初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

原点に戻ろう!Ⅱ

それでどうするのか。認定こども園は私が県の係官と納得した話し合いとだいぶ違うようだ。それもそのはずで、県は認定こども園の認定を急ぐあまり見切り発車してしまったのだ。幼稚園型認定こども園は現在の幼稚園のやり方を踏襲するということを確認したうえで申請をしたにもかかわらず、その後に国の方で子供子育て会議ができて、そこで決められたことを後追いの形で現場が移行していくという大変まれなやり方になってしまった。何を焦ってそうなったのかを考えてみると、行政の待機児童問題のただ一点だけである。

保育行政の中で、幼児期をどうしようかなどと真剣に考えているのは文科省の幼稚園課のみで、政治家を含めてそれ以外には真剣に取り合わない。だから現在幼稚園教諭や保育士に手厚い補助が出ているようだけれども、これは一過性の問題でこの制度ができて5年もすればまた過去に戻ってしまう。そのときにあたふたとしないようにこれから準備をしなければならないだろう。

原点に戻ろうということは、わたくしたちが幼児教育に熱く燃えて寝食を忘れて語り合った時を思い出し、新鮮な気持ちで子供たちの目を見て保育をしていこうということだ。幼稚園教育要領はとても立派なものである。これを理解し現場で共有できる教師のスキルアップを願いあおば台独自の保育をやっていこうとするものだ。だから認定こども園を返上して幼稚園をやっていこうと決心した。

 

原点に戻ろう!!

幼稚園教育要領は、『健康』『環境』『人間関係』『言葉』『表現』の五つの領域に分かれ、この領域を碁盤の目のように上手に編み込んでいく。これをどのように日常の生活に浸透させたらよいのか、保育者が最も苦心する保育力の問題である。まだある。これだけではない。これらを編み込んだ先には何を保育者は狙っているのかという大命題がある。「真摯な態度で学びに向かう力が必ず身についてくるのか」ということである。それだけではない。『人間性は』それでよいのかという自問自答がある。

この幼稚園教育要領が認定こども園に無視されている。いつか私はボウルビーの三歳児神話という話をしたことがある。『幼児教育の精神衛生』という本の中に「母性的養育の喪失は例外なく身体的、知能的、社会的に遅滞し、肉体的精神的不健康の徴候を示す」というのがある。ボウルビー博士の発表後に幼児期の発達が将来に多くの影響を及ぼすという医者からのメッセージが世界中に広まった。日本の平井信義先生が書いた「精神衛生」は幼児教育専門家や発達理解を学ぶ教育者の副読本にもなった。

しかしそれは事実とは異なり「神話に過ぎない」として葬り去ろうとしたのが当時の日本の厚生省で、そこから「三歳児神話」として定着した話だ。ボウルビーという人は、第二次大戦後の荒廃とした焦土にいかにして子供たちが生活をしていくのかということを、WHOから依頼されて欧州を起点として調査した英国人だ。しかし幼児教育者はだれもがこれは事実として神話だと思っている人はいない。現場で発達理解を学んでいる教育者はなおさらのことである。

だから言いたいのであるが、生後3か月になると母親は働いて保育所に預けることができるのが今の法律である。それを盾にとって、母親を家庭から追いやって社会に出すような政策はどうしても容認できない。母体にも影響するであろうし、保育所に預ければ自治体によって異なるけれども0歳児については最低19万円の保育料を保証しなければならない。ならばその分を家庭に還付したらどうなのか。そのほうが子供も家庭も幸せである。

急に保育の現場に補助金をばらまき、いかにも幼児教育に理解を示しているようだけれども、それは事実と違う。手厚い補助だと言っているけれども、やっと普通の生活費が支給されるようになったというのが我々の本音である。今までは保育者の犠牲と保護者の理解と協力によって何とか運営してきただけの話だ。幼児教育には子どもには投票権もないしあまり政治家の票に結びつかないから、政治家の関心もいまいち鈍い。まだまだ書きたいけれど、読む人も私も疲れてきたようだ。

初等中等学部の給食

久しぶりに給食を作った。というのも賄いのおばちゃんが何かの都合で1週間北海道へ行ってしまったから、残ったおばちゃんたちと一緒に焼きそばを作ることになった。これは誰にでもできるし、初等学部には大きな鉄板があって、お好み焼きやら焼きそばなどアウトドアで作る食べ物は殆どできる。焼き物は校長が主体となってへらを使ってやってくれている。この暑いのに汗をびっしょりかいて黙々とへらを動かしているので、教師が授業の合間にかわるがわる来て手伝ってくれているが、校長は微動だにしないでいる。どうも鉄板焼きが好きらしい。

おかわり委員会と言うのがあって、みんなが好きなものを上級生が先におかわりをして食べてしまうから、みんなが平等に食べられるようにという趣旨のもとに小学3年生が主体で委員会が構成されている。しかしよく見てみると、最初の盛り付けだけはみんな平等であるけれど、次のおかわりになるとがぜん中学生男子が早く、小学生低学年はおいてけぼりである。低学年の子供たちと一緒に食べていたので、子どもたちに『おかわりできなくなっちゃうよ』というとにこにこしていてそれには答えてくれない。案の定子どもたちが一杯目が終わるころには中学生は3杯目などというのがいて、到底2杯目が食べられない。それでも子どもたちは不服を言わないで満足しているようである。

ここの子どもたちの発想は鋭角的ではない。最初のころは鋭角的に鋭くぶつかって来た子もいたけれど、見ていても見ぬ振りして子どもたちが自ら気付いてくれるまで待っていた。幼稚園の子どもたちと共に暮らしてきたせいか『待つ』と言うことが容易に出来るようになった。1カ月ぐらい過ぎるころには彼の言葉も柔らかくなって好感のもてる少年になっていった。基本的に優しい両親に育てられているから、自らの違和感を発見し自らを正す力も備わっている。いくら突っ張っても柔軟に吸い取ってあげるから、周りの子とすぐに同化できる。

たまに子どもたちと一緒に何かをするというか、この世界に入っていくことがよいと感じる。私もここで校長をしていた時があるから子どもたちとはすぐに親しみ深く話ができる。途中からこの学校に来た子どもたちが生き生きとしているのはここの学校のシステムは勿論のこと、子どもたちの寛容さがそうさせている。教師も『待てる』寛容さを持っている。若いのにすごいことだ。

昨日の幼稚園の話だけれど、政府がやっている『子ども子育て』について、あのやり方で本当に子どもたちが幸せになるのかというと疑問だらけである。昨日も書いたけれども女性の社会進出などと今から始まることではなく、女性は子育てということですでに一人の子供を育てるのに月75万円の社会貢献をしている。それを忘れていることは女性を軽んじていることではないか。なのに家庭で育児をする女性には手当は無料で、幼稚園や保育所に預ける家庭には保育料が無償になるというのは容認できない。むしろ家庭で育児をしている母親に手厚くするべきだ。子どもにとってこれほど素晴らしい保育はない。

保育者がどれほど偉そうなことを言っても『母』に勝てるわけがないのだから。子どもたちの将来を考えれば日本のためにもその方がよい。家庭の経済的事情でやむを得ず働きに出なければならないという人が多ければ、まったく豊かではない日本の証左ではないか。それを無理やり国民総生産という見かけの豊かさを追って自己満足に浸る政治家はどうかしている。家庭から乳幼児を持つ母親を追い出してそれで日本の国が豊かになることは絶対ない。乳幼児を持つ母親が幸せを感じる様でなければ真の豊かさは訪れることはないのだ。

幼稚園のことを書こう

5年ぐらい前に認定こども園というのが新設された。実際に始まったのが27年が初年度だったから3年前になる。できるころには何度も県の係官から説明を受け一応は納得したつもりであったが、できあがってから国の「子供子育て会議」に預けられ、当初説明を受けた時とは全く方向が違ってしまっている。認定こども園は「幼保型」「幼稚園型」「保育園型」「地方裁量型」の四つに分けられていた。当然これらはそれぞれに役割があって目的が明確であった。私の園(土浦)も幼稚園型の認定こども園として出発した。

そもそもこのようなことになった背景には、少子化が進みこのままでは幼稚園の存続が危ぶまれたからにほかなかった。しかしこれは地方の幼稚園の話で、都会ではまったくそのような危機はなかった。認定こども園にする前には、国はよく幼稚園のことを考えてくれているなどと喜んでいたが、徐々にその真意が明らかになってきたのでがっかりすることが多々ある。第一に幼稚園型認定こども園というのは、幼稚園主導であるから今まで通りの運営方針で幼稚園として賄っていくことができるというのが大前提であったが実際はそうではなく、保育所の管轄である市の介入がある。

私のところでは2号認定(両親が働いている)は10人しか許可をとっていないが、そのために保育所としての縛りを受けることになる。これでは本来の幼稚園としての業務が縮小されてしまう。それはなぜかというと、認定こども園の就業時間は子どもを11時間預からなければならないというのがある。これには園則を変えなければならないが私はいまだに園則を変えていない。幼児教育というが幼児を出しものにして大人社会の仕組みを円滑にしようとしているだけで、子供たちにはいい迷惑である。

その理由を書こう。第一に子供たちはだれのために何のために生きてているのか。第二に子供達には大人の介入できない子供の世界があって誰しもが冒してはならないものである。第三にこの地球上の自然や人間同士のコミュニティなどは、すべて子供たちからの借り物ではないか。第五に政府は国民総生産を上げるために女性を社会に出し所得を得るように勧めているが、これは子育てに関して言えば誤った考え方で親子引き離し政策である。政府は80パーセントの女性を仕事に就かせたいと考えているらしい。これが幸せの政策だとしたらお笑い種である。

女性の社会進出の話をよくするが、女性の家庭内での貢献度は男性が会社でもらってくる給料に換算すればはるかに高収入である。なぜなら子供一人を家庭で育てている女性の月給は75万円に相当するといわれている。それが二人の子供だったらどうなるのか。しかも女性は産みの苦しみから解放されて0歳の子供を育てているときには、2時間おきぐらいに子供に起こされて寝る時がない。子供が静かになったかと思って自分が寝ようと思った時には、今度はそばで寝ている子供に寝返りか何かで踏みつけてしまうのではないかと熟睡する時がない。

 そうした努力があって子供が少しずつ成長していく。そして母親となった女性は何の見返りも求めず子供と共にニコニコと暮らしていこうとする。そんな小さな幸せをふいにあたかも災害のように、外へ出て働けというのではいつになっても幸せになれない国ニッポンになってしまうのではないか。外へ出て働くとか働かないとかいうのはその家庭に任せて政府が介入することではないだろう。

来年10月以降に幼稚園・認定こども園・保育所の3歳から5歳までの幼児は無償化になることがほぼ決定した。それに合わせて預かり保育も無償化しようという動きがある。私は無償化には全面的に賛成するが、モラルハザードの問題も一緒に解決しなくてはならないと思う。例えば必要以上に預かりを願ったり、子供を置き去りにしてしまう危険性があるからだ。私のところの現在の体制では預かり全面的に開放するというのは困難である。徐々に子供の内面を大切にしていく幼稚園が少なくなっていきそうな気がする。

子どもにとって必要な環境と教育というのが幼稚園教育要領に書かれているが、これすらも無視されて、待機児童解消のためにものすごい勢いで子供たちが流されて行ってしまう。誰かが立ち止まって流されていく子供たちを救ってやらなければならない。そのために私たちの幼稚園は懸命になって幼児教育を学んできたし、発達心理についても大学の教授のそばで学んできた。このまま流されたのでは私たちを育んでくれた多くの人たちに申し訳が立たないではないか。生きている証としての理念が大切だと私は信じている。これからが幼稚園経営の正念場になるのではないかと思っている。

書くべきことは山ほどあった

小学校1年の卒園児の集まりが両園ともにあった。いつもは5月中に行われていたけれども、今年はなぜか6月の最後の土曜日になってしまった。丸まる1か月も伸びたからその間学校にも慣れたのか学校での嫌なことはあまり聞かれなかったが、登校班で意地悪されるなどの嫌がらせが後を絶たなかった。『授業は楽しいか』との質問に『選択授業がめちゃ楽しい』と答えた子がいたので『どんな選択をしているのか』と尋ねたところ『ステンドグラス』と即座に答えていた。初等学部の子だったので担任の教師にさっそく話をしてみたところ、最初はうまくステンドグラスといえなくて『デザイン』と言っていたらしい。

同じ日の土曜日と日曜日にかけてイイアスつくばで私学フェアーが行われていた。私も1年生の集いが終了次第会場に駆け付けたが、見学者はたくさんいたけれども小学校を対象としている青葉台にはあまり観客は集まっていないようだった。ほとんどが高校受験のようであったがそれにもめげず翌日も会場へ行ってみた。するとわが校のブースには点々と訪問者が椅子に座っていて、そこには学校説明をしている教師が真剣に取り組んでいる。思わず目頭が熱くなってしまった。小さなブースの中で懸命に学校紹介をしている姿に感動した。他の裕福な学校と違いわが校は殆どが手作りのサンプルである。何とかこの子たちを幸せにしてあげたいと思わずにはいられなかった。

もう一つ感動したものがある。ワールド杯サッカーである。一次リーグを突破して決勝トーナメントに残ったが、一次リーグの最後の試合でパス回しをして勝ち残ったというのがなんとも後味の悪いことであった。私も最後は攻め抜いて決勝トーナメントに残るという結果が一番良いと思うが、逆に残れなかったらと考えると西野監督の采配がベストだったのかと思う。それにしても誰もがあっさりと負けてしまうのではないかと弱気になっていたのに、ブルーのユニホームがコートの中を縦横に踊り2-0で勝っていた時には、日本に新しい風が吹くと今度は誰しもが勝てると確信したのではないか。結果は負けたけれども感動的であった。感動をありがとう。

もう一つある。米国との貿易摩擦である。日本以外の国は米国の関税に対して報復措置鵜をとると表明しているのに日本は様子を見るといった消極姿勢である。次いで今度はイランの核問題に触れ、イランからの原油の輸入をストップしてくれとトランプに言われたが、これについても様子見である。まったく日本は米国の属国である。北朝鮮問題も何も進んではいない。結局なんでも米国頼みだから、今の政権は売国奴である。日本は独自のアイデンテティがあってしかるべきで、米国の言いなりになるのはやめてほしい。

子育ては大変?

男子の育休が叫ばれているなか、男子には果たして会社を休んで何ができるのかということが巷で議論されている。私は思うけれども、父親は母親のように子どもを育てることは出来ない。幼児の一挙手一投足に対応できるような父親はいないものだ。高名な育児評論家でも無理だと思う。これはいくらジェンダフリーを叫んだところで所詮無理な話だ。女性は妊娠して自分のお腹の中で十月十日毎日会話をして生まれてくるのを待っている。それに対して父となるべき人はその間何をしているのだろうか。子育てに対しての適正というのはこう考えてみても歴然としているではないか。

だからと言って女性に子育てのすべてに責任を持たせるのは全くの解釈の違いである。戦前には『男子厨房に入らず』とか子育ては全て母親に任せると言ったことが男子の美徳とされて来た。それは封建的な男尊女卑の社会が成熟していたためである。しかしその頃でも女性の家事については大変苦労が大きいということは認知されていた。というのはある程度の資産階級になると必ず女中さんを置いて母親の苦労を取り除いてきた。それで現代ではどうなのかというと、女中さんを置いて肉体的な疲れをいやすということではなくて、問題は別に潜んでいる気がするのだ。

現代の社会事象の中の『核家族』と言うことが大きな原因であるように思えてならない。マンションの高層に住んでいる人はあまり外に出て子どもと遊ぼうとしないことは心理学でも証明している。だから他と触れ合う機会も少なくて、家の中で子どもとじっと向き合っているとなると、多分煮詰まってしまうのではないか。これは辛い。早めに子育て仲間を作って、話し相手を作ることを勧めるが、それが苦手だという人もいる。それは子どものためにも自分のためにも良いことだから、頑張るしかない。

父親が休みになると子どもたちと遊び、母親の手伝いをしていると言う自覚のある心優しい父親。しかしある日突然母親が『疲れた』と言って泣きだしたのを見て呆然としてしまった。自分はどうすればよいのかと自問自答したが正解が見つからないでいる。一歳と二歳の二児の母親であるが、彼女は物理的な肉体の疲れの中で『疲れた』と言っているのではない。父親には考えにも及ばないところで母親はくたびれているのだ。精神力でも限界にきているのだろう。父親が当惑するのも理解できるが、母親は母親の仕事を代わってやってほしいと言っているわけではない。毎日のいたわりの言葉や感謝の言葉が必要なのではないか。心から理解してあげて『ありがとう』の言葉が必要だ。

 

 

サッカーワールドシリーズ

昨日の日本対コロンビア戦は見ごたえがあった。色々な課題があってもそれを忘れさせるような試合内容である。日本国中サッカー一色に染まった日でもある。それも試合前の予想を覆す侍ブルーの活躍がひときわ目立った戦いであったから日本中がヒートアップしているようであった。早速今日はテレビでは『最大の功労者は?』などとコメンテーターを交えて話をしているけれど、マスコミの悪い癖だ。後半の戦いぶりを観ていたら、全員が一丸となって敵陣に攻め入っているではないか。だれが一番で二番だなどという言い方はあのメンバーに対しての冒とくではないか。

とにかく沢山のもやもやがあったけれど、一気に吹き飛んだみたいだ。単純と言えば単純だが、物事は突き詰めていけば単純そのものなのだから、頭の構造も単純が一番いい。日本は後一戦勝てばもっと日本を明るくしてもらえるのではないか。女子は一足先にワールドカップ優勝を果たしているのだから、男子もぜひ優勝まではいかなくても期待だけでも持たせてほしい。

米朝会談の成果

日本にとって米朝会談の成果は北朝鮮との拉致疑惑に関する話し合いの糸口ができたというくらいだろう。米朝の会談は北朝鮮の方が有利に進めたようだ。米国にも韓国にもあまり成果は見られなかったと言っても言い過ぎではない。完全な核放棄の行程表もないし核に対する査察官派遣の話もない。大山鳴動してネズミ一匹という感じは否めない。これではこの先経済制裁などと言ってもかなりのほころびが出て、北との交渉はもっと難しくなる。

何でも米国に追随している日本だから、自国の主体がはっきりしない。ウランバートルで北との接触があってどの程度の拉致被害者を返してくれるのか、会えたことだけで前進だなんてことではすまされない。外交交渉にはしっかりとした軍隊が必要だ。戦争のための軍隊ではなくて自国の安全と安心を買うためのものだ。軍隊を持てば戦争になるなんて言っている似非文化人がいるけれど、それでは地球上毎日戦争になるではないか。

また自国の利益だけを求めるようなトランプのようでは他国から見放される。米国に強力な軍隊がなかったら、トランプはただの裸の王様だ。日本は継座がどうなるかばかりを追及しているけれど、これは本当に国民が求めているものなのだろうか。どこかで幸せのレシピを公表しないと必ず行き詰ることになりはしないだろうか。経済はこの辺まででということがないと、飽食の時代をさらに求めていたのでは途中で空中分解してしまうのではないか。

子どもたちを安全に幸せを求める育て方をしないと、経済の効果ばかりを追い求める育て方では、決して幸せにはなれないだろう。他人の幸せの援助をしてあげられるような人は必ず幸せになれる。そのようなレクチャーセンターを各学校にあればぎすぎすした世の中にはならない。そのような政策は損得に関係ないから政策として成り立たないのかもしれない。

 

いよいよ明日は米朝会談

7カ国首脳会談。いわゆる先進国サミットであるが、今日の閉会の議長声明を待たずに、トランプはシンガポールにいる。とても無礼な話だが、トランプ大統領の身勝手な貿易摩擦ガ他の首領に攻撃されて針のむしろにいるようなのだろう。もう一つの関心事の米朝会談の方に足を向けたようだ。しかし私はこの会談はうまくいかないだろうと思っている。無責任な平和的解決もうわさされるが、核を失った北朝鮮の存在意義はどんなところにあるのだろうか。

したがって拉致問題も解決しない。これは米国にとっても北朝鮮にとっても日本に対する大きな力のあるカードだから簡単に渡したりはしない。北朝鮮の人権問題に触れないで北朝鮮に平和は訪れないであろうし、そうなればなお一層拉致問題は解決しない。日本の国がもっと早くから国としての当たり前の力を持って、北朝鮮の沖合に日本の軍艦を並べることができたならばこのような拉致問題は起こらなかった。

新幹線で気違いに殺された人や、親の虐待によって殺されてしまった幼い子供も、痛ましい結果であるけれど、拉致被害者も無念であろう。拉致被害者の問題は武力でしか解決できない。人間の知恵を絞って外交で解決できるようにと言っている人は無責任だ。今回の会談は何も解決しない。世界向けのトランプ大統領のパフォーマンスに過ぎない。そのような恫喝やはったりは彼の専売特許だ。

トランプは世界のリーダーか?

