家の北朝鮮において、金正日が知らないところであのような事件が起こるはずがない。もし言っている事が事実なら、金正日の絶対的権力に陰りが見えてきたと言うことになる。となると権力抗争によって内戦勃発か、韓国へ侵攻するといった軍事行動が考えられる。
 外務省を?伏魔殿?とはつくずくうまいことを言ったなと感心している。日本外務省は日本国内にある小さな国で,日本国から外務を下請けしている独立国家なのだ。日本の将来や国民の利益などは余り考えないで,みんなで手をつないで外務省を向いているのだ。聞くところによると、拉致された家族が、我が子の生存を北朝鮮に照会してくれと頼んだら「身に危険が及ぶから余り騒がないほうがいい」と云ったという。旅券(パスポート)の最後に外務大臣が旅先で支障がないように、安全に旅行できるように各国駐在官に要請している文面があるけれど,あれは一体何なのだ。外務省に国家を代表する資格はない。
これから政治経済の中で、益々国境がなくなっていく社会になりつつあるから、体外的な役割は今にもまして重要になってくることは明らかである。口惜しいことだが、まずやらなければならないのは、国民の国民による国民のための外務省を新たに作ることではないだろうか。と思うと、あの田中真紀子と言う人物は、じゃじゃ馬だが並みの男では近付けない度胸を持っている。色々な経験をしただろうから、捲土重来を期して国民の前に出てくることを素直に願っている。
 よく分からないのは、日朝国交正常化交渉を急ぐ理由である。世界平和は誰もが願っていることであるけれども,北朝鮮がミサイルを開発したり、核爆弾を持とうとしたりするのは日本には脅威であるけれども何も日本の責任ではない。もともとスターリンの傀儡政権である金日成が、朝鮮半島を共産国にするために仕掛けた朝鮮動乱(戦争)の産物である。日本がかつて植民地支配していたからではなく、資本主義(米国)と社会主義(ソ連)との代表選手の喧嘩に巻き込まれただけのことである。中国とロシアの手に負えなくなってきたから,日本に押し付けてきているだけで,日本はかつて対峙していた中国・ロシアの手にまんまと乗せられてしまっているのだ。その証拠にアメリカの反応を見ればよく分かる。
正常化交渉を急ぐ理由が,北からの侵攻に怯えているとしたら、またそのときに起こるであろう難民に対処しなければならない政策は理由にならない。日本の国民を拉致し,覚せい剤やヘロインを闇市場で処理している犯罪国家であることを忘れてはならない。日本の政治家はよく平和を口にするけれども、実効性のある平和主義は、それなりの報復する手段を留保できる寛容な政治力である。それ以外は全てまがい物であるか,威を借る狐のレトリックに過ぎない。
百歩譲っても,拉致された日本人は海外で20人,国内で40人,今回のを合わせると約70人ぐらいいると聞いているが,その人たちの現状復帰と国際社会への謝罪を求めなければならない。北朝鮮を孤立させないなどと総理もあっちこっちで言っているが,孤立したから自ら打開しようと動いたのだということを忘れている。人道上食糧支援を行う用意があるなどといっているが,拉致と言う人道上の問題をないがしろにして良いものか。日本からの食糧支援は赤十字を通しても間違いなく軍隊に送られる。なぜなら権力者は軍の掌握は必須の条件だからである。国民が何人死んでも,軍隊の暴動は押さえなければならないのだ。そうなると北朝鮮の状況はかなり逼迫している事が解る。
 金正日は韓国との約束をずっと破ってきたので、恥ずかしくて金大中には今更助けてくれとは頼めない。だから何度もロシアに工場見学だといって食糧援助を求め,中国の江沢民にも懇願した。しかし、プーチンには日本に対し拉致問題を潔く謝罪することを進められ,江沢民には亡命者を何とかせんかいと言われ、金正日の茶色い眼鏡から汗がたらたらと流れた結果が今回の日朝会談である。しかもアメリカの?悪の枢軸?発言が強力な後押しとなっている。小泉総理はコペンハーゲンで行われているアジア欧州会議で、金大中大統領と会い?太陽政策?を支持すると改めて伝えたそうだが,本気でそう思っているとしたら大きな錯誤である。
 いっぱい書くことがあって、何から手をつけていいのやら戸惑ってしまう。ただの幼稚園の園長が何を言っても始まることではないが,幼稚園の園長ではなかったら,それこそただの路傍のおっちゃんである。にわか評論家というのではなく、一国民としての意見である。日本人としての積極的な意見であると理解していただきたい。
 国交30周年とやらで政治家も経済人も大挙して中国へ渡った。何と祝宴では6000人が参加し、記念植樹では12000人が参加したそうだ。特に政治家では橋本派が多くそのパイプの太さを誇示したと読売に書いてあった。政治家は100人ぐらいと書いてあったから、そのうちの60人ぐらい行ったのかなと思う。
式典の規模の大きさに圧倒されるが,正直言ってここまでやるかなと思う。北朝鮮の問題も江沢民に頼まれ,日本の政治家が功を競い、江沢民の茶坊主にならなければいいなと密かに心配している。猫も杓子も中国・中国。少しばかり恥を知れ!と言いたい。これから外交委員会で誰がどのような発言をするのかよく見ていかなければならない。声の大きいのと理攻めで言ってくる政治家に注意をしよう。
 中国は日本国総理が靖国神社を参拝する時に「やめなさい!」とはっきり言いましたと言った外務大臣がいて,日本から大分抗議された。いつでも中国は戦後処理のカードと靖国参拝のカードを握って日本と交渉してくる。そして声を荒げてまくし立て、実に騒々しくて決して頭を下げない。日本の政治家の中国ロビーストは中国における膨大な利権を求めるのではなく、また相手を過度に賛美するのではなく、日本国民のために折衝すべきである。それは物の豊かさではなく、卑屈な妥協は決してしないと言う誇りである。これがなければ、どんな立場にある人でも軽蔑の対象になる。
 
 (ここから少しトーンを変えて)
私は何度か保育所のことを書いているけれど,運営や経営の実態はまったくわかりません。国の所轄が違い,保育所に注ぎ込まれる補助金の額が、幼稚園に注がれる額とはけた違いであることはよく認識しています。例えば,預かり保育に関する補助金は文部科学省では16億円の予算で厚生労働省では270億円というように桁外れです。同じ年代の子どもを預かっているにもかかわらず,このように差があるのはひとえに政治力の差であるなどと、まことしやかに言っている人がいます。実は私もそう思っています。公平な徴税と国民への公平な分配より,政治家の力による分配なのだなどと今更のように言うのも白々しいけれど・・・。保育所をやったらどうですかと,そのノウハウを伝授してくれる優しい仲間もいますが、真面目に聞く気になれない。
 保育所ができたのは、昭和22年戦後の混乱期に、親のいない子や両親が共に働いていて、居場所を無くした幼児を児童福祉法によって、保育を必要とする子を措置すると言うことになったわけです。今はその趣旨とは若干異なるけれども、まだそのような状況にあるとは、政治家の不作為であると思います。
 本来保育所の必要性がまったくなくなるというのが、経済大国であり福祉大国であろうと前から思っています。生まれた時から保育所という施設で国が預かってくれ,幼児を早めに母親から引き離すことが福祉であると間違っている向きがあります。それは本末転倒な話で,本当は生まれた子を母親の下で安心して育てられる国家の体制こそが福祉なのだと思います。待機児童ゼロなどのくだりは,福祉のまやかし,教育の荒廃に国が手を貸しているようなものであると真に思います。
 とはいえ、「幼稚園に来れる子は幸せだ」などの声も聞かれるので,保育所を必要としている方も随分多いんだなとも思います。なるべく1・2歳児は母親の元で育てたほうがいいから,多少無理がきくならそうしてやって欲しいです。後で問題が生じることになったら,1年や2年で解決できなくなる怖れがあります。
幼児期で一番大切なことは安定した温もりと人間として生まれてきて、大人や仲間を信頼できるということを体感することです。0歳から施設に預けることは、この信頼を母親から最初に裏切られると言うことです。どんな言い訳をしてもこの事実は変わりません。少し厳しいようですが、子どもを救うためには多少の辛口は必要だと私は思っています。・・・子ども達が大人を信じられる社会になれますように・・・。

小泉さん頑張って!