米朝会談が6月12日に予定通り行われることになったが、難題は全て後回しで、最初に日本が指摘していたように『会談のための会談』になりそうだ。意外とトランプの方がびくついているのではないか。金委員長は若いけれども、周りには老練な側近がついていて、まるでトランプを手玉に取っているではないか。今回の会談では人権のことは一切触れないそうだ。これでは拉致問題は解決できない。米国にとっても北朝鮮にとっても拉致問題は日本に対するカードとして残しておきたいのだろう。自国の問題を外国に頼っていたのでは周りの国から笑われるだけだ。

核を放棄した暁には日本や韓国、中国がその後の経済援助をするとトランプが言ったそうだ。米国は一銭も出さない。そんなリーダーがいるか。世界をかき回しておいて後始末は他国にやらせるとは、そんなリーダーのお先棒はかつがなくてもよい。しかし国民はその後に来るであろう干渉と制裁に耐えなくてはならない。北の拉致問題は他国を侵犯し国民を誘拐した犯罪だから、何なら武力に訴えても日本は国民を守るという気概を見せなければ、いつまでたっても拉致問題は解決しない。

日米の安保協定も見直した方がよい。日本は○で米国の植民地であるかのようだ。明治に開国した当時の不平等条約をそのまま使っているようだ。米国は日本では治外封建なのだ。米国の基地に日本人が入っていけない。裁判も出来ない。現代でまだ日本だけがこのようなことを許している。何故なら憲法9条第2項があるからだ。これをなくすと言っただけで近隣国は日本を見直す。日本が憲法を見直すことになると、なぜ戦争になるのか。国内に日本を弱体化させるプロパガンダがいるからだ。

いま政治は正念場を迎えている。子どもたちが誇りを持って日本国民として生きて行くことが出来るかどうか。太った豚より痩せたソクラテスとはかつての東大総長の言った言葉であるが、うまいものをそれほど食べなくてもよいから、誇りを持ちたいと思う。子どもたちにもそのように伝えていきたいものだ。明治を作った政財界の人たちに恥じぬような人間を作っていかなくてはならない。

物理学者の言ったこと

物理学者とはホーキング博士のことだ。先日ホーキング博士は地球の寿命はあと100年と言ったということを書いたが、それは物理学的にそうなるのか、それとも恐ろしい病気が地球を襲うのか定かではないけれど、意外と内部の体制の在り方によって地球の人間社会が瓦解してしまうのではないか。残るのは全くの未開地に住む人間ではないか。彼らには欲はなく、他人を落し込むような悪さもしない。自然は生活の知恵として崇め怖れを持っている。そこには環境保全なんて言う言葉もない。自然と人間が一体化している。文明は多分必要最小限のものだろう。

ホーキング博士は、欲望の渦巻く地球が自然発火して自らが内部崩壊してついには互いが殺しあって結局滅びていくのではないか。そんなことを示唆していたのかもしれない。私は世界を恫喝して自分の思うように動かそうとしているトランプがどうしても好きになれない。それに尾っぽを振っている日本の態度にも少なからず嫌気がさしている。私は好きなことをさせて戴いて生きてきたし、若くはないからどうなってもかまわないが、私のところにいる若い教師はどうなるのか。そして子どもたちの将来は?そう考えると心配事は海の真砂のごとしだ。

財務省の国民を欺く不祥事といい、日大の大人たちの言い草といい、末期的症状ではないか。多少の救いは加害者となった日大の学生の態度である。正義を伝えるのに怖れない態度は見上げたものである。日本ではまだアベノミクスがどうだのと、経済効果に拠り所を求める政策やら言動が幅を利かせているが、本当のところそんなちっぽけな話どころではないだろう。永久に日本国民が生き延びるにはどうしたらよいだろうかの議論が必要だ。現在の幼児教育の対処療法や、高等学校無償化の問題、消費税の問題、これらはすぐに行き詰る問題だ。いつまでたっても国民は幸せになれない。

大人の生き方が投影される

今の日本の政治の在り方は幼児教育から義務教育高校教育まで全てが対処療法であって、今決めたことが10年後や20年後にそのまま残るのかというと、そんなことはあるまいと思う。考え方によってはその都度社会の価値観が変化して行くたびに変えていけばよいということで対処療法は一つの方法で仕方のなおことだと考えられなくもない。しかしそれは為政者のすることでも賢人の考えることではない。

今世界の大きな流れは米国の強い保護主義が恫喝とともに小国は混乱されようとしている。理念のない日本もそれに脅かされている。国際的な取り決めも横暴な米国によって無視されていく。なんといっても経済も軍事も世界のナンバー1であるから、これにたてつくことは一国の命運にかかわってくるから、正義を盾に議論しても相手が乗ってこなければどうにもならない。本来このようなことは許されてはならないことは当然である。

もしも日本の国の政治も皆さんの家庭もこれから先経済一辺倒の考え方で生きていくとしたら、永遠に心の安らぎを覚えることはないだろう。何故ならよほどの賢者でもない限りは己の欲望を抑制することができないだろうから、井戸や池の水は枯渇することはあっても人の欲望は枯渇することがないから、大海よりも深いのが人間の欲望なのだ。この欲望から早めに離脱する知恵を持った者が勇者であろうし賢者である。

経済への貪欲さを植え付けられた子供は不幸せである。死ぬまで安らかな人生を得ることはできないだろう。本当の人格者は自分の生活のためにとか、自分のために金儲けをするという人はほぼいない。衣食足りて礼節を知るという諺があるけれど、有り余るものを私たちは持っているが、それに気づこうとはしないで、もっともっとと言って自分を苦しめているのだ。この辺でパラダイムシフトと言ってもいい意識の変革が必要だ。子どもたちの将来のために。

子どもたちが私たち大人を観ている。幸せになるためには色々な道がることを今まで生きてきた大人たちの知恵で方向を上手に伝えられれば良い。私の学校はそのようなことを発信していかなければならないのではないか。何故勉強をするのかという問いに皆さんはどのように応えるのであろうか。学校は詰められるだけの知識を詰めて、それが人生のスキルとなるというのでは無責任ではないか。その知識を人類のために使うことを教えてあげられないと学校の役割にはならないのではないか。

幼稚園は子供の楽園

両園ともに世界に恐らく一つであろうリヤカーの免許証が一人一人に手渡された。ただでもらえるわけではない。リヤカー運転試験があって、園庭いっぱいに白線で道路を描き、自動車教習所と同じように、S形もクランクもあり、最後にはバックで車庫入れもある。白線を踏まないように教えてもらった通りに懸命になって運転をする。子どもにとっては自分が立っている位置とリヤカーの内輪差などがあってその感覚が結構難しい。前に二人、後ろに助手のような役割の子が二人、乗客が二人の6人構成で出発する。そういえば二日前に幼稚園に巣を作った燕が5羽巣立っていった。

2台のリヤカーを動かし交互に試験を受けることになるが、途中でつっかえてもだれも文句を言ったりはしない。うまくいかないで戸惑っている前のリヤカーの子がうまくいくまでじっと待っている。忍耐がいるとかではなくて、子供の世界では当たり前のことなのであろう。悠久のあるいは無量の時間が子供達には与えられている。無事に車庫入れが終わって試験官である私の前に来ると、大きな声で名前を呼び『ゴーカーク!』と私が叫ぶ。同時に子どもたちはにんまりとする。

免許証をもらえた子どもたちは得意そうに早速帽子に付け、写真の貼ってある側を意識してすれ違う人に見せつけるように得意がっている。それはそうだ。なんといったって免許証は年長さんのステイタスなのだから。とはいえ生まれて初めての試験というものにぶつかって、なかには憂鬱になった子もいるのではないかと思うけれども、何でもやってみなければわからない。ちなみに両園ともに欠席者なしである。

日大のアメフット部は学生日本一になったけれど、中身は全くお粗末である。今回の危険行為についてコーチや監督は学生一人に責任転嫁して挙句の果てに雲隠れだ。教育機関に身を置くものとして恥を知るべきである。学生の方が全く潔くて好感が持てる。人生は長いのだから、堂々と胸を張って生きていってほしい。日大の記者会見でもかつて共同通信の記者をしていたという者が司会をし、傲慢不遜な態度である。もうこれでは学生が可哀そうである。情けない日本の隅にある一コマではあるけれども、日本人として恥ずかしい。

米朝首脳会談は結局流れてしまった。うまく言って困るのは中国だし、だから中国は何のコメントもしない。思う通りである。会談をしても中国の後ろ盾を確信した北朝鮮に、トランプはそれをよしとはしないシグナルだろうし、北朝鮮にもう一度考えるチャンスを与えた。今一度日本海に第7艦隊を出動させれば北は米国の本気度が分かるだろう。そうなると拉致問題も解決するだろうが、それこそ戦争へ突入する危険も高まる。日本は対岸の火事というわけにはいかない。拉致問題を解決するには強大な軍事力しかない。日本人の殆どの人がそう感じているけれど、平和裏に解決なんてありっこない。

 

日本周囲で起こること

全くの予想に過ぎないが、北朝鮮の居直りのような強気に出ている背景には、中国との何らかの確約があってのことだ。あくまでも現体制を保障するとトランプは言っているけれども、通常兵器しか持たなくなった北朝鮮は国内向けに説得力を欠く。南北の軍事境界線はどうなるのか。核なき戦争を始めるかもしれないが、そんな時日本はどうするのか。多分ギリギリのところで米国が北朝鮮に攻め入った時、その時は中国が北朝鮮に派兵して米国を食い止めるみたいなことも話し合っているはずだ。そうでなければ一度震えあがった北朝鮮が米国の虎の足を何度も踏みつけられるはずはない。

南北戦争が起こったら韓国の難民は済州島までにして、日本の国内に入れないようにできないだろうか。あの国とは絶交したほうがよい。当然スワップだの漁業協定などはもってのほかで、そのくせ日本の魚は買わないとまだ言っている。友達だって約束を破ったら、その次からはあえなくなるではないか。

それよりも最悪のシナリオが、米国と中国が地上戦でも始めたら日本の国は最前線となる。そうならないようにどちらにも最高の結果をもたらす会談にしてもらいたい。戦争回避には最大限の努力をしてもらいたいし、併せて拉致被害者家族にも最高の喜びを伝えてあげたら最高である。そんな会談を世界が望んでいる。

怪しくなってきた米朝会談

拉致問題などは日本の問題だから日本が率先して行うべきだが、相手がそれには応じようとしない。中国は軍備を増強して米国にならって覇権を唱えようとしている。北朝鮮は中国へ行って、核の全廃は中国自身の米国に対するカードを失うことになることを言葉巧みに伝え、核を撤廃するような素振りを見せつけるだけで、経済制裁から逃れようとしている。中国と北朝鮮は必ず密約があるだろう。北朝鮮は中国にすり寄って米国の脅しを正面から受けて、自分の強さをアピールしているがこの後が大変だ。

米国の外交は恫喝外交で軍艦外交だ。人を説得させるのには愛情と恫喝の二通りしかない。米国のトランプ大統領は主に恫喝を使って相手を説得させるというより屈服させている。力によって相手をねじ伏せているのだが、こんなことは長い歴史を見ればそんなに長くは持たない。どこかにひずみができて誰もが米国の言うことは聞かなくなる。エルサレム問題も無用の危機を生んでいるが、アラブ世界を敵に回すことになるだろう。日本は自分の意志を持たない世界の笑いものになるだろう。このまま米国に従属するのか。

それでは日本はこれからどのように生きていけばよいのか。極端かもしれないが憲法を変えて軍隊を持ち、自分の国は自分で守ることを宣言し、外国軍隊を日本国内から出ていってもらう。これにはどこの国も反対はしないだろう。その上であらゆる国と不戦条約を交わす。不戦条約をするなら軍隊はいらないだろうと思われるが、そうではない。軍隊を持っているから条約が締結できるのだ。今の日本は独立国家ではない。米国という大虎の威を借る狐である。これでは誇り高い子どもが育たない。基本がだめだからすべてが駄目である。空しい限りだ。

米朝会談が空振りに終わったら、その後の日本はどうなるのか。また米国大統領に泣きすがることしかできないではないか。自民党や今の国会議員の責任ばかりではない。日本国民に対しての一番の加害者でもあり被害者は日本国民である。

泥んこ祭り

初等中等学部では田植え前の田んぼに入って泥んこの中で運動会だ。全く楽しいだろうな。もっとも私たちの時代には、別に『泥んこ祭り』とか銘打ってやることはない。毎日がそんなものだから真っ黒になってそれに没頭することが大切で、汚れることに気遣っていたら楽しくない。なかには必ず悪乗りする輩がいて、その場を壊してしまうのが成り行きだが、それも全体的に見れば余興のうちだ。こんなことを高学年になってもやらせてもらえるのはとてもよい。女性は気後れする子が多いけれども、内心頭の中では自分の存在を目で追っている。

土曜日曜日は幼稚園のプレイデイがあって初等中等学部のグランドを貸してもらった。どちらの幼稚園も半日で終わったがとても快適であった。その後は私の講話があって、何を話したのかと言うとこの後小学生になったら幼稚園と違って周りの子供たちの成績やわが子の成績が気になって仕方がなくなる。しかし勉強ができるとかよく学習しているという子は遺伝によることが50%だ。中学3年生の成績は35%が遺伝によるものである。『何故この子は勉強しないの!』などと言って子どもを叱るのは藪蛇だということ。そんな話をした。それに学校の教科の成績のような認知能力よりも、世の中で必要な能力は非認知能力だろうが。ということ。

国会は『モリ・カケ』ばかりで蕎麦屋の宣伝ばかりだ。はっきりとさせない総理に一番責任があるだろうけれど、それしか言えない野党の視野の狭さが気にかかる。北朝鮮が中国へ行って何を話してきたのか、それは核の全面放棄だけは何とか食い止めてくれということだろう。核を失ったら北朝鮮の人民をつなぎとめておく大義がなくなるし体制が持たない。何度も騙されてきたのだから、今度だけはそのようなことがないようにして欲しいものだ。

侍がいない?

侍などというと時代錯誤だなんてお叱りを受けるかもしれないが、国会も官僚もみんな正義や真実とは程遠いところにいる。誠実には野党も与党も生きられないようだ。つまり損得でしか生きる隙間を見いだせないでいる。正邪を説いてみてもナンセンスである。彼らの頭は腐りかけの卵のようで、隣によると腐った卵のにおいがしそうだ。近くでは世界的に注目を浴びている米朝の初めての対話があって、これがこの地域の平和と安定をもたらすかも知れないというのに、国会ではそんな話は全然出て来ない。

それで何かあったら政府与党の責任であると言えばその通りだが、体たらくな野党だから国民も誰も期待はしていないが、国会は1年以上も『盛りかけ』ばかりの話で、この解決こそが国民の幸せにつながるとでも思っているのだろうか。またこの疑惑はすべて総理個人の問題であってこのことによって国会を空転させたりすれば、自民党の責任にしないで総理個人が潔く腹を切らなければならないだろう。

昔の政治家には本当に潔く腹を切ったものがいた。中野正剛と言って『日は東方より出る』とかいって、少しかっこよすぎるけれども、個人が自尊心の塊みたいで、そう言う政治家の集まりだった。現在みたいに隠し通せるものなら隠してしまおうという卑怯な政治家は仲間からも糾弾された。そんな日本ならば『日本に住みたい』と思う国民が増えるだろうけれど、今のままだと国民は政治にそっぽを向いてしまうだろう。尊敬できる侍がいないのだ。

戦争にでもなったら真っ先に逃げ出しそうな政治家ばかりではないか。米国の恫喝外交に何も苦情やいさめるようなことはしない、これでトランプとはうまくいっているようなことを平気で言っていたのではだめだ。日本の国は経済優先ではなくて心のありようを大切にする国家にしなくてはだめだと思う。だから判断の基準が損得になってしまうのだ。何とも嘆かわしいではないか。米朝会談がうまくいかなかったときにはどうするのか。拉致問題はどうなるのか。国会で議論しなければならないことはたくさんある。子どもたちに明るい将来の展望を持たせてあげてほしい。今のままではみんな嘘になる。

徒然草

『徒然草』を書いたのは吉田兼好だったか忘れてしまったけれど、日本のジャーナリストのはしりだと評した評論家もいた。徒然なるがままに世の中を風刺して書きつづったもので、現代文に訳されたものしか読んだことはないけれど、文節がしっかりしていてとても読みやすく、その頃の庶民の生活がよく分かる。肩に力が入っていない。このような人をコラムに参加させたら一気に新聞や週刊誌は売れ行きが良くなるだろう。

あっさりと人の心をつかむような世の中の出来事を書けるなんて天才だろう。だから現代まで息付いているのだろうけれども。そういえば日本の訳者というのはすごい。外国文学を生き返らせたのは日本の訳者だ。ヘッセの詩集『孤独者の音楽』やアンドレジードの『狭き門』数え上げたらきりがないけれど、特に詩集の感性の鋭さにはため息の出るほどの見事さである。日本人の感性に優る民族などいるのだろうか。日本語が素晴らしいのであろう。

久しぶりに土浦青年会議所の青年と一緒に故寛仁親王殿下の宮邸に行ってきた。御所に入ってすぐ右側が秋篠宮邸でそこに眞子様がいらっしゃる。30年も前になるけれど土浦青年会議所が寛仁親王殿下に大変お世話になったころからのお付き合いで、それからづっと続いている。青年会議所は単年度切り替えだけれども、そんな付き合い方をしていたのでは友達をなくす。

帰って来たら初等中等学部の草取りを幼稚園の先生方がやっている。今度の土曜日曜日にプレイデイがあるのでそのための用意であるが、校庭が広いから先生たちも大変だ。本当によくやるよ。

明るいのか暗いのか

子どもを育てていくときに、これからの世の中はどうなっていくのだろうかということをある程度勉強しなければならない。流れに任せるという生き方もあるだろうが、今までのように米ソの冷戦があって、なんとなく自由主義陣営が勝利をおさめ、経済戦争でも自由主義国家が勝利した。その中で、主体を持たず、ただ米国に従っていた日本は、いずれ中国が台頭してきたときには厳しい選択を強いられるだろう。

亡くなられた宇宙物理学者のホーキング博士は『地球の残存期間はこのままでは後100年』と言っているが、その根拠となるのは一体どのようなものであるのか。その肝心なところが書いてなかったのか見過ごしてしまったのか定かではないけれども、無性に知りたいところだが、どこでその記事を読んだのかも忘れてしまった。本当に100年しか持たないとしたらどんなことが考えられるのだろうか。考える余力のない頭をひねってみると、まず地球そのものが巨大な隕石にぶつかって大破してしまってなくなってしまうのか。

宇宙そのものの変化ではなく、地球上で起こる様々な事象によって地球そのものが自らを維持できなくなってしまうのか。例えば第3次世界戦争によって核を持っている国の掟破りによる世界核戦争になって人類が生きられなくなってしまう地球になるのか、その場合には人類は滅亡しても地球は残る。

人類が生きている間は地球太古の昔に帰ることはないだろうが、生きている人が大変だ。この先明るい方向に話をする人が少ないので、自然と暗くなる情報ばかりだ。子どもたちにどのような夢を持ってもらいたいのか。現実と夢をどのようにつなげていけばよいのか。希望をどのように育んでいけばよいのか。

 

すっきりしない

幼稚園も初等中等学部も子どもたちの歓声で華やいでいる。世の中のゴシップばかりの報道には嫌気がさすけれど、子どもたちの世界は別の社会だ。ごく一部ではあると思うけれども、官僚としての公僕であることをわきまえずに、保身と権力へのおもねる姿勢には吐き気がする。政権も自民党でなければならないと思っているけれども、どのような言葉で説得できるのだろうか。多くの人は現政権に嫌気がさしている。そんなことは十分に理解していると思うけれども、代われる存在がいないわけでもないだろうが、潔くない。これで安倍政権が仮に3選を果たすようなことがあるならば、国民を本当に愚弄している証となってしまう。

最高学府を出てきた官僚にしても、国民の公僕であることを今一度国民の前に出て誓約し、個人や権力者におもねることはしないことを誓ってほしいものだ。誰もが聖人君子ではないけれど、ときには聖人君子にならなければならない場合もある。特に子どもたちの前では正義と真実を貫いて欲しい。子どもたちは常に純粋な目で直視しているから、今の大人たちの社会を一部始終白日のもとに晒したならば、子どもたちには夢も希望もなくなる。

そんな官僚の作る待機児童をなくす政策など後手後手に回って、対処療法でしかない。真摯に現場の声を拾おうとしないからだ。

新学期始まる

卒園式を書いたすぐ後に新学期始まるを書くのに少し申し訳ないような気がするけれど、何も書かなかったわけではない。何回かブログの更新を行おうと試みたけれども、以前のものと違うところがあって、長い文章を書いて一時保存すると、時間切れか何かになってしまって、もう一度書きなおさなければならない。何とかそれを直してもらうようにお願いしていたけれども、直ってない。それならそれで時間切れになる予告を出してくれるとよいのだが、それも併せてできていない。便利になると聞いてホームページをいじったのだが、私にとっては何が便利になったのかが分からない。それで結局今まで空欄になってしまったのだ。

幼稚園では両園ともに入園式が終了し、新しい園児たちが幼稚園に来ることになった。年少さんの担任になった保育者に一日の感想を述べてもらうと『何がなんだか分からないうちに一日が過ぎてしまった』ということを異口同音に言っていた。中には『何が起こっているのか整理する間もなくお帰りになってしまった』というのもある。私も両園を見てきたが、可愛いだけではなく、保育者に抱かれて『ママーママーこっちへ来てー!』と泣き叫んでいる子がいる。これは大体男の子に多い。そんなところをビデオに撮っておいて大きくなって親には向かうようになったら見せてあげればいい。そう思っている。幼稚園に慣れるまでは、最近の子はそれほど長くはかからない。

小学校には7人の子が入学したが、これがまた可愛いな。幼稚園の子とは違い、小学校へきたんだと言うステイタスのようなものを感じるし、前にのめり込みそうな力を感じる。それでもみんなで列をなしてクラスからクラスへ行くときや、お帰りのときに担任の教師に連れられてくる様は、まるでオヤガモとコガモのようであって何とも微笑ましい。この子たちが幸せな学校生活と幸せな成長を保障してあげたい。もっともこれは親の協力があってなせることだが共に手を携えてやっていきたいものだ。

 

 

卒園式

あのような心を揺さぶる卒園式を、二日も続けてやると心身ともにくたくたになる。静かに心までも突き刺すような純真な目で私の言葉を聞いている。素晴らしい子どもたちに出会えたことに感謝しなければならないだろう。保護者主催の『ありがとうの会』では保護者のパフォーマンスにぐったりするほどの感動を戴いた。さすがに能ある鷹である。最後に子どもたちが両脇に並んだところの真ん中を歩いて、子どもたちに最後の言葉をかける。いつもの泣かされるシーンだ。両脇の子供に一人づつ握手をしながら『元気でな』『また遊びに来いよ』『5月か6月にはまた会えるからな』とか思いだす言葉を並べてさよならを言う。

私はもう少しで70になる。いったん幼稚園から離れようかなと少しばかり考えていたのだが『小学校行っても頑張れよ』の言葉に『先生も幼稚園頑張ってね』と返された。死ぬまで張り付いていなければならないのかなと考えてしまった。本当に優しい子どもたちばかりで、『あおば台に来てくれてありがとう』というと『幼稚園作ってくれてありがとう』と返してくれる。全てが終わって園庭に出てくると、あるお父さんが『幼稚園の卒園式なのに子どもたちがあんなに泣くなんて』ともらい泣きしていた。

子どもたちと保育者が一体となって生活してきた青葉台の保育も卒園式を持って一応の区切りとなるけれども、最後の最後に行った『立派な年長』の儀式は、生涯にわたって自己肯定感を持つことに役立つことだろう。みんなが自分のよさを認めてくれたんだ。何かあるときには必ずこれを思い出してくれるようにお願いしたい。

もう卒園だ

卒園式のリハをしてきた。子どもたちの張りのある歌声を聴いていると、すぐそこにお別れの卒園式があるなんてことは考えられない。いつになく整然としていて、子どもたちの一生懸命さがひしひしと伝わってくる。少しだけサポートしてあげると、あとはすべて自立してやることができる。いつからこんなに立派になったんだと聞きたくなるくらいだ。このように誰にでも自立して、自分がやるという気概を持っている。そこに親が入ると途端に、できなくなってしまうのは不思議だ。一人ひとりよく育ってくれたと思う。大きな拍手を送りたい。

公文書の書き換えは、総理が昨年の2月17日の国会で『私や妻が何らかの関わりがあったら総理を辞めるし国会議員も辞める』と言った後で、総理の気持ちを忖度して文書の改ざんが始まったと野党は追及している。それではこの1年間の国会は何だったのか。麻生さんも辞める時期を失うと、世間から袋たたきにあって憲政史上に汚点を残すことになるだろう。それでなくとも、今回の財務省の件では評判が良くないのだから。政治家の言っていることが我々の感覚とはあまりにも遊離していて、国民との距離が離れてしまっている。政治家の誰もが責任を取らないで、前理財局長だけにすべての責任をなすりつけるようなことになれば、自民党は大敗するだろう。

お粗末な政府

森友の土地に係る関係文書が書き換えられているという。このようなことが財務省理財局であった。ことの発端は首相夫人の昭恵さんだ。『悪のたくらみ』という題の付いた写真に、総理と加計学園の理事長、それに2人ぐらいの人がおさまっている。その前の写真には森友学園の理事長夫妻と総理夫人がにこやかに掲載されている。これで何もなかったなど、普通の人なら普通に考えて何かある。

『改ざん』されたものを『訂正』だと言いくるめたり、省の部局だけに責任を押し付けたり、全て白日のもとにさらけ出して、政府は一旦出直して欲しい。政府は第一に国民のことを考えなければならない立場にあるのに、国民に嘘をついたりしては最悪ではないか。保身はやめて正しいやり方をしてほしいものだ。国民に背を向けてみんなでかばい合っているような素振りは、政治を腐らせてしまう。腹をくくった侍はいないのか。

自民党の中には離党したくなるような人も沢山いるだろうが、そんなことは民進党を見ればわかるように、かつては自民党にいた人が多く含まれている惨めな党になり下がるだけだからやめた方がよい。形振り構わず総辞職して国民に謝罪すべきだ。何があっても私はこの国を任せられるのは自民党以外にはないと思っているから、私は自民党を裏切らないけれども、自民党が一般党員や隠れ党員を裏切っているのではないか。かつて野に下った時のように思いあがりがあるのではないか。為政者は謙虚でなければならないだろうが。

これから日本の国を背負っていく子どもたちの顔をまともに見られるのだろうか。子どもたちの顔を真正面から見られるような政治をしてほしい。

米朝対話実現するか?

ピョンチャン冬季オリンピックに北朝鮮が参加して、にわかに融和ムードが加速していったが、何度も北朝鮮に煮え湯を飲まされてきた経緯があるので簡単に信用するわけにはいかない。米国のトランプ大統領も、核廃棄の道筋を確かめ、廃棄が終了するまで今まで通り圧力をかけていくと明言している。日本は核廃棄だけではなく、拉致問題の解決もあるから簡単には手を緩めるわけにはいかない。しかし人道上の支援と政治的な駆け引きを一緒にしてはだめだなどの世論があると、人道支援に踏み込むこともあるから注意が必要だ。北朝鮮が核廃棄に真剣に取り組むとはとても思えない。何故なら先軍主義が彼らの国是だからである。

しかし米国のトランプさんは、勝手なことをいって世界を震撼させている。あまりあのような人について生きたくはないけれど、自分の好き嫌いで国を左右させてはならないから、政治家は大変な仕事である。あのような傍若無人な人が世界のリーダーとなってしまうと、政治経済を読みとる評論家たちは読みとれないことが多く、セオリーが壊滅状態になってしまった。日本の国もまだ米国の統治下にあるのではないかと思わずにいられない。例えば沖縄における、あるいは駐留米国軍との地位協定やら、米国から購入する兵器などについては米国のいいなりであって、買い物はすべて前金である。お金を支払ってもまだ品物が来ないとか、米国の軍事機密なるものは兵器を購入してもその先は教えてもらえない。日本は自分の力で国を守るという気概を持たなくては、これから先も米国の属国になってしまう。それでも良いとだれかが決めたのか?。

幼児教育現場の混乱

地方自治体が保育者確保のために右往左往している。ことの発端は東京都の知事の発言にある。それまで国は保育者の処遇改善をして保育に従事していただけるように、保育料のほかに保育者の処遇改善費と言うのを新規に設け保育者の確保に万全を期すべく努力をしている。その上に都が独自に2万円を上乗せするというものだ。都に隣接する自治体はそれを聞いて浮足立ってしまい、我先にと保育者への給料のかさ上げをすることになったらしい。茨城県ではつくば市が最初であるが、保育者の通帳に直接振り込むという。金額は1月一律3万円である。

私としてみれば実に好ましい現象である。今までの保育者の給料は、仕事の割にしては薄給であって、何度も補助金の増額を県に頼んだ経験を持っている。その甲斐があって、茨城県は補助金の額が国内では5位以内にランクされたこともあるけれども、全体的に保育者の給与は安かった。特に幼稚園と言うところは、良家の子女が行儀見習いに幼稚園で働いたということもあって、あまり金銭のことを声高に言うと恥ずかしいことのようであった。しかし世の中の潮流がそれを許さなくなった。それはそれでとてもよいことである。

しかし問題もある。モラルハザードの問題である。保育者になると夢を描いてきた学生はそれなりに崇高な使命を抱いて、保育者になろうとしているが、今回の金銭問題で崇高なステージから引き落とされるような危惧がどうしてもぬぐい去ることができないでいる。私の思いすごしか、それとも思い上がりならそれでいいけれど。とにかく保育者を大切にしていこう。

新入園児1日入園とファミリア発表会

土曜日に両園の一日入園と小中学校のファミリア発表会が行われた。同日にこんな大きなイベントを重ねてしまったのは不徳の致すところだ。この時期は一度決めてしまったものは簡単に時期をずらすことができない。それでなくとも普段の平日であってもやることが詰まっていて、どこかに支障が出ることは目に見えている。しかしそれぞれに独立している幼稚園や学校であるので、実際に余裕がないのは私だけのことかもしれない。

幼稚園には可愛い生まれてから3年目の子たちが入って来る。今から30年前までは3歳児保育は幼稚園ではできなくて、みんな家庭で育てるか、保育所に行って4歳になるのを待って幼稚園に来たものだ。学校教育法に照らしてそれが幼稚園指導要領にうたわれていたものだ。今では子供の呼び方も1号2号3号という風に、親の働き方あるいは専業主婦とに分かれて、子どもの預け方が選択できる。選択と言ったが家庭によっては選択の余地がないかもしれない。政府あるいは官僚の政策は政策ではなくて対処療法で、都会ではいまだに待機児童の問題が解決できないでいる。この先何年もかかるであろう。国家が本気になっていない証拠だ。都会に集中して人が住むからこのようなことになるので、一極集中をやめることは強制的な力が必要だ。何かが狂いだしていることに以前から気がついていたはずだ。

小中学校のファミリア発表会はすごい!。子どもたちだけでこんなことができるのだろうか。何よりもみんなの目がきらきらしていて躍動的な子どもたちの力を感じる。このように生きているという証が必要ではないか。初等学部は中等部に入っても1年生はファミリアに入らなければならない。ファミリアは6年生までの専売特許ではない。初等中等とわけているのではなく、発達段階を理解して3年4年2年と言うように子どもたちの生活が充実するように構成されている。具体的な発達段階については学校のパンフに掲載されているので是非ご高覧戴きたいと思います。

そして先日ファミリアの現状について教員から報告を受けたが、中一になったファミリア最年長の子供たちの日ごろの生活ぶりを聞いた。ファミリアに於ける探究心もさることながら、普段の基礎授業についても知ろうとする意識が高く、教師に答えを求めるのではなく、自分たち仲間同士で確認し合いながらの学び合いがよく見られるようになったということである。やらされるのではなく、自発的に内燃機関が作動し自走できるようになる。これこそが私たちが求めているものではないか。内発的動機付けとなったものは何か。それはファミリア活動であったり、選択授業の充実ではないかと思っている。

生活発表会が終わった

先週の土曜、日曜で両園の発表会が終わった。インフルエンザが日本中に蔓延しているので、どうなることやら少々の不安があった。その不安が的中したクラスもあれば、まったく心配にならなかったクラスもある。特に第二幼稚園では全園年中と年長のみであるけれど、二人だけの休みであったのには驚きだった。子どもの自然治癒力だけでは病気を防ぐことは難しいので、どうしてもご両親の気遣いが必要になってくる。そう考えると自然に拍手したくなってくる。

あおば台幼稚園の年長のクラスは凄まじかった。7人も欠席者がいたのだから劇がどうなってしまうのか、後は子どもに任せるしかない。幼稚園まできて脇の下に体温計を挟んで涙ぐんでいる子もいた。私が子どもたちの前に出てみんなの顔を見渡すと、みんな無口でじっと私の顔を見ている。彼らは私が何と言うのか言葉を待っているようだったが、私は何とも言いようがないので『みんなで考えて』とだけ言って開幕の用意をしにステージに戻っていったが、そのあとの子供たちの葛藤がすごかった。

7人も休みがいれば7つの役に穴があいてしまうわけだから、それをどうにかして埋めなければならない。一人で何役もやらなければならないが、同じ劇ではそうは行かない。劇の中の女の子の役を男の子がやることになったが、女の子に言葉の指導をされて、男の子は『僕は男だから女の子の言葉は絶対嫌だ』と言って譲らない。女の子は『劇なんだからいいじゃない!』と言って譲らない。とうとう時間切れになって、劇が始まることになった。するとステージに上がってからも劇の中で言い合っている姿があった。何と楽しいではないか。子どもたちのやり取りをここまでじっと見守ってくれる幼稚園は数少ないであろう。

どちらの幼稚園も年中さんは年中さんらしく、年長さんは年長さんらしく、元気によく出来たと思う。ステージに上がって緊張感で泣き出した子も、背中を見せたまま前を向かなかった子も、いつかそのようなことが楽しい思い出となるだろう。そんな子の現象を観るのではなく、内面の心を観てあげようとすれば、ずいぶんよく頑張っているではないか。今度はきっとかっこよい姿を見せてくれるだろう。何も心配はない。最後に遅くまで頑張ってくれた保育者に感謝したい。良くやってくれた、ありがとう。

 

 

ちょっと違うかも

世の中の一般常識みたいなものと、現実は違うと言うようなことがある。まず民主主義と言うものは最高の決議機関だと言う。過半数が全てを制する訳だが、これが最高によい結果をもたらすものだろうか。実はそうではなくて法治国家は裁判官によって下される裁定を採用している訳だが、一応法律を学んだものに採決を委ねている。どちらか白黒つけるときにいちいち国民投票をするわけにはいかないし、そんなことをしていたらその費用だけで国家予算がなくなってしまう。その裁判官を任命するのも国民に委ねられているわけだが、勉強不足でその仕組みがよく解らない。これこそ非民主的であって、法曹界のものでしか理解できないのではないか。

社会の体制を維持していくのには、独裁か全体主義か民主主義の三つしか今のところはない。北朝鮮は独裁国家であるが、そんな国は沢山ある。アラブの産油国は殆どそうだし、ロシアも独裁だろう。かつて全体主義と言われていた社会主義国家も実のところ共産党一党独裁である。今の中国共産党もそうだ。そういう国家には自由がない。そしてわが国は自由と民主主義を標榜している民主主義国家である。どんな国家体制を選んだとしても平等というのはあり得ない。平等というのは、自由と同じで他から与えられるものではなく、自ら他と平等になるために勝ちとるものである。あまり努力もしないでもなれるものと努力してもなれないものとがいるが、だからこの世は不平等なのだ。

マルクスの言った労働者革命(階級闘争)は、まさに人類の平等をうたったものだが、人間が個として独立している以上、それがいくつかの思想の分類に分かれても、決して平等は生まれない。それは人間の個としての尊厳を認めるからであろう。そして人間に欲望と向上意欲がなくならない限り平等などの言葉は生まれない。だから平等は有名無実である。この偽りの言葉で、どれだけ多くの有能で勇気ある革命戦士が命を落としたことか。自由を求める人に平等は死語だし、民主主義を求める人に自由はない。そのようなことを覚悟して生きていかなければならない。

賑やかな子どもたち

いつものように、保育所の1歳児2歳児の保育室へ行くのには年中さんの部屋を通っていく。年中さんの部屋を覗いて、大きな声でややおどけた声で『お・はよー!』とアクセントを加えて挨拶をする。すると、一人の子が『あっ!園長先生だ!』と声を上げると7~8人の子が一斉にわーっと私の体にまとわりつく。その中の一人が私のお腹をさすって、『まん丸で大きい!』と嬉しそうにしている。

私は昨年の10月25日から炭水化物ダイエットというのをやっていて、これまでに5kgほど体重を減らした。その間海外にも二度ほど行ったが、焼きたてのおいしそうなパンにも出会ったが歯を食いしばって食べるのを拒んだ。肉や野菜ばかり食べていても、どうしてもご飯が食べたくなるものだ。私にとっては涙ぐましい努力であるが、子どもはいたって正直なもので、ときにはその結果が悲しくもなる。

私はすかさず『そんなことはないだろホラよく見て』と言ったら『少しへっ込んでいるようにも見える』と返してくれたが、私が言わせているみたいで後味が悪い。こんな小さな子にも『忖度する』気持ちがあるのだ。

劇遊びが盛ん

幼稚園では劇遊びが盛んに行われている。幼稚園での劇は、子どもたちに無理のない楽しさが前面に出るように注意をしながら指導している。今日は第二幼稚園の年長さん劇を観てきたが、一緒に観ている年中や年少の子が目をまん丸にして興味津々の様子。この子たちと、少し話をさせてもらった。支離滅裂で、何を言っているのかよく聞いていないと理解できないこともあるが、総じて言えることは『かわいい』である。そばにいてくれるだけで生命力を分けていただけるような気がする。お子さんのいる家庭は、良いことばかりではあるまいけれど素晴らしい天使と同居しているのだから、元気を出して頑張ってほしい。

勿論初等中等部に来ても同じことが言えるが、このところ初等中等部へは子どもたちがいる間に来れるときがなく寂しい。幼稚園では子どもの顔と名前が一致しないことというより、顔しか覚えていない。初等中等部では顔と名前が見事に一致する。

最近よく思うことだが、人間にとって何の興味もなく、欲望もなく、希望もなく、切磋するものもない状況のときに、一体何が面白くて生きているのだろうと。人生の勝利者とは、よく長生きした人だと聞く。本当にそうだろうか。つい100年前まで人生50年と言われていた。今から考えると短命であるけれども、それは疫病ではなく戦争があったからだろうと思うけれども、そう思うと現代人はすべて人生の勝利者である。いくら長生きしても、考える力もなく、希望もなく、欲望もなければ生きていても息を吸っているだけではないか。私はそんなのは嫌だ。

6年生の進路

6年生を終了すると当然のことながら中学生に進級する。義務教育や小中一貫校ならそのまま中学生に進級できるわけだが、このところ中等教育という中高一貫教育をする学校に人気がある。この辺では名渓中高が最初だと思うが、出来たときには昔の東京教育大学のOBが集まって設立したとあってすごい人気があった。私の先輩のご子息やご令嬢がこぞって試験を受けてそこへ入学したので、いいところの子どもたちが行くところかと思っていたら、しばらくして筑波大学入学者が上位を占めていると聞いて思わず『すごいな!』と思った。しかも医学部も結構いたと聞いて二度びっくりだった。

最近では江戸川取手が小中学校に進出してきて人気があるが、何といっても一番人気があるのは並木中等教育学校だ。東大進学率が高いと言うことであるが、東大進学率の高いのは県内では土浦一高である。次に水戸一高で、今のところ次は江戸川取手だ。いずれ並木中等教育学校が頭角を現してくるだろうが、県内不動の一番は土浦一高だ。何故土浦一校がこれほどまでにレベルが上がったのかと言うと、研究学園に住む科学者集団の子供たちが土浦一高を目指したからにすぎない。おかげで地元の子たちが一高を断念し、二番手の学校を選ぶようになってしまった。

保護者はなんだかんだ言ってもやはり学力重視なのだろうなと改めて思う。青葉台の理念は学力向上は勿論のこと、幸せになる人柄の向上が一番である。高い学力を持ち人柄もよいという人は数多くいるだろうが、『幸せになれる人柄』に絞りたいものだ。自立し自分の人生を自分の頭で考え『幸せへの道』を選択のできる人。なぜならこの世に生を受けた究極の目的は、人がそれぞれに幸せにになるためで、学問もそのためにある。一生懸命勉強しても幸せになれなかったら、何かが間違っている。

 

サバイバル

年初にホームページのレベルアップをするということで工事中になってしまって、年頭のご挨拶ができなかったことをお詫びいたします。私はこのページをアップすることしか出来ないので、何がどのように便利になったのかはよく分からない。何人かの職員がこのために時間をとって研修に行ったのだから、きっとものすごく便利になっているのだろうと思っている。ところがちょっと勝手が違う。昨日サバイバルのことを時間をかけて書いたのに、一時保存にしたら消えてしまって、また書きなおしてもう一度保存にしたらまた消えてしまった。悔しくてしばらくそのままにして、気を取り直して今書き始めたところだ。

サバイバルはそもそも幼稚園の子供たちと、私の自宅に隣接している背の高い草藪のところで度胸試しみたいにして始めたのがきっかけだ。自分の背丈よりも大きな草藪というのは少し不気味だ。仲間と一緒になって手を握り締めながら草藪から出られるところまで歩くというのは、結構度胸のいるものだ。なにしろ一寸先が闇なのだから、みんなで声をひそめながら歩く。仲間の手を握っているけれど、握った手に汗が垂れる。

 それが小学校ができてからは、学校の周りを回る耐久レースのようなものに様変わりしてしまったけれど、幼稚園の子も小学生と一緒にかけるので気合が入る。『はぁはぁ』と息を切らしながらも、目的地を目指して頑張っている。小学生も幼稚園の子たちが頑張っているのに気を抜くことは出来ない。そう言った相乗効果があって楽しく出来た。駆け足から帰ってくると温かいうどんが待っている。小学生の素晴らしいところは終始幼稚園児に気を使って、うどんを食べるときにも、先に譲ってあげるとか、食べ終わるまでじっと見ていてあげるとか大変な気配りである。もともと青葉台の小学生は、生まれがよいのか育ちがよいのか優しい子ばかりだ。

早く食べ終わった順から広い校庭に出て小学生と一緒に遊ぶ。小学生もよく付き合ってくれる。狭い幼稚園の庭ではなくて、馬を買うほど広い小学校敷地だから、十分に遊びも堪能できただろう。丁寧に企画をしてくれた小学校教諭と幼稚園教諭に感謝である。それに小学校の子供たちにも感謝したい。ありがとう。

excitingfestivalつづき

落語があった。2年生の女児と5年生の男児である。どちらも10分ぐらいの話であったが、詰まることもなく台詞を間違えることや忘れるということもなく、最 後まで堂々とやり終えた。何という才能だろうか!。観衆を目の前にしても上がることもなく緊張しているようにも見えない。演じ切った後の顔を見てみると、 場馴れしているわけでもないのに、清々しく涼しい顔をしている。何とも頼もしい子よ。プライマリーの子たちの劇は、基本の筋道の上に何とすべてアドリブ だったという。

小学校に新しく入学してきたときには『可愛い可愛い』で過ごして、何年かすると『うちの子いったいどうなってしまうのだろ うか』と心配になってくる。それはなぜなのだろうか。よその子と比べて何かが劣っていると思うようになってきて、それは何かといつも考えて子供も親も苦し くなってくる。そんなことは分かっている。学業の成績のことなんだろう。学業というのは実に範囲が広いもので、主に教科書の中身をどれだけ理解しているか ということのみに執着している。人間力なんていうものはそれだけではあるまい。

社会人としてのスキルを磨くことが学校教育であって、社会 に通用しない人を何人も卒業させてもほぼ意味はない。スキルというのは、年齢とともにスキルが新しいスキルを生み磨きをかけていく。幼少期は特に感じる力 を育てることに尽きるのではないか。学習の内容でも、ただ暗記をして詰め込んでもあまり意味はないだろう。算数でも補助線をどこに引けばよいのかとか、国 語の文章についても何を感じたのか、歴史を学ぶのでも年号と出来事だけでは歴史を学んだとはいえない。

感じる力、そのような学習が一番だ と思っている。それに賛同して頂けたら、青葉台の教育は素晴らしいではないか。土曜日のフェスティバルをご覧になられた方は、『うちの子には何が足りない のだろうか』などと馬鹿なことは考えないだろう。だれよりも『うちの子は輝いている』と感じたはずだ。落語をやった男子に『落語家に弟子入りしたらどう だ』と言ったら『ぜひお願いします』と言われた。さてどうする?。度胸も頭もよし、私はなれると思う。

AOBADAIexciting festival

青葉台ミュージックフェスティバルが今年から改名して、「AOBADAI-excitingfestival」となった。ミュージックがエキサイトに変わっ ただけのことだが、よく見てみると、出し物の幅が広くなってまさにfestivalというような感じがする。一人残さず子どもたちの笑顔がよい。一人一人 の心が躍動している。生き生きとしていて、自分は生きているというようなことを強く自己主張している。それも一人として残さずだ。学校、子ども、保護者が 一体となっている。感動して何度も目頭が熱くなった。