 いよいよ明日は小泉首相が北朝鮮へ行って、金正日総書記とさしで話をする。食料も経済状況も極端に疲弊し、挙句の果てにブッシュ大統領から‘悪の枢軸,呼ばわりされて世界的に四面楚歌状態である。今までのことは何とか水に流して、日本の協力を得て国を建て直そうとしているのだろう。今まで同様、都合のいい話である。
 拉致問題を行方不明者などと置き換える手法は決してとるべきではないし、朝銀問題に国民の税金を注入してはならない。テポドンだかノドンだかの中距離弾道弾の、日本上空あるいは日本に向けての発射実験については速やかな謝罪を求めること。連合国と共に戦った日朝間に戦後処理は存在しないこと。あるとすれば敗戦処理における36年間にわたる植民地支配の終結による決算。日本が朝鮮から搾取した資産や日本が朝鮮半島に投資した資産など、互いの財産の収支は日本が残してきた資産のほうがはるかに大きいので、強者に支配された国民の精神的な屈辱を和らげ、謝罪の意味を含めて日韓間で経済協力という形で解決済みである。ちなみに大英帝国をはじめ、植民地が独立を果たす時、謝罪するとか、協力するなど聞いた事がない。アメリカ独立をはじめ盟主国と戦って独立を果たしている。
 いずれにしても今回の会談は、触手を伸ばしてきたのは北朝鮮である。イラクの次に狙われたのではたまったものではない。当分の間日本を盾にして置きたいという思惑もありそうだ。コメ問題と同じように食い逃げされないように細心の注意を払い、大胆に言い分を通していただきたい。交渉決裂でも堂々と胸を張って帰って来ていただきたい。
 
明治11年にフランス人宣教師が母国への報告書に,日本人を指して「辛抱強く,勇気があり,慎み深く,丁寧親切,名誉を重んじ,礼儀正しい」と評したそうだ。だから日露戦争が始まったときに、日本がきっと勝つだろうと予言した欧州諸国が多かった。400年も前にきたフランシスコ・ザビエルは日本国民を「これまで発見した国民の中で最良な国民であり,異教徒の中でこれほど優れた国民を見ることはできない」と言ったという。織田信長のあの下克上の時代にである。インドネシア外交官アリフィンベイは「戦時中の日本人はもっと温かい人間で,軍隊が統制していた時でも国民は道徳的だった。戦時下であっても思いやりのある人間を育てることができた。それが戦争に負けたからといって,その精神的美徳を根こそぎ捨ててよいものだろうか」と?魂を失った日本人?のなかで憂いている。たしかに哲学者オルテガの言う?精神的貴族?は日本には少なくなっている。これは、例えば男らしさとか女らしさ,父親らしさ母親らしさ,役人らしさ,企業人らしさ,社長らしさといった?らしさ?に回帰する所在があいまいであることが障害になっているからであろう。
 前回中国に対するODAの事を書いていたら、ニュースですでにご存知でしょうが,インドネシアへのODAについて地域の住民から日本が訴えられているという、世にも不思議なことが起こった。ほとんどの国の地域住民に感謝されているのがODAと思って間違いはないけれども,たまにこんな事もあり得る。その地域の住民の意思とは別に、業者や政治家や有力者のためにやるからだ。政府開発援助というのは後進国地域にしかないのだから、先進国の第一線で活躍できない外務省関係者は、腕の見せ所で,うまみのあるのがODAなのだ。だから国民が増税で下唇を噛んでいるときにでも、平気でODAの増額を予算化しようとしている。まったくどこの国の役人なのだ。
どこの国の役人の発言だかよく分からないのに,先の拉致問題がある。阿南元アジア局長は「拉致で騒ぐのは国益にならない」と言い、槇田邦彦元アジア局長も「たかが11人のことで日朝関係が悪化していいのか」と言ったらしい。拉致された家族の前で土下座しても余りあるのではないか。このような国際正義もなく温もりのない人間が政府高官なのだから、日本はなめられてもある面では納得がいく。
田中前外務大臣は外務省を伏魔殿と言った。伏魔殿とは化け物屋敷,または悪人どもが集まって悪だくみをする所である。何と言われようが彼らはへこたれない。日本の最高峰のエリートという自意識を持っているし、だから誰も手を出せないと思っている。革命でも起こらない限り安全だと思っている。革命が起きたって、自分が国民のためになってなかった自覚のあるやつは外国に亡命するから、口惜しいけれどいつまでたっても安全だ。しかしこうゆう人は国民の力で何とかしなければならないでしょう。

そろそろ茨城の土浦では新入園児の募集が始まります。初めてお子様を幼稚園に入れるご両親は,子どもよりもむしろ自分達のほうがドキドキしているのではないでしょうか。オムツがまだ取れないとか,トイレットトレーニングがうまくいかなかったとか,離れた後の子どもの様子を想像したりしながら、不安な自分にその後ろからまた不安が追いかけてきているような、半ば恐怖に近くなる時もあります。そんな時「私は今親をやっているんだ!」とこぶしを握り締め気合を入れなおしてください。立派な親です。何も心配もなく、早く手元からはなすことに喜びを感じているようでは,何のために生まれてきたのか子どもが余りにもかわいそうでしょう。無意識の虐待の始まりです。
最近虐待どころか、子を殺してしまう痛ましい事件が頻発しています。幼児期に両親に十分に愛情をかけられなかった未成熟な大人の犯行です。幼児期に育てられたことを記憶に子どもを育てると言われますが,その証明です。
今国を挙げて待機児童ゼロとか、働きながら安心して子育てができる保育所の体制など声高らかに叫ばれていますが、果たしてこれは真実でしょうか。真に子どもの大切なものを守ろうとしているわけではありません。為政者の小手先のパフォーマンスに過ぎません。なぜなら、青少年の犯罪やいじめの根底にあるものは、温もりの欲求から来るものだからです。0歳児から保育所に入れ、親の温もりと他人の温もりの違いが分からなくなってしまうような育て方をしては決してならないのです。該当者や保育所に気付かってだれも真実を言いません。それは現にそのシステムを必要としている人がいるからです。でも真実は母親が1年以上抱いて育てることが最善です。必ず反論がありますが,何と言われようと、生まれたばかりから他人に預けるようなことは避けてください。決してうまく育ちません。
母親自身の利便性のために、ある託児所へ入れ虐待を受け、子どもを殺してしまった事件がありました。生きていて幸せになるか不幸になるか定かではありませんが,幼児期に長時間母親とはなれた暮らしを強制されるのは、それ自体が不幸であります。親の言い分が解らないわけではありませんが,幼稚園の園長として親の言い分に沿うか,子ども側に重心を移すかと言えば、当然言を待ちません。子どもを守る側に立ちます。
長時間子どもを預かれば補助金がいくら出るだのの話はもううんざりだ。一方では親子を引き離す役割を担っているのだから整合性がない。たまに預かりがあるけれども、子どもは最初のうちは「きょうはあずかりー!」とか言って喜んでいる姿もあるけれども,時間がたつにつれて徐々に元気がなくなっていき,母親が迎えに来ると飛んでいって叩いたりけったりして手に負えない行動に出るのです。このような行動に出ることを?聞き分けがない?と言って大人は片付けてしまいますが,このような行動の出る子は正常で恵まれているといって良いでしょう。よく考えてみてください。このような母親のいない状況に慣れてしまって,何にも感じない子では可哀想ではありませんか。
幼児期はしっかりさせるために訓練をしてはなりませんし,また物を豊富に与えたり、ビデオなどによって子育てを任せてしまってもなりません。子どもの心に沿い、何を教え何を感じさせるかを明確にしなければなりません。こんなことを書いていると難しく考えてしまう人もいるかと思いますが,何も難しいことはありません。母親の感じる力を信じて,この子が今何を感じているのかを探ることです。子どもの心に沿うことは,子ども側に立って、今の子どもの心のありようを理解しようと努力することです。疑問をもち共に学んでいきましょう。