何度でも子どもたちに拍手を送りたい。基本的に伸び伸びと、堂々と生活を送れないと だめなのではないか。その上で学習もしっかりとやるということならば、その子は素晴らしい人生を送ることができるだろう。学習すると言っても、学習の種類 はたくさんあって、文科が配っている教科書の中身だけではあるまいと思う。要は、何でもいいから自分が興味を持ったことに、飽くなきチャレンジをするとい うことができれば立派な人間になれる。必ずしも学校での成績とは一致しないのではないか。

世の中に出て幸せになれると言うのもまた学校の成績はあまり関係はない。どこの有名大学を出ようが、幸せそうではない人を何人も見ている。多分多くの人がそう見ていることは確かだ。なのにそういった幻 想が根強く残っているのは、子どものせいではなく世の中を形成している大人たちのせいであろう。そのようなことが学校の教師を縛り、子どもたちを縛ってし まう。もっともっと楽しい学校生活を送れるはずなのに、もっと子供たちを自由にしてやりたいと心からそう思う。

勉強しろというけれど

偏差値29から東大合格した杉山奈津子ママが子育てをしていく上で、これだけは絶対に言わないと決めている言葉があります。それは『勉強しなさい』『宿題をしなさい』『予習をしなさい』という勉強関連の言葉で、『宿題は終わったの』という確認の言葉も同様であると言っています。

『心理的リアクタンス』が働いて、『今やろうと思ったのに』と言ってそれに抵抗を示すことになります。人は自分の好きな時に好きなことをしたいと言う考えを持ってい て、何か人から行動を強制されると、自由を脅かされた気がして、圧力に反発しようとする感情が起こります。この自由を奪われることへの反発を『リアクタン ス』と呼びます。電子回路の物理的用語では「抵抗」を言います。心理的リアクタンスは正常に育っている人には当然備わっているものですから、それが反抗的だと見られるのは残念なことです。

またデューク大学のハリスクーパー氏は宿題についての研究者の第一人者でありますが、小学生に宿題を課 すことは成績上何の影響も与えてはいないという衝撃的な研究結果を公表しました。その時間に『よい睡眠』『家族との時間』『遊ぶ時間』もまた子どもにとっ ては重要な要素であり、宿題でこれらの時間を削ってもよい影響は得られないとしています。多数の研究結果を総合的に解析した結果、小学生レベルの子供が行 う宿題に学術的な利益は発見されず、そればかりか子どもに悪い影響をもたらしていることまで判明しています。

幼稚園から小学校への入学は 子どもにとって向学心を深める機会となりますが、宿題をさせることは学習に対する興味を失わせる影響があるとクーパー氏は説明しています。先ほど書いた 『リアクタンス』の増大は子どもたちにやる気をなくさせてしまいます。勉強はやらせるのではなく、自ら取り組むというモチベーションが大切ですが、それに は親に信頼され肯定的な人間に育てることがまず重要なことでしょう。親はことあるごとに褒めることを習慣づけるように心がけることも肝心でしょう。

高いお金を払って塾へ通わせても、親子で批判し合ったりしていたのでは、基本的に子どもは前に向かう動機付けは失せてしまいます。お金の無駄遣いです。楽しい家庭を築いてください。

幼稚園の餅つき大会

二日前に第二幼稚園の餅つき大会が終了し、今日はあおば台幼稚園の餅つき大会だ。

 

お父さんたちが沢山来てくれて、順調に進行していった。普段の筋肉を使わないので会社でのお仕事大丈夫だろうか。

 

行儀よく座っているけれども、幼稚園では整列やキチンとということは教えていない。お父さんたちも一緒につきたてのお餅を頬張る。何とおいしいことか!。

 

お替わりの列。けんちんがおいしかった。とても上品な味だった。

園長研修会

毎年この時期に設置者園長研修会がある。場所は水戸で行われるのが普通だが、今回はつくば市の東雲で行われた。午前と午後に分かれて午前の部が『教育の経済 学・教育における科学的根拠は』という耳慣れないものであったが、講師の中室牧子慶応大学教授の話を聞いているうちに、なるほど経済学的に分析するとこうなるのかということがよく解ったが、学力を生み重ねていくことに常に費用対効果を意識して話をしている。教育の経済学では非認知能力というものをどのように扱っているのだろうか。

そこのところが明快ではなかった。学力テストなどの認知能力に対して、非認知能力の重要さは、社会生活における 最重要課題ではないのか。人の幸せを求める力に関しても、認知能力より非認知能力の方がむしろ重要である。バランス良くと言うけれど、非認知能力の方が重 くなる方が、人生にはバランスがよい。また経済学だから仕方がないが、何でも数値化して視覚化できなければ説得力はないと思いがちだが、何でも数値化できるものではないだろう。費用対効果の文言が気に入らない。

午後からは幼稚園教育要領の解説を文科省の役人が来て解説する。今年の3月に決 定したもので、その資料についてすでに東京で説明を受けていたので、その資料をもとにすでに解説書を自分で作成し、自園の保育者や義務教育に関連してあるものについては小中学校の教師にも渡し、ともに研修を行っているので、午後からの研修と懇親会は割愛させていただいた。

和太鼓

 

保護者の計らいで、和太鼓の演奏者を学校に呼んでいただき、見事なバチさばきを披露して戴いた。演奏中の写真は1枚もなく、演奏に見とれてシャッターを切る余裕がなかった。

 

子どもたちと一緒に教師も壇上に上がり、演奏者『彩』のメンバーと一緒に和太鼓のレッスン。なかなか覚えるのが早い!。

 

子どもたちも食い入るように舞台を見ている。さすがにプロだけあって観衆を引き付ける。子どもたちの何人かは自分もあのようになりたいと思ったであろう。

マリーナベイサンズ

 三つの高層ホテルの天辺に船の形をしたプールが載っている場所へ行ってきた。そのホテルの中へ行ってきたわけではないけれど、私の 泊まっているホテルから歩いて10分ぐらいの距離にあるので、散歩がてらに行ってきた。少し異様な気がしたけれど、このホテルの建設を請け負った韓国の会社は、建設終了後引き渡しが終わるとすぐに倒産してしまったらしい。日本の建設会社はこの工事に疑義があって、入札に応募しなかったらしい。そんなことも あって、日本の中では「このホテル大丈夫?」と言う風に一部では囁かれている。

昨日は日曜日ということもあって、この地域は夜でも人が賑わいで行き交っている。すぐ間近にシンガポールの港があって、静かな海辺を高速道路が走っている。そんな情景もいいけれども、さすがにアジアの金融都市というだけあって活気がある。そしていろいろな人種のるつぼでもある。肌の色も違えば、宗教も違うし、日々の生活習慣も違う。そんな人たちがうまく調和しひしめき合っている。この国を思えば、人間は肌の色や宗教が違っても争いを起こさずに平和に暮らす事ができるのだ。

シンガポール

シンガポールにきている。ANAに久しぶりに乗ったけれども、沖縄を越えるところからずいぶんっと揺れていたのに、客室乗務員は何事もないようなそぶりで客 に相対していた。日本は地震が多いから案外気にならないのかもしれない。外国の航空会社では、すぐにアナウンスが入って乗務員も同じく座席に腰掛けて揺れ が収まるのを待つといった状況だ。偉いなと感心すると同時に大変な仕事だと思う。

かつて初等学部で英語を教えていた先生に会 いにきた。実はその先生の息子はあおば台幼稚園の卒園児だ。もう21歳になると言うのでどのような青年になっているのか、非常に楽しみであった。現在は徴兵に出ているけれども、なんとプロのサッカーチームに所属していると言う。驚いたけれども、驚いたのはそれだけではない。サッカーはいつまでもできないから、しっかりと国立の大学へ行って仕事に付かなければならないと思っていると言う。しっかりとした考え方を持っているしそれを実行している。

21歳にしては日本の青年と比べたらしっかりしている。日本の青年が大人になりきれない雰囲気を漂わせているのは、多分親の介入ではないかと思っている。子離れできない親が軟弱な青年にしてしまうのではないか。そればかりとは言えないが、大きな違いは徴兵制がある事だろう。 若い時から命をかけると言う経験をしたものはそれなりに心の基本的なものに筋金が入るものだ。

年少さんの保育参観

両園ともに年少さんの保育参観が終わった。初めて幼稚園に来て、友達という仲間ができてどんな子どもの世界を演出しているのだろうか、興味津々と言ったところであろう。仲間がいると言っても、意思の疎通はなく場の共有はあっても同じ意識は持てないから、同じ遊びの中でもすぐに衝突が起こる。3歳児の心の発達の出発点みたいなものだから、かえって動作や仕草や言葉のやり取りなどに興味がある。混沌とした心の葛藤があって、人として成長していくのだろうなと思う。

幼稚園に来るまでの子どもたちの育ちをすぐそばで見守っていたお母様はよく頑張って来たなと思う。部屋の中で子どもと二人きりで、子どもはまだ言葉を理解しない状態である時など、煮詰まってしまってときには発狂したくなる時もあったろうと思う。それは重々理解できるが、だからこそ子どもの成長を楽しみに待てるのではないかと思う。楽しく前を向いて子育てしてくれるようにお長いしたい。必ず子どもは親の期待に沿って行ってくれると信じてほしい。そして何よりもお母さんが幸せになること。

チバニアン

77万年から12万5千年前の地層が見つかった。国際学会での名称が『チバニアン』と命名された。ただチバニアンという名前を聞いても、千葉にもインディアン 部落があったのかぐらいで聞き流してしまう。ましてやその筋の研究者しか知らない用語で解説されても分からない。地軸が反転したなどと聞いても、地球が180度回転したのかとか、その時の地上にある物はどんな現象を起こすのだろうかと考えると、地球が180度回転するのには少し無理があるから、S極とN極が瞬間移動したのだろうなと思うが、それは何故?。

そもそも極が反転したなどどうして分かったのだろうか。いやいや説明はいい、聞いても理解できないから。多分大型恐竜が地球上を闊歩していた時代でもあるだろう。まだまだ人間は登場してこない。ちょっと待って、大型恐竜の時代は6500 万年前に終わっているのだから、その後の地層だ。小型の哺乳類などが生まれてきたころではないか。こんな研究をしている人はロマンがあって生きがいがあるだろうな。学習の初発はやはり興味や関心からだ。そして探究心を深める。

小学生の少年に戻って、今ぐらいの知識を持っていたら地球物理学者になりたかったな。地球の果ては大きな滝があって、そこへ行くともう戻って来られないなどと真剣に考えていて、地球というところはとても恐ろしいところだと思っていたので、コペルニクスや、ガリレオガリレオよりも前の古い知識しか持っていなかった私には地球物理学は無理だ。誰が私にそんなことを教えたのだろうか。

それでオルタナティブは?

自由な学校としてのオルタナティブスクールには大賛成だが、それで教育者としての責任は果たせるのだろうか?という疑問が残る。多様な価値観があるので個人の教育的価値観を押し付けるわけにはいかないけれど、義務教育というのは文科省の教育的価値観を押し付けているといっても、全く的外れな意見だとは思わない。そこで教育というのは国家に帰属するものなのかそれとも個人に帰属するものなのかという議論が沸き起こってきてもよさそうだと思うけれども、国家に財 政的な援助をお願いしている立場上、国家に帰属するのではないと強くは言いにくい。

それは私が勝手にそう思っているだけのもので、国家が国家に帰属するものだということは教育基本法にも書いていない。けれども学校法人を取得するのには、国家が介入してくる。だれにでもできないようにしてあってそのハードルは高い。そのことは『私たちの言うことを聞かないと学校は作らせませんよ』と言っているようなものだ。だから日本国中に散らばっているオルタナティブの考え方では法人は作れない。彼らが法人にしたいとは言ってないが、それで運営するのはどうやって?感心する。

も う一つの疑問!。教育者としてある程度の知識を子どもたちに与えなければならないと私は思っているけれども、そのへんのところはどうだろう。青葉台では発達に応じて縦割りの学級を作っていてそこで基礎学習を学ぶ。その他には選択授業として、子どもたちが興味を示す学習に取り組むようになっている。それは堀先生のところで取り入れたものが多いけれど。子どもの学習への発露を重視している。だから全くやる気になるまで待つといっても待つばかりではない。静かに背中を押しているのだ。

焼き芋パーティ

プライマリークラス主催の焼き芋パーティである。ミドルやハイクラスの先輩を招いての楽しいパーティの始まりです。今日はあおば台でも焼き芋パーティだ。

 

先輩から教えて戴いたセレモニーはしっかりと。

 

一番年齢の低い子がリーダーシップをとっていても、茶化す者もなく先輩たちは神妙にして聞いている。
この学校のいいところだ。

 

1.2年生号令のもと、みんなで『いただきまーす』。とてもおいしかった。

 

1年生からの招待状

『やきいも大かい』『11がつ9にち(もく)』『じかん 3じかんめのこうはんごろ』『大そうこのまえ』と外国人が日本語を初めて習ったようなたどたどしい平仮名で書いてある。『りじちょうせんせいへ やきいも大かいをたのしみにしていてください プライマリーより』と添え書きもしっかりとある。何かあるたび にこのような招待状をもらう。たどたどしくも一生懸命書いている姿が浮かんできて、ありがたく頂いている。彼らにとって何かの思い出になればいいなと。

こ の10年間で不登校や何らかの理由で学校へ行かない子どもの数が増えているという。そのせいかオルタナティブスクールという学校に人気が集まっているとい う。オルタナティブというのはもう一方のとかもう一つのという意味の学校である。文科省の義務教育では満足できないというか、うまくなじめない人たちが自分の居場所を探してたどりつく学校である。サドベリーバレーの教育もこの種に入るが、日本の社会構造にうまく溶け込めるのだろうか。しかし私はこの教育的考え方には賛成だ。

なぜなら画一的な義務教育に、私の生き方はぴったりとくるなんて人はほんの一握りに過ぎない。そこにじっとしていなけ ればならないほうが拷問のようではないか。そこに反発できる子どもの方がむしろ自分を生きる要素を色濃く持っているのではないか。とはいえ日本は学歴社会 で、幸せイコール高学歴ではないということを理解していながら、あとは親の体裁で何とか人前に出ても恥ずかしくない学歴をと思っている。このような凝り固 まった感覚が幅を利かせている間は、オルタナティブは試練を強いられる。

またオルタナティブでは運営資金に事欠く。きのくにこどものむら学園の堀真一郎先生も、それが大きな問題であった。どのような形にしても教育をするのには資金が必要だからである。その結果学校法人の資格を取った。私は最初から法人格を持っていたから、法人以外の学校を作ろうとは思わなかったが、結構強い縛りがあって、自分の思うようになんてことはできない。勿論オルタナティブのようなことは絶対にできない。でも堀先生はうまいことやっている。

秋深まる

寒い日ではなく、冷たい風が吹き低い気温になると秋は一瞬に深まる。太陽の傾く西の方から木々の葉も色づいてくる。そんな想いを持って空を見上げてみると、 鰯雲だか飛行機雲だかが東から西の方に流れている。一抹の冷たい風がヒューッと頬をなでていくと、秋は短い、もう冬がそこまで来ていると感じる。しばらくすると、年の瀬となりそこでまた感慨深くなるだろう。そしてその次には、年齢の重みに深いため息をすることになる。年をとることに抵抗はないが、加齢による何とかという言葉が大嫌いだ。

いつだったか保育園保育士と幼稚園教諭の仕事の違いを書くと言っていたのでこの紙面を借りて少し書いてみ ようと思う。まず誰もが知っている様に保育士は厚生労働省の行政担当であって、幼稚園教諭は文科省の管轄である。幼稚園は教育法によってその地位が確保されている。保育所は社会福祉法によるものだ。幼稚園にはクラスの担任がいるけれど、保育所にはクラスがあっても担任とは言わない。担当である。

幼稚園の教育時間は4時間であって、保育所は8時間以上が義務づけられている。保育所の場合親が8時間勤務だからなのだろうか、それは定かではない。そんなわけで幼稚園は担任はできるが保育所は担当制で交替でそのクラスをみる。だからと言って幼稚園が楽な訳ではない。幼稚園は指導要録があって、卒園したらそ の指導要録を進学する小学校へ提出しなければならないが、保育所にはそれがない。

私は企業内保育所という無認可の保育所を内閣府の補助金で設立した。面倒な書類が必要ないので簡単に出来るのでやってはみたけれど、そこで驚いたのが、保育所というのは子どもが中心ではなく、働く親のためにあると言うことが堂々と書かれていることである。建物が出来るころに一夜漬けで勉強したものだから、全ては後の祭りである。今まで子ども中心の勉強をしてきたものだから、唖然としてしまった。もっともこの施設は、あおば台の幼稚園あるいは小中学校の教員のお子さんを預かるのが主たる目的だから、今までの発達理解や教育理念に沿ってやっていけばよいことだが。

トランプ大統領来日

他のことを書くつもりでも、日本にとってはトランプ大統領の来日がトップニュースにならなければならないだろうと思って、表題はそれにした。北朝鮮問題を早く解決して、拉致被害者を一刻も早く救済して戴きたいものだ。中にはトランプ大統領来日反対なんて叫んでいる者もいるようだけれども、その理由を言って欲しい。誰が日本の周辺について安全を保障できるのか。日本独自で自国を守るというのはできればそうしたいけれども、今の状況では集団安保にすがるしかない だろう。

9人も殺した殺人鬼のその後の自供で、9人の中で誰も自殺願望者はいなかったと言っている。この殺人鬼は自分で働きもせず、お腹がすけば知り合いのところへたかりに行くような生活をしていたようだ。社会に対して無気力で、仲間関係もうまく構築できないようだ。普通に育った人間なら このような人と関わり合いたくないだろうし、このような人間の生い立ちについて、追跡調査をしなくても何となくその背景が分かりそうな気がする。全容解明 までまだ時間がかかりそうだが、この件に関してはもう何も知らなくてもよい。

金土と慶事が2件あった。一つは仕事場の結婚式で、素晴らし いお嬢さんを戴いた。私の職場は女性が多いので出しっぱなしで少々不満であったけれども、今回は何んとなく余裕を持って式を迎えることができた。あの讃美歌も少しずつ覚えてきたようだし、温かい披露宴であった。みんなにこにこして帰った。もう一つは地元で100周年を迎える歯医者さんの記念式典に出席し た。『100年てすごいな!』と言ったら私の隣に座っている柴沼醤油は400年だって。

とんでもない者

オーム真理教もとんでもない者だったけれども、9人も人を殺した殺人気がまだこの世の中にいた。想像を超える神経の持ち主なのは確かだが、どのように育ってきたのか榊原セイトと同じく心理学者にとっては興味のあるところだろう。何故そうも簡単に人を殺 せるのだろうかという、人と狂気の分岐点は何なのかということが知りたいのだ。幼児期の発達心理から犯罪心理学まで幅広い分野で犯罪者の生い立ちを追っていくだろう。人を殺すという決断はどのようにして芽生えるのか、知りたくもある。

人を殺すという行為にいたるまでの心理も大切だが、死にたくなるという自殺願望の心理にも困ったものだ。せっかく生まれてきて、親に育てられて、簡単に死なれたら親としてはやるせないどころか、気が狂ってしまうような苦しみを味わうことになる。犯罪心理はさておいて、この世の中を希望を持って楽しく生きられるようにしなくてはなるまい。手放しでもしっかりと育つ子はいる。そういった子に限って明るく楽しい生活を送っている。そのキーとなることは『認められている』ということに尽きるだろう。

それは親が思っているだけではだめで、口に出して子どもがそれを理解している状況を作らなければいくら認めていると言っても、子どもには通じない。認めていないことと同じだ。まず子どもが自分を大切に思われていると感じること。いつも自分が必要であると思われていることを感じていること。良く感謝されたりしていることが大切だろうと思う。大切なお子さんだから、大切なように育てなければならない。

幼児教育のこと

幼児教育、とりわけ幼稚園教育については、理念や実践において日本の幼児教育は世界に向けて冠たるものだと思っている。幼児教育はフレーベルから始まっているから、そのものまねのような幼稚園があったというのは事実であるけれども、最近の幼児教育は日本の文化に根差した日本独自の幼児教育だと自負している。 もっとも保育形態だけを論じてみると、自由保育や設定保育、一斉保育、選択保育などがあげられるが、これらの原点は何かというと横文字の海外の学者が提案したものが少なくない。

しかしそこから日本人特有のアレンジメントによって、発達心理や発達理解に則した保育形態を創造してきた。中には シュタイナーシューレーによる保育形態もあるし、青空保育と言った家なき保育などもある。これらはメジャーではないが依然としてこれらに固執した保育も息づいている。もともとと言えばルソーの『エミール』か発した子育て論が現代の教育学の原点になっているように私は思っている。社会思想家でもあるルソー は、『子は神の手から出た時は善であり、人間の手に委ねられると悪になる』などの言葉を残してる。

そしてまたルソーは『成長の論理に則して手助けをすることが教育である』と意味深な発言もしている。例えば発達にそぐわない行為は教育ではなく、むしろ子どもたちを壊していってしまうのだということ。このような理論は全日の幼稚園連合会でも十分に理解をし、研究機構から常に発信していることである。しかし依然として小学校の下請けみたいなことをしている幼稚園がある。これはそれを疑いもなく、早めにやることは良いことだと思いたがっている保護者が多いことに由来する。

しかしそう言ったことが、子どもたちの精神をむしばみ、欲求不満をあおり、内向的になるか、運動暴発のように反社会的な行為に及ぶこともある。発達に即しない行為は抑圧と同じであると私は定義している。また、抑圧された人生に良い結果は生まれないと信じている。幼稚園の素晴らしいところと、保育所との違いをこの次に書こう。

運動会は全部終わった

27日に初等中等学部のファミリアオリンピックが終わって、学園の運動会がすべて終了した。幼稚園の運動会はずいぶん待たされて、子どもたちの意識が高まったまま持つのかどうかということがとても気がかりであったけれど、保育者の努力や、ご家庭のご協力もあって子ども達の意識も切れることなく、のびやかに楽 しい運動会となった。今回は緊急的措置として平日に行われたが、幼稚園の運動会は何としても土曜日や日曜日にやりたいと思っている。それでも医者等職業に よっては休めない人がいるけれど、子どもとの思い出に残るのは親子とも運動会や、発表会などの劇遊びだろうと思っている。

平日にもかかわらず、お手伝いをしていただいた保護者の皆様には頭の下がる思いです。ありがとうございました。どこのご家庭の人も、どんなことでも子ども達の運動会を何とかしたいという思いは同じだと思います。親の気持ちに心を動かされます。感謝に堪えません。それにしても、10月ってあんなに長い雨になるんだっけ か?。

ファミリアオリンピックは面白い。まず人数が少ないものだから『お手伝いの保護者の皆さま、こちらに集まってください!』と係の保護者がアナウンスすると、観客席からぞろぞろと保護者が移動して、観客席に残っているのは、おじいさんやおばあさんだけになる。子どもたちはと言えば、 競技に出っぱなしで休憩時間なることがほとんどない。子ども達のことをそんな風に言っていたら、保護者から『保護者もそうです』と言われたが、それがとても和気あいあいとしていて、保護者のみなさんの温かさを感じる。一体感を感じる素晴らしいファミリアオリンピックだった。

運動会二つ

あおば台の年少の運動会と、第二の運動会二つ修了した。長雨に祟(たた)られてしばらく外にも出られなかったのだから、運動会が延期になるのも仕方がない。 それはあおば台だけではなく、その日に予定していたところも沢山あったろうから、私たちと一緒だ。保護者が沢山来ていて、親が近くにいるというだけで、子どもたちの心は躍るものだ。しかも自分の晴れ姿を見に来ているのだから、有頂天になってしまうのも無理からぬことだ。親子で平和な家庭の中ですくすくと育ってほしいと願っている。

ホリエモンが保育士の給料が安いのは、だれにもできる仕事だからだ。とか言ってツイッターか何かが炎上したと いう話を聞いた。それほど保育者の仕事について深く理解をしているとは思えないので、議論をしたいとは思わないが、マルクスのように労働イコール賃金とい うような考えばかりの人とは限るまい。

私は幼稚園が専門なので、幼稚園について言えば30年も前から日本の幼稚園行政は幼稚園教諭の安月給の上に成り立っているということを知事や文科省に訴えてきた。確かにあの当時から給料は安かったと私は思う。それは経営者の知恵が足らなかったのと、幼稚園教師というのはいいところの娘さんで、行儀見習いに奉公に来ているようなものだというような風潮があって、まるで武家屋敷のお嬢さんが幼稚園に働きに来ているというような時代錯誤があった。

それでも幼稚園教諭に憧れる学生が多く、募集の時期には溢れんばかりの応募があった。幼稚園教師になりたいと言う動機はと聞くと決まって『子どもが好きだから』『子どもの中で暮らしたい』とか『幼稚園の時の先生が憧れだった』が定番としてあった。給料がいくらだとか言うことが先に来るような低次元の話ではなく、自分がどう生きたいかということだった。大体この職業に就くときには今でもそういった気高さを持っている保育者が多い。ホリエモンは少し失礼だな。

今日は雨

雨が降りそうな気配が濃厚だったので、今日は運動会を入れなかった。また明日から二日間運動会が続く。雨が降らないことをお祈りしている。中国大陸からの帯状の白い雲が秋雨前線だがこれが途中で切れているので、しばらく晴れが続くだろうが、またしてもフィリピンの東海上で台風22号が発生したという。これが西に向き北上してくると弱弱しい秋雨前線が刺激を受け、またしても活気づく。そうなるとまた雨の日が続いて、弱い地盤などが崩れ落ちるというような被害が発生する。大雨が降ると小高い山のふもとでも危険だから、十分に注意してほしい。

希望の党が惨敗だと言っても、50議席あるのだから惨敗でもないだろう。小池さんの手法『排除する』といった言葉がかなりの不評で負けにつながったと言われている。しかしこれもマスコミの印象操作によるものだ ろう。このようなことをしょっちゅう言われたり書かれたりすれば、もっと誇大解釈して思わぬ方向へ流れることもあるだろう。なぜならば党派を組むには、同志的なものが必要だからそれにそぐわぬ者は排除されてしかるべきである。全く主義思想の違う者が当選だけを狙って党派入りする方が恥ずべき行為だ。

小池さんの知事選での活躍ぶりを見たら、それにあやかろうとする者が寄ってたかって小池氏を取り巻く。そういったことに多少の自惚れがあったのかもしれな い。そのようなことが見え隠れしていたのは確かだろう。それに嫉妬を感じたマスコミは今度は小池たたきをする。確かに希望の党で公認を出すときの顔は非常にこざかしく見えた。これからどうするのかが興味がある。

運動会

第二の年少の運動会ができた。第二の年少の場合は、全く延期もなしで全部外でできた。このところの天候では奇跡に近いことだ。考えて見れば幼稚園児の運動会 だから、それほど毎日のように運動会だけの練習などやる必要はない。オリンピックに出るとか、何かの大会に出るとなれば別の話だけれど、幼稚園の中の身内のお楽しみ会だから、演ずる側も見る側も楽しく時間を過ごすことができればよいと思う。ゆったりと、ゆっくりと慌てずに育てていくことが肝要だろう。

午前中で運動会は終わったが、そのときには日差しがあったけれど、今は空一杯雲で覆われていて今にも雨が降ってもおかしくはない。これからずっと晴天が続くと言っていたのに、気象庁も当てにならない。昔習ったものに観天望気というのがあって、空模様や、昆虫の動きや、空を舞う小鳥の動きで天気予報が出来たということがある。専門学的な話で、例えば風を背に受けて左手を前方斜めに差し出した方角に低気圧があるというバイスバロットの法則などがそうだ。鳥が低く飛んで虫をとっていると、やがて雨が降るというようなこと。

非常に原始的なものだが、昔の人はそうして確実に空模様の予報を出していた。 農家の人なら誰でも知っていたと言う。生きるために覚える学問というものは全く素晴らしいものがある。驚くことは他にもたくさんある。三角定規もないころから、大工さんは直角を出す方法を知っていた。曲線的な屋根などはどうして出来たのだろうか。今でも私たちは不思議の中にいるはずなのに、子どもたちときたら全く不思議がらないのが不思議。家族の会話の中で親が不思議がることをお勧めする。

台風一過

台風が過ぎた後は概して青空が広がるものだ。気持ちのよい秋晴れになったが、昨夜からの雨で園庭や校庭は、でこぼこしているところに水たまりが出来ている。 今週中に幼稚園も小中学校も運動会は終了する。幼稚園の子どもたちは、あまりにも待たされ過ぎたので運動会があると言っても気合が入るのだろうか。秋雨前線や台風などは天災で誰の責任でもないが、日程を組んだ私に責任があるように思えてならない。何とか子供たちに理解してもらいたいものだ。

今日は幼稚園も小中学校も自由登校や自由登園にしたけれど、今日の朝の風の強さを考えたらスクールバスを出すような気には誰もがなれないだろう。早めに決定したけれども、ご家庭の準備もあるだろうから、このような場合は早めの方がよいと思っている。だいたい大雪や台風のときには同じような処置になると思う が、ミサイルのときには休園、休校となる。しかしこの辺の地域は、災害の少ないところだとしみじみ思う。

台風が来てる

あおば台の運動会は非常に残念だけれど延期になった。昨日のうちに延期になることを知らせておいたので、今日は朝から雨が降ってくれないと困るという思いで 外を見た。小雨がぱらつく程度だったけれど、昨日からの雨で園庭は使えるような状態ではなかった。延期の知らせ通りになったのでよかった。これで後の運動会は土日ではなく普段の日に行うことになる。運動会で張り切って登場しようと思っていた保護者には心から『ごめんなさい』を言いたい。この後の日程については順次お伝えいたします。

台風が来てるからこれからは大雨になるのだろう。この際だから何日分でも降ったってかまわない。こんなこと熊本の人たちには叱られるかもしれないけれど、よくもまあ降る雨だ。明日は衆議院の投票日だ。大雨になりそうだから期日前投票を済ませた方がよいとのアナウンスが入ったけれど、私の家の隣が投票所だ。とはいっても投票箱まで行くのには歩いても10分ぐらいかかりそうだけど。

立憲民主党と言うのが出来たけど、現在の社民党とどのように違うのか。日本の国には交戦権がないから、仮に他国が攻めてきたらどうするのか。黙って白旗を上げてしまうのか。そうなった場合に国民はどんな処遇を強いられるのか。絶対にこんなことにはならないだろうと正常性バイアスを掛けてしまうから、危機意識が乏しい。真にリーダーシップを取れる人というのは、危機に直面する前に、話し合いで何とかするなどという無責任なことは言わない。しっかりと準備のできる人だ。

明日はどうなる?

あちら立てればこちら立たずでこの後の日程が決まらない。小中学校の方は、はじめから幼稚園の日程とかぶらないように、日程を苦心して28日にファミリアオリンピックを開催することにしている。このような10月の長雨というのは記録をとり始めてから初めてのことではないだろうか。もとより10月というのは雨が少なくてオリンピック開催も10月に決めたという経緯がある。10月10日の体育の日は半世紀前のオリンピックの開会式だ。雨の日が長くおまけに台風もやってきている。

明日のあおば台の運動会は今のところ決行するつもりでいるけれど、空模様次第では延期もありうる。こんなことでは保護者も困るだろうし、子どもたちに何と伝えればよいのか、はっきりしたことが言えない戸惑いがある。子どもたちの意識を高めて行事を迎えるというのがあおば台の保育の仕方であるけれど、意識を高めていく緊張感が切れてしまうのではないかと心配している。とはいえ、このようにどうにもならないことがあることを、 噛み砕いて子どもたちに伝えることも大事な保育の在り方だ。

明日はまた学校説明会の最終日である。こちらも何としても出なければならな い、というより出たい。第二の運動会は台風の影響があるといのですでに延期は決めてあるものの、明日のあおば台の運動会の空模様が気になる。子どもたちは楽しみにしているのだから、霧雨ぐらいの降雨であればやりたい。

今日はいい天気だが

何日かぶりの晴れになった。しかし正午過ぎにはまた空一面に雲が出てきて太陽を覆いかぶせてしまった。こんな日ばかり続くと子どもたちはストレスをためてしまう。早くすっきりとした天気が続かないかなと真剣になって神様にお願いする。困った時の神頼みというけれど、この際神様でも仏様でもアラーの神でも、ヒンズー教でも何でもいい。私は40年間園長をしているけれど、2週続けて運動会が流れるというのは初めてだ。もっともまだあおば台の方は21日なので雨の 確立は50%になっている。雨さえ降らなければいいのだけれど。

小中学校でも運動会に向けての活動をしていた。幼稚園から、小中の方へ来ると、さすがに子どもたちの動きはダイナミックで、幼稚園の子供たちのあこがれになるだろうなと思う。この子たちが社会に出て、何を楽しみに生きていくのかを確認したい。何のために働いているのかを、どのように考えているのかを聞いてみたい。

今日芋掘りをしたようで、かなりの豊作だったらしい。これから寒くなって、ストーブの上で焼き芋をしたりふかし芋にしたり、餅を焼いたりするのが楽しみだ。子どもたちの人数が少ないからできることで、 幼稚園のように多かったらしょっちゅうはできない。幼稚園の子どもたちは、何か食べ物を上げたりすると『園長先生ダーイ好き』と言ってくれるが、小中は 『ありがとうございます』と礼儀が先に来る。無味乾燥を感じるが、これが発達というものだろう。

雨ばかりよく降る

両園ともに運動会が延期となりました。幼稚園ではこれからの日程を組むのに一苦労であります。延期日まで決めてあったのに、その日もまた雨になりそうです。 秋雨前線が中国大陸から、本州に向けて長く伸びています。おまけにフイリピンの東海上には台風が発生していて、これがまた秋雨前線を刺激して当分の間雨はやみそうにありません。台風が秋雨前線を刺激して、日本に上陸しそうな日は最短で21日ごろだと言われていますので、その周辺の日は雨と言うことになるでしょう。そうなると延期日に用意しておいた運動会がまたも再延期となりますが、どうします?。

どちらの幼稚園でも、子どもたちだけで私に見せてくれる運動会は終了していて、後は保護者の皆様に見て戴きたいと言うことだけです。子どもたちにとってはご両親に見せたいという気持ちが膨らんでいるところだと思います。何としてでも運動会はやるので、この際普段の日になるということも考えられますので、事前に休みを取らなければならない保護者にとっては辛い選択になると思いますが、その時にはご容赦を戴きたいと思います。当然筑波登山は延期もしくは中止と言う風になりますが、お楽しみ遠足と言うことで、ロープウエイかケーブルカーで頂上に行くということも考えられます。

普段の日が運動会になる場合には、バスを出しますので年少さ んは往復とも送迎バスを使い、年中長は行きだけバスに乗り、帰りは親子で降園と言うことになります。そうなりますと、6年生の競技と小学生の競技はすべて なくなり、普段の保育時間内で終了するように進行いたしますので、ご理解とご協力をお願いいたします。

すでに今度の土日は雨で運動会は駄目だろうと思っております。次の月曜日も駄目で、24日は第二の年少の運動会、25日に第二の運動会をし、26日にあおば台の年少の運動会。27日にあおば台の運動会ということで一応の予定とします。28日には初等中等学部のファミリアオリンピックがあります。出席可能な幼稚園の保護者も大歓迎ですので是非ご来校ください。

色々教えることがある

観念的なことを私が思っていたって仕方がない。機会あるごとに子どもたちに伝えていかなければならないことが山ほどある。幼児教育の方法を多くの先生から学ばせていただいたことが今も役に立つ。幼児教育と言うのは、伝える側も伝えられる側もそれが原点であることがよく解ってきた。幼児教育と言うのは、子どもの心を膨らませて上げる教育だから、教科書なんて言うものは必要がない。いわば非認知的な事柄を、心にいっぱい詰め込んで、それが開花するのは多分青年期を過ぎてからだ。

だから小学校でも3年生までは、非認知的な心を膨らませる教育を中心として行っている。それを青葉台ではプライマリーステージと呼んでいる。まさに人生の基礎的な事柄を、仲間ともみ合いながら身につけていく。やがて青春の蹉跌の時代が訪れた時、ため込んだ非認知的な要素がものを言う。それは素晴らしい輝いた感性である。この感性こそが個性と呼ばれるものであり、その人間を表すものである。しかしこの非認知的なものに磨きをかける塾と言うものはない。今ある子どもの感性でもって磨きをかけるのだが、それに気づいている大人がいなければ、ただの石ころにすぎない。

人間には認知的な学習と、非認知的な心の訓練をバランスよく育って行かなければならない。非認知的な心の磨きは良くも悪くも8歳か9歳までに大方の訓練は終了してしまう。自己批判や他者批判ができるような心の発達が育ってくるころには、非認知的な心の育ちの勢いは影を落としてしまう。だからこそ幼少期の教育は重要なので、小学校の認知的学習はタブーであると言われている。先は長い、何も焦ることはない。ゆっくりと大切に育てていこうではないか。

学習意欲は興味・関心から

表題はデューイの言葉であるが、人間が裸で生活していたころから、学習することは始まっていた。きっと不思議なこととか、興味を引くような発見が沢山あった のだろう。知らず知らずに実験を繰り返しその蓄積されたものが文化や文明となった。まず『不思議だ!』と言う発見はどのようにして生まれて来るのか。私は思うに、モノがありふれている現代では『不思議』を探すのに一苦労である。自分で考えなくても答えがすぐに出てしまうから、子どもたちが立ち止まって「探求する」緩やかな時間がない。

それに多くの保護者は教科書に書いてあることをまず暗記して、学校のテストを優秀な成績でクリアして欲しいと願っている。その証拠に子どもたちの時間を大切にしない。何だかんだと理由をつけて塾へ向かわせる。暗記することや教科書に書いてあることを覚えさせることに熱心で、子どもに自由に考えさせる時間を与えない。押し付けばかりで、自由な発想を圧殺してしまう。そんな幼少期を過ごした子が、やがて社会に出て、何か大きなことをするかと言うとそうにはならないだろう。

何だかんだと言っても試験勉強を今からやらせておいた方が勝ちだと、実際にそう思っているなら世の中をとんだ誤解をしている。一流企業に就職できるとか、医者や弁護士になれるとか、そんなことだけの狭い領域で子どもたちを育てたら、結果的にそうなったとしても幸せにはなれない。それは何故か。多くの選択肢から自分を選んでいないからで、人間にはもっと多様な生き方を考えてもいい人生と言うものがある。どんな形でも、他のために生きてみようとする価値観を持った人間の方が、世の中では重宝がられる。

立ち止まって考える動作と言うのは、よく幼稚園で見られる。けしてベルトコンベアーには乗らない、自分の考えたものをやろうとする。ときには保育者の言うことも拒否して、自分の思う通りのことをする。それなのにいつ頃なのか、自分で考えることを辞め、誰かの従属的な考えに染まって、いつしかそれが自分だと自分に言い聞かせ、自分に他人の仮面をかぶせてしまう。そんな人生は幸せではないだろう。私は子どもたちに『自分を生きろ!』と言う。

お粗末な代議士たち

小池都知事の踏み絵にかなわなかった『希望の党』公認希望者は、立憲民主党に鞍替えして公認をもらうらしい。全く持ってこのような理念のしっかりしていない政治家は落選させるべきだろう。国民のための政治家ではないとはっきりと証明してしまっているではないか。サラリーマン政治家がこんなにいるなら政治家の数を減らした方がよい。自民党もまたそのような政治家を批判しているけれど、実は自民党ほど理想政治の幅の広い党も珍しい。自民党は一枚看板のように見えても、理想とするところは右から左と大変な隔たりがある。

だから国民政党だと言っているのかもしれない。国民は多様な考え方を持っているし、それがしょっちゅう変わってしまう。だからと言って総理は、政策に自信があるなら、最後まで政策論争に終始し、野党連合にすり寄るような方針に変えてはならない。そして野党に対してはえげつない批判をしてはならない。

小池新党も、立憲民主党もそう長くは続かない。小池新党は旧民進党の 地盤を引き継いでいるから、ある程度の人たちを当選させられるけれども、立憲民主党は厳しいだろう。結局また空中分解して、新しい野党の枠組みを模索することになる。そうして国民を深い溜息のるつぼに誘ってしまう。政治の混乱は、混乱するだけで、国民を疲れさせる。もっともその国の政治を正しく理解するなら、その国の国民を見ればよいというような言葉があるから、天に唾を吐きだしていることになるけれど。

運動会ごっこ

子どもたちだけの運動会ごっこをやった。子どもたちにとっては本番のようなものだが、年長の毎年の種目にリレーがあるけれど、このリレーは勝ったチームにトロフィーが送られる。手作りで段ボールで作ったものに金紙を張ったものだが、これをもらったチームは心地よいステータスとなって子どもたちの目を輝かせる。だから1点も取れないいつもびりのチームは悲惨な結果になる。最後にリレーがあるので競技の締めくくりみたいなものだ。だからなおさら印象に残るよう なことになる。

全部びりのチームがあった。競技が終わって私の話があるのだが、あまりそのことに重きを置いて話をすると、より以上に傷口がひどくなりそうな気がして、あっさりと『負けても今度は必ず勝てると言う気持ちを持っていれば必ず勝つ時がある。その方法もある。と話したら、後片付け をしているときに、女の子5人ほど私のところへ来て『勝ち方を教えて下さい』と言ってきた。そして『運転手のKさんにも話をした』と言うことを言っていた。今日以前にもすでに勝ち方を教えてもらっていて、練習していたのだ。

このような気持ちのつくり方を学ぶ能力を『非認知能力』と言う。 目に見えない、数値で測れない能力を非認知能力と言い、数学や国語などの試験のように、目に見えて数値化できるものを認知能力と言う。さらに認知していることをどれだけ理解できているのかということをメタ認知と言うらしい。幼児教育でも小中学校でも、人間にとって生きていく基本となるのは非認知能力ではないかと私は思っている。『生きる力』などと言ってもこれは数値化できない。

そして私は、彼女たちの押し寄せてくるような意気込みにのまれ、『バトンタッチとか、そのようなやり方もあるけれど、何よりもあなたたちの今ある気持ちが、リレーで勝つよりも心で勝っている』『これはすごいことだ』と念を押して話したところ、納得したのかどうか分からないけれど『ありがとうございました』とお辞儀をして、くるりと向きを変えて自分のクラスへ駆け足で戻って言った。幼稚園での出来事は、大人たちの手本になる。

30年度園児募集が開始された

両園ともに兄弟のいる子や卒園児の兄弟、または幼稚園と何らかのつながりを持っている保護者は優先枠として9月の最終日に受付を開始する。何らかのつながりというのは、お子様があおば台のクラブに入って保育を受けているという意味で、私とつながりがあってもどうにもならない。もうすでに受付は終了したが、幼稚園探しをしている保護者は大変だ。最初に子どもたちが通う学校は幼稚園だから、私立幼稚園の精神を理解して入園させるのは骨が折れる。

幼稚園には、あおば台のように子どもを中心とした保育形態もあれば、一斉保育のような教師を中心とした保育形態もある。また、保護者が喜びそうな小学校先取り教育みたいな保育形態もある。子ども中心というのは、子どもの主体的な動機を大切にして、保育者が子どもを必要以上に引っ張らない保育とでも言った方がわかりやすいだろうか。この保育は保育者であってもすぐに理解するのは大変そうで、ここで何回か公開保育をしたことがあるけれど、保育者の質問が矢継ぎ早にあった。私たちも保育改革をしたころには大変な思いをした経験がある。

説明会に1日来たぐらいで幼稚園のすべては理解できないのが当たり前だが、入園してから考えると言うのでは、後戻りがうまくいかないのが幼稚園の入園のシステムだ。これは地域の幼稚園との和合や親睦を考えて、あえて決まりを作って逸脱しないように互いを牽制したことから始まる。そのことが保護者にも良いことだと色々考えて全員が合意の上で決められたものだ。その頃は園児数が少なかったのか園児の奪い合いがひどかったような気がする。絶対数は現在の方が少ないはずだけれど。

ワクワクの会とか言うところに 所属している人たちも優先枠としてカウントされた。昨年はやめようと言うことだったが、今年はまた復活したようだ。通常のワクに入れない人たちが困るので はないかとか、閉め切りましたと言ってしまうのはあまりにも無情でないか。断られて親子でとぼとぼと帰る後姿を、平気な顔をして見送ることができるか。いつもこの時期になると受付の保育者を責めてしまう。自分でもどうしようもなくているのに。後ろ姿に手を合わせて謝っています。

小池氏一色!