腹に据えかねて

 国家の基本となるのは、第一に教育であります。第二に教育であります。そして第三に教育であります。こんなことは「米百表」の話を聞かなくても国民の多くが承知している。ゆとり教育といって学校5日制にし、教科書の内容も難しいところは省いたようだ。円周率も3.14から3になり、日本の近代文学の礎となった森鴎外も夏目漱石も教科書から消えた。それでなくとも学力の低下を懸念されていたものだから国中の学者や保護者から批判を浴びると、子供だましのように少しばかり教科書をいじったようだ。教育日数が減りそのフォロウはどうするのかというような率直な疑問に、塾にも頑張ってもらうというようなことを言っていた文部科学省の役人もいた。当時文部省自らの教育の放棄だと騒然となったが、すぐに言を撤回したので事なきを得たが、日本の教育行政の骨のなさには開いた口がふさがらない。もっとも学校5日制は日本の教育形態を日本独自に研究して、そのほうが子ども達のためにベストなのだという結果ではなく、働く側(教師)の労働時間の問題から出てきたものだから、後になって教育的考察を入れたってすぐに見破られてしまう。他の公務員と同じにするなら何故特別職なのか、かすかな疑問を感じる。
 宮沢賢治が花巻の片田舎の学校で初めて教壇に立ったとき、彼は子ども達に三つの約束をした。一つ目は「私は一生懸命教えますから,皆さんも一生懸命やってください」。二つ目は「教科書は開けないで下さい。それから私のしゃべる言葉はノートにとらないで下さい。なぜならばしゃべっている言葉は消えてしまいます。あなたがノートにとっている次の言葉を、どうやってあなたの体の中に入れるのですか。だからノートはとらないで下さい。必要ならばあとで私が書きます。だから全身全霊で私の授業を聞いてください。それと同時に私も皆さんの発言を全身で聞きます」。三つ目は「あなた方が分かるまで私は教えます。だからわからなかったらわかるまで質問してください。わかるまで努力してください。皆さん方がわからなければ、前に進みません。皆さんがわかってから進みます。これが私からあなた方へ対する三つ目の約束です」といって授業を始められたそうだ(教育評論家 阿部進)。何ともウットリする話ではないか。
 「今日は何ページから始めます」とか「よく聞いてよくメモしてください」というのとは違う。何よりもこの時代は「三歩下がって師の影を踏まず」と言ってたくらい教師の社会的地位は高かったし、親も子どもも教えていただくというありがたさを教師に対して持っていた。そんな時代であったにもかかわらず、教える側も教えられる側も平等で,人間と人間との胸を突き合わせる真剣勝負であることと、宮沢賢治の博愛的な温かい人間性を強くを感じる。
 私は何度か教師批判をしているが、何も公立の小中学校の教師全員を批判しているわけではない。宮沢賢治のように子ども達に忠実で、一生懸命教えている教師の存在も承知している。そういう教師を目立たせない学校の体質に問題があることを指摘したいのである。円満退職したいという小心者の校長は、問題を起こさない保身の術に長け、子ども達の発達の犠牲の上に成り立っていることに気付かない。そのような校長を教頭が後押しし教務主任が支える。そのような学校に通う子ども達は悲惨で虚しい。
 最近の犯罪白書では青少年の犯罪が目立ちその年齢も低年齢化している。社会にも家庭にも地域にも、子ども達を健全に育成する力がないのならば、学校がやらなければならないのは当たり前のことである。家庭の教育力とは主に躾や道徳に関すること。最終的には我が子の責任は親が負うことだが、親が高学歴とは無縁でその力は非常に乏しいことは私も少なからず理解している。だからといって大声でそう叫んでも余り意味はない。今は心有る教師が団結して行動するしか子どもを救う道はないのだ。
 保護者は何でもかんでも教師に責任をなすりつけてはならない。勿論教師側に責任の多くがあるかもしれないが,家庭における教育の非力さは否定しようがない。何でも自分の責任を回避して、他人の責任にして自分を納得させるような低次元な生き方はやめよう。子どもの内面的な発達にマイナスである。
 明治の初期に遠い未来を見つめ、世界に先駆けて公立の学校制をひいた先駆者達は、今日の現実を見て何を思うだろうか。今こそ大胆な改革が必要なのだ。文部科学省にその力がないのなら、あらゆる規制を撤廃し小学校を私学に創りやすいように便宜を図り、熱心な義務教育を実現させることに力を貸してほしいと切に願っている。
 もうひとつ言わなければならないことがある。教科書問題は自国の問題である。中国や韓国が盛んに干渉してくるけれど、他国から執拗に自国の教科書について干渉され、優柔不断な態度でいる国があるだろうか。きっぱりとした態度が必要なのではないだろうか。
 日本の第二次世界大戦についての記述や、韓国併合の記述についてが問題になっている。新羅が百済を滅ぼした時はどうなのか。ジンギスハーンの手先となって漢民族がが博多を攻め入った元寇はどうなのか。村人が一人残らず皆殺しになった島もあった。それはまぎれもなく日本人が殺されたのである。その後秀吉の朝鮮出兵など不幸な関係もあった。韓国人は誇り高い民族であるから、日本に併合されたことがどうしても許せないのだろう。しかし地球上の列強は次々と植民地を拡大し、弱い国は植民地化されたり属国となったのだ。それは世界史にあるようにまぎれもない事実である。戦後処理については、国際法上まったく問題がないのに、何故日本だけが、戦後57年も経て言われ続けなければならないのか。日本の戦後の目覚しい急速な復興に多少の嫉妬があるのかもしれない。
 韓国や中国の社会科の教科書はまだ見たことがないが、見てみたいとも思わないけれども、日本人を鬼畜生のように記述してあると友人から聞いたことがある。私は戦後生まれであるが、戦後57年も経って根深い恨みもいい加減にして欲しいものだ。そうでなければ本当の友人になれないではないか。
 中国の外務大臣をやっている銭キシンとかゆう横柄なおっさんに問うてみたい。アヘン戦争と日中戦争のどこが違うというのだ。あの当時は圧政清朝時代だから英国が中国人民を開放してくれた正しい戦とでも言うのだろうか。戦争という狂気の時代を平和な現在の倫理に照らすと,何もかもが犯罪である。戦争は勝者も敗者もなく、愛するものを失いただ悲しいだけだ。少し暗い本だが、五木寛之の「運命の足音」を読んでほしい。
 中国は謝罪とか戦後補償とか言っているけれども,6兆円を超える補償を引き出し、その上たくみに多額のODAを引き出している。日本からのODAの25パーセントあたる金額を中国は他国に援助している。軍事費はうなぎ昇りである。後進大国中国は巨大な市場を持っているだけで、国際社会では頂き放しで大したことはしていない。精一杯大国風に背伸びしているだけだ。中国の外交は相も変わらず、背広の下に鎧をまとっている恫喝外交で品性に欠ける。中国に国民の税金であるODAは必要ない。馬鹿にされすぎである。日本政府もいいかげんに土下座外交は止めて、勇気をもって真実と正義を貫いてほしいものだ。後ろには国民がついているではないか。
 北朝鮮の日本人拉致問題は犯罪なのだから,これにリンクされる政治的交渉はないことを毅然とすべきである。戦後補償が優先されるべきだなどといっているようだが、犯罪国家が戦後補償だのはチャンチャラおかしい。戦後補償は韓国の間で解決済みである。政府もマスコミも何故そのような解説をしないのか不思議だ。なんでもかんでも穏便に相手の顔色ばかりうかがっていると,日本国民は自虐的になり正義も誇りも失っていく。
 地位も名誉も何もいらない、命がけで国民を守ろうとする政治家や官僚がもう少しいたら、この不景気だって何とかなるはずだ。それよりも何よりも日本人としての誇りを持っていたいのだ。多少食えなくなったって、勇気と誇りだけは失いたくはないと願っているのが日本国民の本心である。
 中国の瀋陽で起きた北朝鮮亡命者の日本領事館突入事件は、生涯忘れることのできない事件である。あの事件も日本人の誇りを粉砕するのに余りある。命がけで亡命を果たそうとしている親子。門の敷戸に手をかけて絶対にこの手を放すものかと歯を食いしばり、中国警察の力任せの暴挙に、結局は力尽き連行されてしまうのだが、その一部始終を見ていた4歳の女の子は、泣きじゃくりながら何を思ったただろうか。人間の尊厳をかけた攻防がそこにあったのに、領事館勤務の日本人は、なすすべもなく中国警察の帽子を拾い上げ、帽子のごみを落としていた。まずは幼児の安全を確保するなどの措置をどうしてとらなかったのだろうか。テレビのある国にはあの映像はすべて流れたそうだ。命がけで人を守ろうとする勇気のない冷たい日本人として流れたのだ。屈辱的な出来事である。

 少し本業に戻った話をしてみたい。青少年の犯罪が増えているということを書いたけれども、幼児期に何らかの虐待を受けていた経験のあるものの犯罪が90パーセントを越していることが明らかになっている。
 虐待というと暴力というようにすぐに結び付けてしまうけれども、実はそんな単純なものではないのです。暴力のようにはっきりと外傷に表れるものと、内面に残る傷のように見えにくいものがあります。暴力による虐待はついには子供を死亡させてしまうこともしばしばで、悲しいことによくニュースで流れてきます。内面への虐待は、子供を非社会的な人間として増長させてしまい、寡黙で陰湿になります。これが非常に見えにくい。たとえば、母親が自分のことばかりに一生懸命で、あまり子供に関心を示さないいわゆるネグレクトも立派な虐待であり、それが子供を虚しくさせていく。幼児期の寂しさは単なる甘えによる寂しさではなく、大きな不安なのであるからそれに対応できなければ、子供の心の深層に入り込みそれがトラウマとなって大人を信頼しなくなり、優しい仲間を求め非行に走る。親子の中では、時にはぶん殴って子どもを諭すこともあるかもしれないが、親の都合でしかったり,ストレス解消のために叱ったりすると、すぐに子どもに見破られてしまい、それが子どもの内面に鬱積する。鬱積したものは必ず暴発する。しかし真に子どもの将来を思い鞭を振るうならば,かえって子どもの内面に善の力として内在するだろう。いずれにしても親がわが子が犯罪を犯すようになったら、末代の恥ぐらいの認識がなければならないのは言うまでもない。
 長時間子供を預かる(預かり保育)と補助金が出るだの、子育て支援といって働いている母親が、安心して仕事ができるような事業を展開すると補助金が出るというような施策を国がやっている。母親が安心して子育てを他人に任せられるというくだりがなんともやるせない。本末転倒な話である。子供にとっては母親の代役などどんな美名のもとにも不要である。0歳から保育所に預けられ、毎日毎時間違う温もりの人に抱かれ、どの温もりが母親だったのか、ついには分からなくなってしまうのだ。これを虐待と言わずに何と言えばよいのだろうか。
 行政は常に子供側から施策を講じたことはないのだから、国の施策が子供にとってベストであるということはない。待機児童ゼロ政策がよい例で、そこに入れずにはみだした子供は幸せである。
 かつてテレビで専業主婦と仕事を持っている母親とのデイペードがあってしばらく見ていたけれどバカバカしくなってチャンネルを変えた。子供にとっては、母親が家にいることが最高の幸福であることは動かしがたい事実であることは疑いがない。にも拘らず自分を肯定するために強弁を弄して、否定されたくない一心の業の深さを感じて、吐き気がしてきたのだ。仕舞いには、その母親の子供にインタビューがあってこういうのだ「私を育てるためにお母さんは働いてくれたのです。とても感謝しています」母親はウルルとなって目にハンカチを当てている光景が映し出されている。安物の茶番である。大好きな母親で私を育ててくれた人にどうして反旗を翻すことができようか。願わくば、もう少しでもいいから私を見ていて欲しかったというのが健全な親子関係である。そして母親は「ごめんね」と子どもに謝ることが大切だ。
 現実にこの社会で保育所を必要としている人がいる限り、保育所は福祉事業として国の責任において継続されるべきものである。しかしなるべくならせめて生後1年ぐらいは自分の手元で育てないと母親にはなれないでしょう。
 最近では政府も公益法人も、その辺にたくさんある団体が男女共同参画社会という言葉を使い出した。もとよりこの繁栄は男女の協力関係にあることを認識しているし賛成である。子育ても女性だけの仕事ではなく、男性ももっと協力すべきである。これにも賛成である。しかしながら私は男女の性差による仕事の分担が公平であり平等であると信じている。父親が懸命になって赤子におっぱいを飲ませようとしたって無理だし、所詮母親の温もりには父親は太刀打ちできない。母親というのは自分の体から子供が生まれてくるので、ごく普通であればその絆は計り知れないようだ。子育てには心配も多いだろうけれども、世界中にあなたしかいない母親を、十分に楽しみながら子育ての素晴らしさに是非気付いて欲しいと思います。子供はやっただけのことは必ず返してくれますからやりがいがあります。我が子の素晴らしさをたくさん発見してください。