既存の野党の政党では自民党に立ち向かえない。そもそも政治家と言うのは、権力志向が強く自信家でないと務まらない。その点官僚機構と似ている。政治家は選挙によってふるい分けられるが、官僚は出世のレールに乗れるかどうかで生涯の自分の位置が決まる。人生は何もそれだけのことではあるまいが、その通りであるが、その道に足を踏み入れた瞬間から抜け出すのは入っていくときの労力の数倍も力が必要だ。経験はないけれども、まるでやくざな商売だ。

ところで『大義なき解散総選挙』などとどこかの野党が言いはなったら、それが独り歩きして、あたかも安倍総理を独裁者のように叫んでいるマスコミと一部野党 がいるが、解散は総理の専権事項で、どこの党が政権をとっても同じことが起こる。マスコミの印象操作とか言われるけれどなるほどと思う。先に言ったように政治家は権力思考の集団で、野党でもそれは変わりない。国会の質問など聞いていると、これが国のためなのかと疑いたくなるような与党への中傷質問ばかりが目立つではないか。それは与党をこき下ろし代わって政権を取りたいと言う願望がそうさせるのかもしれない。

大義のない解散総選挙などあるわけがない。野党にとっては政権をとる最大のチャンスであるし、飛躍を期待できる機会はこの時しかない。野党にとってはワクワクして選挙に臨むべきだろ う。小池さんも大義がないなどと言っていたけれど、内心こ踊りして選挙を迎えるのだろう。解散がなければ政界再編成もなかったろうし、希望の党も生まれなかった。自民党も大変な人を敵に回してしまったと思っているだろう。

私は新聞に出ていた希望の党の綱領だか、選挙公約だかを読ませてもらったが、みんな中途半端で確実に実行できるものか、または実行しようとしているのか疑わしい。いわゆる大衆迎合型の最たるものである。大体政治家でパフォーマンスの上手な人と言うのはポピュリストが多いものだ。もしも希望の党が政権を取ったら、民主党の二の舞で国を混乱させるだけだ。なにしろ日本の文化である『しがらみ』のない政治などと言っているけれど、選挙そのものがしがらみではないか。

ちょっとやり過ぎ?

年中さんの運動会の出し物で、何をテーマにしてやろうかというときに、土浦のかっぱ祭りでカリビアンの姿で踊ったのを思い出して、とっさに『カビリアン』がいいんじゃないという発言をしてしまったので、今日がその導入の日である。『海賊』という名詞は知っているけれど、『カビリアン』を知っていたのは20名弱であった。子どもたちから『海賊って何するのー?』という質問に、『海の上で悪いことをする人を海賊と言って、山で悪いことをする人を山賊と言うんだ』 というと『ふーん』と分かったような分からないような反応。

『その海賊が今大洗の海岸にいて先生の友達が海賊に会いに行っている』。『幼稚園を教えてくれと言われたら、あおば台を教えてもいいかな』と言ったら全員が『駄目ー!』と言う。『そうだよね。みんな可愛いからさらわれてしまうかもしれないから』これがいけなかった。怯えてしまう子が何人もいて、泣き出してしまう子もいる。『何故警察に言わないのか』と抗議のような態度で言ってくる子もいる。海賊たちの冒険や、体を鍛えている話をするつもりでいたが、意外な方向へ進んでしまった。

この時期は優美期と言って、かっこのいいものにものすごく憧れたりするが、同時に悪に対しては、恐れと戦うと言う正義感が強く芽生える時だ。顔を伏せて泣いている子もいるので、その処置にほとほと困ってしまったが、保育者にバトンタッチをして私は引きさがることにした。その後年少さんの部屋を巡回して、帰りに年中さんの集まっている部屋を覗き『がんばろうぜ!』と大声を出したら、子どもたちは『おー!』と右手のこぶしを突き出して答える。こんなもんだ。

今度の衆議院の総選挙 で、民進党は解党するか消滅してしまう。小池都知事の『希望の党』が立ち上がって、その人気にあやかって民進党が合流すると言う。何と節操のないと誰しも 思うが、代議士は当選しなければただの人だから、なりふり構わずに選挙に突入して行くしかない。分からないのは小池都知事が総理を狙うならばこの選挙に出馬しなければならないだろうに、本人は都知事のままでいると言う煮え切らない態度だ。自民党にとってはいつになく厳しい選挙になりそうだが、国政を任せら れるのは自民党しかいないだろう。

授業の形態

教師の板書を忠実に書き写す授業。これは私たちが受けてきた授業の形態で、最近ではこのような一方向だけの授業というのは少なくなってきているだろう。暗記をするということに主眼が置かれていて、よく言われてきた詰め込み式授業である。activeーlearningが声高に叫ばれてきてからは、双方向的な 授業が行われるようになったと聞いている。けれども現場の教師からは、子どもたちの能力の差が著しいので、全体で双方向にクラスの授業を進めるのには難があると言った声が聞かれる。

そもそもクラスというのは、授業中になれば教師と子どもたちとしかいない。双方向にやり取りするというのが全く自然ではないのか。だがそうは思っても教師像と言うの古くからあって、そう簡単に古い体質の教師像を打ち壊していくのにはかなりの労力が必要だそうだ。 善意に前向きに色々苦心されて、今までの殻を打ち破ろうとしている教師もかなりの数いそうな気がする。前の体質が悪いというのではなくて、脳科学的に考えても授業参加型の方法が、学習の動機付けには適しているのは周知の事実である。

activeーlearningを取り入れた授業が、最近になってよく言われているけれども、もちろんその授業における学習は研修会としてやってはいるけれど、この学校では創立以来そうした授業形態で進めている。それに体験学習を第一に考えていて、脳を働かせるけれども、同時に手足でも考えさせる。今日は日曜日に機械で刈り取った稲の残りをみんなで刈り取っ て、オダカケに収めた。こうした体験が、やがて血となり肉となって、生活の知恵となっていく。時間はかかるかもしれないけれど着実に進んでいく。

稲刈り・幼稚園はバザー

9時から稲刈りをするというので朝から小中学校へ行ってきた。近くの農家の人にお願いをして、子ども達が刈るところだけを残してコンバインで刈ってもらった。農家の人は朝が早いから、少し早めに学校へ着いたが、すでにファームファミリアの先生が来ていて、田んぼで待機していた。日曜日だというのになんか申訳ない気がした。コンバインで刈るととても速い。機械の近くで刈るところを見るのは初めてで、機械そのものが流れ作業になっていて、籾だけを収穫していく素晴らしさに感動した。

しばらく見せてもらって、今日は第二幼稚園でバザーがあるとので、幼稚園へ急いだ。とは言っても、幼稚園へ行っても何もやることもなく買い物をするだけのことだが、これがまた食べモノばかり見て回って、焼きそば2個、団子、寿司パック、おにぎりパックと、これではダイエットは無理。おいしいものだからパクパクと食べてしまう。それにコーヒーもおいしかった。たくさんのブースがあって全くありがたい。

中国と北朝鮮の貿易が増えていると言う。その詳細については知る由もないが、確かに抜け道がある。ロシアは全く無視しているようで、自国のことだけを考えている。こんな所とうまく外交をしなければならないなんて、政治家は大変だ。それともう一つ。ロシアの建設を請け負っている日本の建設会社では、北朝鮮労働者を使っているそうで、決済はすべて日本円らしい。これは一体どうする。

麻生財務相が不穏なことを言ったと、左翼の結構な餌になっている。なるほどなと思うのは、話のある部分だけをもぎり取って拡大解釈や、誇大表現すれば大変な問題になる。北朝鮮が韓国に攻めてきたらたくさんの避難民が 日本にやってくる。彼らは武装しているかもしれない。その時にどうするのか。警察に任せるのか、自衛隊が出動するのか、だれが食い止めるのか『射殺』ですか。といったところだ。麻生さんの一流のレトリックで、大変な問題だから真剣に考えなければならないという示唆を与えるときに良くこのような極端な表現をする。そのほうが聞いている人たちは『はっ!』とするではないか。マスコミ相手ではこのようなことは言わない。麻生さんは陰険ではなく、腹に溜めない正直な人なんだ。

政治とマスコミ

衆議院の解散が決まったらしい。10月22日に新しい議員が選ばれて、晴れて議事堂に登壇する。与野党の攻防などともっともらしいことを並べて、各党の主張 なども織り交ぜて記事には出ているが、国会議員の先生の最も恐れているのはマスコミのすっぱ抜きだろう。いわゆるスクープと言うものだが、こんなことで国の根幹が揺れているのでは、恥ずかしいのではないか。またこのようなことを鬼の首を取ったようにはしゃいでいるマスコミの程度の低さには、まったく閉口せ ざるを得ない。

既成政党の中で、北朝鮮の祝賀会に出席した売国奴の党籍について、マスコミを通して謝罪もしくはその顛末を報告する義務があろう。何もない時期ならいざ知らず、日本の国が危機にあるときだから、きちんとするべきであろう。しかしマスコミは左傾が多いせいか、日本の左傾政党の批判は殆ど書かないのが現状のようだ。こんなことで電波を使った国民に本意を知らせる報道ができるのだろうか。

自民党にいた若狭という衆議院議員が、東京都知事に脅威的な強さで当選した小池知事を頭に、新党を結成し、民進党を離党した議員を取り込んで新しい政党を模索しているらしい。一時しのぎのポピュリズムに陶酔して、何か出来そうな期待感は持たないほうが良い。国を憂うる志士としては、その時の人気にあやかって政党を組むなどはもっての外。そのようなコバンザメの生き方ではすぐに消滅してしまう。小池さんに頼むのではなくて、小池さんが来るような政党にしなければ、魅力はない。

人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ

人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ。ロバート・フルガムの有名な本の一節である。彼は職業を聞かれると『哲学者』と答えていたというけれど、なるほど読めば読むほど含蓄の深い意味が並んでいる。もうあれこれ27年も前に出た本であるが、その当時私は全くこの本に気付かなかった。数年前に全日本幼稚園連合会であった友人に紹介されたものだ。改めてこの本を手にしてみると。哲学者でありエッセイストでもある。さわりの部分だけでもここに紹介しよう。

何でもみんなで分け合うこと。
ずるをしないこと。
人をぶたないこと。
使ったものは必ずもとのところに戻すこと。
ちらかしたら自分で後片付けをすること。
人のものに手を出さないこと。
誰かを傷つけたら、ごめんなさい、ということ。
食事の前には手を洗うこと。
トイレに行ったらちゃんと水を流すこと。
焼き立てのクッキーと冷たいミルクは体にいい。
釣り合いのとれた生活をすることーー毎日、少し勉強し、少し考え、少し絵を描き、歌い、踊り、遊び、そして働くこと。毎日必ず昼寝をすること。
おもてに出るときには車に気をつけ、手をつないで、はなればなれにならないようにすること。
不思議だな、と思う気持ちを大切にすること。発泡スチロールのカップに巻いた小さな種のことを忘れないように。種から芽がでて、根が伸びて、草花が育つ。どうしてそんなことが起きるのか、本当のところは誰も知らない。でも、人間だっておんなじだ。
金魚も、ハムスターも、二十日鼠も、発泡スチロールのカップにまいた小さな種さえも、いつかは死ぬ。人間も死から逃れることはできない。
何よりも大切な意味を持つ言葉。『見てごらん』

あえてコメントする必要はないだろう。今日の学校説明会で、この話をした。幼稚園でも、小学校でも、人生の出発点ということでは同じことだ。

またやったか北朝鮮!

6時57分に北朝鮮西海岸近くからまたもや日本の上空をミサイルを飛ばした。Jアラ-トが鳴ったのは7時7分ごろ、その頃はもう北海道上空を通り過ぎて行った。14分には北太平洋上空に消えた。日本も多分アメリカも北朝鮮がこんなに早く原爆を保持し、ICBMを開発できるなど思ってもいなかった。北朝鮮を甘く見ていたという失敗がある。その陰には核不拡散と核の縮小で核関係の科学者がロシアから大量に北朝鮮に流れたという噂が絶えない。それについてはロシア は何のコメントも出さないし、米国もそれらを突っついたりしない。そのカードはいつ切るのか興味がある。

『オオカミが来たぞー!』と叫んで面白がっていた少年は、今度は本当に来た時に誰も助けにきてくれなかった。これと同じようにしょっちゅうJアラートが鳴っていると、誰もミサイル攻撃が あった時に逃げたり隠れたりすることができなくなってしまう。北朝鮮は核を持ったことから鼻息が荒く、日本を取るに足らぬ四つの島を海に沈めてやる!と脅している。左翼系の学者の話を聞いていると、悪いのはアメリカや日本だみたな言いかたである。多分彼らが日本をつぶしてしまうのだろう。

おりしも北朝鮮の高等学校が高校無償化の対象にならず、また補助金も受けることができなくなった。裁判所前では『なめるな!』とか『いつまで私たちを差別すれば気が済むのか!』というような怒号が渦巻いていた。何を言っているのか。彼らは北朝鮮総連の傘下にあって、私たちの税金を本国に送金してしまうおそれが100%あるではないか。ならば本国へ帰ってカリアゲ君を諫めてくれば良い。ここは日本の国だから日本の法律に従って、負けた時には不当判決などと言わ ないで静かに従ってほしい。

今回の発射で米国はどう出るのか。日本の上空を飛んでいても日本は『断固として容認できない!』最高に強い言 葉で抗議すると言っている。決まり文句だから小学生でも覚えてしまっている。第9条があるから日本は手出しができない。どこの国でもこれだけのことをされ たら宣戦布告と同じだろう。相手国基地攻撃を可能にするだけで、彼らはミサイル発射を躊躇するはずだ。子どもたちの誇りのために、子どもたちの命を守るた めに、子どもたちの未来のために強い品のある国にしてほしいものだ。

またまたショック!

北朝鮮には白頭山偉人称賛国際祭典というのがあって、8月15日祖国解放記念日に合わせ、世界61カ国から金正恩委員長を称える人士240人を北朝鮮に招待して開かれる。そこに日本人数名も招かれたらしい。日本代表として招かれたのがなんと、元社民党国対委員長日森文尋氏である。その人が堂々と平城の国会議事堂で演説した。以下その内容である。

『朝鮮人民は、金正恩委員長の卓越した指導によって一心団結し、核武力建設を発展させ、米国を対話の舞台に引きずり出す決定的な力を保持されたことに敬意を表します。またICBM火星14型の試射を成功させたことは、この力をますます確固たるものにしました・・・・』というものであった。この記事を書いた記者 は朝鮮労働党の幹部のような錯覚を覚え耳を疑ったと書いている。もう一人民主党野田政権時代にいた法務大臣の平岡秀夫氏である。二人共に政党の要職、あるいは国家の要職にあった人だ。

極めつけはミサイルを開発する科学者や技術者たちとの対話集会で、平岡氏は聞きとして彼らの 説明を聞き『交流』していたのだったと書かれている。現職の国会議員ではないと言っても、このような日本の国の状況にある時、平気で北朝鮮を訪れ、核実験 を称賛し、北朝鮮の委員長を称賛し、少しでも日本のためにできたことはあったのかと首をかしげたくなる。日本の国会議員は何処の国のためにあるのか。全てがとは言えないが、民進党も社民党も解党して国民の前にひれ伏して謝罪しなければならないだろう。日本の恥だ!。

また日本の核武装を絶対に否定している人が、北朝鮮へ行っては核武装を発展させたことに、多大の称賛を北朝鮮人民に送っている様は、何と言い訳するのか。社民党や、民進党に聞いてみたいものだが、すでに国会議員を辞めたと言って取り合わないだろうが、多分党籍は残っているはずだ。日本国民として誤ったメッセージを送っていないか気がかりだ。変な人間がいるものだ。

ショック!

ホーキング博士曰く『人間社会はあと100年で終わる』と。いつだったかホーキング博士は人間社会は1000年続いて終わるようなことを言っていたけれども、 最近の世相から10分の一になってしまった。これはどう思いますか。全く希望のない社会ではないか。世界史をひも解いてみると、欧米列強国の植民地主義が帝国国家を築き、国を挙げての泥棒、強盗がまことしやかに行われて、一番他国の民衆を苦しめた国が世界経済を牛耳て、恥じることがない。正直これが今の世界だろう。

わが国日本は植民地主義ではなかったのかというと、日本もまた東洋では唯一の帝国主義国家であった。台湾や韓国を植民地としたけれども、欧米の植民地というのはその国の富を根こそぎ奪ってきてしまうものであったのと比べると、日本は民族同化をうたい差別をしないように気遣った。 そして電気を引き、教育を施し産業を興し、植民地以前よりもかなりの文化的水準を押し上げた。韓国などとやかく言っているけれども、日本が併合しなかったらどうなっていたのか。そういうと上目線だと言われるから言いたくないが、一言言ってやりたいものがある。

韓国に向かって話すことは沢山 あるが、この紙面に書くには2日ぐらいかかるだろう。インスタントラーメンの技術を無償で提供したのは明星出し、車の製造技術をこれまた無償で提供したの は三菱自動車だ。自分たちで作りだすと言うことが全くないものだから、こんなことを書きだしたら止まらなくなる。話を元に戻してホーキング博士は、北朝鮮を核保有国としたなら、核廃絶どころか核拡散になって地球の将来はないと言明しているのだ。そうなってしまうのだろうか。

北朝鮮問題どうなる?

北朝鮮問題を解決するために緊急安保理が開かれた。もう何回も決議を行っているけれど一向に北朝鮮は行動を改めようとしない。今回で9回目の決議だというけれど、中ロがすんなりとこの決議に従うかどうか極めて疑わしいのではないか。今回はかなりの部分が骨抜きになっていて、これで効果があるのだろうか首をかしげたくなる。北朝鮮に対する安保理決議はこれで最後だというメッセージが北朝鮮に伝わったのかどうか。この次はアメリカの実力行使になるということを暗に示しているのだろうか。

もしこのまま北朝鮮を核保有国として認知してしまえば日米安保は機能しないということになり、韓国も日本もアメ リカを信頼できなくなり、重武装国家に突き進んでいくことになるだろう。アメリカが韓国から軍隊を引き揚げたら、北朝鮮は必ず韓国を武力併合し、日本と対峙することになる。その後ろ盾になるのは中国とロシアだ。そのどさくさにまぎれて中国は尖閣列島を奪い取るつもりだ。ロシアは経済的に日本をうまく利用しようとし、北方4島に軍事基地を作り、日本の抗議など馬耳東風だ。なのに経済協力などと言って日本は今までにどれだけのお金を取られてきたのか。

外交は難しい。狐と狸どころではない。人間の顔をして、議論しているからどうにも始末が悪い。日本の国は一時も早く敵地攻撃をできるように法改正を行い、そ れに見合う兵器の研究を速やかに行わなければならない。戦争はだめなのは誰でも一致した意見であるけれど、日本の子どもたちが敵の凶弾に倒れたとなったら、黙っていられないだろう。それでも平和的解決をとか、外交でもって戦争を回避せよなどと言えるのかどうか。わが子が殺されたらどうするのか。命がけで子どもを守るのは当たり前ではないか。無責任な楽観主義が危険を誘うものだ。

入園説明会

土曜日には両園ともに来年度の入園説明会があった。第二幼稚園の場合には今日も説明会をしている。1日だけでは参加者が多くて処理しきれないので、2日かけてやることにしている。何百人来ていただいても入園できる人数は限られているので、入園に漏れてしまった人にはなんと言ってお詫びをしたらいいのか、途方にくれる。子供の発達をよく理解し、大切に育ててくれるような、そんな幼稚園を切に願っている。つくばは科学者が多く研究職を職業にしている保護者が多 いから、小学校の先取りをしている幼稚園に、保護者が集まるのではないかと勘違いをしている園もある。

あおば台幼稚園を選ぶ理由の大きなファクターとして『自由にのびのびしているから 』幼稚園の時ぐらいは泥んこになって、自由に遊ばせたいと言うのがかなり多くの保護者からのご意見として伺った事がある。 これにはちょっと首をかしげた事がある。自由にのびのびできるのは、子供自身にわだかまりがないからであって 、幼稚園にきたからそうなったのではない。そのように癖のない子に育ててきた家族の力である。また幼稚園に在籍している時だけ『自由にのびのび』していてもあまり意味がないではないか。その後の人生において『自由にのびのび』しなければならないだろうに。

隣の芝生

稲刈りがあちこちで始まったようで、そろそろ本格的になってきそうだ。第二幼稚園に行く時も、刈り取られた田んぼがあちこちに現れてきた。学校へ行くときにはわが校の田んぼを注意深く見ているが、近くの田んぼでは稲刈りがきれいに終わって、刈り後が線路のようにきれいに平行になっていて、機械で正確に植えられたことが物語っている。うちの田んぼの田植えは大体1カ月遅れで植えられたから、稲刈りもそのペースでやることになるだろう。気のせいなのか、心なしか隣の田んぼの稲穂の方が重く垂れさがっているように見える。

自分の家の芝生より隣の家の芝生の方が、碧く丈夫に生き生きと育っているように見えるものだ。とかく人はないものねだりが多い。自分の家の芝生は、文句も言わずに緑なし、人の目を楽しませてくれているのに、自分の家の芝生で我慢し ようではなく、自分の家の芝生の方がはるかに隣の芝生よりも勝っていることに気付いていない。わが子についてもそんなことがあるのではないだろうか。母親 が手を差し伸べると、無条件でその手を握り返し微笑んでくれるわが子が、とてもいじらしく愛おしいではないか。