何となくブルー

 小泉総理が田中外相を更迭したことによって、その支持率は下り坂を何の抵抗もなく転げ落ちるボールの如し。2月20日のNGOに関する参考人質疑では、田中前外相は外務省改革が思うように進まないのは、前に出ようとしてもスカートのすそを踏まれていて前に出られない、踏んでいるのは官邸にいるといい、自分を更迭したのは首相の間違いであると言い切った。全面的に現内閣に反旗を翻したわけだ。そしてマスコミも手のひらを返したように一斉に抵抗勢力に転換した。

民間のニュースキャスターやマスコミ一般の身軽さにはまったくもってハエみたいなもの。小泉首相が誕生した時には、90%近い支持率に寄り添って暗に抵抗勢力といわれている政治家を批判し、大衆に媚を売ってきた。世論の支持率の低い内閣は必ず長持ちしないという今までの経過を踏まえて、一斉に小泉批判に急傾斜した模様だ。バラエティ番組でも、朝昼晩とひっきりなしに小泉首相の批判が目に余る。政治評論家でもない、ちょっとテレビで顔が売れているぐらいのおばさんまでも言っている始末だ。諸葛孔明も断腸の思いで泣いて馬蜀(蜀は当て字)を断ったではないか。

よくよく分析してみると、田中前外相の言っていることは政治家としての、あるいは日本国の外相としての理念に基付いた発言ではなく、私事の怨念を吐き出したということで個人的鬱憤をメディアをつかって日本国中にばら撒いただけの話である。小泉首相にしたって誕生してまだ10ヶ月ではないか。誰が首相になれば、この国の現状を大きく希望のある国へと誘導できるというのだ。見守るという度量の大きさが求められているときなのだ。誰かが「世論に浮かれていると本当に衆愚国家になってしまうぞ!」と警鐘を鳴らさなければならないのだ。

郵政三事業の民営化、道路公団の民営化、効率の悪い特殊、特別法人は全て民営化し、税金を払ってもらうというわけだ。このようなことを大胆に実施することによって、官僚の天下りによる納税者の不公平感を無くし、政治家にあっては族議員の排除というねらいがある。このような大それたことを誰にできるというのだろうか。またペイオフの実施は、今まで銀行法により銀行はつぶれないという神話によって、天下り官僚が銀行の頭取におさまり経営責任を問われることもなく大盤振る舞いをして、今日の不況を招いてきたことを諌めるものである。銀行も左団扇で仕事ができなくなるということである。このような構造的な改革をしようといっているのだ。それにしても、日本の金融機関と旧大蔵省と日本銀行の責任者たちが予測を誤り現在の不況を招いたはずなのに、その原因の調査や誰が携わっていたのかなど一切不問というのはおかしい。

 福田官房長官と田中前外相のいざこざは、角福戦争を二世代にわたってやっているようで見ている方でも何だか怨念がましくてあまり気持ちのいいものではない。ご両人もその辺のところは意識しているようで、なるべくそのような雰囲気に持っていかないように努力しているようだが、当時を知っているものには下手に勘ぐられる。鈴木宗男議員のことは、中川一郎先生の秘書官時代から知っている。秘書官時代から現在まで“秘書の鏡”と云われている。中川一郎率いる青嵐会の金庫番であり、秘書でありながらその権勢は衆議院議員の当選1回や2回の議員では太刀打ちできなかった。私のように距離のあるものに対しては、面倒見がよく、早口でにこやかに“何をしてもらいたいのか”要求するぐらいの人だった。しかし当時鈴木宗男秘書官にお会いするのに、直接お会いできる人はそうは多くはなかった。必ずその下の秘書官がいたものである。その行動についてミニ角栄と言われているが、どちらかと言うと雰囲気は浜幸さんに似ている。
 その後中川一郎先生が自殺し、中川先生のご子息中川昭一さんと共に北海道5区から出馬し、見事お二人とも当選した。今回のODA疑惑で自民党内から離党勧告が出されそうであるが、口火を切ったとされる議員が、かつて中川一郎先生と政治信条を一つにした青嵐会のメンバーであることが因果を思わせる。

 さて構造改革であるが、医療改革は医者の収入を減らし、サラリーマン30%負担が明記され15年度から開始と聞いた。15年度といったら来年である。急いでどこが悪いのか今年中に治しておこうなどと思っても、こればかりは都合がつかない。診療報酬をカットされる医者もそれなりの社会的な地位があるのだから、それなりの経済的待遇を受けてもいいはずである。しかし一家に3台のベンツは要るまいと云われているようだ。豊かな生活はこっそりやればいいのにと思う。
今度削られるのは、間違いなく福祉関係であろう。特に措置費でまかなっている保育所の形態が変わろうとしている。すべて“受益者負担”ということになる。保育所を経営しているものにとっては大変な打撃である。当然入所者にとっても大変な負担になることは間違いない。幼稚園との違いは保育時間の差と所管が違うだけになるだろう。保育園や保育所のことはあまりよく知らないが、入所者が経営側と直接契約などとなったらかなり混乱するだろうなと思うし、0~2歳児などは到底措置されないと預かれないことになる。

 自分のことは自己責任においてまかないなさいと言うことだから、幼稚園側も対岸の火事としてみているわけには行かない。現在補助金の交付を止められたら、全国で1割の幼稚園しか残ることができないだろう。全額カットされることはないにしても、かなりの減額になる時代がそう遠くない時期にきっと来ることは間違いない。そのような状況が予想される中、保育所や幼稚園の公設民営化が進んでいる。地方の自治体で幼稚園を経営すると、私立の幼稚園と比べると3倍も費用がかかるというのも珍しくないからだ。だから自治体で私立に補助金を出して経営してもらったほうが安上がりなのだ。その上私立の場合は競争があるから、何とか良い保育をしてわが園に子供たちを呼ぼうとするので、質の低下ということもなくむしろ前向きで活気がある。

 何事にも大変な時代がやってきたようだ。幼稚園が保護者に試験される時代はもう始まっている。しっかりと信念を持たないと社会的なリストラにあってしまうのだ。心して前進しよう。

ユダヤ人青年のこと

 9月11日のニューヨーク貿易センタービルへの無差別同時テロという、その規模から言って前代未聞のショッキングな出来事があって、それ以前に起こった様々な出来事の影が薄くなってしまった。
 前代未聞の高支持率を引っさげて誕生した小泉内閣は、国内におけるNO1のニュースに違いなかろうが、それすらも吹き飛ばされてしまった感がする。前代未聞といえば、戦後のこの不景気も仲間にはいれる。何と言っても1929年の世界恐慌と同じような不景気だといっている人がいるくらいだから大変な不況のようだ。とはいえ、そのときの状況を現実の話として語れる人がいないのが信憑性に欠ける。
 テロ以後に皇太子ご夫妻に内親王殿下がご誕生なされたことは、唯一といっても差し支えないくらいのハッピーな出来事ではないだろうか。きっと来年はそのハッピーを引きずって行って良い年になるだろう。そのように考えよう。

 あおば台には実践保育については幼年教育研究所所長の久保田浩先生、理論武装の後ろ盾になっていただいている先生には、現在は東京成徳大学教授の杉原一昭先生がいる。その杉原先生が今年の3月に筑波大学を退官なさって、退官記念?と言っていいのか定かではないけれど2月13日に最終講義があった。私も妻とともに聴講のお許しを得て講堂に参座させていただいた。講堂は超満員で少し遅れてしまった私と妻はどうして良いものかと、しばらくは人と人との隙間から教授の顔を覗いていた。たしかに覗き見をしているような感じだった。前の人が少し動くたびに上下左右に私も体を動かさなければならなかった。こんな思いをするならもっと早く来ていれば良かったと悔やんでいたところに、杉原先生が主管されている幼児心理学研究会の研究生が、目ざとく発見してくれて、隅のほうの席に誘導してくれた。大助かりであった。
 杉原先生との出会い云々は紙面が足りないので後に譲るとして、私は先生の授業が受けたくてニセ学をさせてもらった経験がある。授業が受けたいと思ったのは生涯この一回だけである。しかしこの途方もない図々しさよりも、さすがに私の羞恥心が勝り一日と持たず退散してしまった。やはり大学は合格して行きたいものだ。
 その先生の最終講義のテーマは「生きることと死ぬこと」だった。ある老教授の生き方が題材として取り上げられそれが講義の柱であった。「得ることよりも与えることに人生の価値があるのだ」「老化することを素直に受け入れる。老化は単なる衰弱ではない、一つの成長であると楽しんでいる」何とも含蓄のある言葉である。
 あるユダヤの青年がナチスの憲兵に捕まり、明日にもアウシュビッツに送られガス室に放り込まれてしまうのではないかというその晩に、青年は収容されている場所をこっそりと抜け出し、町の図書館に盗みに入った。そして自分が一番読みたい本を選んで持って帰った。
「生きることと死ぬこと」・・・・しばし唸ってしまった。「あ~あ 何ということだ!」とも叫んでいた。年の瀬になって年初めの頃の話で恐縮していますが、今年一番の、否過去に覚えがないほどの魂を揺さぶられた出来事であった。自分の心臓を握り締め、悔しがっているのか、無性に涙が止まらなかった。人はそれぞれに考え方も感じ方も違うが、私の半生においてこれほど強烈なことはなかった。
 私はただただこのユダヤの青年のことと、杉原教授に感謝がしたくて駄文を労してしまった。何か大きなものを失っていたことに気付いて、大きなものを与えられた気がしてならない。この歳になって・・・・ありがたいことだ。
毎年12月23日には先生の教え子達が集まる「杉の子会」がある。今年はもうすぐである。先生に会えること、皆に会えることをとても楽しみにしている。

もっと言わせて

ニュ-ヨ-クの世界貿易センタ-ビルへ、旅客機をハイジャックしたテロリストが突っ込んだ。現実は小説よりも奇なりと言う諺があるが、映画のシ-ンでも見られないような光景であった。事件のあった当日何も知らなかった私は、翌朝のテレビのニュ-スを見て気づいたのたが、最初はまだ自分が寝ぼけているのではないかと何度も我が目と我が耳を疑った。他のチャンネルを回してもどこでも同じニュ-スを流していることに、ようやく事の重大さに気づいたという、何とも情けない次第であった。
 ちょうど朝の仕事始めか出勤時間に重なって、その被害は計り知れない。いち早くブッシュ大統領は「アメリカへの戦争行為である」「われわれはテロ組織の殲滅を確実に行う」ことを全世界にアナウンスした。日本の野党議員の中には「ざまあみろ!と思っている人もいる」と自分のホ-ムペ-ジに書いた若い女性議員もいた。大衆の批判によって慌てて謝罪したらしいが、そういった価値観しか持ち得ない人物が国会議員にいるというだけで、日本の、日本人の社会性とモラルが疑われる。
 このような重大な事件が起こると、その人の価値観や人生観がはっきりと表れてくる。日本でも今回は湾岸戦争のときよりも意識が高く87%の国民が後方支援に賛成している(読売)。日本人を含め世界80ヶ国の人々が犠牲になったのだからその怒りは当然のことである。無差別大量破壊と大量殺人に世界が愕然としているにもかかわらず、まだ「アメリカの問題」「武力反対」だの「罪のないアフガンの市民はどうなるのか」などと倒錯した論理をかざしている日本人もいる。
 わたしは思う。国の始まりが一つの家庭だとするならば家庭の主人に問うてみればよい。あなたの妻子が何らかの人的な事故に巻き込まれた時、暴漢に襲われて命の危険にさらされた時や、そして命を奪われた時、あなたはどのような行動をとるのか。普通の人間なら、そして家庭に愛情が深ければ深いほど、悲しみも深く憎しみも深くなるはずである。フェミニスト然として遠くのほうで「武力行使反対」を唱えてもいいが、毅然と論拠を示し命がけで主張すべきである。忘れてならないのは犠牲になった家庭の人々の前でもしっかりと主張しなければならない。

 さてこのところ当然といえば当然のことだが、アメリカのアフガン進攻がいつになるのかということが大体のニュ-スの行き着く場所になってしまっているが、問題があるのはアフガンばかりではない。
尖閣列島に中国の調査船が入って地質調査の名目で掘削作業までしていたという報道があった。国際法上他国の領土での掘削活動はしてはならないということになっているらしいが、外務省は「やめてください」と先方に伝えただけで「そんなことをするなら出て行ってくれ」とは言わなかった。中国は覇権を唱えないと対外的に紳士の風情を見せながら、フィリピンとベトナムが領土を主張している南沙諸島の問題では、話し合いよりもまず軍隊を出して既成事実を作ってしまった。それほど遠くない将来、いずれ尖閣列島も武力をちらつけながら領有権を主張してくるだろう。そのとき日本はどうするのか―――。戦うくらいなら領土を放棄してしまえという類も出てくるかもしれない。靖国問題でも教科書問題でも国内の問題にもかかわらず韓国や中国に干渉されている。どこの国にこのようなことを許している国民がいるのか。
 わたしは戦後生まれだから、戦争によって日本軍がどれほど悪いことをしたのか分からない。父は軍人だった。多分両親から聞いてはいないが、身内の中で何人かは軍人で人殺しをしただろう。わたしはそれを恥じだとは決して思ってはいない。世界史を紐解いても、中性のヨ-ロッパは植民地政策一色で隣国同士で覇権を唱えて争ってばかりいた。日本といえば1853年にペリ-が黒船を連れて浦賀にやってきた時初めて安眠から目がさめた程度で世界で何が起こっているやら知る由もなかった。アフリカを欧州列強が植民地化しほぼ制定した頃、今度はその矛先はアジアに向けられた。アメリカは1776年に独立したので植民地政策を採るのがかなり遅れて、殆どが欧州に取られた後であった。浦賀に来たアメリカ人は、日本人のちょんまげを見て「皆頭にピストルを乗せている」といって恐れをなしたというエピソ-ドが残っている。アメリカのあとにはフランス、イギリスなどが続々と日本に開国を迫り虎視眈々と日本を餌食にすることを狙っていた。そして明治維新を迎えた。
西郷隆盛は大政奉還後職を失った浪人対策に征韓論を唱え、日本もまた欧州列強の餌食にならないように、植民地政策をとることになる。1894年日清戦争、1904年日露戦争、1914年第1次世界大戦と10年おきに戦争をしている。この戦争の全てに勝利したが1941年に真珠湾攻撃やシンガポ-ル上陸作戦に始まった第2次世界大戦で1945年遂に日本は敗戦国となった。無条件降伏だから何とも言いようがないが、あの東京裁判は戦勝国が敗戦国を裁いた裁判で、同じ敗戦国であるドイツはニュ-ルンベルグ裁判でナチスが裁かれている。
戦勝国が敗戦国を裁くこと自体すでに平等性を失っている。また戦争という狂気に満ちた状況を平時の法に照らすこと自体ばかげていると言い放った日本側弁護人のアメリカ人がいた。そして彼はなおも続けて「もしどんな手段でも戦争において人が人を殺したことを罰するなら、わたしは一瞬にして何十万もの非戦闘員を殺した爆弾を投下することを命令した人の名を知っている」と言った。A級戦犯などとは戦勝国の終戦処理に使った言葉で日本人が使う言葉ではない。
歴史教科書はどこの国でもわが国からでしか見ない。朝鮮半島がヂンギスハ-ンに攻め滅ぼされその配下になったときでも戦争に負けたとは書かない。事実を知らないから何とも言えないが、戦争を好まないわが国民は仕方なく云々―――と書く。アヘン戦争もイギリスの世界史とは大分違う書き方をするのであろうし、同じ中国でも台湾との歴史観は天と地ほどの差があるだろう。
国と国との駆け引きには何とかカ-ドというカ-ドをちらつけながら折衝をする時がままある。靖国や教科書問題を他国の駆け引きの道具(カ-ド)にされないように、内政干渉させないという独立国家として背筋の通った外交を願いたいものである。また国内がトップの為政者に不利な世論が横行している時、国民の目を国外に転化させるのは途上国の為政者の常套手段である事もつけ加えておきたい。