明日は来年度の入園説明会である。初めて他人にわが子を預ける母親はどんな気持ちでいるのだろうか。あまり変な刺激を与えないように丁寧にお話ししよう。

子どもたちが帰ってきた

福島のブリティッシュヒルという朝から晩まで英語で話す学校へ、3泊4日の日程で語学研修に行ってきた子どもたちが帰ってきた。最初は緊張していて言葉も少なかったようでしたが、徐々に慣れてくるに従って単語をつなぎ合わせて自ら話す姿もあったとのこと。子どもたちは順応性があるからしばらくすると意味がわからなくても仲良しになれるし、感覚で話ができるようになる。私は今でも感覚でしか話はできないけれど、子どもたちは遊び感覚でいつの間にか言葉を覚えてしまう。

私は英語を覚えるためにどれだけ浪費をしたか分からない。どうせ最後まで続かないくせに何十万もするセットを買ったこともあるけ れど、今ではそれがどこへ行ってしまったのか分からない。もっと早いうちにやって置けばそうはならなかったかもしれない。青葉台は3年間だけグアムのセントジョンスクールと提携して語学研修へ行ったことがある。3泊だったけれど、1泊目は到着した日で、あいさつ程度で、2日目が1日中学校にいて語学研修になるわけだけれど、その時と比べたら、今回の方がはるかに料金も安いし中身が良いようだ。

グアムのときには私がコンダクターを務めたので、行きとどかないことばかりで子どもたちには申し訳ないと思っている。校長先生の教え子だと言う人が学校へ来て、低学年に英語のレッスンをしてくれたと聞いている。たまたま語学研修に行った時だったのでこれも何かの縁だろう。その人の旦那さんがJAXAで火星のことを勉強していると言っていた。これから その人が学校へ来て英語を教えてくれるといいなと思っている。私は火星の話を聞きたい。

北のカリアゲ君は戦争をしたがっているのかな。ア メリカは勝手にアメリカfastを唱えておいて、自分の都合で中ロに圧力をかけたところで、簡単には動いてくれないだろう。どこの国だって自分の都合のよいようにしか動いてくれない。日本もよく肝に銘じて、核三原則のバリアを解いて、もしも他国が我が国に危害を加えようとしたときには、それなりの被害をこうむるということを明示しなければなるまい。そしていざとなった時には、巨大な魚に食われないようにしなければならないだろう。

歴史が大きく動いている

ソ連が崩壊し、ソビエト連邦にくみしていた東側諸国がくっついたり離れたりして、国の名前が変わったりなくなったりして、大変な時代に生きていることは確かだ。東西ドイツが一つのドイツになったことで資本主義経済国家が勝利したことが明確になった。共産国家は亡くなって行くだろうと言うのが大方の世界の見方であったが、中華人民共和国と、北朝鮮人民共和国は、頑としてその体制を維持している。国連の制裁決議でも、アメリカにくみしない中国とロシアは冷戦時代の名残である。

北朝鮮が6回目の核実験を行った。それがレッドラインを超えたことなのだろうと思っていたら、まだそうでもないようで、韓国の大統領は対話を重視しているなどこの世に及んでまで言い続けている。何処の国でも韓国の了解をえないで、北朝鮮と戦争を始めることは出来ないと言ったことがアメリカを怒らせてしまったらしい。それもそのはずだ。北朝鮮は名指しでアメリカ本土やグアムに大陸段弾道弾をぶち込むと言っているのに、韓国の了解なしにアメリカが動けないなんてバカな話があるかということだ。

もう韓国のことでは世界があきれ返っている。日本との慰安婦問題について決着済みの話をまた蒸し返したり、捏造とたかりの三流国家であると世界に広げてしまった。日本はさすがに大人の対応をしているけれど、韓国経済がデフォ ルトに陥った時に日本の政府や金融機関が助けた。つい何年か前の話でそんな昔のことではない。もうスワップ協定は結ばないと麻生さんは言っている。でも日本人には『そんなこと言ってもなあ』という良さがあってそれが災いしているのだが、今度は本気のようだ。

今日は小学校の子どもたちと第二 幼稚園の近くにある雑木林のところで篠竹取りに行ってきた。それを使って色々な工作をしたいそうだ。想像は無限に広がるから多くのことに挑戦したらいいと思う。子どもたちと一緒にいると、本当に安心する。とてもよい時間だ。校長はやめたけれど子どもたちと一緒にいる時間はやめない。

保育園

学校法人塚原学園の保育園が出来た。学校法人に勤める保育者のものだが、企業と契約を結べばその企業の企業内保育所としての資格を得ることが出来る。また一般の人が入園する場合には、居住する地域の役所と相談する。幼稚園と直接契約を結ぶことはできない。何人かの保育者の子が続けざまに生まれたので、どうにかしなければならないと、半ば衝動的に作ってしまった。これからどうしていくのか分からない。保育所を経験した教師にこれからのことは任せていこうと思う。

昨日9月1日に開園した。二人の1歳児と2歳児が幼稚園の始業日に合わせて紹介された。泣くのでもなくベテランの保育者に、何だかんだと手を煩わせてキャッキャと騒いでる。可愛いのなんのって、本当の天使のようだ。このままでは世の中に出られないけれど、内面の屈託のなさなどは、このまま育っていけるのではないか。一応は1歳児は6人に一人の保育者が、2歳児も同じように6人に一人の保育者がつかなければならないことに法律ではなっているけれど、幼児はもっと少なくしないと保育者は大変だと思う。

無邪気で可愛いけれど、あの子たちは何の苦しみもなく、親の保護の中で育って行く。貧しい国の子どもたちは、歩けるようになると車道に立って物乞いをしたり、モノ売りをして家族の一助とならなければならない。現に私はフィリ ピンのマニラでその光景を目にしたことがある。誰を怨むものではない。怨むことさえ知らないでことさらに生きていくことだけを考えている。目だけが妙に強かった。彼らは将来に希望を持っているのだろうか。日本の子どもたちに話をしても多分理解できないがろう。

小中学校で恒例の『あおば祭り』があって、久しぶりにピザ釜を使ってピザを焼くと言うので、昼食に合わせて急いで学校へ来てみた。ところが祭りのおやつに出すので2時半ごろになるというではないか。仕方がないのでインスタントラーメンを腹に入れておいて、保護者のところへ行ったら、おいしいコーヒーと焼き立てのピザがあるではない か。すぐに食べさせてもらったが、さすがにおいしい。おいしいコーヒーの味が思い出したかのように喉を通って行った。今度は無料『あおば喫茶』をやろうか な。

残念なことと Jアラート

茨城県知事が橋本昌さんから大井川さんと言う人に代わった。橋本さんが選挙に負けたわけだが、私立幼稚園に造詣が深く、私立幼稚園振興のために随分とお骨折りをいただいた。返す返すも残念なことである。私も橋本さんの支援団体である『昌平会』と言う幼稚園連合会の中の組織の会長を務めていて、責任を感じる。終わってしまったことにくよくよとしていられないけれども、勝敗の結果を聞いた時には何も話をしたくなかった。幼稚園連合会が、橋本知事同様にこれからも可愛がって戴けるのかが心配である。連合会の会長もこれからが頭痛の種になることは間違いない。

橋本知事には24年間本当にご苦労様でした。また茨城県私立幼稚園の発展のために多くの難しい難題を克服していただき、素晴らしい連合会になりました。これはひとえに橋本知事との出会いがあったから他にありません。ここの紙面で大変失礼かもしれませんが、知事への思いのたけを表したいと思います。重ねて厚く深く感謝と御礼申し上げます。これからは御身ご大切にお暮らしくださいますようお願いいたします。

突然Jアラートがけたたましく鳴って『北朝鮮から飛翔体が飛んできました。安全な場所に退避してください』というメッセージが携帯に流れてきた。すぐさまテレビをつけてみると、同じようなメッセージが画面いっぱいに映し出されている。ほかのチャンネルを回してみても画面はみんな一緒だった。それが6時14分であったが、それからのニュースを注意深く聞いたり見たりしていると、北朝鮮の西岸から5時57分ごろ打ち上げられて、6時6分に襟裳岬の上空を通って、12分には太平洋の海の中に落下したという。

と言うとすべてが終わってからJアラートが鳴ったということになるけれども、これでいいのだろうか。こんなことがあると、政府は日米の強固な同盟を確認し、断固として北朝鮮の暴挙は許さないと言っているけれども、レトリックを駆使するのではなく現実として米国がどのように動くのか、日本はどうするのかという行動様式を知りたいものである。散々おちょくられているのに、絶対許さないと言っているだけでは北朝鮮はまたやる。そのたびに幼稚園や小中学校の子どもたちをどのように誘導したら良いのか、途方にくれる。

夕涼み会と親父クラブ

両園ともに親父クラブの絶大なご支援を戴いて無事に夕涼み会が終了した。あおば台では始まる寸前に雨に見舞われたが、水撒き程度で難を逃れた。かえって涼しくなったので、お父さんたちは動きやすかったと話していた。最初に親父クラブができたのは、新しく園舎を立て直したときで、仮設の園舎がまだあった。親父たちにお願いをしてプールを作ってもらった。親父の中に左官屋さんやブロック屋さんがいて、手際よくブロックを重ねていった。雨の中でも黙々とプール作りに精を出して、職人二人に後はみな手許という感じであったけれど、とても感動した風景であって、あの時のお父さんの顔も私は生涯忘れることはない。

そのお父さんたちとまだ残っていた仮園舎の中で、ラーメンをとって食べたのが記憶にのこっている。ラーメンをすすりながら、このお父さんたちの力を使って保育者と一緒になって幼稚園を運営していこうと決心した。すぐさま文章の上手なお父さんが『あおば台親父クラブ規約』なるものを作って来た。そこには『子どもたちをだしにして異業種異年齢のものが集い酒を飲む』みたいなことが書いてあったが、これは母親から認可を得られないとすぐさま思ったが、とりあえず立ち上げることが大切だとお父さんたちの言い分をすべて聞いた。

お父さんたちはすぐに格好をつけるから、子どもは関係ないよなどと心にもないことを言って、そのくせ子煩悩なお父さんを何度も見ている。とにかく親父たちの真面目な優しさをずっと見続けているから、親父クラブができてしまえば、一緒にやっていくことができるという自信はあった。第二幼稚園ができて最初の年から親父クラブができたが、どうすればよいのかというレクチュアーはあおば台の親父たちが出張して交流を図った。

親父たちは子どものことになると熱くなる。そして子どものことについてはもっともっと知りたいと願っている。しかし子育てというのは子どもと対面して感じることだから、理屈を教えてもらうよりお父さんたちが感じたままが本当は正しいのではないかと私は思っている。母親も同じことだ。お父さんたちには心から感謝している。

書きたい事が沢山ある

もう何日も書いてないので書くことがたくさんある。まず学校の田んぼの稲が遅らせながら穂を出して田んぼらしくなってきた。もうすでに隣のたんぼの稲はわずかながら黄ばんでたわわに実りこうべを垂れている。うちの稲は周りの田んぼより約1カ月遅いので、発達が違うのでゆっくりと見ていかなくてはならない。そのうち隣の稲と遜色なく立派に育ってくれるだろう。気にはなるけれども隣の稲は稲刈りが終わって、周りの田んぼがきれいになった頃にやおら稲刈りを始めるという大器晩成型だ。

東京都の都民ファーストの会が小池知事の人気もあったこともあって、爆発的な勢いで都議選も勝つ事ができたが、当選できた新しい都議はマスコミに向かって勝手に話してはならないと言われている。ボロを出してマスコミに叩かれでもしたら大変なことになることはわかっているが、しかしこれは選挙民をばかにした話ではないか。都議というのは一体どのような立場の人なのか。茨城で言えば、県会議員だけれども、そんな県会議員であったら「馬鹿にするな!」と一喝して、もう一度出直したらどうだと詰め寄るだろう。まさに小池知事はお山の大将だ。

何を考えているのか国会議員まで「都民ファースト」にあやかろうとしている。もともとと言えば米国の大統領選挙でトランプ氏が選挙戦術として「アメリカファースト」を唱え他国のことは知らないよという政策ではないか。だから都民ファーストと言うのは「都民のための」と言う意味はあるだろうが、それが何よりも一番で対外的なことは私はやらないと言っていることではないのか。小池知事の仲間が国政に出ると行っても、それは勝手なことだが、そんなパフォーマンスで国民がうまくついてくるわけがないだろうし、そんな打ち上げ花火で国政を考えては困る。まあすぐに消えて無くなるけれど。

北朝鮮にトランプの口撃は負けた。北朝鮮の脅威について、日本のセクションはどこでやっているのか。誰もが危険を感じていないのか不思議である。正常性バイアスがかかっていることはわかるけれども、漁民が北朝鮮の機関銃に脅されて、魚を取らずに逃げ帰ってきたと言う話を聞いても、これについてどのように対処するのかと言う解決策を聞いた事がない。多分日本海で操業している漁民は、これから仕事をするのに恐怖を感じながら海へ出ていかなければならない。日本の国民を脅かすものに対して、断固としてこれを跳ね返さなければならない。当たり前のことではないか。

誰でも戦争は嫌だ。でも私たちは自衛隊とともにこの国を守る義務があるのではないか。きれいごとを言うならいくらでも言えるが、他国のしかも中国や北朝鮮の奴隷になるなら潔く死を選ぶくらいの気概が欲しいものだ。学校にしても、ここには日本の将来を担っていかなければならない子供達がたくさんいる。幼稚園もそうだ。できることなら園庭や校庭に穴を掘って、防空壕や核シェルターを作らなければならないと思っている。欧州の公共施設にはそのようなものが併設されているのを見た事がある。核シェルターは吸排気の設備が難しいようだがやらなければなるまい。

青葉台の小中学校ではキャンプのなか日である。幼稚園でも預かりの子供達がきて、水浴びをしてキャーキャーと奇声をあげて楽しんでいる。この子たちが安心して生活できるように、それだけの用意はしておかなければなるまい。

パパの日

今日は8月8日で語呂合わせながら『パパの日』だ。とはいえ普通の日だから家で休めるというお父さんもいないだろうが、固有名詞で休みがあれば働いている人には朗報となるだろう。しばらくブログも休んでいたので、今まで書きたかったことをまとめてダイジェスト的に書いて見ようと思う。印象に残っている残影というのがこのところ薄れていってしまうのが早いので、思い立ったときに記録に残しておかなくてはあっという間に消えてなくなってしまう。あまり歳のせいだとは言いたくないが、多少はそれもあるのかな。

小学3年生の同窓会があった。両園ともに夏期保育の終了後に行うために、日にちをずらして行ったが、どちらの園ともに90%を超える出席率でみんな元気であった。誰もが学校での心配は全くないと言うが、保護者の間ではそうではないと言う。どちらも正しいのであろう。アメリカの科学者が書いた『宇宙の始まる前に何があったのか』みたいな表題の興味のある本を読んだことがある。その娘さんが小学4年生で夏休みの宿題に『何故冥王星は太陽系の惑星から除外されたのか』という論文を書いたらしい。

そんなことが頭をよぎったので、同窓会の時に子どもたちに太陽系の惑星について話を聞いてみたが、知っている子は5人ぐらいいたが、惑星の名前を知っていたというだけで冥王星のことを答えられたのは一人いた。さすがにすごいなと思った。何と言ってもこちらは3年生だから、きっとジャクサや産総研に努めている親がいるのではないかと偏見かもしれないが勘繰ったりもした。結構地球物理学のさわりの部分について知っている子がいて、地球ができた歴史を話せる子がいた。

圧巻はキララ踊りである。未就学児が50人近くも参加した。小学生も張り切って踊っていたが、ともに参加数は今年が最大であったろう。なんだか特別賞の『ジュニア賞』というのを戴いたらしい。まああの子たちを見ていたら何かの賞を上げたくなるというのが人情だ。可愛いのなんのって愛くるしいと言うのか、保護者が放って置けなくなるのも無理のないことだ。親は一生懸命働きたくなるし、家に帰ってくるのが楽しみだろう。あと10年もたつとその親に口応えするなんて考えたくもない。

夏休みは誰のために

少年のころは、夏休みや学期末というのがとても楽しみであった。期末テストは、楽しみを現実にするためのどうしても通らなければならない少しばかり刺激的なものだ。夏休みにそれほど計画的に物事を決めているわけではないけれども、何故だか『休み』というだけで心がうきうきして、どうにも落ち着きがなくなるものだ。それが大人になると、それほど長期の休みには関心がなくなる。仕事に責任があるから、手放しでゆっくりと休めるなどのこともない。何もしないで三日も休んだら頭も体もぼけてしまうだろうと思う。

小中学校ではサマースクールがあって、子どもたちは元気に登校している。暑いのに机に向かうのも大変だと思うけれども、今の教室というのは冷暖房が備わっていてそれなりに快適に学習ができる環境にある。そのような環境を整えても、それが子どもたちにとってベストなのかと言う視点が大切だ。大人たちが良かろうと思って考えついたことでも、子どもにとってはあまり重要だということもないという場合がある。子ども中心に考えなくては子どもの中に入れない。

8月28日に幼稚園協会の研修があり、あおば台幼稚園が公開保育を引き受けた。31日からは例年のごとく穂高での『語る会』に参加して、第二の保育者はそこで劇を披露したりして大活躍であった。昨日の夕刻に土浦に帰って着て、今日は3年生の同窓会で明日は第二で卒園した3年生が集まる。何故3年生なのかというと、この年齢までは私の言うことを真剣に聴いてくれるからである。元気な姿を見せてくれることを期待している。夏休みの事故について連日報道されている。くれぐれも事故に遭わないようにして欲しい。

李下に冠を正さず

梨畑で冠に枝が触って冠が落ちそうになっても、冠を直そうとしてはならない。梨を盗っているように見えるではないかというわけだ。疑わしいことはしてはならないという戒めだが、加計学園の理事次長は安倍総理とは30年来の親友だと言われている。留学していた時の仲間でもあると言われている。そんな仲間では、忖度はあるだろう。何とか面倒を見てやれるものなら何とかしてやりたいと思うのが人情である。それ自体はとても人間くさくて悪いことではあるまい。全くそんなことはないと言い切るのは不自然だ。また前事務次官の前川さんが『行政を捻じ曲げられた』と言っているが行政の長は総理大臣で事務次官ではない。

問題は国民に平等であるべき行政が、一方的に個人に偏るということはあってはならない。しかしこの問題はだれが得をしてだれが損をしたのか?日本海で操業している日本の漁船が、北朝鮮の船に銃口を向けられたという問題の方が、すぐに反応して解決しなければならない問題だ。野党は国民のためにならないが、それに付き合っている自民党も同類の域をでない。尖閣列島に中国船が来て海底探査をしているという。日本の領海でなのに、中国政府の許可を得ているという。バカな話で、その対応も早急にしなければなるまい。何のために巡視船があるのか。

政府の一番大切なことは独立国家としての日本国を守ること。外国からの挑発に断固として日本国民を守ること。経済的な文化的な生活を保障するなどは国家が存続しているかということが条件である。いずれにしても安倍内閣はよほどのことがない限り再浮上するのは困難である。一個の人間を例えても、一度信頼を失うと、挽回するには難しい。すでに死に体である。じたばたしないで潔くした方が男らしい。

幼稚園も夏休み

幼稚園は土浦市内の小中学校と同じように、先週の金曜日に終業式を行い、あくる日から長い夏休みに入った。長い休みに入るので、保護者の方は子どもの体調管理に万全を期すように心がけてください。一生懸命にここまで育ててきたのだから、何事もないように注意を払って戴きたい。

 

小中学校では住マイルファミリアが建物の模型を作りたいということで、私の友人の1級建築士を呼んで講義をしてもらった。非常に専門的で、難しかったところもあったかと思うけれども、衣食住のファミリアは直接専門的なことをやりたがるので、自分たちの考えている授業の中で必ず専門性のあるものを探すことが習性となっているようだ。これが物事を探求するきっかけとなるのだろう。

 

他の学校は休みだというのに子どもたちは偉いな。難しい漢字にも何とか食いついているようで、途中から講師の先生は平仮名で書くようになった。質問は『プラモデルの鉛が腐ってしまうんですが、どうすればよろしいでしょうか』とか『接着剤は何を使うんですか』『模型にあった芝生はどのように作るのですか』等。聞いている方も真剣である。子どもたちの目がとてもきれいだ。

 

梅雨明け

やっと関東地方に梅雨明け宣言がなされたという。梅雨があったのかどうかも分からずに梅雨明け宣言と言われても、今一つ関心がない。このところ雨に打たれたという記憶がない。先日は東京でゲリラ豪雨があってその上雹も降ってきたというのに、茨城は蒸し暑く外には出たくない様相だ。上空では強い寒気があって、温かい地表の空気を吸い上げていく、それが積乱雲となって雷をもたらす。昔は雷雲とか入道雲とか言って、それにまつわる童話や昔話があってよく大人たちに話を聞かされていた。聞かされてと書いたのは、私はじっとしているよりもっと体を使って遊びたかったからだ。

夏は暑くて子どものころはよく裸で寝ていたが、雷様におへそを持っていかれてしまうと言われて、雷が鳴ると慌てておなかを隠したものだ。これも昔ながらと言え、よくできた話だ。子どもの教育も暮らしの知恵みたいなものがあった。悠々たる時間の流れの中で、心の豊かな時代を反映している。そんな遠い昔ではない。私も経験しているのだから戦後間もないころだ。きれいな夕焼けを見ていて時間を忘れていた時代があった。誰もが心のきれいな素晴らしい時代であった。

しかし日本の政治家は全く国民のためになることをしない。国民のためになることは官僚が税金をばらまいてうまく作用しているが、国民を守る政治家は一体何をしているのだろうか。野党は政局にしたくて、党利だけを求めているし、与党はそれに付き合うと言った体たらくだ。近隣の諸国はとりわけ中国はそういった日本の政治事情をよく知っていて、津軽海峡に中国艦船を何度も領海侵犯をさせた。野党の勢いはどこかの国に利をもたらす。そのようなことを問題にしたらどうだ。

第2回学校説明会

このところ学校説明会には多くの保護者が参加してくれる。これが全員入学してくれればいいのだけれど、そうはいかないのが現実。もっとも全員が入学するとなれば定員を軽くオーバーしてしまう。まあそれは夢みたいな話だ。英語を特化するとか、大学や高校入試に関してビシバシと特訓するなど、定員を満たす方法はある。そんなことは学校を創る時から考えていたことだが、自分の背丈以上なことは長続きはしないということでことごとく止めてしまった。行く先の理念は幼稚園と一緒で『生まれてきてよかったろ』ということで、『幸せ』を求めていくことに決めた。

『幸せ』の原点は『自分を生きる』ということだ。12歳や18歳の学業の成績は『幸せ』を担保するものではない。誰もが言っているし承知している。しかし学校の成績に比重がどうしてもかかってしまう。それはどのような結果をうむかと言うと、アンバランスな性格や、ストレスをため込んでしまって、何処でそれを爆発させるかということを考えていて陰湿になりやすい。勿論学業に長け、バランスの良い性格で素晴らしく育つ子もいる。そういう子は、殆どが自己選択のできている子だ。自分を生きている子だ。

だから私は自己主張をし、自己選択のできる、主体をしっかりと持った子を育てることに専念することにした。必ずこのような学校が必要になることを確信している。activelearningが声高に叫ばれているけれど、それこそ青葉台の日常の生活ではないか。

お泊まり会と日本の社会

たった1日だけしか泊まらないけれども、子どもたちにとっては大事件のはずだ。中には強がりを言っている子もいるけれども、内心は必ず何かとの葛藤をしているはずだ。その葛藤は説明はいらないが、この日が過ぎれば忘れ去られてしまうことだけれども、それはのちの人間形成に血肉となっている。企画を立てながら、役割分担をし、あたかも子どもたちの力だけでお泊まり会ができたということを子どもたちに意識させる。そのような気づかいが子どもたちに自信を与える。保育者の影の努力にも感謝したい。

そもそもお泊まり会は夏休み直前に行い、あくる日からは長期の夏休みに入るというのが定番であった。しかしこれでは、お泊まり会直後の子どもたちの姿が見られないと言うことで、普段の土日にかけて行うようになった。これはとてもよかった判断で、お泊まり会後の登園はとても盛り上がっていて、一人一人が息づいている。お母さんに会いたいと泣きべそをかいていた子も、まったく何事もなかったような振る舞いで、周りの子に同化している。また誰も仲間が嫌なことは自然に言わないし忘れてしまっている。広くて大きい。それが子どもの世界だ。

東京都議選で『都民fastの会』が第一党になり飛躍的な進出を果たした。緑のカラーに乗り遅れまいと、自民党からも民進党からも、理念も信念もない烏合の衆が立候補し当選した。マスコミは自民党のおごりをたたき、対する民進党は散々自民党をたたいてきたが、都議選についての結果は、自民党大敗で民進党埋没。共産党が漁夫の利を得た感じである。これから自民党は襟を正して出なおした方がよいけれど、民進党はなくなってしまうだろう。都民fastなどとふざけた話ではないか。全くトランプ大統領のように他国の幸せなど眼中になようではないか。

都議会は素人集団化し、まるで民主党が政権を取った時のようにしばらくすると混乱が起こるだろう。政権を取る党はいずれの党にしてもパフォーマンスが多くポピュリズムに陥りやすい。自民党が政権から陥落したときには『国民を甘く見るな。国民はバカではない』と言ったことがマスコミを通してよく言われていたが、そんなことはない。やはり国民はバカだ。衆愚国家であることは間違いない。国民の方ばかりを向いてバカだのどうだのと言っているけれど、政治家の方がもっとバカではないのか。

暑い!

九州地方・特に熊本、大分、福岡あたりが歴史的な豪雨に見舞われて、ふるさとが一変してしまったところがある。新聞で見たりニュースで見たりしているのだが、ここ3日~4日ぐらい雨の降りっ放しで、降雨量も半端ではない。一日の降雨量だけで平年の1カ月に降る量の1.5倍も降り続いているというから大変な量だ。川が氾濫し川と道路の境が分からなくなっているようなところがたくさん見受けられる。外に出るときには十分に注意していただきたい。今日もまた九州地方では特別警戒警報が出ている。

日本にそのような不幸な状況があるので、眞子さまの婚約発表は延期された。皇室の場合には国民の不幸があった場合には決して慶事を行わないというのが習わしとなっている。世界には類を見ない国民とともにある皇室の現実だ。皇室の人たちのお人柄は、おこがましいけれども素晴らしいと思う。

小中学校の中学校の女子のスカートが届いたようだ。なかなかお似合いである。今日は暑いので『ガリがり君』を持って言ったら、子どもたちは大はしゃぎだ。当たりがあったらもう一本もらえるんですかなどと言っていたが、持って来たのは教師だった。当然もらえない。こんなことができるのはこの学校だけだぞなどと言っていたけれども、生徒の人数が多かったらこんなことはできないだろう。少ないと家族的でいろんなことができる。いいこともあるものだ。

子どもたちが自治する学校

小中学校では昨日ミーティングあった。テーマーは『給食の時間を短縮したい』ということだそうだ。ランチルームに行くと様々な意見のあったことが白板に書かれている。中には給食前の授業を早く終わらせるなんて言うのがある。子どもらしい率直な意見だろうが、まさかこれは通らないだろう。非常に建設的な意見が多くて驚いた。素晴らしい学校になりつつあるけれど、大多数の保護者は素晴らしいと感激してくれるけれど、建前と本音が見え隠れする。世の中は建前が真実だと私は思っている。

 

給食の始まる少し前の風景で、中央の二人が『お替わり委員会』の委員で、今日のおかわりの回数をみんなに伝える。一番下の写真の手持ちの黒板に書いてある。

 

次の女子二人は、昨日のミーティングの結果を皆さんに報告している。『今日はいつもより早く食事の用意ができましたので、明日も頑張りましょう』ということだった。自発的な報告であって、だれがするとかいうのは決まっていないそうだ。自分たちの生活の場であることが意識としても定着している。

その次は男子児童一人で食後の授業の集まり場所をみんなに報告しているようだ。教師が頼んだわけでもない。それが終わって食事当番の二人の男子生徒が『いただきます』をやる。結構セレモニーが長いので給食の時間がとられてしまうのではないか。こんなことを言うと子どもたちに叱られてしまうだろうな。

色々あった

毎日が色々なことがある。幼稚園に行けば一人一人の躍動した人生の『今』があるし、学校へ来れば、小中学生と言う年齢差の大きな仲間たちがいる。この子たちが日々織りなす風景というものは、定点観測のように子どもを見ていたら、多分そこを離れなくなってしまうだろう。今日は年中さんが初等学部へ来てオアシスへ入っていった。隣のクジラ川にも入ってカヤックに乗っていった。キャーキャーととても楽しそうであった。楽しさというのは大人と趣を異にするからな。

 

午後3時に業者さんが来て、中学生の夏の制服になるスカートの生地を持ってきてくれた。小学生を交えて大人顔負けの真剣な顔・顔。

 

みんな一致した好みが見つかってよかった。ちょっと高校生のようなタータンチェックのスカートの柄がいいらしい。即断即決だから気合が入っている。

  

主体がスカートの中に入っているので、真剣なとてもいい顔をしている。職員室で行っているのだけれど、教師も子ども達も一つになれる瞬間でもある。女子生徒はああでもないこうでもないと沈思黙考しているときに、その後ろを通って行った男子生徒が鼻歌交じりに歌っている曲は、『モーモタロサンももたろさん』だ。楽しい子どもたちだ。

清流の魚は息苦しい

誰もが正義であるなどとは最初から思っていないし、マスコミのバカ騒ぎにもくみしようとは思わない。しかし世の中中庸な部分があって、その辺で生きて行こうと思っているが、その中庸な幅がどの辺りにあるのかよく分からない。昨今の都議会の選挙にしても、爆発的な支持をえているものが必ずしも正義ではない。むしろ政治家の正義などあてにしてはいけない。そして正義づらしたマスコミも同類である。世の中に権力や差別がある限り純粋な正義などあるはずがないのだ。私自身が正義だなどと毛頭言うつもりはないが、今は少なくともそれに近い生き方をしたいと努力している。

獣医学部の新設については、もう10年も前に申請がなされていると聞いたけれど、そうであるならば民主党時代の産物である。その民主党は官僚主導の行政国家から、政治主導にしようと大ナタを振った。政治主導というのは『総理のご威光』があって当たり前ではないか。自民党も昨今の不祥事には情けないが、民進党も軽すぎる。忖度があったとかなかったとか、この社会は忖度で成り立っているのに。

学校の授業には『道徳』と言うのがある。教科書もあって、本屋にも並んでいる。私の机の上にもそれらしき本が何冊かある。私はそれらを読んで感心しながら読んでいるが、生徒の前で『道徳』として教えるのには、自分の人間性からしてためらいがある。どこまで清く話をすればよいのか実際のところわからないのだ。恥じらいがあるのだ。それほど厚顔無恥にはなれない。自分に正直でなければ、どんなに立派なことを言っても子どもたちには伝わらないからだ。

明日はいよいよ制服を作っている業者さんが来て、中学女子のスカートの色を決める。すぐに決まるのかどうか分からないけれど、私と女子生徒の話で、後は誰にも相談していない。『チェックがいい』とか『水色が入っていた方が涼しいよね』とか話をしている。彼女たちは自分でお金を払うわけではないから発想に縛られない。後で悲しませることがないようによく考えて、小学生女子もみんなで納得のいくようにしたいものだ。一応小学生女子にも相談したと言っているけれど。

初等学部のアイドル

国民的なアイドル改め、青葉台的アイドルが今日初めて幼稚園に行って自分たちのダンスをお披露目した。オファがあったわけではない。こちらから押しかけたわけだけれども、その人気ぶりを見て戴きたい。

 

まあ揃ってないところも子どもたちのダンスとしては魅力的だ。

 

カッコよく決めているところ。ここで拍手喝さいが起こる。幼稚園の年長の子どもたちとともに踊り始めたところ。一つになってとても躍動的だ。

 

保護者の方も観に来て戴いた。観る方も踊る方もみんな真剣。帰りには青葉台のアイドルを見送る幼稚園児たち。いつまでも続く。

 

今日は午前中までに二つの公演。ここは第二幼稚園だ。オファがなくても売れっ子は大忙しだ。かつて『スイミー』で人気をはくした舞台である。

 

幼稚園のこどもたちの真剣な眼差しと動作を見てください。

 

ちびっこアイドルたちにちびっこファンが群がる。丁寧に一人ひとりと握手して、お別れの言葉を投げかけている。右側は無事に公演を終えて学校へ帰ってきたアイドルとマネージャーと運転手。

お泊まり会導入

『園長先生はみんなに何を話に来ましたか』と言うと、あおば台では『リヤカー祭りは楽しかったか?じゃない』と言っていた。『お泊まり会の話』と即座に応えたのは第二幼稚園の子だ。どちらの子にしても幼稚園の生活が日常的に一杯詰まっている話だ。心配なことを聞いてみると『ママに会いたくなったらどうするの』というのが多く、『パパに会えなくなるのがさびしい』というのは皆無だ。普段からの母親との密着度がよくあらわれている。会いたくなったらどうするのかという質問の答えとして、『布団の中でママー!と叫んで泣く』と言い、それでは練習をしてみるかというと、だれも乗ってはこない。

お泊まり会というのは子どもたちにとっては一大イベントであって、わくわくもするけれどハラハラドキドキもする。保護者と離れるときには、数は少ないけれどめそめそもする。いろんな感慨が交錯するけれども、始まってしまえば動揺などはどこかに吹っ飛んでしまって、仲間とともに与えられた仕事をしなければならない。飯盒でご飯を炊くのには技が必要だし、レストラン係は創造力が必要だ。それぞれに決まった仲間で助け合いながら一日を過ごす。だからあくる日には自分自身を大きく成長したと感じられる。また保育者がファイヤーストームを盛り上げるのも楽しい。

豊田真由子議員という女性には驚いた。桜蔭女子高校を出て東大へ、そして厚生省のキャリア官僚となりハーバード大学院を出た。俗っぽく言ってみれば、これ以上ない経歴の持ち主ではないか。二児の母親でもある。政治家となりこれまでは順風満帆であったろうに、秘書に暴行を加えてその時の会話が記録されていたので、逃げ道はない。せっかくの経歴も誰も救ってはくれないだろう。何かあるときにはどちらかが一方的に悪いということはないだろうが、このように社会的に重い役割を持っている方がとことん痛めつけられるものだ。この人どのように育てられたのだろうか。

昨日水戸のプラザホテルで橋本昌知事の支援団体代表者会議に行ってきた。20日の日は幼稚園団体の集まりをしたばかりで、いささか疲れ気味であった。広い会場に多くの立ち見のような人もいた。ある程度の選挙の勢力を推し量ることは出来るけれど、まったくそれが外れることがあるから気を引き締めなければならない。あのホテルに詰めるだけ詰めても、投票者数には追い付かないから。壇上での挨拶は自民党批判が相次いで行われた。少し気分が悪くなって外へ出てきれいな空気を吸いに行った。

可愛さ

比較したり比べたりして優越をつけるのは良くないので、比較対象としての比べものではないということを断っておきながら書きたい。幼稚園のすぐ隣に出来た保育所は建物はほぼ完成して、後は建築検査を待つばかりとなった。保育所は0歳児から入れるようにと言うことを言われているが、0歳児は扱いが難しく私には自信がないので、1歳児と2歳児の安全な遊び場として提供したい。0歳児を持つ保護者の皆さんは1歳になるまで自分の懐の中で大切に育ててほしい。その方が子どもにとって幸せだ。

1歳になっても歩けない子がいるが青葉台の保育所は歩けるようになってから預かることになる。家の中で一杯はいはいをして、足腰を強くしてしっかりと歩けるようになってから保育所や幼稚園の仲間たちと遊んだほうがよい。その方が自分の足で遊べる子にとっても、これから自分の足で遊ぶ子にとっても負担がなく、楽しみも増えるはずだ。幼稚園には満3歳児と言うのがいる。3歳児見習いと言うところだけれども、これがまたわけがわからないけれども可愛い。この頃の子は顔のパーツが中央に集まっているベビーシェマと言って子犬のように可愛いものだ。

可愛さには無邪気な可愛さと、少し知恵を付けて人間になりきれない成長過程での可愛さと、大人になって性格の可愛さと言うのがある。まあ何でも可愛ければいいのだけれど、男子を形容するのにはどのようなものがあるのだろうか。可愛い女の子のことばかりだと男子諸君に失礼であろう。しばらく時間をもらって考えよう。ちょっと考えてみると、男子は意気がよくて間が抜けているようなのが後から何とかなりそうな気がする。なんて言っても人に好かれたほうがよい。今日は今から水戸へ行く。

子どもたちの将来を思う

幼稚園では『わくわくの会』で、学校では第1回目の『学校説明会』が行われた。幼稚園の方は大勢の保護者が来るから何の心配もなく保育者の好きなように任せている。色々な趣向を凝らして子どもたちが目を見張るような、もっといたいと感じられるようなものを考え出している。とても創造力の必要なものだ。毎回違ったものを考え出しているので全く感心させられる。

学校説明会は、私は校長を辞めたからほぼ出番はないなと思っていたけれど、出席していて何も話をしないなんてことはあってはならないことと思い、最後に私の話す時間を作って戴いた。保護者の前で一番効果的な話は、卒業生の進路の話で、しかも優秀な中学校や高校にどれだけの子どもたちが行ったかということが一番良いというのを知っている。私のところの子どもたちは、合格した中学校を言えば確かに優秀な子が多い。しかしそれが人生の大きな担保になりうるのかと思うとき、『いやそうではあるまい』ということになってしまう。だからそんな軽々しいことは言ってはならないと思って、学校建設以来封印してある。

そんなことよりも、人柄を醸成されていく過程の子どもたちの生活状況をつぶさに伝えた方が何よりもいいのではないかと思っている。これは子どもたちをよく見ていないと話すことは出来ない。テストの結果だけを言うならたやすいものだ。しかしそこには人生でもっとも大切なものは現れてはいない。例えば中学校や高校での成績やどこの大卒などは、長い人生の中でそれほど重要なことではない。最後の最後まで語られるのは、その人の人柄や生きてきた人生のエピソードである。

昨日のオアシス開きで学校の子どもたちの写真をアップしたけれど、写真に出ている子どもたちばかりではなく、あの写真の中には子どもたちの内面の素直さや真摯な態度が現れているけれども、そんな子どもたちに幸せな人生を送って欲しいと願わずにはいられないではないか。この学校には大きくなった中学生を含めて、あのような子ばかりいる。額に鉢巻きをさせて、難問奇問は必要ないではないか。それは彼らが自走することだ。必ずそうなることを信じている。

学校ではプール開き

幼稚園にお客様が見えると言うので、幼稚園に行ったら目当てにしていたお客様と違って教育実習の大学の先生とお会いすることができた。お話をしている間に、大学の先生が筑波大の大塚の院生出身だと聞いて二度びっくり。大塚の院生というのは私の師匠である杉原一昭先生が生前に『大塚の学生は素晴らしい』と常におっしゃっていたので、特別に印象が深い。何となく他人とは思えない懐かしさと敬意を持つ。一度社会に出て院生になる人たちだから、ただ卒業すればよいというのではなくて、目的意識がはっきりしているから杉原教授もやりがいがあったのでしょう。

 

プール開きのセレモニー。隣のトトロの妹のメイちゃんみたいな可愛い女の子が神妙な顔をして巫女さん役になりきっている。可愛い子でしょ。こんな子ばかりだ。

 

神主はとある教師。『いざなみ いざなぎ』とやる。

 

私の話が終わったら、準備体操をしてオアシスやクジラ川でカヤックに乗って遊ぶ。

 

井戸水でも滅菌機をつけてあるので飲んでも大丈夫。楽しそうな雄叫びをあげている。男児は水鉄砲で女子は水のかけっこ。

幼稚園での生活

初等中等学部の校長を兼任していたときには、最後の最後まで学校に残るので、ゆっくりと幼稚園を見ることが出来なかった。ゆっくりと見ることが出来ないと言うことは、子どもたちとの会話が薄れてしまっていると言うことだ。3月一杯で校長をやめ、以前のように幼稚園に専念することが出来ると、子どもたちの中に入って行く機会も多くなって新しい発見もある。何よりも子どもたちの一直線の真っ黒い瞳で直視されることの心地よさは格別である。こんな子どもたちがやがて大人になって今の社会に入っていくことを考えたら、ちょっと言葉に詰まることがある。

47%の職業が何かに代わって行くと言うのだから、今の大人が考えているようなものではなくそれこそ大地がひっくりかえるようなパラダイムシフトが行われるのであろう。私の職業から考えられることは、2歳児以下の子どもたちには癒し系のロボットが活躍するだろうし、そうなれば現在の保育士減の馬鹿馬鹿しい騒ぎも収まるだろうし、保護者も保育所に入れなかったなどの騒ぎはなくなる。ただし人口減による保育所や幼稚園の閉鎖が頻繁に行われることになるので、希望の園に入れるかは分からない。

馬鹿馬鹿しい騒ぎと言ったのは大都市圏での待機児童の騒ぎが起こった時に、東京の幼稚園協会と話し合いを持って、幼稚園の解放をお願いすればよかった。私は東京都の協会の会長と『幼稚園の一部屋を保育所に貸してやったらどうでしょう』と言うことをお願いしたことがあるが、認定子ども園の定義があいまいであるということと、大人が8時間労働という労働規約があるのに、なぜ子どもたちは11時間も保育所にいるのかということを言われて返す言葉がなかった。この人は国の子ども子育て会議に出ていて、幼児の保育時間について最後まで持論を譲らなかった。立派な方だと思っている。

国の働き方改革だかよく分からないが、母親を家庭から追い出して、子どもと引き裂いた政策には反対である。私が反対をしてもどうにかなるものではないけれども、国は経済的なことばかり考えていて、家庭の中のぬくもりに無頓着である。まだまだ衣食が足りないとでもいうのだろうか。私の子どものころは敗戦の後処理で食うものもなければ、着るものも足らない状態であったが、私は幸せだった。両親のことが誇りだったし、食うものさえあればそれ以上のものを望んだりしなかった。

将来を描きにくい子どもたち

子どもたちの将来を考える時に、まずはその時の国際情勢や日本の政治経済状況、日本の社会状況を当たらずとも予測して方向を定めて教育しなくてはならないだろう。まず近視眼的に考えるならば、AIの進歩によって単純知的労働はすべての分野で人工頭脳が席巻し人間の入る余地はなくなっていくだろう。税理士や家屋調査士、行政書士、司法書士などと言った士業と言われるものは殆どがなくなっていくといわれている。公認会計士もそうだが、歯科医師も満杯状態だと言われている。歯科医師にいたっては現在コンビニの数より多いといわれている。しかし多いだけで不要になるということではない。より競争が激しくなり、維持していくのに大変だ。

ロボット産業やIT関連事業などはこれから日本の産業を引っ張っていくことになるだろう。自分の好きな世界を生きて行くなら科学者がいい。薬の開発か大学の先生になって、新たな何かを発見してほしいものだ。地球の地磁気が反転した時期があったなどの発見は興味深い。どのように反転していったのか、ゆっくりとか、一気にか。南極が北極になるというのだから、その過程を教えてほしい。それが数百万年の間に数回あったというのだから、ここ数年の間にあるかもしれない。木星のようなガス惑星にも引力が存在するのか、そのメカニズムは?。

子どもたちが選ぶ職業は、第一に他のためになるようなものがよい。そのようなものは必ず誰かが応援してくれる。自分のためのものだったら必ず足を引っ張る人が現れる。グローバリズムと言うものを私も推奨して来たけれど、これは絵に描いた餅かもしれない。異文化なものが同化することはできない。だから国境を作ったのではないか。東欧諸国の離合集散の悲しい出来事を見ればわかる。だから英国が離脱したEUにしてもそう遠くない時期に解散の憂き目を見るかもしれない。内憂外患こもごも来たるだけれども、否応なしに子どもたちはこの世界で選択して生きていかなくてはならない。保護者の皆様もじっくりと考えてみてください。