わたしの友人から、東京都知事のように乳幼児期から早めに親から手を離す政策が善政とみなされることに少なからぬ危惧を抱いているというメッセ-ジが届いた。わたしも同感である。親の利便性の追求が痛ましい事故につながっていることはすでに承知であるが、この種の事故が絶えることがない。
テロへの報復で自衛隊派遣もいいが、子どもたちの賑やかな声が街角に響かなくなった国は衰退するのみ。子どもたちのゆとりある生活を求めて、来年度から学校5日制になるが、誰がゆとりある生活なのか。労働者である教師の生活のゆとりである。教師も労働者であるといって授業放棄してストに参加した教師もいた。その名残がまだ脈々として存在している。教師は特別だから公務員特別法によって一般公務員とは違う給与体系になっている。教師は特別だからという意味は聖職だからなのに、何を持って特別法が必要なのか疑問である。自分達の要求ばかりして子どものことなど何一つ考えない労働者もいる。この労働者とは労働者階級のことを言うのであって、わたし達は別名彼らを労働貴族と呼び、一般労働者から搾取している詭弁論者を指すことが多い。マルクス、レ-ニン主義の労働者革命から由来しているが、旧ソ連にしても中国共産党にしても、医者と教師は労働者という階級から外してあった。
藪から棒だが緊急提言したい。公立の教師採用にあたっては1年以上の民間会社での採用を条件として、その職務成績によって採否を決定する。なぜなら教師は知識の切り売りだけではなく全人格的な要素が子どもに影響するからである。ドイツではすでに行われている。2番目に乳児0歳から1歳までは各自家庭において親が養育する。それに関わる費用は国や地方自治体が負担する。でき得るその根拠として0歳から1歳までの乳児を預かる保育所などの経費から算出すれば容易にできる。また夫婦に不安を生じさせないよう子育て相談員は地域の幼稚園や保育所が行う。
「米百表」の話もすらっと出てくるほど教育に造詣の深い小泉総理のことであるから「国づくり百年の計」は「平成の教育改革」からを是非とも機会あるごとに提言していきたい。

どうしたらいいのかなぁ?

夏の穂高の研修で、最近子どもたちの遊びの中で“おかあさんごっこ”が以前よりもかなり見られなくなったという報告があった。代わって犬や猫といったペットになる遊びが増えていると言う。前者は、お母さんは忙しすぎるからと言い、後者はかわいがってもらえるからと言う。情けないことに人間に生まれてくることより、犬とか猫といったペットに生まれてくることを望んでいるようではないか。―――おとうさん役はあってもおとうさんごっこは言うに及ばず今でも聞いたことがない。おとうさん役を買って出てやる子はまれである。「いってまいりまーす」「ただいまー」「おやすみなさーい」というようにセリフがいたって単調で力の出しようがないので面白くない。
わが園ではそんなことはないであろうと、高をくくって2学期の子どもの遊びを注意してみていると―――あった。ままごと遊びはあるが、お母さんごっこは見られない。ままごとでもバブちゃん(あかちゃん)になる子は少なく、兄とか姉になって命令調で得意になって指図する側にいることを好んでいるようだ。そうかと思うと、犬や猫になって紐を手に巻きつかせていたり、自ら首に紐を巻きつけて、従順にご主人様のうしろについていくといったことを真顔で楽しんでいる。
私たちの育った年代の母親が、犬や猫になって楽しんでいるこのような光景を目にしたら何と言うであろうか。セピア色した話で申し訳ないが、たぶん半狂乱になって私たちを叱り付けたに違いない。見方、考え方の違いだと言えばそれまでの話だが、人間であることを楽しむ遊びのほうが人間として自然である。断っておくが、これは表現遊びや擬態表現を楽しんでいると言ったものではない。子どもの自然な心の発露だからこそ問題視しなければならないのである。
 昼食のお弁当にしても、子ども達は自らの空腹を癒すために食するのではなく、おかあさんに悪いからと言う。母親もまた「食べてくれない」「食べてくれた」“くれた”“くれない”という表現を使う。病人でもあるまいに、飽食の時代だからとはいえ、何か歯車が狂いだしているように思えてならない。
幼児教育を預かっている私にも何らかの責任がある。どうしたら子どもたちが安定した生活の中で、生き生きと希望をもった毎日を送れるようになるのだろうか。―――子どもが生き生きと生活するには、愛されなくてはならない人に愛されているという実感と、いたずらや冒険をする権利を保障されることが大切なことだ。たくさんのおもちゃを与え、嫌がるほど満腹にさせることではない。―――幼稚園の受容の中でたくさんの冒険をさせてほしいものだ。
子どもから見て親や大人はどうしたらいいかということは、あまり口にしないほうがいいらしい。出来もしないことを理想だけ追いかけていると周りにいる人たちがくたびれるそうだ。子どもたちにとっては大人が自分達に責任を取ってくれない受難の時代だ。―――できるか出来ないかは、親や大人に覚悟があるかないかの話なのだから。
少子化問題を解消するために、子育てが大変だから生んでくれさえすれば後は国が面倒を見ましょうといった政策がとられるようになった。社会を構築する最小単位の親子の情愛を無視した政策である。これで世の中うまくいくはずがない。ルーマニアのチャウセスクがとった政策でもある。もっとも中身は大分違うが、親ではなくて国が子どもを育てると言う発想は東ヨーロッパの独裁国家にあった。彼らはそうしてロボットを作ることを考えた。
人間の子は皆未熟児で生まれてくる。生まれてから親に抱きかかえられ知恵を授けてもらうためだ。ジャングルの中で生活している動物達は、生まれてまもなく立ち上がるものもいる。しかし母親は危険な場所を知らせることと狩りが一人前にできるまでは決して子どもを手放したりしない。こう考えてくると、子どもたちが犬や猫になって好んで遊んでいる現象も分かるような気がする。地球の自然を守ると同時に、人間の営みも自然に回帰せよと言う信号ではないか。―――子どもたちが変わったのではない、大人たちが変わったのだとゆうことを再認識しようではないか。

"3歳児神話"って何?

突如としてこんな見出しの記事を目にした。「お母さん働いても大丈夫」「幼児の成長と無関係?3歳児神話?を覆す」。その内容は、子どもが3歳になるまでに母親が家の外へ働きに出ても、子の発達に悪い影響を与えないことを、国立精神・神経センター精神保健研究所(千葉県市川市)の菅原ますみ室長らが16年の追跡調査で確かめたというものだ。
 さらに「母親が幼児期に働いたから、子どもに非行など問題行動が表れる」とする説を否定したデーターだ。「3歳までは母の責任で子育てすべきだ」とする3歳児神話をあらためて覆したとある。
 私は、幼稚園の父母たちに「3歳児神話」なる言葉の意味とその由来について訊ねてみたが、勉強不足なのか私を含め知るものは殆どいなかった。それほど世間に知れ渡っている言葉ではなさそうである。しかしこのような記事を見たのでは、一保育者として黙って見過ごすわけには行かないだろう。
この記事を読んだのは平成13年4月29日である。今日までこの記事に関して反論や意見などは目にしていないが、もしも何らかの形で出ていたとしたらお知らせいただきたいが、私は私の範疇で疑義をはさみたいと思う。
そもそも「3歳児神話」とは何者であろうか。昔から「三つ子の魂百まで」とか「7歳までは神の子」といった子育てに関する諺があるが、そのくらい幼児期の発達は重要であるということには同意を得ることはできるであろう。「だからなるべくならば母親がついていてあげたほうがいい」という議論に「いやそのようなことは神話に過ぎない」と言ったのが「3歳児神話」の始まりだと聞いた。
さらに記事の内容を続けよう。・・・子どもが胎児から14歳に成長するまで問題行動などを郵送や面接で調べた。・・・子どもの問題行動は「騒がしい」「ののしり」「かんしゃく」など21項目を母親に聞いて判定した。と読んだところで、母親からの聞き取り調査であったことに気がついた。子供を追跡調査したものではなく子どもを産んだ母親を追跡調査したものである。その中で子どもが3歳未満で働きに出た母親の子どもと、専業主婦であった母親の子どもとを比較したものであり、しかも実の母親から聞き取るのである。「お宅の息子さんの家庭での態度や友達づきあいなどについてお話ください」と。まず経験から言って、実の母親から我が子を否定した言葉はまず聞かれまい。そして何よりも判定する側が何をねらっているのかによって、集計の考察が左右されるのである。しかも社会に影響を及ぼすこのような調査は、自分の目で確かめなければならないのが鉄則であるにもかかわらず、調査対象となる子ども達には面接していないのである。16年間も追跡調査をした割には子ども達の実像と違った結果が出てくることが大いに予想される。
時も時、政府は少子化問題と女性の社会進出による「安心して育児ができる」政策に躍起になっているところである。安心して子どもを産めない理由に、育児に対する不安があるのではないかと考えそれを解消するのに「待機児童0」という保育所の機能を強化することにした。子育て支援策に手をこまねいている行政側にとっては、この記事がまたとない追い風であることは確かなことである。
何の事はない、これは子どもを産んでも後は保育所で面倒を見るから安心してくださいというメッセージなのである。自分で子育てをしなくても保育所に預けておけば子育ては出来ますよと言っているのに等しい。これは子育て放棄、産みっぱなしを奨励しているようなものだ。国に不文律な教育観がないことを露呈したようなものである。その証拠に駅前保育や託児所などに規制緩和をし、園庭がなくても許可を与えることになってしまった。「子どもは環境で育つ」というのが幼稚園指導要領である。子どもは遊ぶことに主たる主体を持っているのに、外で遊べないで何時間も母親を待たなければならないことが子どもに良い影響を与えるはずがない。
もう何年も少子化対策といっては、働く母親や働く女性のための対策を打ち出してはきたが、一向に子どもの数は増えてはこない。むしろ減少の一途をたどっているのが現実である。小手先の物理的なことだけでは、女性が子どもを産み育てる動機にはならないことがはっきりしているのだ。
女性に、子どもを産み育てることの誇りと尊さを教える者はいない。女性が女性としての存在は子どもを産めることである。何も男性に混じって、同じ仕事をこなし体力も男性に近づけることが男女共同参画社会ではあるまい。男女ともに生まれながらの特性を兼ね備えている。その特性を尊重しあうことが、同じ人間として生きてきたことを喜び合えるのではないか。女性を侮辱するのは本意ではないが、男性の必要以上の譲歩は、かえって女性を侮辱していることになりはしまいか。男性を片端から口撃し悦に入っている大学の女性教授もいるが、幼児期にはお姫様ごっこやお母さんごっこをしていたに違いない。今のように戦いごっこに興味を持っていたとはとても信じ難い。女性が子どもを産まなくなったのには、もっと根の深いところにその理由があるように思えてならないのだ。

私には長年幼児教育に携わってきたものとして、またその道を絶えず学んできたものとして、どうしても批判を恐れずに言っておかなくてはならないことがある。
保育所と幼稚園の関係である。保育所は厚生労働省、幼稚園は文部科学省というように国の管轄も違うが保育所に関わる行政側の視点は常に母親に向けられたものであり、幼稚園は子ども側に向けられたものである。以前の保育所は保育を要する子ども達を収容し、国庫によって措置されたものであった。保育を要するとは、乳幼児期に親が見ることが出来ない子ども達のことで、戦後まもなく保育所が出来たのも頷ける。
保育所は児童福祉法で、幼稚園は学校教育法によってそれぞれ守られている。経済大国世界第2位の日本のこの時代にまだ保育所があるとか、同一国家の中で同じ幼児期を育てているのに、それぞれに異なった育て方がある事や、国の補助金のかけ方が不平等などの不思議や、幼保一元化できない主たる要因は、官僚の縄張り意識の産物であると言うのをどこかで聞いたことがある。
前述した駅前保育や、園庭のない保育所は子どもに良い影響は与えない。子どもを犠牲にして親の利便性を得るかとの二者択一であるが、私は子ども側にいる以上「何故そんなところへ押し込んでしまうのだ!」と言いたい。痛ましい事件がおきている幼児施設を今一度洗いなおさなければなるまい。
乳幼児期には、なるべく家にいて子どものそばにいてやりたいと願っている母親が大半である。誰もがそう願っていると言っても過言ではあるまい。何らかの理由でそうできずに子どもは生まれてからまもなく保育所という他人に預けられることもある。
幼稚園は3歳からであるが、3歳児でさえ親から離れるのには手足をばたつかせ、抱きかかえる教師を引っかいたりたたいたりしながら親から離れまいと精一杯抗い絶叫する。生後6ヶ月や1・2歳児などはどのように抵抗するのだろうか・・・。
生まれてから半年もしくは1・2年で保育所に預けられる。多分火のついたように泣きじゃくっているだろう。保育者があやし、上の子が泣きじゃくっている子を見て頭をなぜにやってくるが、母親がいなくなったショックはそう簡単には収まるはずがない。そのうち親がいなくなることをあきらめなくてはならなくなる。最初に教えなければならないことは、次に母親が迎えに来るまで待たなければならないことである。子どもにとってはあきらめることである。保育者は「お母さんすぐ来るからね」と子どもに何度も何度も伝えるが空しい。そのような悲しい積み重ねが徐々にその子の内面にインプットされていくのだ。それがストレスになるか、または脳のニューロンに組み込まれるかは定かではないが、子どもにとって良い体験ではないことは確かである。

幼児期に母親が家にいないことが幼児の成長とは無関係とはまったくの的外れである。発達心理学を学んだものや、脳の仕組みや大脳生理学を学んだもの、あるいは京都大学で霊長類を研究なさっている学者の著書などを拝読すると、幼児期の心の支えの重要な部分は殆ど母親の会話とぬくもりである事は自明の理である。またそれが将来に大きな影響を及ぼすのである。脳の発達も、幼児期の経験を土台にして人間としての性格や学力なども8歳までに出来上がってしまうと言われている。
では何らかの理由があって、保育所に預けることは子どもにとって悪いことなのかと問われればノーである。子どもと向き合って入れば心配はない。この場合の向き合うとは、母親のいない寂しさを母親がフォローしなければならないことだ。また他人に任せるのはいけないことだ。
幼稚園でも保育所でもどちらに通うのでもあまりこれと言った大差はないが、乳児期に子どもを放さなければならない母親は、その子に注がなければならない愛情を必ずどこかで取り戻さなければならない。

養育や保育の原点は、生まれてから間もない子ども達に、何も辛い思いをさせたり悲しい思いをさせる必要があるまいと言うことである。生まれてきてよかったと、言葉にうまく表せなくとも身体いっぱいに表現したりできる子どもが全てに勝るのだ。

子どもが自ら成長していく力に、どれだけ大人が上手にサポートしていけるのか、自分自身の評価も交えながら子ども達を見守っていこう。
もうひとつ言っておかなければならないことがある。世の中を騒がせている非行少年、非行少女、あるいは凶悪な犯罪を起こす者の幼児期の生活はどうだったのか、全てに共通しているものは親の無関心である。幼児期の寂しさである。我が子の顔を両手にはさんで今一度まじまじと眺めてほしい。そして「今幸せか…」と聞いてほしい。

たかが弁当されど弁当

 わが園は創立以来(昭和52年)ずっと弁当持ちで、給食にするなど考えたこともなかった。創立当時はまだ、幼稚園はお弁当持ちみたいな暗黙の了解のようなところがあって、弁当がいいか給食がいいかなど問題視されていなかった。3歳児入園にしても2年保育が主流で非常に珍しかった。
 九州のある地方の話である。夫婦と1.3.5年生になる男の子ばっかりの兄弟との5人家族の一家が、マイホームを建てごく普通の幸せな生活をしていたが、ある日一家の柱でもある父親が交通事故を起こし、しばらくの間意識不明のまま入院していたが、とうとう亡くなられてしまった。
 事故の後始末に対人補償などの思いもかけなかった借金が出来てしまった。住宅ローンと重ねると大変な負担である。それでも3人の小学生の子を持つ母親は、夫の形見でもある家を絶対に離すまいと決心し仕事に就くことになった。
 昼間は保険の外交をし、昼休みにはレストランの皿洗いに、夜はビル掃除にと。しかし女の細腕では世間の風は冷たく、借金の元金はおろか利息さえも遅れ気味となってしまった。情け容赦ない社会のシステムに心身ともに疲れ果て、いつの頃か家を手放そうと決心する。昔主人がお世話になっていた大きな家の主に「軒先でも倉庫でも結構ですから」とこれから住む家を何とか確保できたが、家を売ったからといって借金が消えたわけではなく、暮らしが少しでも楽になるということではなかった。気丈な母親であったが、家を手放した頃から生きる力が徐々に失せていった。そして長男の首に手を回そうと妄念がちらつくようになった。
 小学校の運動会。昼休みに少々照れくさいけれど家族で食事をするのが、至福の喜びである。誰もが幸せを感じるときだ。5年生担任の女の先生が、余計なことかもしれないが多分お母さんは忙しくてこれないだろうと思い、3人の男の子の分までお弁当を作ってきてくれた。それはそれは立派なお弁当で、重箱いっぱいに花を敷き詰めたような、見るからにおいしそうなお弁当である。心を込めて時間をかけて一生懸命つくったに違いない。
 食事の時間がきた。先生が3人の男の子を呼び寄せる。「さあ召し上がれ」と、半ば歓喜で迎えてくれることをひそかに期待しながら。しかし彼らはせっかく時間をかけ工夫しながら作ってくれた先生の弁当には目もくれなかった。彼らが寡黙に食べていたのは、母親が作ってくれた白いご飯の上に紅生姜で?ガンバッテ?とただ書いてある弁当だった。彼らはそれを崩さないように大事そうに食べている。教師は初めて教師である限界を感じたと後に述懐している。
 そんなことがあったことを知ってか知らずか、とうとう母親は今晩長男の首に手を回すことを決心する。最後の夜になるという日に母親は初めてお酒に酔った。子どもたちが寝付く頃を見計らい重い足を家路に向ける。
 裸電球のスイッチをひねり、3人の子どもの寝顔にひるむまいと覚悟を決めて長男の首に手を回すと、枕もとに?おかあさんへ?という手紙があった。その手紙に手をやってあけてみると、

  おかあさんへ
  毎日ぼくたちのためにお仕事ありがとうございます。
  今日学校から帰ってからお母さんに教えてもらったお り豆をにました。弟たちは「こんなまずいものは食えねえや」と言って先にねてしまいました。今度はきっと上手ににるからもう一度教えてください。なべの中に豆があります一粒でもいいから食べてください。お願いします。

と書いてあった。そして母親は言うに及ばず、もう一度生きていく決心をしたのだ。

私が弁当に拘るのには、私の経験からくるものだがこのような実話があることも大きな要因になっている。現実主義者や理屈っぽい人から、「だからなんだ」と言われればみもふたもない。
懐古趣味みたいに、セピア色になったものを後生大事にしていると、もっと大切なものに目が行かなくなるぞとも言われる。
 生まれたときから、電化製品で氾濫している時代に育ったお母さんたちに、たらいと洗濯板を渡したって無意味なことだとも言う。反面弁当持ちで3年間過ごしてきた母親のすべてが、この時代だからこそ子育てに自信がついたと異口同音に話している。しかしそれは入園してからの話で、ほとんどは入園前に弁当を作ることに抵抗を感じていることは事実だ。
 絶対に弁当持ちがいいことは自明であるが、作ることが面倒なのだろうし、なるべくいやなことはしないでうまく育ってくれたらいいと思っているのが本音だろう。弁当がもたらす教育的意義は、親子の絆を深めることばかりではない。名状しがたい無量の価値がある。弁当が全てだとは言わないが、弁当の大切さを改めて認識して欲しいものである。

思うがままに

ホームページの威力とその危険性について、少しずつわかってきたような気がする。便利なものが発明されると、それをうまく利用してビジネスに直接転化して一躍脚光を浴びる人。またはそれを悪用して御用になる人。ホームページそのものには何の罪はないけれども、使う人によっては天使にも悪魔にもなりうる。願わくば善良な市民の楽しみの道具であり、企業の会社紹介ぐらいにとどめておきたいものだと思っている。自分の意志を自由自在にパソコンを駆使できる人には物足りなくなるだろうが、是非とも責任ある行動を取ってもらいたいと思う。
 ある友人から「あまり政治的には首を突っ込まないほうがいい」とご忠告を戴いた。かつては民青がどうだったのと学生運動に埋没していた彼であったが時代の変遷を痛感する。 
 樺美智子さん(この字でよかったかな)は60年安保の時に国会突入を謀り、機動隊ともみあって尊い命を奪われた当時東大の女性闘士であった。その手記の中で、会議中に後退的な発言をする仲間に何度も「日和るなっ」と檄を飛ばす場面が見られるけれども、歯切れが良くてうっとりする。勿論私はまだ小学生の頃の話だから、あとになって読んで「女性ってすごいんだー」と妙に感動した自分を思い出す。
 そのときの感動がまだどこかに残っていて、「日和る」ことは命をかけてもしてはいけないものなのかと、痛烈に心の中に刻み込まれている。しかしそれは青年の美学なのかもしれないとも最近では思うようになってきている。それにしても「戦争につながる日米安保絶対反対」は過去40年を振り返れば間違った判断であることが実証されているけれども、「安保反対」を唱えて純真な学生をかりだし、政治的な洗脳をしてその命を奪い、人生を狂わせた先導者は、一体誰でどのような責任を取ったのだろうか。樺美智子さんの人生はなんだったのかと無念さが残る。
 こんなことを書いていると、「幼稚園の園長なんだからそれに付随した物を書いたらどうだ」とお叱りを戴くことになるかもしれない。しかし思うに、保護者の皆さんは保育が、子育てが分からないから幼稚園に通わせているのではないでしょうし、要は私の言葉から安心というお墨付きをどこかで戴きたいと願っているのではないかと思っています。心配することはありません。保護者に勝る保育者など私は見たことも聞いたこともありません。
ご自分で感じたとおりに育てることが一番間違いのない育て方なのに、ある本にはこう書いてあったからと言って、その本のとおりに行ってうまくいかないと悩むなどというのが良く聞く話である。親子の感じあう感性を優先させることが親子の絆を深めることになる。いつでもどんなときでもとは言えないが、年中ぐらいまでは本を頼らないで、自分の感じたものに自信を持ってお子さんを抱きしめてやっていただきたい。
 その幼稚園をみるのには、トップが何を考えているかをみればその幼稚園のすべてが分かる。会社にあっては社長の人物像。家庭にあっては父母の考え方によって家庭の中が見える。最近では、父母というよりは思い切って言えば母親の考え方がとっても大事。
 だから私は、そういったことを踏まえながらも中傷を恐れずに、反論やご意見には謙虚に耳を傾け、自分自身の今頭の中にあることを書いていきたいと思っている。

言ってもいいのかな?

 「ちょっと言わせて」はなかなかの意味あるタイトルで、使う側にとっては非常に都合のいい言葉だ。だからといって無責任に勝って気ままに書けるというのではなく、どんな事象にも「ちょっと言わせて」と入っていけそうな気がする。
 それでは、すったもんだの政局について「ちょっと言わせて」。
 加藤、山崎両反主流派の党内ちょっとした革命も、本会議欠席、不信任案否決というあっけない幕切れとなって一応の決着を見た。森首相の政策行政に何か失政があったのだろうか。あろうはずがない、スローガンばかりでまだ何も目に見える形での効果がないからだ。そんなヤキモキしている国民の声が加藤さんのHPに飛び込んできたのかもしれない。残念ながら国民は森おろしにそれほど真剣ではなく、実はマスコミの森おろしに実直な小市民の一部が翻弄されていたに過ぎない。何しろマスコミは、売れる記事を作り出すのに時には売国奴のごとく振舞っても何ら羞恥心を持たないことがある。そのような扇動的役割を担っているのがマスコミであるといっても過言ではない。勿論すべてのマスコミがとはいえないが、今やペンは正義ではなく、無法な暴力である。かつて日本を紹介した本「菊と刀」には、日本とアメリカの文化の違いを「恥の文化」と「契約の文化」と置き換えた人がいたが、少年の頃に知ったことでとても新鮮で妙に納得して、侍魂を誇りにさえ思っていたが「恥も外聞もない」と言った日本語の方が、今ではぴったりとくる。 あの本もいくつかの訂正を強いられそうである。
 それにしても加藤さんの幕引きはいただけない。自分についてくる仲間のことを思っての決断であることは解る。しかし、その選択に異議を唱えるのは、私ばかりではあるまい。城盗りの武将としては自ら勢いをつける度量にかけるのではないか。いずれにしても、加藤さんの首は飛んでしまったのだから、速やかに強靭な後継者を指名し潔くすることが肝心だろう。
 情けないことは、同じ派閥の中にこうもりみたいな奴がいて、あっちこっちと情勢を判断し、勝組に狙いを定めたら、あたかも一番槍を仕掛けたのごとくに振舞うやからのいることである。
 主流派も不信任案を否決したら「それが即信任であることだと思わない」と野中さんの言葉。森さんは「激励だと受け止めている」と言う。このやり取りを国民の誰もが立派な国語だとは思っていない。このように分かりにくい曖昧模糊とした言葉を言い放って、なんとも感じない永田町の神経に国民は苛立っているんだということにそろそろ気付いたらよさそうなものだ。
 現在の自民党は公明党抜きでは何も決定できない。政権与党であるけれども、政策を遂行するための与党ではなく、政権を持続するだけの政党に成り下がってしまった。この前の衆議院の選挙でも、惨敗しているにもかかわらず「良く健闘した」とは党幹部のコメントである。他党に必要以上に譲歩するのは、すでに自民党の崩壊を示すものである。案外野党の言っている「自民党の末期的現象」は当っているかも知れない。これから後自民党をだめにした幹部たちを、それこそ歴史が彼らをいたぶることになるであろう。
 不信任案否決後の国会中継を聞いていたら、野党の質問はほとんど政府の追及や個人への攻撃に終始し、国民の代表として互いに手を携えて協力し合ってこの国を何とかしてゆこうという姿勢は微塵も見られなかった。政党政治の中で、党利党略を第1儀に考えない党など存在しないことが良くわかった。
多数議決の議会制民主主義は解るけど、よほどの哲人が現れない限りこの国はだめになってしまうのではないか。多少強引でも衆愚に寄らない政治が出来る人、民衆のために命をかけることをいとわない人。得よりも徳を重んじる人。
首相公選制はどうだろうか。かつて自民党の中曽根さんが提唱していたと思っていたら、自分が首相になってしまったらかどうかは分からないけれど、いつのまにか立ち消えとなってしまったようだ。国会法か何かはわからないが、国民の声が高まれば首相公選制の可能性は大いにあると思う。混迷を極めているときこそがチャンスであるように思う。
政治に興味を持ち意見を持つことがこの国を良くする最大の近道である。私はずっとそう思ってきた。例えば自分の暮らしを今よりももっと良くするには、政治家がどのように動けばいいのか、それは果たして可能なことなのか。友達が困っているときに行政は何が出来るのか。政治を考えるのに、身近に山積している課題は浜の真砂の如く尽きることはない。

そろそろ皆さんに尋ねよう。政府が少子化対策で打ち出した「預かり保育」は、夫婦が子どもを安心して産み育てようとする動機になりうるだろうか。働く母親にとっては便利であることは承知しているが、うまいところだけを取って立派な子どもに育てて欲しいなどという願望は持たないほうがいい。子どもは親がしてくれたことに対して忠実に返してくれる。それは満ち足りても足らずしても、手をかけても手を抜いてもそれなりに返ってくる。世の中や他人の責任にしてはならない。
 あなたの子どもが、社会に出て多くの人から信頼され素晴らしい家庭を築いていくのには、当然のことながら子育ては他人任せであってはならないし、手を抜いてはならない。やっただけは子どもがきっと返してくれる、期待を持って楽しい子育てをしたいものだ。そのための私は、見事なサポーターになれるよう努力することに何物もいとわない。